Bigelle

Bigelle Capの日々の記録です。 Bigelleのホームページ: http://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/9542/ 

読書

山岡荘八「豊臣秀吉」1

  面白くない作品だった。読みきるのが苦痛だった。
 全く小説として読めばそれなりに面白いのだろうが歴史小説としては落第である。でたらめが多すぎるし、肝心なところでの掘り下げ方がなさすぎる。例えば秀吉の幼名日吉丸なんてのは講談ものだし、木下藤吉郎と名のるにしてもその説明は何もない。

「日吉は、木下藤吉郎と名を変えた」

とあるのみである。

先に読んだ同氏の「織田信長」も史実を基にしたフィクションであったが、「信長公記」を基本に書いているのでまだ読んでいて愉しかった。この「豊臣秀吉」はフィクションの程度があまりにもひどい。しかもそのなかに史実を混ぜ込んであるので非常に不愉快であった。ちょっといかんかなと思う。

もちろんこの2巻は読む気もしないが、秀吉の一生も秀頼が生まれるまではそれなりに面白く思えてきたので司馬さんの「太閤記」も読もうかなと思っている。

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佐伯泰英「居眠り磐音 江戸双紙 7狐火ノ森」。

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  昨日は、小学校からの友人に誘われて一日たっぷり海で遊んだので今日は休憩日。朝からだらだらとベッドで本を読んで過ごした。2冊読みきってしまった。つい何年か前までは考えられなかった過ごし方である。本を読むと腹が減る。夕方居候している甥っ子を誘って焼肉を食いに行った。


このシリーズは文句なしに面白い。

5章からなっていてそれぞれの事件を磐音の豪剣で解決していく。実際にはこれだけ市中でいくら悪人といえども斬り殺せばただではすまされないことだと思うがそれはマァ小説である。

一つ一つの事件に当時の武家社会、町人文化の様々な機微が盛り込まれていてこれが楽しい。第5章で、米沢藩の「七家騒動」の話が出てきてこれは藤沢作品の「漆の実る・・・」で読んだばかりなのでおおいに愉しいことであった。


蛇足ながら「七家騒動」が登場することでもわかるがこの磐音シリーズの舞台は、1770年ごろである。江戸幕府も150年を過ぎ天下泰平となりそれゆえ武家支配は続いていたものの封建制度はおおきくほころびを見せはじめ社会の主導者は武力をもった武家から財力をもった町人=商人へと大きく流れ傾いていた。どの藩もその財政は困窮をきわめ、それは幕府自体も例外ではなかった。だが黒船の襲来によってその体制が転覆するのは尚もあと100有余年の月日を経なければならなかった。


蛇足の蛇足だが、竜馬が生きた時代から現在までたった150年ほどである。江戸幕府は、1603年家康が征夷大将軍におさまってから明治維新1868まで265年も続いた。これを現代に置き換えると江戸幕府は竜馬が生きた時代から明治、大正、昭和、平成と足しでもまだまだ足らずまだあと100年も続いたのである。いいかえると竜馬から見れば信長や秀吉の時代より今の方が100年も近いのである。

・日本が世界に誇る出汁のもと鰹節は延宝2年(1674)紀州の甚太郎が土佐の宇佐で発明した。

・一貫は銭換算で1000文。一両は、4000文である。何度も書くが、時代小説を読む場合、そばの値段が大体6~    8文なので、一文≒30円で読み替えている。とすると一両15万円ぐらいになる。これで大体あっているだろうと思 う。

・湯風呂屋は明け六つ(0600)~暮れ六つ(1800)までの営業時間だった。火を使うので火事予防のためこの時 間帯のみ営業が許されていた。だた火は落とさなければいけないが湯が温かい五つ(2000)ごろまでは客を入れたという。

・極月:12月のこと。知らんかったなぁ・・・

佐伯泰英「居眠り磐音 江戸双紙」6 雨降ノ山。

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5章からなりそれぞれ事件が起こる。それを磐音の豪剣が解決していく。ただ市中でそれだけ斬りまくって、悪人とはいえ殺していいものかと思うが、マっそれは作り話ということで許そう。それにしても次から次へと面白い題材が浮かぶものだ。流石プロである。



この作品を読みだすととまらなくなるので数少なくなった藤沢作品の残りがあまり読めないでいる。ましてや現代ものは読みかけの小説がベッドサイドに山ほどになっている。



嫌いだった秀吉の生涯が「夢のまた夢」で意外と面白かったので、山岡荘八著「豊臣秀吉」でまた読んでいるが同じ一人の生涯を描くのにもそれぞれ特徴があって読むのに飽きない。ただ困るのはどの書店でさがしてもひと昔の作品はほとんどおいていない。司馬さんの作品はいまだに人気があってそのコーナーがあるところが多いが、津本陽の作品などは代表的な作品数点というところがほとんどである。

そんなことで書店の店長の判断でいろいろとコーナーに工夫が違う。旅先でも思わぬ作品が平積みしてあるのに出くわすことがあるのでぶらりと歩いていても本屋がれば必ず立ちよってしまう。


 


 

津本陽「夢のまた夢」(五)。

 秀吉の栄光の生涯を台無しにした朝鮮出兵もいよいよ行き詰ってくるが秀吉はなおもその進軍をやめようとしない。もう全く戦況が見えていないことであった。秀吉がその天下を取ったのはひとえにその軍事的才能であるが特に彼が優れていたのは兵站の天才であったこと、百姓上がりで底辺の暮らしの貧困さをなめてきているので足軽以下の手下たちの苦労をよく知り彼らにこころを寄せて深い情を見せたことなどである。彼らを手厚くその功に報いてやることで彼らは秀吉に絶対臣従し秀吉のためによく働いた。それは戦場だけでなく秀吉の成り上がりにつれてその普請作業他でもしかりであった。秀吉の部隊は、普請をすれば他の武将軍の3倍の速さでそれを成し遂げたといわれるし、移動に関しては類を見ない速さで進軍、転進した。

 人たらしといわれ羨望の的にもなり、慕われもしたが老いがすすむにつれてその人格は信じられない速さで崩壊耄碌していった。性格は凶暴、偏執になりその色ボケも狂気を帯びてくる。この男の晩年に行った悪行の数々は読んでいても不愉快きわまりない。朝鮮出兵にしても日本軍のロスは、15万人が海を渡り帰還できたのは10万人だったといわれる。また日本軍は、朝鮮人民にしても、兵士はもとより平和に暮らしていた一般市民にまで殺戮を加え甚大な被害を与えた。

さらに秀頼が生まれてからの秀吉の狂気はとどまりがなくなり、秀次郎党への虐殺でついに秀吉を応援しつづけた京の市民も秀吉に愛想をつかし全国の人心も大きく離れていく。利に群がっていた諸大名はもとより、秀吉恩顧の大名たちの中にも秀吉政権に見切りをつける大名が多くなってくる。

そしてついに稀代の天才武将秀吉は、慶長3年8月18日丑の刻(0200)大きな難題を残したまま彼岸へ去っていった。

そして秀吉が生涯をかけて築き上げた豊臣政権が崩壊する関ケ原の戦いが起こるのはたったその死後2年後の慶長5年9月15日のことであった。



・朝鮮に出兵した日本軍を朝鮮住民たちは、はじめは倭寇のたぐいだと思ったが、やがて李王朝からの圧政からの解放者だと歓迎した。だがその兵站の拙さから略奪を行い朝鮮住民たちは彼らを侵略者とみなし大きな抵抗排斥運動を行った。



信長は、時代劇では非情そのものの武将として描かれることが多くそれが定着しているが実は部下思いの優しい一面をもった男だったと思う。でなくては恐怖をあたえるだけであれだけの膨大な軍勢を処しきれないだろう。ただ冷酷な非情さの二面性をもっていたことも確かでそれが命とりになったともいえる。

織田軍の、規律は厳しく征服した市民には一切掠奪、強奪を禁じた。有名な「一銭斬り」といわれる軍規律では、一銭でも市民から強奪したものは斬首の刑に処せられた。信長はある意味では市民の解放軍だった。それに引き換え侵略地で掠奪狼藉をはたらいたのは武田軍である。武田が攻めた土地では、農民他はその地を捨てて逃散したという。



・秀吉は朝鮮出兵の拠点として名護屋城(今の唐津の辺りにあった)を築いた。戦況が長引くにつれ諸大名の家族もそこによぶことを許し自身も16人いたといわれる中から何人かの側室をそこによびよせていた。その一人にお種がいた。秀吉は碁の賭けに彼女をかけて負けるとホントに彼女を勝者に与えた。勝者は伊達政宗の家臣(本人ともいわれる)であった。政宗はお種をとても気に入り男子を出産した。



秀吉との間には一切の子が生まれなかったが、他の男とはすぐに懐妊していることからみても秀吉の種のうすさがしれる史実である。



・ポイとくれてやったお種にくらべて秀吉が執着した側室に、京極殿とよばれた京極竜子(たつこ)がいる。竜子はまた松の丸殿ともよばれ、絶世の美女だったといわれる。竜子は若狭守護の血を引く武田元明に嫁いで2男1女をもうけるも元明が本能寺の変で光秀につき秀吉に討たれた(秀吉が竜子の美貌に惚れていたため誅殺したとの説もある)あと秀吉の側室となった。母は、浅井久政の娘で、長政は叔父にあたり、淀殿とは従妹の関係になるが、浅井家の主筋にあたる京極家の娘ということで気位は淀をしのいだことであろう。兄は京極高次。

後述するが、淀殿とは有名な「醍醐の花見」での鞘あて事件がある。



竜子は京極の姫であり。淀殿は浅井の姫である。京極家は、守護大名で浅井家はその家臣となる。竜子がもし子をなしていたら淀殿の上位になっていたことは明白である。ただ現実はその立場は逆転していた。竜子は淀殿に大きな嫉妬心を抱いていたであろうことは想像に難くない。北ノ政所も、まつも竜子とは仲が良かったといわれる。(諸説あり)



・朝鮮出兵時の日本の人口は4千万人近くであったという。日本の数十倍の国土を有していた明国のそれは6千7十万人といわれていたことを考えるといかに当時の日本の生活が非常に豊かであったことをうかがわせる。



人口の多さは、直接軍事力と関係する。フランス革命が周りをとりかこむヨーロッパ列強に打ち勝ち成功したのもその人口の多さが大きく寄与した。



・「信長公記」を書いた太田牛一はのちに秀吉に仕え「大こうさまくんきのうち」を書いたが、その中で秀吉の治世は金銀が豊かに算出され日本中が好景気に沸き乞食が一人もいなかったと記している。



・著者はこの時期スペイン、ポルトガルが「地獄の使徒」といわれるほど未開大陸の掠奪を行っていたこの時代、同文同種の朝鮮、明国とあいたずさえあらたな未来を拓こうとしなかったのかと秀吉を強く非難している。



同感である。朝鮮、明国と同盟を結び西洋列強と戦っていれば今の世界地図は大きく塗り替わっていたであろう。日本はこれに学ぶことなくまた300年後に中国に攻め入って同じ轍を踏んでいる。



・秀吉は天文20年(1551)15歳のとき、遠江国久能の城主松下加兵衛に仕え草履取りから御小納戸役にとりたてられるめざましい出世をしたが、朋輩の嫉みを買い、3年後に郷里に帰った。

当時、日々の食い物に窮していた秀吉は、五さという年上の寡婦に扶けられていた。その後秀吉はその五さを大坂城で養った。



・晩年は残虐な性格ばかりがでてきたが秀吉は本来は非常にやさしい、情の深い男だった。

まだ秀吉が信長の下で普請奉行をしているころ、自分の出自もあり部下をいつも思いやっていた。もらった褒章は惜しげもなくみんなに分け与え。病気、けがしたものには手厚い施しを与えた。部下の厚い信頼をうけていた秀吉の指図した普請場所は他より3倍以上の早さで仕上がったという。

また薪奉行をしているときには清州城をそれまでの半分の薪で暖めたという。



  ・延暦寺焼き討ちの際、秀吉は自分の持ち場に逃げてきた僧侶はできるだけ落ちのびさせた。延暦寺の宝物のうち後世にのこったのは、秀吉が見逃してやったものがおおかただといわれる。信長からは僧侶ことごとく撫で斬りにせよと厳命されていたが秀吉は信長がこのことを知っても咎めはしないことを見抜いていた。それにひきかえ光秀はその厳命をまもり残虐な仕打ちをした。



  二人の性格の違いがよく出ている事例である。



  ・永禄4年(1561)秀吉25歳のとき11歳年下のおねを娶った。

  おねは子を産まなかったが、才気あふれる女性だった。普通の大名は女性の介入を許すということはなかったが秀吉は政事にかかわらせた。だがこのような秀吉の方針がのちに北ノ政所派と淀殿派の対立を招くこととなった。北ノ政所派は、浅野長政、前田利家、徳川家康、伊達政宗ら、淀殿派は、石田三成、増田長盛、長束正家らであった。この両派は、豊臣政権のなかでことごとく対立していく。



  そして秀吉の死後2年で両派は全面戦争へと突入していく。



  ・秀吉は侍妾の一人が病気になったとき、自宅に戻っての療養を許し10両を与えた。彼女は病気が快癒したのち、秀吉が彼女に自由を与えてくれたのだと思って僧侶に嫁ぎ、一子を産んだ。その後彼女は秀吉に会いに出かけ挨拶をした。秀吉に今どこにいるのかと聞かれ結婚したと答えると思いがけない事態が起こった。秀吉は激怒して彼女とその夫を捕らえ腰まで地に埋め、3日間にわたって竹のこぎりで首を斬らせようとしそれでも死なないと斬首し、彼女の母親、子供と乳母を火炙りの刑に処したという。これはフロイスが耳にしたという風聞だが本当であろうか?



  これほどの残虐な仕打ちをするほどのことであろうか。秀吉はふところにとびこむ人間には尋常をこえた深い愛情を見せるが、離れるものには常軌を逸した憤怒を見せる。



  ・秀吉の側室の一人「三条殿」は、蒲生氏郷の妹でとらといった。



  ・氏郷は文禄4年2月京都の屋敷で歿した。享年40歳。嫡男鶴千代はその時13歳で跡目相続問題が起こった。いったん秀吉は鶴千代の相続を決めたが三成らの反対でそれを撤回したが、利家、まつ、家康の尽力でまたそれを元に戻した。これで決着したかに見えたが4か月後に家老の不正を理由にまたまた旧領没収大幅減俸の上近江に移封となった。がまたしても利家、家康は秀吉に直接陳情しそれを撤回させた。この三転四転の処置には、石田、増田らの官僚派と家康、利家、浅野長政らの分権派との対立があった。



  蒲生氏郷は信長に最初に仕えた武将で好きな武将の一人である。信長に攻め滅ぼされるところを「俺を殺すより、家臣として使った方があなたのためになる」と堂々と信長とわたりあったという。



  ・氏郷死去のすぐあと4月16日に豊臣秀保が十津川で水死した。17歳であった。秀吉の姉ともの三男である。長兄は秀次、次男は朝鮮で梅毒で亡くなった秀勝である。秀吉は疫病(ハンセン氏病?)であった秀保を嫌った。秀保の筆頭家老が藤堂高虎である。



  藤堂高虎は、その後隠居生活を送ったりするがその後その才能を見込まれて何人もの大名に仕えることになる。最後は家康の家老になるがその経歴の多さから徳川家臣からは軽んじられたという。



  ・朝鮮出兵は、多くの悲劇とそして副産物をもたらした。日本軍人の中には朝鮮に寝返って朝鮮軍の武将になったものもいるし、また反対に日本につれて来られて侍になったものもいる。捕虜となって日本につれてこられて外国貿易で奴隷として売られていった朝鮮人民もいる。

  藩によっては多くの朝鮮人を藩内に住まわせのちにそこが唐村とよばれるようになった例もある。

  また抑留された朝鮮陶工により日本の陶業が大きく発展した

  長門萩焼は、朝鮮人李敬、のちの高麗左衛門が創始した。

  筑前高取焼を考案したのは黒田家に抑留された日本名高取八蔵重貞という朝鮮人である。

  白磁機平戸焼をひらいたのは熊川の陶工巨関である。伊万里焼は李参平で彼は歿後高麗神とよばれた。

  釜山城主尊益の子弟といわれる尊階は肥後八代焼をひらいた。薩摩焼は、島津氏の捕虜の朝鮮人陶工がひらいた。鹿児島城下の西方にはノシロコという朝鮮人部落があった。



  ・丹羽長秀は病床で命を終えた。結石だったが最後のとき腹をかっ捌きその石を取り出して「こやつが儂を苦しめおったでや」とわめいて絶命した。



  ・イエズス会の秀吉嫌いのルイス・フロイスは

  「いまは日本じゅうに戦争はおこらず全土に平和な生活がたもたれているが、人民は秀吉を恐れている。百姓はこれほどまでに貧しく悲惨な状態に陥ったことはなく、すべての階級の人々が彼の軛(くびき)のもとに圧迫させられつつ生きている」とぼろくそに批判した。



  ・醍醐の花見

慶長3年3月15日当日は前日までの悪天候が嘘のように晴れ渡った。秀吉、秀吉はもとより諸大名衆が宴にのぞんだ。女房衆だけで3000人に及んだ。三宝院にむかう女房衆の順番は

  一番 北政所

  二番 西の丸(淀殿)

  三番 松の丸

  四番 三の丸(蒲生氏郷の妹)

  五番 加賀殿(利家・まつの三女、側室の子ともいわれる)

  六番 まつ(利家室)

  であった。

  宴席で、秀吉が差し出した祝杯をうける順番についてもめた事件。

北政所の次に、受ける順番について西の丸殿と淀殿の間でいさかいが起こった。場が険悪に凍る中、間を取りもったのがまつである。

この事件について面白い記事をネットで見つけたので掲載したい。

何度読んでも腹を抱えるほど面白い。


http://hagakurecafe.gozaru.jp/5matunomaruhtm.htm

松の丸殿

京極高吉の娘 竜子。

最初は武田元明という武将に嫁ぎましたが、本能寺の変で明智光秀につき死亡。

兄の京極高次も明智方についたたために、秀吉から狙われます。

その時、高次は秀吉の許しを請うために、美人の妹・竜子を側室に差し出しました。

秀吉は美しい松の丸殿をとても気に入りました。

が、数多くいる側室の中で、様々な確執もあったことでしょう。

松の丸殿の逸話で有名なのは「醍醐の花見の盃争い」

こちらは下のインタビュー、もしくは当サイトの「歴史の流れ」を
ご覧下さい。

秀吉の死後は、淀君との間でさらに険悪になり、京極家へ戻ります。

その後、京都で暮らしました。


 




                       松の丸殿にインタビュー

ハガクレ 今回は秀吉の側室 松の丸さんに来ていただきました

松の丸 はーい!よろしくぅ

ハガクレ 松の丸さんといえば、名門京極家の出身ですよね

松の丸 まーね。正直言うと、力ないくせに家名だけは名門なんだけどね

ハガクレ お兄さんは高次さんですよね?

松の丸 そうよ。あの兄貴はちょっとダメ兄貴でね。

ハッキリ言って政治能力ゼロよゼロ。

本能寺の時も時勢を間違って明智光秀についちゃうし、どーも先見の目がないのよね。

自分が助かりたいからってアタシをサルの側室に差し出すしさ

ハガクレ えー!ひどいですね

松の丸 でしょ?もー兄貴に泣かれて頼まれてさぁ。

サルのとこって側室いっぱいいるわけよ。勘弁してよーって感じ

ハガクレ で、側室になったんですか?

松の丸 しょーがないじゃん。まぁ、戦国の世の女なんて物扱いだからさ。

京極家を残すためにアタシが犠牲になったってワケよ

ハガクレ 秀吉さんはどんな人でした?

松の丸 んー。アタシさ、もっとマッチョな男かと思ってたのよね。

だけどチビでサル顔で、本当にこいつが天下取れるの?って感じ。

またさー、すっごい筆まめなのよ。ラブレター攻撃されまくりだったなぁ

ハガクレ じゃあ気に入られたんですね?いい生活できました?

松の丸 まぁねー。だけどアタシのちょっと前に茶々(淀君)が側室になったばっかでさ。

あの女がムカつく女でね。一応親戚なんだけどさ

ハガクレ 親戚なんですか?

松の丸 そっ。兄貴の嫁が茶々のすぐ下の妹でね。

お初っていうんだけど、なんかポケーっとした女だったわけ。

あの女の姉さんっていうからどんな奴かと興味深々だったんだけど、会ってビックリよ。

たいして美人でもないくせに、エラソーな女でさぁ

ハガクレ でも茶々さんって、絶世の美女 お市の方に似てると聞きましたけど?

松の丸 たいしたことないって。色白で鼻筋がスーッと通ってるだけ。痩せてて女としての魅力なんて全然よ。

みてよアタシ。ムチムチでこれこそ女って感じでしょ?

ハガクレ はぁ。でも人にはそれぞれ好みがありますからね

松の丸 ふん。

で、その茶々なんだけどさ、サルがお市ってのをスキだったからって、茶々は側室の中でも別格扱いでさ。どうやらお市に似てるらしいんだけど、あの程度じゃお市ってのもたいしたことないんじゃないのぉー

ハガクレ はぁ。

松の丸 つーかさ、茶々の出身の浅井家って、もともとアタシの京極家の家臣だった家なわけ。

あの女いっつも「ワタクシの叔父はあの織田信長ですわよ!」とか言ってたけどぉ、織田家なんて全然ヘボい家柄じゃん?あたしなんか京極家よ?

ったくさぁ、なんでアタシが側室NO2の座に収まんなきゃなんないわけ?ねぇ?そう思わない?

ハガクレ はぁ・・・。そうかもしれませんねー。ところで、北政所(ねね)さんとはどうだったんですか?

松の丸 あー、あのオバさん?悪いけどアレは問題外でしょー。

言っちゃ悪いけど、「女」の部分で勝負するとこないからねあの人。

あそこまで「女レベル」が違うと、相手する気もなんないっつーの?ま、あの人は気さくで田舎臭くてイイヒトだったけどね

ハガクレ 北政所さんは、やっぱり他の側室とは仲が悪かったんですか?

松の丸 あー・・・。仲悪いっつーか、サルはさ、いっつも北政所に気ぃ使っててねー。

正妻だし、貧乏時代から苦労を分かち合ってたから、サルも「ネネを虐めるなよ」オーラを出してたから、あんまり北政所に真っ向から対抗しようとする人いなかったね。茶々くらいじゃないのー?

ま、あのオバさんも最初はさ、あたしら側室に負けるもんかと頑張ってたけど、もう女の質が違うっつーのがわかってから、ギスギスしなくなったからね

ハガクレ なるほど

松の丸 ま、アタシはキライじゃなかったけどねー。茶々だけは反抗しまくってたね。

アタシが側室NO2からNO1になりたいように、茶々も側室NO1から正妻になりたいみたいな?

ハガクレ よくある構図ですね

松の丸 でもさ、そーなってくると、あたしは北政所の味方をしたくなっちゃうわけ。
茶々がムカつくから、まだあのオバさんの方がマシって感じ

ハガクレ ほー。女の人ってのはいろいろありますね

松の丸 ま・ね。20人の側室がいりゃー色々あるわよ。

ハガクレで、結局、松の丸さんは茶々さんに勝てたんですか?

松の丸 それがさー、サルが死ぬちょっと前に「醍醐の花見」っていう大イベントがあってさ。
でね、サルがお酒を飲んだ盃を、次の北政所に回したわけ。で、北政所の次が側室NO1の茶々なんだけどね

ハガクレ フムフム

松の丸 あたしもここらで茶々をギャフンと言わしてやろうとおもってさ、「茶々の前にアタシに盃を回してよね」って、皆の前で言ってやったわけ

ハガクレ うわー女の戦いですね

松の丸 もー、みんな静まりかえっちゃってさ。
サルなんかオロオロしちゃってんの。
でも、北政所や他の側室は「ナイス!松!」って感じだったわよ?
みんなあのタカビー女に一泡吹かせてやりたいと思ってたからねー。フフ。あの時の茶々の顔サイコーだったわよぉ。
目を吊り上げて怒っちゃってさー。

ハガクレ で?盃の行方は?

松の丸 それがね、「まつ」ってオバさん知ってる?
前田利家の奥さんで、北政所のしゃべくり友達なんだけどさ、そのオバさんが「まぁまぁ皆さん落ち着いて。じゃ、年の順番ってことにしましょ?ね?あらっ?ってことは、次はワタクシだわね。オホホホ」ってしゃしゃり出てきてさ

ハガクレ さすがオバさんパワーですね

松の丸 ま、大事にはなんなかったけど、あとで他の側室達と大笑いしてやったわよー!
「あの時の茶々の顔みたぁ?」みたいなね

ハガクレ 女学生のノリですね。でも、茶々さんってそんなに嫌われてたんですか?

松の丸 嫌われてたねー。生意気だモン。
それにさ、みんな側室になったからには「NO1」になりたいじゃない?アタシが側室NO1になってたら、アタシだって嫌われてたかもしんないし。
でも、それにしたって茶々はわがまますぎだったなぁ。

ハガクレ そうなんですかー

松の丸 それにさ、サルの子供産んだのだって茶々だけじゃない?もー天狗よ天狗

ハガクレ そういえばそうですよねー。他は誰も産んでないのに、茶々さんだけですもんねー

松の丸 ってかさ、みんな言ってんだけど、絶対あれは他の男の子だって!

ハガクレ えー?まさかぁー

松の丸 考えてもみなって!20人も側室がいて誰もサルの子供産んでないんだよ?サルがタネなしに決まってるじゃん。
アタシの読みでは、相手は大野治長だね。他の子は石田三成も怪しいとか言ってるけどさ、ま、みんな怪しんでるってワケよ

ハガクレ 確かに、ずっと茶々さんの側にいますもんね

松の丸 口には出さないけど、アレは絶対サルの子じゃないよー。でも、バレなきゃOKだしね。うまいことやったよあの女。
おかげで次期跡取りの生母だもんねー。秀頼産んだ後は、誰も茶々に逆らえなくなったしさ。あの女の1人勝ちよ。ったくさー。

ハガクレ そうですかー。子供産んでナンボの時代ですからねぇー。

松の丸 アタシもすっごいムカついてたんだけどさ、サルが死んだ後、あの女も大変な目にあったみたいだからね。
正直、ざまみろ半分気の毒半分だよ。
あの女だって両親がちゃんと生きてさえすりゃ、普通に結婚して普通に暮らすお姫様だったんだからさ。

ハガクレ 確かにそうですよね

松の丸 ま、生まれる時代が悪かったってことだよね。結局はさ。
だけどくよくよしてたって始まんないし、なるようになれだわよねー。アハハハハ

    


  ・秀吉は、伏見城を隠居所とし九州、中国の大名衆の屋敷をここに置き、大坂城は秀頼の居城とし関東、北国の大名の屋敷を置かせるつもりであった。



  ・秀吉辞世の句

   「つゆとおち

  つゆときえにし

  わがみかな

  難波(なにわ)の事も

  ゆめの又ゆめ」



  ・当時の秀吉が有していた軍事力は世界でも抜きんでたものであった。もしこの秀吉の軍事政権が北アフリカか中央アジアの辺りに存在していたならばきわめて短期間に全ヨーロッパを征服していたであろうと筆者はいう。



  ・五大老のうち、家康、利家、景勝は朝鮮へは出兵せず兵力を温存できた。

 P1020540

佐伯泰英「居眠り磐音 江戸双紙5」龍天ノ門。

 江戸にもどった磐音が浪人生活を続けながらまた藩外から藩を支えていく。

吉原に売られた奈緒の行く末が気になるところだが、吉原に回される間に値がつり上がり1000両で売られたのだがこれを現代に換算すると、そばの値段とか居酒屋での酒の値段から大体1文30円だとすると1両=4000文=1215万円で1000両は1200万円~15000万円となる。磐音のパトロンといえる大店両替商の今津屋の旦那が奈緒の見受け金を出してやろうというのを磐音は断るが自分の婚約者が苦界に落ちて行くのを救えるのなら何をさておいて、矜持をすててでも受け取り奈緒を救い出すと自分なら思うがこれはマァ小説だから仕方ない。


この作品は筋立てが巧みでいつも読みだすと日を跨いでしまう。「夢のまた夢5巻」も読み終えてしまったがこの頃は時代小説ばかり読んでいて中々うず高く書斎に買い置き積んである他の本が読めないでいる。
P1020552

 

明智憲三郎「本能寺の変は変だ!」。

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 近年戦国時代にまつわる多くの資料が発見され、今までの歴史的事実とされていたいわゆる多くの定説がくつがえりまたは修正されつつある。最近話題となったダンスユニットが踊る「本能寺の変」はユーチュブで何万回という再生がなされ若者の日本史への興味をうながした。とてもいいことだ。
 
 その中にも出てくる「諸説あり!」に、光秀の汚名挽回に挑んだ光秀末裔の作者による三作目である。

余談だが、「汚名挽回」とよく使うと思うが、これは誤用らしい。正しくは名誉挽回だそうで、そりゃそうだと思うが、ここでは汚名挽回の方がしっくりすると思うのでとあえてこう書いておく。
 
(今日7/6になって読み直すとやはり汚名挽回はおかしいかなと思う。正しくは「汚名返上」かもしらんね)


 外題にあるように浅学ながら本能寺の変に関しては多くの小説、研究書を読んだが私も確かに疑問だらけである。大きな個人的怨念をもっていたところに、あまりにも奇跡的な千載一遇の事態に遭遇して暴発したというのが一番可能性が高いのではと愚考していたが、この作者の二作を読み直すとやはりそう簡単なものではないと思う。この作者は明智の末裔ということもありそんな簡単なことで謀反者の汚名を着せられてはかなわんという立場である。

そういうことでこの作者は前作から本能寺の変は信長が立案し、明智に命じた「家康の暗殺」説を強く推している。


荒木村重の謀反で一族郎党600人以上が処刑されたのは本能寺の2年半前だった。

作者は光秀がそれに学ばないわけがなく暴発説はありえないとする。


528日、光秀は愛宕山で連歌を催した。ここで光秀は歴史に残る有名な句を詠む。

A「ときは今あめが下知る五月かな」

だが憲三郎氏はこれは

B「ときは今あめが下なる五月かな」だと主張する。


Aは、土岐氏が(明智の元の家系)今あめ(天下)を下知る(治める)5月となった。

という光秀の決意を詠み込んだ句であると解され、


Bは、今は雨が降る5月となったという単なる季節を詠んだと解釈する。


この連歌で催されたのは連歌百韻とよばれるもので最初の句「発句」から詠み連ねていき最後の百句目の「挙句(あげく)」で終わる。連歌には、自分の句は前の句とさらにもう一つ前の句を踏まえて読まないといけない規則がある。だが最後の挙句では、締めの句としてお祝いの心を詠み込むこと前の句との関連は問わないとの例外がある。

  発句は光秀が

  「ときは今あめが下なる五月かな」

  と詠み

  挙句は、光秀の嫡男光慶(みつよし)が

  「国々はなおのどかなるとき」と詠んだ。


   筆者はこれを謀反の決意を詠み込んだとするには後のこじつけ畢竟するに秀吉の作り話だと断言する。

このあまりにも有名なのちに愛宕百選とよばれる出来事は、太田牛一が「信長公記」に記しているもので、光秀がその前日に愛宕神社に参詣して2.3回くじを引いたという話ものちに追加記されている。そして同時に「下知る」が「下なる」に最終修正されている。


「戦う前に勝つ作戦を立てよ」は孫子に書かれてある言葉だが、光秀ともあろうものが「失敗したら一族滅亡してしまう謀反を決断するのに成功する大きな目算があったはずである」と筆者は主張する。


のちに秀吉が行った朝鮮出兵いわゆる「唐入り」はもともと信長の構想であった。光秀が、信長がこのまま天下を取れば「唐入りする」可能性がありその時には光秀も先陣を命ぜられるとの危惧から本能寺の変を起こした一因であると筆者は言う。

この辺りは筆者の解釈に我田引水があろうと思うが、「本能寺の変」の謎にはまだまだ興味がつきないことだ。


いまちょうど読んでいる津本陽の「夢のまた夢」の5巻が慶長の役の真っ最中をあたりだが信長が生きていたら必ず唐入りはやっていたと思う。さてそのとき、秀吉と光秀はおたがいどう戦っていたのであろうか、明まで攻め込めたのであろうか。歴史のifを思いめぐらせるのはホント愉しい。

 とここまで書いて、一つおおきく引っかかっている事実がある。家康が信長に堺から京によびもどされる直前に本能寺の変に遭遇し、そのあと駿府までのいわゆる神君の伊賀越えとよばれる危機一髪の脱出をするのだがその途中で穴山梅雪が落命する。落ち武者狩りで農民に殺されたが定説であったが最近の研究では家康に切腹させられたとの説が有力である。これは非常に不可思議なことだ。なぜ一緒に命からがら逃げた仲間(武田の旧臣だが)自刃せしめる必要があったのか、説明がつかない出来事である・・・
 この辺りに本能寺の変の謎が隠されて、いるかもと見るのはうがって見すぎか・・・
 歴史は男のロマンである。。。。

佐藤早苗「特攻の町知覧」。

佐藤早苗「特攻の町知覧」
 これも長崎夢彩都の紀伊国屋で購入した一冊である。長崎の紀伊国屋は梅田のそこと違っていろいろと面白い本に巡り合えていつも行くのが楽しみだ。また長崎滞在時は実によくあちこちへと歩くがそこでふらりと見つける古本屋をのぞくのもまた楽しい。長崎の町は大好きだ。

 著者佐藤は1934年生まれ。画家からノンフィクション作家に転身した異例の経歴の持ち主である。

ノンフィクション作家だけのことはあって綿密な取材のもとに書かれていて多くの知覧にかかわる実在の人物の証言は、強く心に響く。

特攻という外道極まりない作戦ともよべない作戦で多くの若者たちが沖縄の空に散った。当時の日本軍の上層部の非人間的な野郎どもには反吐が出るほど腹が煮える。そんな外道な日本人が当時いたのかと思うだけで不愉快だが同時にそんな奴らと同類項の人間が今もいわゆるある種の日本人に受け継がれているのではないかと思う。

彼らは、目先のことにはとてつもなく細かく聡いが、たった一歩先が見えない。部分的にはものすごくこだわるが全体となると全く見えない。自分の主張は、誰が何と言おうが主張するが違う意見には鬼のように声を張り上げて反駁する。絶対自分は正しいそして何よりもそんな自分が好きだという唾棄すべきマイノリティの日本人。そんな連中が騒ぐとまたそれを類とするマスコミが日本人のマジョリティのごとくに報道する。彼ら身勝手極まりない主義、主張、行いに当時の若者を無機の駒のように扱い死なせていった外道な上官たちの亡霊が時を隔てて重なって見える。

お前たちだけを行かせはしない。あとから行くといって終戦をのうのうと迎え、天寿を全うどころか嫌がらせのように長生きし、また特攻の悲劇を伝えるのだと渋面をよそおいながら飯の種にした奴ら、終戦直前まで最後の一兵まで戦うのだと若者たちを怒鳴りつけ殴りつけて死地に追いやっておきながらいざ終戦となれば、アメリカ兵にこびへつらい、または揚げ句に何を思ったか社会主義者となって議員になった輩もいる。

主義主張は、したらいいし、とめもしないし好きにしたらいいが、特攻のその日先に行くぞ、あとは靖国で会おうと仲間たちと約束し散っていった若者たちを奉る靖国神社をどうとればそんな考えになるのか靖国は軍国主義の象徴だと某二国の代弁者みたいなことをほざく連中にはお前らはどこの国の人間かと問うてやりたい。今まがりなりにも世界の中で日本、日本人が生きて行けるのは彼らの大きな犠牲の上にあることに感謝しそして決して忘れてはいけないことだとわかっていれば靖国神社に参拝し彼らに大きな敬意を払うのは日本人として当たり前のことである。

ただそんな連中が自分の主義主張を声高にわめくのを見聞きすると、これを説き伏せたり話あったりすることはまったく無駄徒労以外のなにものでもないと思う。

・富屋食堂を営んでいた鳥浜とめがいとど憲兵にひっぱられたことがあった。嫌疑は、特攻隊員たちを甘やかしているといったわけの分からないいいがかりだった。それを聞いた特攻隊員たちは、明日にも死ぬ身でなにも怖いものなしだった。特攻隊員たちは憲兵舎に押しかけ強引にとめを救い出した。憲兵らは、特攻隊員たちの剣幕にただ何も手出しをしなかったという。憲兵とよばれ市民から恐れられたこの人種たちも強いものに卑屈であり弱いものには傲慢な日本人として許せない奴らの一種である。

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 ・薩摩三島村のひとつ黒島は、知覧から沖縄への飛行ルートにあり特攻機が何機も不時着した島として知られる。第一号は柴田信也で重症を負って島の人たちに救出された。それから何度も特攻機が不時着した。勿論島に滑走路などなく海に胴体着水したのである。

エピソードがある。二番目に黒島に不時着した安部という特攻隊員がいた。彼は島の伝馬船を借り鹿児島にもどりまた特攻機に乗り島の上を通過して瀕死の重傷で喘いでいる柴田に医薬品他を投下して沖縄に向かいそして散華した。かれは島に残した柴田との約束、「私はもう一度本土にもどり特攻します。その時には柴田さんのために薬を届けます」を果たしたのである。

その後不時着した隊員たち5人となったが、彼らは偶然に通りかかった潜水艦に拾われ口ノ津(今はイルカウォッチングの基地港で有名なところで、BigElleで何度か沖合を通ったことがあり、よく知る地名であるが、そんなことがあったのだと知ると感慨深い)に帰ってきた。83日のことで終戦2週間前のことであった。ただそれからの彼らに対する軍首脳部の扱いは酷いを超え信じられないものだった。なんと上官たちは命を懸けて帰ってきた者たちを激しく罵倒し世間の目から隔離したのである。

同じような話がある。

・黒島で不時着した別の特攻隊員たちはその後喜界島に移された。余談だが奄美大島の空港から遠望したことがある。その日はよく晴れていてもう日も暮れようとするころだったがだだっ広い空港の向こうの先の紺碧の海に浮かんでいたその島の上には刷毛で書いたようなやや朱色を帯びた雲がかかりとても綺麗だった。番場の忠太郎じゃないが目を閉じるとその時の景色が総天然色でなつかしく浮かんでくる。クルージングでは都会にいてはけっして出会えない神秘な光景に心を奪われることがしばしばある。喜界島もいつか必ずBigElleで訪れたい島である。

話はそれすぎたが、喜界島には守備隊が5.6百人、不時着した特攻隊員たちが35.6人いた。喜界島には海軍の本土から一番近い飛行場があった。また話はそれるが「永遠のゼロ」で宮部久蔵と機を交換した特攻隊員が不時着したのも喜界島である。



米のできない島では物資の補給もできないまま隊員たちは絶望の日々を送っていた。そんなある日の真夜中パイロットを収納するために大型爆撃機が飛来した。全員が飛び出しその機を迎えたが収納されたのは最初から決められていたのか十数人を乗せてすぐに飛び立ってしまった。だが翌日居残った隊員たちに血の気が引く連絡が入った。その機は喜界島を飛び立ったそのすぐあと屋久島近くの洋上で撃墜されたという。だが時をおかずまた重爆が2機迎えに来るという。隊員たちはあらかじめ割り当てを決めそれを待った。だがあらわれたのは一機のみで先発の10数名がそれに乗り込んだ。だが離陸して間もなく待ち構えていた敵戦闘機に撃ち落され目の前で火だるまになって海に落ちた。手を振って送り出したばかりの仲間が木っ端みじんとなって目の前で海に消えるのを見た隊員たちは運命と恐怖の中に呆然と立ちすくんだという。

最後の救援機2機が来たのはそれから1週間後の526日だった。最後の飛行機ということで島に残る守備隊の仲間たちが泡盛をふるまってくれた。彼らからは抱えきれないほどの遺書、手紙を預かった。居残る方の絶対に帰れない守備隊は万が一にも本土に帰れる仲間にそれを託したのである。2機には30人近くいたパイロットたちが全員乗り込んだ。隊員たちはたらふく泡盛を飲んでへべれけに酔った。だがそんな隊員たちを上官たちは流石に叱り飛ばすことはしなかった。それまでの2機のあっけない最後を見てとても本土までは帰れないと覚悟を決めていたからであろう。しかし運命は皮肉なもので、この一丸危険であった最後の2機が無事生還したのである。阿蘇を超え筵田(むしろだ)に到着した生き残りの特攻隊たちはそこの司令部に出頭した。だがそれからの彼らに待ち受けていたのは信じられないことだった。

1時間あまりも炎天下立ち続けで待たされた彼らの前に現れたその上官の男は言った。

「貴様たちはなぜ、のめのめ帰ってきたのか、いかなる理由があろうと、出撃の意思がないから帰ったことは明白である。死んだ仲間たちに恥ずかしくないのか!」

無念と慙愧に苦しんでいる30人の死を賭して飛び立った青年たちにいう言葉か!!!!こんな人間性のないいわゆる軍人たちを上にいただいて日本人は先の戦争を戦ったのだ。こんな話を各種本で読むにつけ、当時のこんな畜生にも劣る下種な連中がたった70年前に大手を振りそして状況がかわればこんな愚劣な上官たちに通じる血を引いた日本人が自分の周りに何人もいるのかと思うとぞっとする。

この話はまだ続く、そんな下劣な上官に罵倒された30人たちは、「いつもで飛行機を与えてくれば飛び立ってやる」と憤懣極まりなかっったがそんな彼らを軍はほかの生き残りの特攻隊員たちと一緒に「振武寮」という世間から隔離した施設に押し込め、屈辱的な再教育を行った。上官たちの彼らへの罵倒は「なぜおめおめと帰ってきたのか?」「死んでいった仲間たちに恥ずかしくないのか?」などの聞くに堪えないもので彼らは徐々にその生気を失っていったという。

そんなとき飛べる1機が用意され彼らの中から一名に再出撃の命令が下った。その隊員はその機をもって司令部に突っ込むというとんでもないことを仲間に打ち明けた。だが幸か不幸かその出撃は見送られた。その機が特攻にたえるものではなく練習機に毛の生えたものだったのである。そんなこともわからずに若者にそれで沖縄まで飛んで体当たりせよとのたまう軍のバカな上官がいたのである。


・特攻の妻とよばれた二人の話。
 一人は、藤井中尉の妻。藤井中尉は本来特攻隊員になる必要がなくまたなれない立場にあった。それを本人の強い愛国心と指導者としての責任からわざわざ特攻を志願したというまれなケースであった。とうぜんその妻は強くとめた。何度も夫を説得したが夫の強い意志は変わらなかった。思いとどめることができなかった妻が最後にえらんだのは死だった。その妻福子は、夫に遺書を書き二人の子供に晴着を着せて身に紐で固く結んで川に身を投げた。

遺書には

「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、存分の活躍ができないことでしょう。お先に行って待っています」としたためられてあった。藤井中尉は、二度もはねられていた特攻志願に小指を斬って血判して志願しついにそれが認められた。福子が入水してから5か月後の527日、藤井はパイロットではなかったので通信士として乗り込み出撃散華した。終戦まで3カ月足らずのことであった。

もう一人は、戦後まで生き残り仲睦ましく暮らしている(執筆時点で)というのでここでは匿名になっているK少尉とA子である。

A子は、なんと出撃直前の夫の機の前に立ちはだかったのである。結局機の故障もありその出撃は見送られた。K少尉は機を待つために福岡であてがわれる機を待ったがどこで聞きつけたのかそこにもA子がやってきた。そして夫に出撃を思いとどまらせようとした。流石に激怒した少尉が殴りつけたがなんとA子は少尉のピストルを奪って自殺を図りそれを見た少尉は軍刀を抜いた。事態を重く見た上層部は少尉を生き残りの特攻隊員が押し込められている「振武寮」にいれそのまま終戦を迎えた。A子は、結局思いを遂げK少尉の命を救ったのである。K少尉は当時を振り返り、そのときは本当に妻が発狂したのだと思ったという。



・特攻は将来ある国の宝を使い捨ての弾丸にしてつぎ込んだ。非人道的作戦の犠牲になったのは、職業軍人は一握りだけ、ほとんどが少年飛行兵と大学半ばで召集された学徒たちだった。


・無条件降伏後、指導的立場にあった多くの人がその責をとって自決した。航空関係者だけで58人が決行した。

・知覧の特攻平和観音堂は、陸軍大将河辺正三、海軍大臣及川古志郎、菅原司令官らが計画し、特攻の母として戦後も慰霊をつづけていた鳥浜とめに取りまとめを依頼したものである。建立に当たっては郵便局や鉄道等の労働組合から反対があった。また湊橋から観音堂までに灯篭をたてようとしたとき県は当初宗教活動であると許可を出さなかった。

・特攻平和観音堂に祀られているのは1035柱であるがその灯篭は平成8年当時で800である。全国の篤志家の寄付によってそれはたてられるが、一つが185000円の費用がかるという。だが知覧に申し込むと価格の関係からか韓国に注文して造らせるという。非常に不愉快、不可解な話だ。


 ・あとがきに佐藤氏がこの時点で(平成193月)「還らざる特攻隊員への追憶」という連載を雑誌「丸」に始めたとあるがその雑誌、またそれをまとめたものが見当たらない。まだ発行されていないのだろうか。


佐伯泰英「居眠り磐音江戸双紙」4。

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 かなわんなぁ・・・
 50数巻もあるので読むのにどれくらい時間がかかるのかしらん・・・

 売られていく奈緒を追って磐音の旅は続く。
 グーグルマップでその地を追いながら読むのは旅好きの自分にとっては楽しいものである。
 今巻では、その奈緒追跡の旅がメインである。

 まず奈緒の売られたのは、長崎丸山。そこからいわば転売で馬関海峡を越え、中国道を通り京都の島原遊郭に入る。そこでも一日違いで奈緒をすくうことができず、次は小松から金沢に入る。長崎、金沢はよく知る街なので、特に金沢では犀川、香林坊、金沢城と位置距離関係が手にとるように理解でき愉しいことであった。

 しかし磐音は奈緒を金沢でも奈緒をとらえることはできずついに吉原に売られたと聞く。
 というところで次号へ続く。。。
 
 文中時代考証で気になる点が一つあった。
 最近これも小説から得た知識だが、「仇討」に関して

 『仇討ちは、直接の尊属(親・兄)を殺した者に対する復讐で、卑属(妻子・弟妹)や主君・部下には認められませんでした。そして、行うに当たっては主君の免状や奉行所への届け出が必要だったのです。
これがなければ、敵討ちは殺人として処理されました。この制度は、明治政府が禁じるまで続いています』


 と読んだが、この物語の中で磐音が仇討に遭遇する場面がある。
 その仇討は、討たれた女の妹と亭主とによるもので先の知識からいうとまったくおかしい。どうなんだろうか。
 
・巌流島の戦いは、慶長17年(1612)4月13日のことであった。
・京都の島原で磐音が坊主に一杯食わされる場面で
「坂崎(磐音)よ、昔、大坂でな、京の者を信用するとババ見るでと忠告されたことがあった。ほんとのこどじゃなぁ」
というセリフがあった。「京都ぎらい」を読んだ後だけに、妙に納得した。

佐伯泰英「居眠り磐音江戸双紙」3

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 ひょんなことから読みだしてもう3巻目。
 物語の筋立てが面白いし、話の流れがとても早い。

 国での騒動にまき込まれて親友とその妹を失った磐音は、江戸で鰻の捌きの日当で食いつなぎながら明日の見えない日々を送っていた。

 そんなとき国で磐音たちを陥れた国家老の罪をあばく動きが出てきた。藩主の密命をうけて磐音は懐かしい国へと向かう。
 首尾よく家老一派を駆逐したものの、磐音の許嫁の奈緒は、家族を養うため自ら苦界に身を落とす覚悟を決めていた。

 間一髪で奈緒をとらえることができなかった磐音は、藩騒動が落ち着くのを見定める間もなく、奈緒を追う。

 いくら家族を養うためとはいいながら、許嫁がいながら自ら女郎になろうとするかいな。とも思うが、まぁ小説としては面白いのだろう。ところどころ引っかかるところもあるが読みだすと瞬く間に一巻読んでしまう。

 他の読みたい本もいっぱいあるのにこれと、藤沢作品の残りを読むのに没頭しているこの頃である。

烏金:藤沢作品にもよく登場するが、ぼて振り(天秤を担いで売り歩く町人)などがその日の朝などに金を借りて商売のあとその元金と利息を返す金の事。その金主は、町の小金持ち等のことが多くその金利は高額だったというが金のない町人にはありがたい制度であった。

井上章一「京都ぎらい」

 ほろ酔いかげんで本屋をぶらついていたら目についた本。パラパラとめくると京都のことを外題通りにぼろくそに書いてあるので買った。

大阪人にとっては思わず声に出して笑える箇所が満載である。

著者は嵯峨の出身でそこは洛外に位置し、洛内のいわゆる京都人からは京都とはみなされないし京都人と名のることも不愉快に思われる土地がらだという。


大阪に住んで半世紀以上になるが、京都人のいやらしさを一番知っているのは大阪人であろう。京都人の腹の中はまったく読めないが、少なくとも言ってることとまったく正反対のことを思っていると考えてまず間違いない。車の運転にしても道は譲らないし、いけずな運転をする。クルーズなどの旅先で偶に京都人に出会うこともあるが「楽しかったぁ~~。また会おうねぇ~~」と別れて、それ以降付き合っている京都人はまずいない。

まぁそれからこれは思い当たるふしもあるので仕方ないとも思うが京都人は大阪人を、下品な、下等な人種とみている。神戸人も同様に大阪人をやぼったい野蛮人と見ているところもあるが大阪人からすれば神戸はまったく田舎なので余裕で上から目線でながせるが、京都人のそれは大きくいやみなとげを含んでいるので不愉快きわまりない。


  「マァげんきのいいお子さまですなぁ~~」と京都人が言えばそれは標準語になおすと

  「うるさい静かにせんかい!!」

  だし、さっきの

  「楽しかったぁ~~。また会おうねぇ~~」は、

  「今回は楽しかったけど、次はあらへんよぉ~~」

  「今日は来てくれはっていっぱい楽しい話をして愉しかったわぁ~~」

  「いつまでおるねん、もうちょっと早よ帰えらんかい!!」

  である。


京都人が大阪の悪口言いだしたらとまらないように大阪人も京都人の悪口ネタには事欠かない。


さて本である。

洛中人は、洛外人に対してさえそんな優越感をもっているとはこの本で初めて知った。京都人の選民意識は流石に千年の歴史を含んどるなぁと感心する。

作者は、実在の人物から受けた迫害を実名であげているが、今後もつきあいがあるであろう人物の名前をあげるとはこれもおとろしいというか、よほど根に持っているかのことだろう。


作者が、「嵯峨の出身です」というとその洛内人は

「昔、あのあたりいるお百姓さんが、うちへよう肥(こえ)をくみにきてくれたんや」

とへろりと言ったという。

まぁ大阪人なら即座に理解するがこの短いフレーズには京都人のいやみ、とげ、優越感が凝縮されている。

さっきの翻訳機にかかれば、これは

「ああ嵯峨の田舎もんだすか。今は対等な口きいてはるけどそのへんは忘れんといてね」

である。

またある時には、国立民族学博物館の顧問に訊いたという。

「先生も嵯峨のあたりのことは、田舎やと見下してはりましたか」

この問いに

「そらそうや。あのへんは言葉づかいがおかしかった。僕らは中学生ぐらいの時には、まねをしてよう笑いおうたおもんや。じかにからこうたりもしたな・・・」

その西陣で生まれそだったという顧問先生は、ためらうこともなくさらりと答えたという。


まぁ大阪人のことを京都人は下品で、常識がないというが、こんなあからさまな相手をムカッとさせるとげのある言葉を吐く大阪人はまずはいないと思う。
 

そんなことで大阪人は大体において京都人にいい感情はもっていない。と思う。


-高槻という都市がある。その高槻にすむ人々を、大阪人はよくひやかす。

「あんたら、もうほとんど京都やんか。大阪ちゃうわ。いっそのこと、京都になってしもたらどないや」

おわかりだろうか。大阪では、京都に近いことがしばしばからかいの的となる。こういう揶揄がなりたつのは、大阪人があまり京都をうやまっていないせいである。統計的には語れないが、私の実感でも、京都をみくびる度合いは、大阪がいちばん強い。

 そして、その点だけでも、私は大阪という街をありがたく思っている-


このあたりのニュアンスは大阪人にしかわかりづらいと思うが、読んでいて思わず声を出して笑ってしまった。


まぁそのあとも京都の悪口を書きまくっていてそれにいちいちそうやんなぁと相槌をうって読んでいたが終盤は悪口ネタが流石に尽きて来たのか、南北朝時代の話になって今生天皇は南朝からでたので正統ではないとか、日の丸は、明治の時代ごろから急にできたのでこれを国旗として認めないとか、「君が代」は国歌としてふさわしくないとか、なんか訳の分からない話になってきた。それならばどうしたいのかと問いたいがぐだぐだと非建設的な話ばかりでさて具体案がでてこない。とても不愉快に思って本を閉じたが。この本の出版社を見て納得。


井上氏は嵯峨に生まれで、現在宇治で住んでいるそうだが、洛外、洛内の区別は大阪人にはつかないが、この人は大阪人から見たら立派な京都人に見えまっせ。。。


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津本陽「夢のまた夢」(四)。

 小田原城は落ち北条家は滅んだ。落ちたは、正確には開城であるが、先の「信長の旅」の中井講師によれば城が落城炎上したケースは極めてまれであるとのことだった。大坂城の炎上落城が何度もTVドラマなどで描かれているので落城イコール炎上とのイメージが強いが炎上したケースは戦国時代においてさえそれは少ないとのことだった。
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 さて秀吉の天下平定は北条氏の滅亡でほぼなったが事後処理が残っていた。東北の雄伊達正宗の処分である。正宗は最後まで北条に同盟したが最後は秀吉の軍門に下った。その弁明のために上洛することになった。その仲介をしたのが家康である。家康は正宗を殺したくなかった。勿論のちのちの自分自身の保身のためであった。家康は正宗の上洛前に秀長に相談した。家康が、秀長に大きな信頼を寄せていたことがこのことでもわかるが、秀長は正宗上洛直前に所領大和郡山で51歳を一期として世を去った。豊臣家のゆるやかな滅亡が秀長の死をもってはじまったという歴史家も多い。
  

正宗が白装束の死に衣装で秀吉の前に謁見した。実は秀吉はその正式謁見の前に家康の労で事前に正宗に会っていたといわれる。秀吉は、正宗を北条父子のような凡庸な武将とは見ていなかった。事前に会っていわば打ち合わせをして場合によっては手前上切腹の沙汰をも申し渡すところを温情処置としたのである。秀吉の人物を使う巧みさが見えるエピソードである。


一方そんな秀吉だが自分に歯向かうものには容赦がなかった。このあたりは信長と大きな共通点である。

こんな話がある。小田原を攻めているとき利休の弟子で宗二という茶人がいた。彼は気骨ある男で秀吉といえとも茶道においては秀吉にゆずることがなかった。陣中で秀吉と大喧嘩し秀吉を茶の道のわからない田舎者だと陰口をたたいた。それを聞いた秀吉は、直ちに彼を陣中で磔刑にした。マァ口げんかしただけで相手を殺してしまったのである。またこんな話もある。朝鮮出兵前、対馬の藩主宗義調の家来を朝鮮国王に事前交渉に向かわせた。宗はそれまで朝鮮王朝と海外貿易を行い緊密、良好な関係を築いていた。そんなこともあり宗の家来は秀吉の朝鮮国王が秀吉に朝貢せよとの申し出を一蹴されてしまった。それを聞いた秀吉は、家来が日ごろ親密な朝鮮国王に強硬な態度を示さなかったとしてその家来を誅殺してしまった。もうこうなると頭のイカレタ独裁者である。


千利休が秀吉に切腹させられたのは中学生でも知っている有名な史実だが、利休には寡婦の娘がいた。相当な美人だったというが、あるとき彼女を見初めた秀吉は側室に上がれと命じた。利休は娘はまだ幼子をかかえている故と再三断ったが秀吉は三度までもひつこく迫ったという。色に狂う変態秀吉もついにはあきらめたが利休への強い不満が残ったことであろう。利休の切腹申しわたしには諸説あるが、それも大きな要因になったのではないかと愚考する。また利休にしても秀吉へのおおきなわだかまりがというか憤怒、軽蔑がそれまでよりも強く残ったことと思う。利休は、もともと信長に仕えたのであり降ってわいたようにその政権を継いだ秀吉には腹に一物を持っていたのではないかと思う。またさかりのついた犬のようにあたりかまわず目についた見目麗しい女性を手当たり次第に閨に呼び込むぶさいくな小男に日ごろから大きな嫌悪感を抱いていたと思う。

遂に利休は切腹しこの世を去るが、利休の悲劇はまだ続く。その切腹のあと「兼見卿記」にある天正1938日のくだりには、利休の妻女、娘が石田三成の拷問によって二人が絶命したとのうわさがあるとの記述がある。

秀長は同正月12日に死んでいるが、秀長が存命なら利休は死なずにすんだといわれる。


愈々文禄の役がはじまる。

秀吉は天正20年正月5日諸将に唐入り渡海の陣触れを発した。秀吉の人生の大功績をすすべて帳消しにしてなおその名を貶める悪行へと突き進んでいく。


15万人余の大群が海を渡った。文治乱れていた朝鮮人民は当初日本軍をその解放者として歓迎し協力もした。だが徐々にその兵站の拙さから、また統率の乱れから日本軍は人民を搾取し侵略軍とかわっていった。当初協力した朝鮮人民は義軍へと変貌し、その兵站線をずたずたに寸断した。いよいよ日本軍は窮地に陥っていく。平壌まで進んだ日本軍の相手は朝鮮義勇軍のほかに大きな敵をかかえることになった。飢えである。そして疲労した日本軍に追い打ちをかけることが起こった。明軍の参戦である。それまでも海上では李瞬君の率いる海軍にコテンパンにやられていた日本海軍であったが陸、海から攻めたてられることとなった。日本軍の船は木造でいわば輸送船というものであり軍艦としてつくられた朝鮮船には全く歯が立たなかった。


平壌まで兵站線が伸びた日本軍はいったん漢城(今のソウル)まで撤退し体勢を立てなおすことにした。それでも秀吉はなぜか戦況を全く楽観していた。そのころ秀吉は日本統一したころの軍事天才の秀吉とはまったく別人の秀吉となっていた。


そして愈々朝鮮王の要請をうけた明の大軍が平壌をおそう。漢城から続く支城の一部の日本軍はほぼ全滅したものもあり漢城まで敗走したときにはその戦力はいちじるしく消耗していた。この文禄の役で命を落としたものは日本人のみならず、朝鮮軍、朝鮮人民の被害は甚大であった。そして明軍にも多くの戦死者を出した。たった一人の人間耄碌じじい秀吉のために・・・


秀吉は、日本軍が進めば、朝鮮軍は殲滅され、人民は道を案内し、明に攻め込めば簡単に全土を征服できると考えていた。さて秀吉は何をもってそのように考えていたのか?それを諫めるものはいなかったのか?いなかったであろう。狂気に満ちた独裁者に諫言することは家康とてできるものではなかったであろう。いや家康は西日本の大名たちに大きな経済的、軍事的負担のかかるこの戦を心の底ではひそかに歓迎していたかもしれない。


この4巻のほとんどが文禄の役についやされている。ほとんど知らなかった秀吉の朝鮮出兵を学ぶことができたが、ますますもって秀吉という男が大嫌いになった。

このときの秀吉の兵站の拙さはその後日本海軍上層部という愚かな集団で3百数十年後に悪夢のように再現されることになる。この秀吉の軍事の失敗をのちの日本軍が学んでいたらこの愚か極まりないこの暴挙も一縷の功績を遺したかもしれないものを・・・


・文禄の役がはじまったころ朝鮮では宮廷では両班(りゃんぱん)間の抗争があり綱紀は乱れ社会は混乱して民心は王朝から離れていた。両班とは、文官を東班、武官を西班と称し彼らを総称するものだが、官位のうえで常に東班は、西班の上位に立っていた。


・朝鮮在陣の司令官である加藤清正と、小西行長はことごとにいがみあっていた。二人の方針が全く違っていたために朝鮮人民への統治方針が一致せず朝鮮人民は日本軍に協力せずまたできず霧散し野は荒れていった。


・秀吉の養子羽柴秀勝(秀次の弟)は医師の手当ても受けずに朝鮮で死んだ。朝鮮在陣隊に配属された医師は極めて少なかった。ある隊の記録では700人に2人という少なさであった。天下をとるまでは兵站の天才といわれた秀吉であったが朝鮮出兵では、場当たり的な状況を全く見えない愚将そのものであった。



八条の宮。

昨日の「真田丸」も愈々秀吉が徐々に正気を失い常軌を逸していく。面白かった。秀吉役の小日向文世も中々のはまり役のように思える。会ったことはないが(当たり前だが)秀吉の軽さをよく演じていると思う。シランケド・・・

「結城秀康」とともに司馬遼太郎「豊臣家の人々」からの引用、感想文。

八条宮

ただしくは、八条宮智仁親王といい同腹の兄はのちの後陽成天皇である。

その八条宮を秀吉は畏れおおくも養子にくれという。仲立ちをしたのは今出川晴季。彼は秀吉の接待で腑抜けに調略させられていた。にしても当時の秀吉が絶大ね権力者だったことがうかがい知れる話である。
  八条宮は当時の今生天皇の次男、皇位継承順位第3番目であった。もし兄に何かあれば天皇になる身分である。だが多くの反対がある中八条宮は秀吉の猶子となった。猶子と養子とは大きく違わないが、養子は多くはその家に住むことが多いが猶子は居を異にして住むといったぐらいの差であろう。

天正18年、宮は元服し智仁となった。14歳であった。その年の前年秀吉に実子鶴松が生まれた。このとき天皇となっていた後陽成天皇は実子がなく、宮を宮廷にもどすべきとの意見が出てそのようになった。秀吉は、宮を戻すにあたって領地3千石と屋敷独立の宮を創設し宮を送り出した。それが八条宮である。

天正19年秀吉に不幸が続いた。正月秀長が死に、8月に鶴松が死んだ。11月に甥の秀次を養子として、その翌月関白職をこの養子にゆずった。この後朝鮮の役がはじまったが秀吉はこのころから急激に耄碌していった。

秀吉が死に、家康の天下となった。秀吉びいきであった後陽成天皇は、秀吉の死後わずか3年でおこったこの政変を嘆き、その地位を八条宮にゆずろうとした。当然徳川からすると元秀吉の猶子であった宮が天皇になるということは絶対受け入れられないことであった。その後10年、後陽成天皇は帝位をたもちやがて位を皇嗣にゆずった。後水尾天皇である。

家康はその後大坂の陣で秀頼を殺しその係累までもすべて抹殺し豊臣家を滅ぼし、そして阿弥陀ヶ峰にあった秀吉の廟所までもことごとく破壊しその神号「豊臣大明神」も消し去った。
 さらに家康は宮廷に対しては公家御法度を定めその活動を御所内にとじこめた


 八条宮は、そんな徳川の世に嫌気がさし京をはなれ桂川のほとりに隠棲した。のちの桂離宮である。その建築には宮自身が携わったといわれ、その建築に対する造形の深さには建築好きの秀吉の大きな影響があったといわれる。

宮は、3代将軍家光の代まで生きたが家光によって造営されつつあった日光東照宮の徳川の美意識と桂御所における美意識が対極のようにのちの人々に語られることになった。

藤沢周平「漆の実のみのる国」(上)。(下)。

漆の実のみのる国

若いころはといってもまだ若いつもりだが、日曜日、休日にひねもす家にいることは耐えられない苦痛だった。だが最近は、ここ一年くらいであろうか、何もない休日が待ち遠しくてしかたがない。そんな日はどの本を読もうかと前の日からワクワクする。その日は夜が明ける前から読みだす。読むのはもっぱら寝床の中でそこからごそごそはい出すのはトイレ以外は食事のときのみである。

今日もカーテンの外が暗いうちから読み始めた。読もうと思って買った本が書斎に山積みだが手にとったのは先日買ったばかりのこの上下巻。

10時間くらいかな、で一気に読んでしまった。流石に夕方飽きて腹も減ったのでみんなをよび出して焼肉を食べに行った。つき合ってくれた友に感謝。


藤沢作品は新潮文庫のそれはすべて読みきったのであとは文春文庫の作品10冊と集英社の数冊を残すのみである。

藤沢作品には、武家もの、町人を描く市井もの、そして歴史上実在の人間を描く歴史ものがある。武家ものがやはり自然描写が美しく自分としては好みである。歴史ものは、藤沢氏独特の自然描写がなぜかとても少ない。なんでなんだろうといつも思う。
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 さてこの作品は、東北の藤沢氏出身地の庄内地方のお話。
 藩家は、名家上杉である。藩祖は上杉謙信。謙信から景勝にうけつがれ(この辺りは「密謀」にくわしい)領地は秀吉の命で越後から会津へ移されるが、豊臣政権では五大老の一角を担い中枢を占める。だが秀吉亡きあと家康と事をかまえ関ケ原では西軍につきそして負け、150万石から30万石へと激減俸されるが景勝は家臣を一切解雇せず6000人余りを引き連れて米沢に移封する。しかもさらにそのあと跡目相続をめぐるいざこざでさらに半額の15万石に減俸される。領地米沢はそれなりに肥沃なとしてあったが海にも面しておらず他の主だった産業もなく、それだけの武士階級をやしなうのはとうてい無理な話であった。年貢は三公七民であったのが、のちには七公三民にまで引き上げられという。

この米沢地方はもと直江兼続の領地だったものを兼続が景次にゆずったものである。

そんなことで上杉の貧乏所帯は全国でも有名だったそうである。蛇足だが、そのあとの4代目(この作品では5代目となっているが)の藩主はあの吉良上野介の嫡男を迎えている。その男がまた阿保で、また実家の吉良家へ少ない藩のやりくりから毎年6000石もの思いやり手当を出していたそうで、討ち入りが起こったときにはひそかに藩では喝采を送ったという。シランケド・・・

話を元に戻すと9代目の放蕩家だったボンクラ藩主重家(この作品では10代目)のときには、幕府の普請役も賄いきれずに家老たちから藩主は藩領返上の願いを出せとまでのこととなったという。そのあと藩主お気に入りの家老が誅殺されるという事件や、七家騒動とよばれるお家騒動が起こるが何とか次代の藩主治憲の徹底した改革で持ちなおす。治憲は有名なのちの上杉鷹山である。鷹山が、漢詩から起こした「為せば成る、為さぬは人の為さぬなりけり」の有名な訓示を残すのはその改革が終わったあとである。

題名の「漆の実の・・・」は、時の敏腕家老竹俣当綱の改革により国で漆をつくろうとしたことの顛末に由来したものである。この漆造りも結局最後には実をみのらせずに終わるのだが、貧乏藩の小さな盆地でおこる大小さまざまな事件は息もつかせないほど文字が躍るように展開しものすごく面白く、10時間ほどで一気に読んでしまった。


藤沢周平は199712669歳を一期としてこの作品を最後に長逝の途についた。


・諂諛(てんゆ):おもねりへつらうこと。「色部が諂諛の家老だとの評価があった」

・諸葛孔明:「賢臣に親しみ小人を遠ざくる、これ前漢の興隆する所以なり、小人に親しみ賢臣を遠ざくる、これ後漢の傾頽する所以なり」

・扶持米侍:藩から家禄ではなくて扶持米そのものをうけとる侍のこと。米を直接給与としてもらうのでコメの値によってその価値は変動し不安定なもので、家禄侍からはさげすんで見られた。

佐伯泰英「居眠り磐音江戸双紙2・寒雷ノ坂」。

佐伯泰英「居眠り磐音江戸双紙2・寒雷ノ坂」
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 国を逃げるようにして江戸に舞い戻った磐音。日雇いで鰻の捌きの仕事をしながら、危ない用心棒もたまには引きうけ糊口をしのいでいた。藤沢周平の用心棒シリーズに似ているがその内容は藤沢氏の総天然色映画の時代劇を見るのごとくとはまったく違う。改めて藤沢氏は偉大だと思う。

ただその筋立ては、面白く時には日をまたいで読んでしまった。

50数巻あるのでボチボチ暇なときに読み進めて行こう。

・櫛比:櫛の歯のようにほとんど隙間なく並んでいること。「そこには掘っ建て小屋が櫛比して・・・」

結城秀康。

 大河ドラマ「真田丸」が面白い。
 秀吉が嫌いで故にその忠に殉じた通称真田幸村、今後は真田信繁とよばれることになろう武将も全く関心もなく、昨年に上田を訪れたときにもそれほどその地の歴史にも興味のなかったことで今にしてとても後悔しているが、その生涯を描いたこのドラマもハナから見る気はしなかったが、横浜のSさんが面白そうだというので第一話から見ているが、小説などで見る名場面が忠実にそれも時にはコミカルに描かれていて 毎回日曜放映が楽しみなことだ。そしてもう一回ビデオで二度見もしている。

 ドラマは小田原攻めが終わり北条が滅亡し、愈々秀吉の天下もなり、そしてこれからは秀吉自らの生涯のとてつもない功績をすべて台無しにしていく痴呆秀吉へところがるように転落していく晩年を描いていくことになろう。

 気になる武将がいた。「結城秀康」である。その生涯はあまり知らなかったがなんとなくその一生は数奇なものであったと程度のことは知っていた。

 今後ドラマに登場するのであろうか?もしそうだとすれば誰が演じるのか?とても興味のあることだ。

 余談だが、北条氏政の高島政伸の演技がいい。湯漬けのさいの二度かけの逸話は歴史に記された事実らしいがそれも加えてその凡庸さは全国に鳴り響いていたとのことでそんな主君の下で小田原城で命を落とした男たちこそ哀れである。

 

「結城秀康」
 家康の次男。長男は信長によって切腹させられているので世が世なら家康のあとを継いで将軍になっていた男である。だが歴史は秀康にそうはさせずにず数奇な運命をたどらせる。


生母は、家康が気まぐれに手を付けた身分の低い女だった。名をおまんといい岡崎城下の田舎神主の娘だった。おまんは一度の家康の気まぐれで子を孕んでしまった。おまんは誰にもいえずひた隠しにしていたがその腹が目立つようになったころまだ健在だった築山殿に知れてしまった。そのころ家康にはたった一人の男子しかいなかった。嫡男信康である。その腹の子の存在を恐れた築山殿はおまんを折檻し庭につるした。ただそのことが時をおかずして家康の家臣に知れた。そしておまんは助けられ男子を生んだ。天正2年のことであった。実は生まれた子は双子で一人は死産だった、殺された、他家に養子に出されたの説がある。こうして後の秀康は何とかこの世に生を受けたが、その父家康はその子に一片の愛情も示さなかったという。家臣が見かねて名前だけでもと家康に乞うたがしぶしぶ付けた幼名は、徳川家伝来の「竹千代」ではなくて「於義伊」(顔が醜く、魚のギギに似ていたためといわれる)であった。だがその子にもその母おまんにも一目も会おうとしなかった。家康の人格の一片を垣間見ることができる史実である。そして於義伊、於義丸ともよばれたこの子が3歳になったころ初めて家康と対面することとなった。その段取りをつけたのは、嫡男の信康であった。家康はそのころ浜松城を居城としていて、於義丸はその城主である信康とともに岡崎城にいた。その対面で初めて徳川家の次男としての地位を得たが、よくかわいがってくれた信康はわずかその数年後生母築山殿とともに自害させられた。天正7915日信康21歳であったという。


私見だがこの信康が、信長の命によって切腹させられたという史実には大いに疑問を持っている。寵愛したという嫡男をいくら家の存続にかかわるからといって、家の存続のために自害せしめるであろうか?またその後も信長の同盟者としてその生涯、本能寺の変まで律儀に誠実にその天下取りに忠犬のように貢献している。


余談だがその律義さは大名の間でもだれも疑うことなく称賛されていた。だからこそ秀吉もその亡きあと家康を第一に頼り、秀頼の行く末をまた豊臣政権の後見を託したのである。まさかその律義な家康が秀頼を殺し、豊臣家を滅ぼすことになろうとは夢にも思っていなかったことであろう。家康の信長に対する誠実さ、律義さに比べで、秀吉に対する執拗なまでもの憎しみ、残酷さの(大坂城は埋め尽くし、秀吉の廟まで徹底的に破壊しこの世から消し去った)はどう見ても異常であると思う。


余談の余談だが、この戦国時代で同様に自分のなかで理解しがたい事件が3点ある。というかあった。

一つはこの家康が、本当に信長の命だけで嫡男信康の切腹を命じたのか?

二つ目は、秀頼が本当に秀吉の子か?秀吉は150㎝そこそこの小男であったにもかかわらず秀頼は59寸の180㎝近い大男だったということ、20数人いたという色きちがい秀吉の側室がだれも懐妊しないのに淀殿だけが二度も懐妊したことは大いに不思議である。ただ淀殿の父すなわち浅井長政は、巨漢であったといい、一部納得できることでもあるが。


3っつ目は、細かいことだが三成が伏見城で清正、正則、長政に襲撃を受けたとき家康の館に逃げ込んだというのだが、ホントに自分ならそうするであろうかと疑問に思っていた。だがこれはごく最近三成は家康に助けを求めたのではなくて自分の懇意の屋敷に逃げ込んだことが判明した。

これで大小3の疑問のうち二つが自分の中で解決したが、さてあとの二つは史実として確定されるのであろうか?



話を元に戻そう、家康はこのころ稚(おさな)い寡婦を愛していた。お愛はまだ18歳であったが信康が死ぬ1カ月前の8月に男子を生んでいた。家康はこの子に徳川家代々の幼名である竹千代と名づけた。5歳年上の於義丸は完全に無視されることになったのである。そして翌年お愛はまた男子を生んだ。その子は於次丸(おつぎまる)と名づけられた。於義丸は徳川家の本線から完全に外されたのである。

時は経ち、於義丸の運命が変わる事件が起こった。本能寺の変である。これを境に家康と秀吉の衝突が起こりそして和議がなった。その時に家康に人質として秀吉に出されたのが於義丸であった。於義丸は11歳になっていた。於義丸の数奇な人生が始まる。秀吉は、於義丸を秀康と名づけ養子にした。この時代の両雄の諱(いみな)一字ずつ合わせたこれほど大きな名前はないことだった。

秀康は、そのあと秀吉の庇護のもと大坂城ですくすくと育った。秀康は秀吉の他の養子、秀秋、秀次の愚昧さにくらべ一段器量がいいように思えた。そんなおり秀吉に鶴松が生まれた。秀吉は継嗣ができたために多くの養子が必要でなくなり秀秋は小早川へ、秀康は北関東の名門結城家へ養子に出した。ただ秀康は養子に出されたあと上方に帰り伏見を離れなかった。そして秀頼が生まれると秀康は秀頼を実の弟のように可愛がった。数年のち秀吉が死んだ。慶長3818日、秀康28歳のときであった。

秀吉の死によりまた日本全体が戦乱の世にもどろうとしていた。そしてその死からわずか2年後、慶長59月関ケ原の天下分け目の大戦(おおいくさ)が始まった。

家康は、秀忠に徳川第二の軍勢を任せて中仙道を進軍させたが、秀康には上杉の対抗として江戸の(正確には宇都宮城)の留守居を任せた。そして家康はこの戦に勝ち天下をとったが、留守居の秀康には当然何の戦功もなかった。そして家康は、関ケ原に遅参した秀忠をそれほど咎めるでもなくさっさと引退し秀忠に将軍職を譲り、秀康には北国越前北の庄を与えた。秀康は石高は75万石の大身となったが、冬季は雪で京には出られない地であった。そして京との間の長浜には譜代の内藤氏を置きまもらせた。もし秀頼がことを起こせば義兄の秀康が連携するのを恐れたためである。それほど家康は、秀康を恐れていた。だが大坂の陣が勃発する前、慶長12年秀康はその地で死んだ。よわい34歳であった。信康亡き後、徳川家の第一長子でありながらただただなかったもののように扱われ、生涯華々しい表に出ることがなかった秀康。最後彼は息をひきとるととき、俺の一生は何やんやったんやろなぁ・・・とつぶやいたという・・・シランケド・・・

有川浩「県庁おもてなし課」。

高知県庁に実在する「おもてなし課」と作者が実際にかかわった経験をもとに書かれた作品。久しぶりに読む現代ものであった。この作者の作品は「阪急電車」を読んだことがあり軽妙なタッチが好きでまた買ったものである。

訪れたことのある高知県の観光名所が何度か出てきて楽しく思い出しながら読み終えた。

あとがきを読んでいるとこの作者は、やはり高知県出身であったが、その中でまさか娘が作家になるとは・・・との一行が出てきてあれっつと改めて作者紹介を見てみると有川浩(ありかわひろし)とばっかり思っていたら(ありかわひろ)で女流作家だった。「阪急電車」はまったく知らずに読んでいた。マァ書き手が、男性であろうと女性であろうと読み方に違いがあるわけでもないが、読むときにはそれは意識して読んでいることも確かである。

ライトノベルの出身であるとこのだが面白く、さらりと読めた。また高知に遊びに行きたくなってきたなぁ・・・
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津本陽「夢のまた夢」(三)。

今や秀吉は信長がその志半ばで夢ついえた天下統一も目前に迫っていた。あと秀吉の前に立ちはだかるのは九州の島津、そして東の北条(厳密には奥羽の伊達など数大名もいた)のみであった。

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 愈々秀吉が九州征伐にかかる。ただ九州の制圧を前に恭順の意を示しているが臣従していない家康の存在が不気味であった。九州遠征中に家康が寝がえり北条と手を組まれては一大事である。時の北条氏政は、愚将であったがその子氏直は、家康の養女を娶っており北条家と徳川家は姻戚関係にあった。

九州征伐で後顧の憂いを除くため秀吉は、家康にしきりに上洛を促すが、家康は仕物にされるのを恐れて中々上洛しない。一計を案じた秀吉は、実妹旭を夫と離縁させ家康の正室に差し出すがそれでも家康は上洛しない。余談だが無理やり旭と離縁させられた男は、武士の恥だと腹を切ったともいわれる。

秀吉は最終手段として実母大政所を家臣らの猛反対を押し切って駿府に差し出す。さすがの家康もこれ以上上洛を拒めば秀吉と干戈を交えるのは必至とみて上洛し、秀吉の臣下となる。この辺りで繰り広げられる陣羽織の件等々茶番劇はあまりにも有名なくだりである。


  東からの脅威を打ち消した秀吉は愈々九州島津を襲う。この秀吉の進撃は今の熊本県から九州西海岸を通り、阿久根、出水と南下したルートでGWでなじんだ地名が出てきて懐かしい思いだった。そしてこの作品を読んでおけばもっと先のクルージングがより楽しかったのにと残念至極。

秀吉嫌いはこの作品を読んでもいまだ変わらないが、秀吉という男は、一介の百姓の身から天下関白まで上り詰めただけあって一芸に秀でるものは十芸に秀でるというがその軍事才能はもとより政治、しいては茶道にいたるまでの器量はなみなみざる尋常のものではなかったことにはホント驚嘆する。

九州平定後、最後の仕上げ北条征伐に向かうが、この北条父子、氏政と氏直の底知れないほどの阿保の深さ加減には、こんな城主をもった家来たちこそ哀れである。今放映されている氏政は高島政伸が好演しているが、その氏政の愚昧さはその父の氏康が見抜いていて北条も自分の代で終わろうかと家臣に嘆いたという。こんな逸話がある、氏康がその氏政の湯漬け(お茶漬けのこと)を食べるさまを見て、湯を二回に分けて食べるのを見て何度も食べている湯漬けなのになぜ一度の湯の量がわからないと嘆き北条家もわれ一代と嘆いたという。まぁこれは眉唾ものだが、自分もめったにお茶漬けは食べないが湯を足すことはままある。

また氏政は、馬で城下をかけたおり麦を刈っているのをみてあれを麦飯にしてすぐ持ってこいと命じたという。

 まぁこの辺りは、どうかと思うが阿保というわけでもないが、それなりに普段から阿保の片りんを見せていたのであろう。



こうして難攻不落の小田原城は、2カ月余りの籠城後、支城のほとんどが落とされまたは寝返られ最後は孤立無援となり戦いきれなくなって降伏し、氏政、氏照兄弟は、切腹させられ、その弟で賢明を謳われ、氏政と入れ替わっていれば北条家も滅ぶこともなかったいわれる氏規は許され、氏直は家康の姻戚ということで高野山に流居させられた。



・秀吉には南殿とよばれる側室がいた。秀吉がまた藤吉郎と名のっていた1569年ごろである。南殿は、男女二人の子を産んだが二人とも夭折した。南殿もそのあと間もなく世を去ったといわれる。

・天正15619日秀吉は伴天連追放令を発した。

・天正18年正月14日旭姫が聚楽第で亡くなった。48歳であった。

旭姫は、秀吉の妹というだけで波乱万丈の一生を送るとなった。美人ではなかったが醜女というわけでもなかったようで、「真田丸」で描かれているあのぶさいくさは、三谷氏の演出であろうがちょっとかわいそうである。

・のぼうの城でも描かれていたが、秀吉の小田原攻めに迎え撃つ北条勢支城の城主はすべて小田原城に召集されていた。

・秀吉は旭姫が没すると家康との同盟関係が弱化するのを懸念し、長丸を元服させ秀忠と命名し信雄の娘を自分の養女として正月21日聚楽第で挙式させた。

・怯懦(きょうだ)の念をいだく:恐れおののくこと。

・椿事(ちんじ):思いがけない大事件≒珍事。

・小田原城攻めは、秀吉の三月朔日の出立をもって始まったといえる。秀吉は難攻不落といわれる小田原城を我攻めすれば味方にも甚大な被害が出ることを恐れ支城から攻めた。それもできるだけ調略によって戦わず落とすことを第一とした。

 余談だが、嫌いな秀吉だが高く評価するのはその軍事的才能、兵站手腕、調略による敵の落としかたである。双方互いに人的被害を最小にして戦を収めようという信念は自らが足軽として戦いの捨て駒として戦場の最前線で生死のはざまを何度も味わったから、また譜代の家臣を持たなかったので降伏させることによってそれを取りこもうとしたのであろうと思う。その辺は秀吉の本当に偉いところである。

6月に入り双方膠着状態となったときに黒田如水が城中へ数カ月の籠城ををねぎらうとして酒一樽、糠漬けの魚10尾を贈った。

城からは返礼として「寄せ手のおのおのがたも長陣にてお疲れもひとしおと拝察いたす」と鉛10貫目、硝薬10貫目が送られたという。

いい話だ。

藤沢周平「春秋山伏記」。

 遂に新潮文庫藤沢周平全作品を読み終えてしまった。もう一篇藤沢氏のエッセイ集があるが小説はこれで終了である。あとは文春文庫と、集英社文庫に何冊か藤沢氏の作品がある。ボチボチ読んでいこう。それにしても藤沢氏の作品は筋立てもいいが文中のあちこちで描写される自然の風景は、心癒されるものである。

 


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 この作品は、庄内地方に昔から伝わる山伏伝説をもとに藤沢氏がアレンジを加え作品にしたものである。5編からなるがどれも山間奥深くの村の日常に起こる出来事を藤沢氏独特のタッチで描いたもので都会から遠く離れた山里の村に自分が紛れ込んだような温かい気持ちにさせてくれる。一度この鶴岡市の東の山奥深くにある庄内地方を訪ねてみたいものだ。

 


「験試し」

昔、村で手のつけられない暴れん坊だった鷲蔵が大鷲坊と名のる山伏になって村に帰ってきた。

その大鷲坊が村の、事件、もめ事を片付けて行く。

 


「狐の足あと」

村のはずれにある家の主は、いつも村から遠く離れ仕事をして家をほとんど空けていた。その嫁は村でも評判の別嬪さんだった。その嫁にある夜、夜這いをかけた村の男がいた。その亭主にばれたらただごとでは済まない。大鷲坊は、その夜這いの相手が狐だったとの仕掛けをつくる。

 


「火の家」

村の上手を流れる川に水車小屋があった。その水車小屋はむかし火事を出した家のものだった。だがその火をつけたのは村の者たちだった。

 


「安蔵の嫁」

安蔵は、力持ちで人柄もいい男だった。ただぶさいくだった。そんな安蔵が大鷲坊と狐につかれた娘を救う。

 


「人攫い」

祭りの夜におとしの娘たみえが何者かに攫(さら)われる。そして杳としてその行方は分からなかった。村のみなが絶望の中、村中が集まって寄り合いが持たれた。大鷲坊の「なんでもいいから当日前後で思い出すことがあれば言ってくれ」の問いかけに、一人の女がおそるおそる手を挙げた。それは当日まで「箕のつくり」の夫婦ものがいてその夜に村を出たという。

そこからこの事件は大きく解決に向かって動き出す。

 「箕のつくり」なんて言葉も初めて聞いたがそれからその夫婦者を追って大鷲坊たちの大追跡がはじまる。庄内地方から大きく南に広がる険しい山脈を超えて村から選ばれた者たちの追跡者の壮絶な山越えは迫力満点。。。

歩いてはごめんだが車でいつかそのあとをたどってみたいものである。

いい作品だった。

 


・おとしは、あねさまというひと言に誘われて、思わず若い身ぶりになっていた。

 


・生きものが寝静まる深夜には、月の光が殊に冴えてくる。月はあらまし穂が落ちた芒の原を白じろと照らし、幅一間ほどの小流れを照らして中央にかかっていた。浅い流れは、村の中でそこだけ眼ざめているように、軽い水音を立て、きらきらと月の光を照り返している。

 


・蓬髪:ぼさぼさ頭

 


・よく晴れた日だった。真青に晴れた空に、秋めいた薄い雲が浮かんでいるだけで、日は山麓の村と、村につづく黄熱した田の上に、祝福するようなに降りそそいでいた。まだ暑いが、すでに真夏の暑さではない。日射しは乾いて、秋のいろを含んでいた。

 


・湯殿山、月山、羽黒山の出羽三山神社では毎年三月、三山例祭が行われる。

藤沢周平「天保悪党伝」。

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天保悪党伝

 あと新潮文庫藤沢作品は、あと二冊。


 幕末の天保3年(1832)御家人崩れの片岡直次郎が悪事の果てに処刑された。実際の話である。これに題材をえてある講談師が仲間5人を加えて「天保六花撰」として講談に仕立てた。これは大人気を博し歌舞伎にも仕立てられた。これをもとに藤沢がこの悪党らをもとに描いた作品。それぞれにみんな悪党連中だが、そこに何かしら憎めないいいところがある連中ばかりである。特に森田屋はいい奴である。


・江戸の町は、いたるところで町木戸で遮られているが、新道、小路(こうじ)をたどれば木戸を通らなくても町は抜けられた。

・暑い夏がいつの間にか過ぎて、残りの蝉の声も間遠になった。時には夏のしっぽとも思える暑い日がおとずれて、草も木も甦るように見えるときもあるが、そんな日でさえ、夕方になれば衿をあわせるほどのつめたい風が吹いた。

藤沢周平「驟り雨(はしりあめ)」。

 藤沢周平新潮本これを入れてあと3冊。いよいよ少なくなってきた。

 10篇からなる短編集。みんなそれぞれ面白い作品たちだった。昭和55年ごろに発表されたものを集めた短編集。
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「贈り物」

 作十は若いころからまともに生きたのないどうしようもない男だった。散々好きなことをしてきていつ死んでもいいと思ってその日暮らしをしている。ただこの頃は日雇い仕事の最中に立ち上がれないほどの腹の痛みにおそ われることがある。今日も仕事帰りにそんな痛みに道にうづくまってしまった。いかにも人相の悪い作十にだれも助ける人はいなかった。這うようになんとか歩くと一人の女が声をかけ助け起こして家まで連れて帰ってくれた。同じ長屋に住むおうめだった。そんなことがあって長屋の連中だれもが避けていた作十をおうめは何かと世話をやいていた。

おうめは亭主に逃げられた三十女だった。そしてその亭主は大きな借金を残して姿を消していた。ある日いかにもそれとわかる男数人がその借金の取り立てにやってきた。おうめにはとうてい返せる金額ではなかった。男たちは返せないなら女郎に売りとばすと脅かした。聞きつけた作十はその場をなんとか収めたが、おうめは絶望の底に沈んでしまった。おうめを助けるため作十は、昔の仲間を誘って旗本屋敷に盗みにはいった。なんとか金は手に入れたものの仲間はその場で斬り殺され作十も深手を負った。そしておうめに金を渡すと今後一切かかわるなと死んでいく。



「うしろ姿」

 長屋で貧しいながらも一所懸命生きていた夫婦の家に乞食同然の老婆が転がり込んできた。めいわくながらもその老婆を世話してやるやさしい夫婦。だが実は老婆は大きな屋敷の婆さんだった。



「ちきしょう!」

 夜鷹をしているおしゅん。三つになる子を抱えてこの商売をしている。ある日乗り逃げされてしまった男にばったり会った。おしゅんは簪(かんざし)を抜いてその男におそいかかった。



「驟り雨」

 表題の作品だが、なんのこっちゃ分からん話。

「人殺し」

 貧しいが平和にみんな暮らしていた長屋に、一人の男が移り住んできた。とんでもない男だった。長屋の男連中にはちょっと気に食わないと言ってはなぐり、娘には乱暴をした。そんな中でも長屋の住人はひそむように生活していた。家賃が他の半分ほどだったから移りたくとも移れなかったのである。だがどうしてもがまんできなくなった若者は、匕首の扱いを人を伝って覚えついにはその男を殺してしまう。長屋の連中には大いに褒められると思ったが・・・

「人殺し」となんてことをしてくれたんだとどなられた。



「朝焼け」

 しょうもない男の話。



「遅いしあわせ」

 極道な弟に悩まされるおもん。弟のために嫁ぎ先を出て、今は飯屋で働いている。少ない稼ぎから弟は金をせびっていく。弟はおもんの不幸の根源だった。そしてまた弟はとんでもない借金を作ってきた。それはおもんのとても返せない金額であった。女郎に売りとばされそうになったおもんを救ったのは飯屋の客でおもんがひそかにおもいを寄せていた重吉であった。借金の肩代わりを約束し、弟には今後一切のかかわりを断つことをどつき倒して約束させた。おもんに遅いしあわせがおとずれようとしていた。



「運の尽き」

 ろくに仕事もしないで遊びほうけていた参次郎。女にはもてた。あるとき遊びで抱いた女が腹ぼてになってしまう。その親父が怖かった。米屋のその親父は参次郎と娘を無理やり結婚させ、奴隷のように働かせた。いつか逃げ出してやろうと思っていた参次郎だがそのうちに仕事の楽しさをおぼえいっぱしの米屋に成長していった。この親になる日も近い日参次郎は仕事のついでに昔の仲間がたむろしている酒場をのぞきに行った。参次郎は俺はこんな阿保なことをやっていたんだなぁ・・・と思った。



「捨てた女」

 矢場ではたらくふき。ふきは少し知恵遅れのところがありその動作ものろく、矢場にくる男たちから尻に矢をうたれて遊ばれてもだまって矢を拾うばかりだった。そんなふきと信助はひょんなことから一緒に住むようになったがすぐに飽きてしまった。


 当時の矢場という遊び場の様子が興味深かった。

「泣かない女」
 不幸な境遇で育ち、足にも障害を持っていた。そんなお才を半ば同情もあわせて嫁にした道蔵だったが何事にもとろいお才に飽き飽きとしてきていた。そんなときいい女ができた。別れてくれてという道蔵にお才は、文句の一つも言わずに出て行った。

藤沢周平「橋ものがたり」。

 土曜日は同窓会だった。数年前還暦で何十年ぶりかで同窓会をして以来毎年恒例になっている。会場は天王寺だったのでその前にステーションビルの旭屋をのぞいた。最近梅田の紀伊国屋では面白い本に出会わなくなった。平積みする係がかわったのかと思う。

ここの旭屋は、めずらしいしいことに藤沢作品新潮本を発行順にすべてきちんと並べてあった。こんなに整理してある書店は初めてである。

藤沢作品新潮本で手元に欠けていたこれともう一冊「天保悪党伝」を買った。これで新潮本ではあと5冊で藤沢作品は終わりである。


下町の橋を巡って起こる男女の人間模様を藤沢氏独特の筆致で描く。江戸が舞台だけにその自然描写の美しい場面は他作品にくらべて多くはないが随所で目の前にその光景が浮かんでくるような表現を楽しませてくれた。
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「約束」
 幼なじみのふたりが大きくなったら一緒になろうと約束した。5年後橋のたもとで会おうと約束した。だが女はその時刻に現れなかった。5年の月日が彼女を女郎の身に落としていた。

「小ぬか雨」
 一人暮らしのおすみ。ある夜おとこが逃げ込んできた。一晩かくまった男は、人を殺めてきていた。女に貢いだあげく捨てられすべてを失った男はその女をはずみで殺したのだという。だがその男は、実は誠実な優しい男だった。かくまっているうちに情が移りいっしょにつれて逃げてくれと頼むが男は
「もっと早く、あんたのような人に会っていればよかった。そうじゃなかったからこんな馬鹿なことになってしまった。そう言ってもらっただけで十分です。あんたを忘れません」
 橋に消えて行く男を見送ったおすみのうえにこぬか雨が降りそそいだ。

「思い違い」
 両国橋で日に朝早くと日暮れ時、二度会う女。こぎれいなその女どこかのお嬢さんらしかった。源作は彼女と会うだけで楽しかった。あるとき、橋のたもとで絡まれているその女を助けたことがあったが名前も、住んでいるところも聞きそびれた。何か月か経ったころ源作は仲間に連れられて行った岡場所で出てきた女はその女だった。

「赤い夕日」
 孤児として育ったおもんは、天涯孤独の身だったが大店の男にみそめられて嫁に入りしあわせな日々を送っていた。だがある日やくざ者たちにさらわれてしまう。実はおもんには育ての親がいたその男は男手ひとつでおもんを育ててくれたが自分がいればおもんのためにならないとおもんが年ごろになると店に奉公に出し自分は姿を消した。
やくざ者たちはその男に金を貸してその男が死んだのでおもんに払えと迫った。

「小さな橋で」
 親父が勤め先の店の金を使い込んでいなくなった。広次は小さいながらも残された母と、姉とで何とか生きていた。あるとき姉は、妻子持ちの男と逃げてしまい、母は、新しい父親だと男を連れてきた。

「氷雨降る」
 吉兵衛はある晩橋の欄干にたたずんでいる若い女を見つけた。夜目にその美貌がはっきりとわかる若い女だった。その女は死のうとしていたようだった。事情も聞かないまま吉兵衛は馴染みの飲み屋にその女を連れて行った。なにか深い事情があるようだったがその女は一言もしゃべらなかった。吉兵衛はそんな女のために裏店に住むところを与えてやり面倒を見た。ただ手は出さなかった。ある日明らかにその筋のものと思われる男たちがその女の居場所を尋ねてきたが、吉兵衛は殴られながらその女のことは一言もしゃべらなかった。その翌日、その女は裏店で知り合った男と江戸を落ちて行った。吉兵衛は、一度くらいしとけばよかったなぁ・・・と思った。

「殺すな」
 船頭の男は、その雇い主の女将さんとできて駆け落ちをする。他人に隠れての生活も最初は楽しかったが月日が経つにつれて殺伐したものに変わっていた。女はそんな生活にうんざりしていたそんな時旦那に見つかってしまって女を連れ去られようとする。出刃包丁を手にした男は逆上して追いかけるがその後ろから、長屋の知り合いの浪人が叫んだ。

「殺すな!!」


「まぼろしの橋」

この物語の主人公はおこう。おこうという名は好きだ。「海鳴り」に登場するおこうは藤沢作品の中で用心棒シリーズで出てくる佐知とともに大好きな女性だ。

ここでのおこうも美人だが一つ陰がある。おこうは拾われた子で大店ので養われて見目麗しい女性に育つ。そんなおこうに縁談が持ち上がる。それはその店の若旦那、兄として育った信次郎だった。とまどいながらもその幸せをかみしめるおこう。そんなとき自分がお前を捨てたという男があらわれる。


「吹く風は秋」

 博打打ちでいかさま師弥平。自分の親分までだまして江戸から逃げていた。だがそんな弥平も逃亡生活から親分にわびを入れて戻ろうと帰ってきた。そんなとき一人の女郎と知り合う。その女を助けるために一肌脱いでやる。


「川霧」

 蒔絵師の新蔵は、腕のいい職人で朝早くから橋を渡って仕事場に出ていた。朝早い橋にはいつも先に女が一人ただずんでいた。ひょんなことからその女と懇意になった。その女はよく働いて新蔵によく尽くしてくれた。だがそんな日は長く続かなかった。ある日その女はふっと姿を消した。必死で探したがその行方は杳として知れなかった。おさとが姿を消して3年目新蔵はその日もおさとと初めて会った橋を川霧をぼんやりと眺めながら渡った。その人影が見えたのは橋の半ばまで来たときだった。おさとだった。

津本陽「夢のまた夢」(二)。

 秀吉は小牧長久手で信雄、家康連合軍に戦いでは敗れたものの政略では勝ち、天下人への階段をかけ上がっていく。やがてその権勢は朝廷にまで及ぶが、その出自を自身卑下する秀吉は、なりふり構わぬ任官策動に邁進する。そしてついに人民の最高権威関白にまで上りつめる。蛇足だが関白とは、天皇を補佐する人民の執政官という意味合いの官位である。
余談だが、秀吉はまず源氏を名のり征夷大将軍になろうとして失敗し、信長をならって平氏を名のり藤原姓をえて藤原秀吉として関白になった。そして藤原姓をすてて(すてさせられて)豊臣秀吉と名のった。

一方政略面では家康に旭姫を嫁がせ一応の家康からの脅威を除いた秀吉は、九州平定にかかる。までを描いた第二巻。

秀吉のことは多くを知らないがその政治能力、戦闘能力は流石に同時代の他の武将をはるか凌駕している。


  信長、秀吉、家康と三人の能力をそれぞれの分野にくらべるとどうかとなるがそれはいかにもむつかしい。これを書き出すと一冊の小説ができるだろう。ざっくりといえば軍事才能順で、信長、秀吉、家康。経済面で、秀吉、信長、家康。政治面では、家康、秀吉、信長と現時点での自分の評価だが、いかがだろうか?

家康の最大の幸運は信長、秀吉という大きな反面教師を学んだことだったと思う。


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 ・小牧長久手の戦いで秀吉は、信長以来の旧臣、池田恒興親子、森長可等をはじめ多くの重臣を失う。その失策の影に秀次の愚采配が遠因している。ホンマ秀次は愚鈍だ。


・おねは秀吉と11歳違いで、14歳の時に藤吉郎と結婚した。


 ・利家の娘に麻阿がいた。勝家に人質として出し北の庄にいた。落城の際にも城中にいたが侍女阿茶子の機転で城から逃れた。阿茶子はその後長命して金沢城下に阿茶子茶屋敷とよばれる広大な住居を設けた。


 ・麻阿はその後天正14年秀吉の側室となった。


 ・ほかに秀吉の側室は、姫路城の姫路殿は信長の弟信包の娘。三条の局は蒲生氏郷の妹らがいた。

よくぞみんな黙って秀吉に従っていたなと思う。

 
・前田玄以。秀吉の行政の要を務めた男である。出自については不明な点も多いが尾張に住んでいてのちに叡山の僧となった。さらに還俗して信忠に仕えた。本能寺の変に際し、信忠から三法師(秀信)を預けられた。

 

・天正13年末秀吉の養子信長の第4子於次丸秀勝が病死した。18歳であった。

 ・秀吉の行政機関は、中央部(中村一氏、生駒正勝、福島正則、石田三成、大谷吉継ら12名)が貴族政治の形式をとり、政務執行機関(浅野長政、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家の5人)は、武家幕府の奉行制度をとった。

 ・浅野長政は妻のややがおねの妹で、秀吉は浅野家へ入婿しておねと婚姻した 


・この作品では、一文は今の150円に相当するとある。江戸時代にこれをあてはめるとかけそばが20文ほどらしかったのでちょっと計算が合わない。時代小説を読むときには一文約30円に読み替えているがこの現代と戦国時代、江戸時代の貨幣換算は悩ましいことである。

・一疋は銭10文。

 ・天正141015日吉川元治は小倉の陣中で島津義久との戦いのなか病死した。

藤沢周平「時雨みち」。

藤沢作品は、新潮文庫で未読は愈々あと5作品となってきた。あとひと月ほどで読みきってしまうなぁ・・・
これも休みの日を利用して日がな読みふけった一冊。
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「帰還せず」

ある藩に潜入した公儀隠密が帰国しない。調べてみると身代わりの男を殺して他人に成りすまして藩の片隅で生きていた。公儀の討ち手が迫る。


「飛べ、佐五郎」

佐五郎は、あることで人を斬り国を出た。国から仇討の追手が来るのは必定で江戸、大坂、京と点々と逃げたが、気の休まることはなかった。あるとき、その斬った事情に同情を寄せる藩士とばったり出会う。彼はその討ち手が明日をもしれない重い病に伏せっているという。そしてその討ち手が死ぬ。佐五郎は今までのうっ積から解放されそれまで世話になった女に、別れを告げる。その女は、冗談じゃないと寝ている佐五郎に出刃包丁で斬りかかった。

佐五郎は薄れいく意識の中で叫んだ

「なんでやねん」


「山桜」

最近読んだ藤沢氏の短編で一番強く心にしみる一篇だった。

読みおわったとき不覚にも落涙してしまった。

 


亭主に先立たれ若く後家になった浦井野江(この名前もイイなぁ)は人の世話で再嫁した。だがその嫁ぎ先は、舅姑が裏でで金貸しをしているような家でその舅の借金の取り立てをかいま見た野江はそのえげつなさに恐怖と強い嫌悪をおぼえた。それに加えて家族のみならず亭主までからも出戻りとさげすまれつらい日々を送っていた。そんなおり、叔母の墓参りに行った帰りにそのまままっすぐ家に帰るのもつらく遠回りすると思いがけず大きな桜の木に出会った。ひと枝欲しくなった野江は手をさしのべたがわずかに手がとどかなかった。野江はそうして桜に心をうばわれている間にこのまま帰らなくて済んだらと思った。そのとき不意に男の声がした。


「手折って進ぜよう」

その男は長身の武士だった。渡された花を胸に抱いたとき、その武士は言った。

「野江どのですね。お忘れだろうが手塚弥一郎でござる」

手塚は野江が突然寡婦になったとき再婚相手として名のあがったことのある男であった。一刀流の剣の使い手でもあったが母一人子一人という境遇がきらわれ再婚候補から除かれたいきさつがあった。ただ弥一郎は、野江のことをよく知っていた。道場の前を通っていた野江をよく見ておりあこがれの人であった。

そんなことがあってしばらくして城中で弥一郎が上司を刺殺する事件がおこった。その上司というのは藩政上の大きな癌であり藩内のだれもが弥一郎のやったことに陰ながら称賛をおくったが上司刺殺は大罪であった。そんな弥一郎を野江の亭主は小ばかにしたようなことを野江に言った。野江は今までこころの中に澱のようにたまっていたものが爆発した。野江は、その家を去った。

弥一郎には当然切腹の沙汰がくだされると思われたが、藩内に大きな同情があり藩主の帰国を待って裁断を仰ぐこととなった。

季節は変わり、また桜のころとなり野江は弥一郎と出会った桜の下にたたずんでいた。そして去年の今頃はと野江は胸がしめつけられるようであった。そしてふと思いついたとき野江の足は弥一郎の家に向かっていた。出迎えたのは40半ばの柔和な顔をした女だった。

 


―「お聞きおよびではないかとも思いますが、浦井の娘で、野江と申します」

「浦井さまの、野江さん?」

女はじっと野江を見つめたが、その顔にゆっくりと微笑がうかんだ。

「あなたがそうですか。野江さん、あなたのことは弥一郎から、しじゅう聞いておりました。弥一郎は、あなたがあのような家に再嫁されたのを、たいそう怒っていましたよ。あなたに対しても、あなたのご両親に対しても・・・」

「・・・」

「でも私は、いつかあなたが、こうしてこの家を訪ねてみえるのではないかと、心待ちにしておりました。さあ、どうぞお上がりください」

履物を脱ぎかけて、野江は不意に式台に手をかけると土間にうずくまった。ほとばしるように、眼から涙があふれ落ちるのを感じる。とり返しのつかない回り道をしたことが、はっきりとわかっていた。ここが私の来る家だったのだ。

野江さん、どうぞこちらへ、と奥で弥一郎の母が言っていた。

「あのことがあってから、たずねて来るひとが一人もいなくなりました。さびしゅうございました。ひとがたずねて来たのは、野江さん、あなたがはじめてですよ」―

 


「盗み喰い」

職人仲間で労咳もちの助次郎をなにかと面倒を見てやる優しい男征太。あるとき仕事で手が離せずに付き合っていた女を助次郎の世話に行かせる。だがその女は助次郎とできてしまった。

助次郎は叫んだ。

「なんでやねん」

 


「滴る汗」

城下で手堅く商売をしている宇兵衛は、実は代々の公儀隠密であった。ある日仕事のことで城に上がった宇兵衛は、公儀隠密の正体がわかったと告げられた。てっきり自分のことだと思った宇兵衛はそのことを知るやめた使用人を殺してしまう。だが正体がばれたのは宇兵衛ではなかった。

 


「幼い声」 

幼なじみの女が人を傷つけて牢屋に入れられた。何かと牢にも差し入れをして面倒を見てやったが、出牢したその幼なじみの女は礼も言わずに立ち去った。

 


「夜の道」

おすぎはもらいっ子だった。というより記憶にないが迷い子で実の両親のことは何も知らない。3歳の時に道で拾われた子だった。

 ある日母親だと名乗る女があらわれる。が、おすぎには全く記憶がなかった。上品で大店の奥さんだというその女はおすぎの顔立ちから確信しているようだがおすぎの記憶が何かもどるまで気長に待つという。

何年かが過ぎおすぎは、職人と結婚し子供をもうけるがあるときその亭主と大喧嘩して家を飛び出してしまう。そのとき追いかけてきた娘をふり返ったときおすぎは目の前がはじけるようにそのときのことが浮かんだ。自分も泣きながら母を追いかけたときのことを・・・

 


最後で何かつじつまが合わないところがあるが面白い作品だった。

 


「おばさん」

亭主を亡くしてさびしい日々を送っていた女がある夜、一人の若者を救う。世話をしてやるうちに親子ほども違うその男と深い中になる。幸せが戻ってきたその女は昔のように生き生きと楽しい日々が戻ってきた。だがそれは長くは続かなかった。長屋に出戻りの娘が帰ってきた。その娘は、その女に比べようもないほどの若いからだと美貌を持っていた。おばさんは捨てられた。

おばさんは叫んだ。

「なんでやねん」

 


「亭主の仲間」

読後感のものすごく悪い作品。

亭主が気のいい仲間だと男を連れてくる。亭主の言うとおりさわやかないい青年だったが次に来た時に「金を貸してくれ」といわれる。少したくわえがあって貸したのが運のつき。一分という大金だったが、その男は返すどころか何度も無心に来るようになる。それにましてその男は凶暴な内面を秘めていた。

 


「おさんが呼ぶ」

おさんは紙問屋の下働きである。幼いころ母が男を作って逃げ、父親もほどなく死んだ。そんな不幸があって以来おさんは物いわぬ子になった。

ある日紙漉き村から兼七という男が紙を売り込みに来た。何かとやさしくしてくれた兼七の持ってきた紙は上質であったにもかかわらず店で扱ってもらえなくなった。それには裏で手代と競争相手の男がグルになって兼七を陥れたためであった。傷心の兼七が去る朝おさんは叫んだ。

「兼七さん待ってください」

おさんはその彼らのたくらみを偶然に聞いていたのだ。おさんは自分が聞いたことをしゃべれば兼七を救ってやれると思った。

 


「時雨みち」

新右衛門は、丁稚から身を起こし今は大店の旦那におさまっている。先代に見込まれて婿養子に入りその才能を生かして店も一層大きくしていた。もうすぐ隠居の身となる新右衛門だったが彼には婿養子に入る前に捨てた女がいた。あるときその女が、岡場所で埋もれていると聞いた。尋ねあててその女に会った。その時のわびにと大金を渡そうとしたが女は投げ返した。女は新右衛門に捨てられたあと大きな辛酸をなめて生きてきていた。二度と来るなといわれたが翌日またたずねたが女はその日の朝、行方をくらませていた。

新右衛門は

「なんでやねん」とは思わなかった。

藤沢周平「花のあと」。

夜中から読みだして明け方に読み終えた。

愈々残りの未読の藤沢作品も少なくなってきた。数えてみるとこの文春文庫であと12作ほどか。意外と思ったよりあった。まだまだ楽しめそうである。それにしても藤沢作品の自然描写ははてしなく美しい。そしてこれだけ何作読んでも同じ表現がふたつとして全くない。見事である。


「鬼ごっこ」

昔、盗賊をして金をためた吉兵衛は、今は足を洗い手堅く商売をしている。惚れた女も岡場所から見受けし囲ってやりそれなりに平和な暮らしをしていた。そんな時その女が殺される。執念で探したその犯人は、昔の顔見知りだった。その犯人を成敗する。


「雪間草」

尼僧松仙は、出家前おまつといいある男と婚約寸前に、殿様にみそめられてしまう。そのあとそのバカ殿は、正室をもらいおまつはお役御免となった。その際バカ殿の命で、ほかの男の伽を命ぜられた。出家したおまつにその婚約した男がバカ殿の勘気にふれ切腹の申し渡されると知らせがあった。おまつはその男の救済に江戸までそのバカ殿に直談判に出向く。


「寒い灯」

姑にいびられて家を出たおせんにその亭主がその姑が病にふせっているから世話をしにきてほしいと頼まれる。ばかばかしいと断るが、去り状をもらうために行くことにした。久しぶりに会う姑は、拝むばかりに感謝するが、もどる気はまったくなかった。そんな時おせんにいいよっていた男が、女衒だと知る。おせんは元の暮らしにもどるものマァいいかと思う。


「疑惑」

蝋燭屋に押し込み強盗が入る。だがその強盗は顔を見られており時をおかずに捕まる。下手人は勘当された養子の男だった。ただその男は、その家の女将によばれていったが殺しはしていないという。藤沢周平作品に時々見られる推理物だが、全く駄作である。その男は、殺しについては頑として口を割らないが、なぜか女将によばれたことは言わない。言えばすぐに解決するのにと思うが・・・


「旅の誘い」

これも時々登場する広重と北斎の話。全く面白くない駄作。


「冬の日」

冬の寒い日、清次郎は寒さにふるえて通りすがりの居酒屋に転がり込んだ。その店は、女二人でやっていて寒々としていたが旨い酒を飲ませた。その若い方の女がじろじろと清次郎を見ていた。清次郎には覚えのない顔であったが、何日かあとにふと思い出した。昔小さいころ遊んでいた大店の娘おいしだった。その家から清次郎の母は、仕事をもらって二人食いつないでいた。今は仕事もうまくいき近々店を出すまでになった清次郎はおいしのあまりの落ちぶれように少しでもたすけになればとおいしの家をさがしあてたがおいしはひものような男と住んでいた。そしてその男はおいしを目の前で殴った。清次郎は主筋にあたるおいしをなぐるその男が許せなかった。半殺しにして放り出した。何日かたったあとおいしが訪ねてきた。清次郎はおいしに一緒に店を手伝ってくれないかといった。


「悪癖」

三十五石扶持の男は、そろばんでは右に出るものがいなかったがそんな安給料にはわけがあった。彼には酔うと人のほっぺたをなめるという奇癖があった。

この話は、以前に絶対に読んだことあがる。本棚にある藤沢本を何度か調べたし、感想文も読み直したがいまだに出てこない。どこで読んだのだろう????

「花のあと」
 祖母以登が孫に昔を語る一人称と、三人称の組み合わせで構成されているユニークな作品。
 祖母には思い人がいた。その男江口は蕃下でも指折りの剣の使い手であった。以登も女剣士としてその名が蕃下にとどろいていたが立ち合うと江口には子ども扱いされた。江口はほどなく身分違いの家に婿に入ったが以登はその相手を聞いて驚いた。以登の仲間の身持ちの悪い女で倍ほど離れた妻子持ちの男と付き合っていた。数年後以登は、江口が自裁したと聞いた。江口は仕事上の失策で藩に迷惑をかけたことで腹を切ったのである。だがそれはある男の陰謀が絡んでいた。その男は江口の妻の例の浮気相手であった。以登は、その男をよびだし成敗する。

-水面にかぶさるようにのびているたっぷりした花に、傾いた日射しがさしかけている。その花を、水面に砕ける反射光が裏側からも照らしているので、花は光の渦にもまれるように、まぶしく照りかがやいていた。

-おだやかな早春の日射しが、左手につづく雑木の丘と麓の鳳光院の木立と屋根、右手遠くにのびる城下の家々を照らしている。雪は消えたばかりで、丘の中腹や、麓の湿地あたりには、まだ黒ずみよごれた残雪が見え、その雪どけの水をあつめてややにごっている川水が、音を立てて流れくだっていた。
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・知悉(ちしつ):よく知ること。
・たばさむ:小脇に抱えること。
・卒爾(そつじ)ながら:突然で失礼ですが。卒爾(にわかなさま、軽率なさま)
・烏滸(おこ):おろかなこと、ばか、たわけ。

司馬遼太郎「豊臣家の人々」。

学生時代の夏休み大丸でアルバイトしていたときにその得たお金で買った本。当時のアルバイト料は一日働いて9百何10円也。自前でお昼を食べるとなんのこっちゃ分からんことだったが配属された外商の上司がよくおごってくれた。その夏のアルバイトが終わった時に店内の本屋で選んだ本の中の一冊。何十冊買って支払いの合計は7千数百円だった。爾来数十年、いつのころからか大の秀吉嫌いになっていたので手にとる気もなく長い間書棚の奥にほこりをかぶり色は黄ばみ埋もれていたが今回書棚を新調して本を整理していてなんとなく読む気になった作品の一つ。

流石に司馬さんの作品は面白い。これが刊行されたのが昭和42年で当時の資料を基に描かれているので最新の研究では陳腐となっている場面もあるがやはり膨大な資料に基づいて練り上げられた司馬作品は目の前で歴史を語られるようである。
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 この作品は秀吉にまつわる9人の物語(実際には10人)からなる。秀吉嫌いといってもおおよその歴史に登場するこれらの人物はそれなりに知っていたが、この中で興味深かったのは、結城秀康と、これは全く知らなかった人物八条宮である。 


第一話 「殺生関白」

戦国のころ大高村に手足のほそい農夫がいた。弥助といった。嫁をもらうことになった。相手はおもとといった。醜女(しこめ)であった。ただこれがのちに瑞竜院日秀という日本にかくれもない貴婦人になろうとは弥助は夢にも思わなかった。その嫁の実弟がのちの秀吉である。その二人の子がのちの関白秀次である。要するに秀次は何の才能も努力もせずにその縁というだけで人民の最高権威者である「関白」になった。秀吉にはどいつもこいつも阿呆な縁者ばかりだが特にきわめて愚かなのがこの秀次である。彼はいくつか戦いでその愚鈍さをいかんなく発揮して多くの将兵を無駄死にさせたが子のない秀吉の後継者として血縁だけで関白の栄華に上った。だが秀吉に子が生まれると今までの咎を集中して浴びることになり自刃した。そのあと秀吉が行った秀次一族の粛清は凄惨を極め、京の人々は秀吉に狂気を見たことであろう。このころから秀吉は常軌を逸した政治をするようになっていく。


 第二話 「金吾中納言」

寧々の弟の子である。秀次とともに阿保を絵にかいたような男である。秀吉と秀吉をしのぐ器量であるといわれた寧々の二人は裁量豊かな資質に恵まれたにもかかわらずその係累にはずば抜けた愚か者がほとんどである。

この男の存在が関ケ原の趨勢を変え豊臣の天下を滅ぼし徳川政権を作ったともいえる。 


第三話 「宇喜多秀家」
 そのほとんどが利に聡い大名であふれていた戦国時代、この男は最後まで義に生きた。大好きな武将の一人である。

父は、宇喜多直家で親殺し、兄弟殺しと何でありだった戦国時代でもぬきんでて謀略家と名高い。そのえげつなさは実の弟でさえ兄である直家の前に出るときはその装束の下に帷子を隠し着ていたという。秀家はそんな父の3番目の妻の子として生まれた。直家の居城は今の岡山にあって毛利と織田の二大勢力に挟まれていた。直家は最初毛利方についたがのちに信長に臣下した。その当時大大名だった毛利を捨て急速に拡大しつつあった新興勢力の信長についた見切りの良さはやはりただものではない。その時に人質として送られたのが秀家である。秀家8歳の時だったといわれる。秀家は、信長の家臣として姫路城にいた秀吉に預けられた。その時に仲介したのが領内出身の堺の商人小西寿徳・弥九郎親子である。後年、弥九郎(のちの小西行長)と秀家は関ケ原で手をたずさえ戦うことになるとは自身も思いもしなかったことであろう。 


秀家は、母親譲りの眉目秀麗な童でおまけに頭もよく秀吉は、血縁の、秀次、秀秋を差し置いて可愛がったという。


天正9年直家が病につき明日をも知れぬとなった。直家から一目秀家に会いたい。そして秀吉に秀家の行く末を頼み入りたいと伝えが来た。秀吉は承知して信長に秀家を岡山城に直家を見舞うことを願い出た。当時の通例として一時的にせよ人質を国に帰すなんてことはありえないことだった。しかも秀吉はそれに付き添おうとしたのである。勿論家臣たちはかつて謀略家として恐れられていた直家に人質と共に見舞うのは論外危険すぎると猛反対した。その病自体が詐病である可能性もあった。だが秀吉は強行した。このあたりが秀吉の豪胆そして情にもろい最大の長所である。そして直家の病床で対面した秀吉は秀家の前で織田臣下の大名にととまらず日本一の大名に育て上げると直家の手をとり誓った。直家は感動のあまり泣き叫び秀吉も泣き、そばの秀家も声を忍んで泣いた。そして翌日当時八郎といった秀家を直家の病床の前で元服させ自身の諱(いみな)を与え秀家と名づけた。


その後秀吉は秀家をますますかわいがり、猶子としそして直家没後は養子とした。秀頼が生まれたあとも、同じ養子とした秀次、秀秋が秀頼誕生後、死罪、他家への養子として大坂城を出されたあとも秀吉は秀家を手元に置いた。秀家が血縁でなく豊臣家の継承者となれないことも大きな要因であったろうが秀吉の秀家にそそぐ愛情は親子以上であったといわれる。また秀家の母於ふくは世に聞こえた美貌の女性だった。秀吉は、その時に多くの側室がいたが、この於ふくは流石に側室にはしなかったが寵愛した。病気ともいえる女好き秀吉の面目躍如といったところである。 


そして秀吉は、重臣前田利家の娘豪姫を秀家に娶らせた。豪姫は、秀吉の側室となった麻阿の妹である。 

秀吉の没後は、五奉行のひとりとして若輩ながらその末席につき豊臣政権の一画を担った。 


関ケ原の戦いが勃発する前に宇喜多家中で事件が勃発した。秀吉の側近中の側近として長く使えてきた秀家は自身の国元の政務は家臣に任せっきりであった。その点秀家は豊臣の重臣としては教育を受けてきたが国主という支配能力は持ち合わせていなかったのかもしれない。家老の間で派閥争いがおこりそれが二分したときに自身では処理しきれず懇意の大谷吉継と五大老の筆頭家康に調停を依頼した。家康は家臣の榊原康政をその任に当たらせた。ここからが家康の本領発揮である。宇喜多は秀吉亡き後の最大勢力であった。家康はこの騒動を常人ではまねのできない遠望策略で処理した。即ち、康政には、わざと怒らせてこの一件を投げ出させ、収集つかなくなった時点で調停に乗り出した。そして秀家に反旗を翻した勢力を追放した。藩主に逆らった場合は切腹の重罪が常であったがそうはしなかった。しかも追放した勢力を陰で庇護した。彼らは感激してのちの関ケ原で東軍についた。

この騒動が終わったあと秀家に残った勢力は、その7割に減少していた。結果的にのちの関ケ原の戦いでの勢力図がここで大きく変わったのである。家康の底知れぬ先見の明を感じるところである。 


そして関ケ原の戦い。

多くの豊臣恩顧の大名が東軍に寝返る中、秀家だけは秀吉の遺言をまもり石田三成、大谷刑部、小西行長とともに西軍の要として東軍家康と戦った。何日にも及ぶとみられたこの戦いはわずか数時間で決着がつき多くの西軍の大名が討ちとられる中、秀家は脱出し九州の島津家まで逃げた。島津家が家康に降伏したあと秀家はとらえられ駿府に送られたが、前田利家の婿であるとの利家の必死の助命嘆願に家康は死罪を免じて八丈に流した。

流刑地で「死ぬまでに一度米を食べたい」と嘆いていたということを聞いた東軍につき徳川の世で栄えていた旧臣から数俵の米が送られてきたという。

秀家は、そこで40年生き延び84歳の天寿を全うした。その時には、秀頼、家康、そしてかつての五奉行、五大老はすべてこの世になく、この流人が誰よりもながく生きた。


 ・秀家の父は謀略家の直家である。直家については小説「宇喜多の捨て嫁」でも描かれているがこの何でもありだった戦国時代でさええげつない男である。直家が織田家に臣下をとるときに尽力したのが堺の町人小西寿徳で、その子弥九郎の才を見込んで秀吉が取り立てたのが小西行長である。


 第四話 「北ノ政所」

寧々、またはおねである。

 第五話 「大和大納言」
唯一、秀吉の係累でまともであったといわれる秀長。幼名を小竹といい。のち小一郎。秀吉の異父同腹の弟である。51歳居城の郡山で亡くなった。葬儀には彼の徳政を偲び20万人の領民が集まったという。彼が生きていればその後の豊臣の世も大きく変わっていたことであろう。1591年秀吉54歳の2月のことであった。

第六話 「駿河御前」
 秀吉の異父同腹の妹秀長の実妹。政略結婚のため夫と離縁させられ家康の正室として岡崎に下った。その夫は、恥辱をえて世に顔向けできないと自裁したといわれる。(諸説あり)

駿府京を何度か行き来し天正18年(1590年)の正月14日聚楽第で死去した。48歳。家康に嫁いでわずか3年後のことであった。


第七話 「結城秀康」
 家康の次男。長男は信長によって切腹させられているので世が世なら家康のあとを継いで将軍になっていた男である。だが歴史は秀康にそうはさせずにず数奇な運命をたどらせる。

生母は、家康が気まぐれに手を付けた身分の低い女だった。名をおまんといい岡崎城下の田舎神主の娘だった。おまんは一度の家康の気まぐれで子を孕んでしまった。おまんは誰にもいえずひた隠しにしていたがその腹が目立つようになったころまだ健在だった築山殿に知れてしまった。そのころ家康にはたった一人の男子しかいなかった。嫡男信康である。その腹の子の存在を恐れた築山殿はおまんを折檻し庭につるした。ただそのことが時をおかずして家康の家臣に知れた。そしておまんは助けられ男子を生んだ。天正2年のことであった。この作中では双子で一人は死産だったとあるが殺されたとの説もある。こうして後の秀康は何とかこの世に生を受けたが、その父家康はその子に一片の愛情も示さなかったという。家臣が見かねて名前だけでもと家康に乞うたがしぶしぶ付けた幼名は、徳川家伝来の「竹千代」ではなくて「於義伊」(顔が醜く、魚のギギに似ていたためといわれる)であった。だがその子にもその母おまんにも一目も会おうとしなかった。家康の人格の一片を垣間見ることができる史実である。そして於義伊、於義丸ともよばれたこの子が3歳になったころ初めて家康と対面することとなった。その段取りをつけたのは、嫡男の信康であった。家康はそのころ浜松城を居城としていて、於義丸はその城主である信康とともに岡崎城にいた。その対面で初めて徳川家の次男としての地位を得たが、よくかわいがってくれた信康はわずかその数年後生母築山殿とともに自害させられた。天正7915日信康21歳であったという。

 私見だがこの信康が、信長の命によって切腹させられたという史実には大いに疑問を持っている。寵愛したという嫡男をいくら家の存続にかかわるからといって、家の存続のために自害せしめるであろうか?またその後も信長の同盟者としてその生涯、本能寺の変まで律儀に誠実にその天下取りに忠犬のように貢献している。

余談だがその律義さは大名の間でもだれも疑うことなく称賛されていた。だからこそ秀吉もその亡きあと家康を第一に頼り、秀頼の行く末をまた豊臣政権の後見を託したのである。まさかその律義な家康が秀頼を殺し、豊臣家を滅ぼすことになろうとは夢にも思っていなかったことであろう。家康の信長に対する誠実さ、律義さに比べで、秀吉に対する執拗なまでもの憎しみ、残酷さの(大坂城は埋め尽くし、秀吉の廟まで徹底的に破壊しこの世から消し去った)はどう見ても異常であると思う。



余談の余談だが、この戦国時代で同様に自分のなかで理解しがたい事件が3点ある。というかった。

一つはこの家康が、本当に信長の命だけで嫡男信康の切腹を命じたのか?

二つ目は、秀頼が本当に秀吉の子か?秀吉は150㎝そこそこの小男であったにもかかわらず秀頼は59寸の180㎝近い大男だったということ、20数人いたという色きちがい秀吉の側室がだれも懐妊しないのに淀殿だけが二度も懐妊したことは大いに不思議である。ただ淀殿の父すなわち浅井長政は、巨漢であったといい、一部納得できることでもあるが。


 3
っつ目は、細かいことだが三成が伏見城で清正、正則、長政に襲撃を受けたとき家康の館に逃げ込んだというのだが、ホントに自分ならそうするであろうかと疑問に思っていた。だがこれはごく最近光秀は家康に助けを求めたのではなくて自分の懇意の屋敷に逃げ込んだことが判明した。

これで大小3の疑問のうち二つが自分の中で解決したが、さてあとの二つは史実として確定されるのであろうか?

話を元に戻そう、家康はこのころ稚(おさな)い寡婦を愛していた。お愛はまだ18歳であったが信康が死ぬ1カ月前の8月に男子を生んでいた。家康はこの子に徳川家代々の幼名である竹千代と名づけた。5歳年上の於義丸は完全に無視されることになったのである。そして翌年お愛はまた男子を生んだ。その子は於次丸(おつぎまる)と名づけられた。於義丸は徳川家の本線から完全に外されたのである。

時は経ち、於義丸の運命が変わる事件が起こった。本能寺の変である。これを境に家康と秀吉の衝突が起こりそして和議がなった。その時に家康に人質として秀吉に出されたのが於義丸であった。於義丸は11歳になっていた。於義丸の数奇な人生が始まる。於義丸は秀吉に秀康と名づけ養子となった。この時代両雄の諱(いみな)一字ずつ合わせたこれほど大きな名前はないことだった。

秀康は、そのあと秀吉の庇護のもと大坂城ですくすくと育った。秀康は秀吉の他の養子、秀秋、秀次の愚昧さにくらべ一段器量がいいように思えた。そんなおり秀吉に鶴松が生まれた。秀吉は継嗣ができたために多くの養子が必要でなくなり秀秋は小早川へ、秀康は北関東の名門結城家へ養子に出した。ただ秀康は養子に出されたあと上方に帰り伏見を離れなかった。そして秀頼が生まれると秀康は秀頼を実の弟のように可愛がった。数年のち秀吉が死んだ。慶長3818日、秀康28歳のときであった。

秀吉の死によりまた日本全体が戦乱の世にもどろうとしていた。そしてその死からわずか2年後、慶長59月関ケ原の天下分け目の大戦(おおいくさ)が始まった。

家康は、秀忠に徳川第二の軍勢を任せて中仙道を進軍させたが、秀康には上杉の対抗として江戸の(正確には宇都宮城)の留守居を任せた。そして家康はこの戦に勝ち天下をとったが、留守居の秀康には当然何の戦功もなかった。そして家康は、関ケ原に遅参した秀忠をそれほど咎めるでもなくさっさと引退し秀忠に将軍職を譲り、秀康には北国越前北の庄を与えた。秀康は石高は75万石の大身となったが、冬季は雪で京には出られない地であった。そして京との間の長浜には譜代の内藤氏を置きまもらせた。もし秀頼がことを起こせば義兄の秀康が連携するのを恐れたためである。それほど家康は、秀康を恐れていた。だが大坂の陣が勃発する前、慶長12年秀康はその地で死んだ。よわい34歳であった。信康亡き後、徳川家の第一長子でありながらただただなかったもののように扱われ、生涯華々しい表に出ることがなかった秀康。最後彼は息をひきとるととき、俺の一生は何やんやったんやろなぁ・・・とつぶやいたという・・・シランケド・・・


 第八話 「八条宮」
 ただしくは、八条宮智仁親王といい同腹の兄はのちの後陽成天皇であった。

その八条宮を秀吉は養子にくれという。仲立ちをしたのは今出川晴季。彼は秀吉の接待で腑抜けに調略させられていた。八条宮は今生天皇の次男、皇位継承順位第3番目であった。もし兄に何かあれば天皇になる身分である。だが多くの反対を押し切って八条宮は秀吉の猶子となった。猶子と養子とは大きく違わないが、養子は多くはその家に住むことが多いが猶子は居を異にして住むといったぐらいの差であろう。

天正18年、宮は元服し智仁となった。14歳であった。その年の前年秀吉に実子鶴松が生まれた。このとき天皇となっていた後陽成天皇は実子がなく、宮を宮廷にもどすべきとの意見が出てそのようになった。秀吉は、宮を戻すにあたって領地3千石と屋敷独立の宮を創設し宮を送り出した。それが八条宮である。

天正19年秀吉に不幸が続いた。正月秀長が死に、8月に鶴松が死んだ。11月に甥の秀次を養子として、その翌月関白職をこの養子にゆずった。この後朝鮮の役がはじまったが秀吉はこのころから急激に耄碌していった。

秀吉が死に、家康の天下となった。秀吉ひいきであった後陽成天皇は、秀吉の死後わずか3年でおこったこの政変を嘆き、その地位を八条宮にゆずろうとした。当然徳川からは元秀吉の猶子であった宮が天皇になるということは絶対受け入れられないことであった。その後10年、後陽成天皇は帝位をたもちやがて位を皇嗣にゆずられた。後水尾天皇である。家康はその後大坂の陣で秀頼を殺しその係累までもすべて抹殺し豊臣家を滅ぼし、且つ阿弥陀ヶ峰にあった秀吉の廟所までもことごとく破壊しその神号「豊臣大明神」も消し去った。さらに家康は宮廷に対しては公家御法度を定めその活動を御所内にとじこめた。八条宮は、そんな徳川の世に嫌気がさし京をはなれ桂川のほとりに隠棲した。のちの桂離宮である。その建築には宮自身が携わったといわれ、その建築に対する造形の深さには建築好きの秀吉の大きな影響があったといわれる。

宮は、3代将軍家光の代まで生きたが家光によって造営されつつあった日光東照宮の徳の美意識と桂御所におけるそれとが美意識の対極のようにのちの人々に語られることになった。
 
 第九話 「淀殿・その子」
 

・秀吉の父は、弥右衛門、母はお仲。お仲は、長女
(もと)と長男(秀吉)をもうけたあと他界した。お仲は隣家に引っ越してきた男と再婚するがそれが竹阿弥で、一男一女をもうけた。小竹のちの小一郎秀長、旭姫である世の常として秀吉はこの継父竹阿弥を嫌い出奔した。そのあとこの竹阿弥は秀吉が出世する前に死んだ。


 
・お仲が寧々と初めて会ったのは秀吉が墨俣の砦を築いたときである。このときお仲は寧々の義弟の浅野長政とも対面した。

 
・金貨を正規の流通貨幣としてこの国で初めて採用したのは、秀吉である。

・犬馬の労をとる:他人のために力を尽くして働くことと謙遜していうこと。

・秀吉は、源氏の姓を得ようとして安芸に流寓していた義昭に乞うてその養子になろうとしたが義昭はその血筋が卑賎の血で汚れるのを嫌い承知しなかった。それをすくったのが公家の今出川晴季である。彼は秀吉を近衛家の養子にして藤原秀吉とし秀吉は晴れてめでたく関白となった。しかし当今の正親町(おおぎまち)帝は、流石にこの茶番に難色を示しわずか3か月後藤原籍を抜き新設の豊臣を秀吉に与えた。秀吉がいかにその出自にコンプレックスを抱き、その払拭に拘泥したかがわかる。

・勝家は、お市を娶る前に正室を失くしていた。

・羽掻い(はがい):もしくは羽交。羽の間。転じて包み抱くこと。

・春秋の筆法をもちいれば:厳しくいえば。間接の原因を直接の原因であるようにいう論法。

・秀吉のころと違い、秀頼のころには今日の市民は圧倒的に家康よりも秀頼びいきであった。

・大坂冬の陣で家康が大坂城を包囲したとき、城中では淀殿とそのとりまきの指図がはなはだしくこもった武士たちはいたくその戦意を消失していたという。

・日本戦史のうえで大阪夏の陣ほどのおびただしい戦死者をだした戦いはなかった。大坂城に参集した傭兵とよばれる
漢たちはそれほどにめざましい働きをしたのである。このとき秀頼が城を出てその姿を見せれば戦いは勝てないまでも万に一つの勝算が出たかもしれない。秀頼を一切表に出さなかった淀殿は、さらに落城時、本丸と共に城主は果てる戦国の例を破り本丸が焼け落ちたあともとりまき20数人と蔵に逃げ込み、かつ家康に自身と秀頼の助命を乞うたが家康に一蹴され遂に明朝蔵に火を放ち果てた。

藤沢周平「闇の穴」。

 珍しいことに自宅ではこのところ並行読みせずに「織田信長」一点だけを読んでいた。それを名残惜しく読み終えて、しばらくぶりに藤沢作品を読もうとこれを読み始めるとなんか以前読んだ気がして、読み進めていくと確かに読んだことがある。この本は7編からなっているがおかしいなと思いつつほかの作品の冒頭を読んでいくとなんとすべて読んだことがある。ついにぼけたかとベッドを抜けだして本棚まで確かめに行くと同じ本はなかった。    
 どうも織田信長を読む前にこの本を読み切っていたらしい。マァ大ボケではなかろうが、小ボケの域にはじゅうぶん達していると思う。ただ救いは自分でも驚くことだがこの作品7編の大筋はすべて記憶に残っていた。
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「木綿触れ」
 上司の理不尽で女房を手籠めにされた男がその上司に復讐する。
「小川の辺」
 嫁いだ妹の亭主が理不尽な上司を斬ってしまう。妹は亭主と一緒に脱藩するが討ち手にえらばれたのは兄だった。
「闇の穴」
 表題になっているが訳のわからん話。この7編の中で一番不出来だと思うが・・・
「閉ざされた口」
 小さな子供が殺人現場を目撃していまう。ただその子はあまりの恐怖に口がきけなくなってしまう。だがある時にその下手人と会ってしまう。その男は近所でも評判いい大店の主人だった。
「狂気」
 これも近所で悪く言う人がいない大店の主人だったが、その男には、少女をいたぶるという性癖が潜んでいた。
「荒れ野」
 若い僧は、その師の僧の妾に手を出してしまった。逆鱗に触れ僻地に飛ばされる途中に山中で道に迷ったその僧は、若い女に一宿の世話になる。が・・・その女は山姥だった。
「夜が軋む」
 木地師と一緒になったその女は、山深い山中で暮らすことになった。冬になると雪に埋もれ村里とは一切の行き来が遮断されてしまう。少ない村人との交流もほとんどなかった。そんな中唯一近所の猟師の男は何かと面倒を見てくれた。ある雪の夜その猟師は亭主が麓に降りて一人寝の女の家の前で凍死する。だがその体には大きな傷が無数にあった。そしてその後、同じように雪の夜、亭主が家の前で凍死してしまう。
 藤沢作品では珍しく(初めてである)一人称で、酒場の女が閨で行きずりの男に語る構成になっている。ユニークな作品だった。

 藤沢短編作品は、読んだばかりなのにすっかり忘れていることも多い。この7編はなぜかほとんど全部思えている。何でだろう。。。だがいつ読んだか忘れている。なんでやろ。。。。

山岡荘八「織田信長」〔5〕。

 織田信長〔5〕読み終えてしまった。これで信長の生涯を描いた作品は今はもうないと思う。新資料に基づいた作品が待たれる。

この作品は、1987年に初刊されているだけに今判明している事実とはかなり違う部分が多々ある。最後はお濃とともに本能寺で果てるところで物語は終わるが、お濃については「信長公記」にもその記述がほとんどない。今の研究ではお濃は嫁いでからほどなく実家に戻されそこで生涯を閉じたとされている。お濃にかぎらず当時の女性の記録は驚くほど少ない。

 この5巻全編ににわたりお濃が信長の生涯に深くかかわりその政策にも大きく関与しているとの流れは小説としては面白いが読んでいて違和感がある。物語の流れも信長にかかわる大きな戦、事件も淡々と記述していくだけで「信長公記」をただただ追っているだけのように思える。もう少し深く史実を掘り下げて描いてほしいかなというフラストレーションの中で読み終えた。

ただそれでも信長の波乱万丈の生きざまはとてつもなく面白い。


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・信長政治
一、火事の儀、付火たるについては、その亭主を罰すべからず、されど自ら火を失したる場合は究明を遂げ、その身は追放せられるべし。ただし、事の体により軽重すべきこと。
一、咎人の儀(罪を犯せし者)、借家、ならびに同じ家にありといえども、亭主その仔細を知らず、口入に及ばざるは罰すべからず。過ちを犯すの輩にいたりては、糾明をとげ罪科に処すべきこと。
一、諸色買物の儀は、たとえ盗品なりといえども、買主これを知らざる場合は罰すべからず。ただし盗賊人をひきつけおくにおいては古法にまかせ、盗品はこれを返すべきこと。
一、分国中、それぞれ徴税はこれを行うも、当所安土においては免除のこと。

 これは信長が安土に城を築きそして町を作るにあたって安土城下に出したいわば施政方針である。 これを町建設当初から徹底させた。これらに関して信長の鋭い政治感覚が読み取れる。
 特にこの中で注目するのは、普通はまず罰する禁止事項から書くのだが、信長のこれは罰すべからざると罰する除外事項から書いている。信長の市民支配に対する巧みさがうかがわれる。
 一方信長はその支配下の兵に対しては厳しい軍規律をしいた。それはたとえ一銭でも盗んだものには斬首の刑に処し、支配した領民に対しては狼藉、窃盗、婦女に対する暴行一切を禁じた等々である。
 信長は、その天才的な軍事的才能とともに、政治感覚も当時の武将からは並外れていた。またその経済に対する鋭さも天才的なものであった。ホントすごい奴である。
 
 ただそんな信長も、その天下への階段を上りつめていくのにつれ周りに彼を諫める人物が全く皆無になりその精神は少なからず病んでいったと思う。そこで彼の横暴さに爆発したのが光秀である。本能寺の変はそんなことで勃発したがそれが起こる確率は、ほぼ0%に近かったにもかかわらずその事件はまことに残念ながら起こりそして成功してしまった。

 もしこの事件が起こっていなかったらの以後の日本史はどうなっていたかと思う。だけで楽しい。。。世界の歴史はたった一人の人間で大きく変わるのもである。

・半跏趺座(はんかふざ)

津本陽「夢のまた夢」第一巻。

 1996年6月に刊行された作品。
 書棚を買って本の整理をしていてうずもれた本の中から出てきた未読の一冊。当然なぜ買ったかは覚えていない。
 してなぜ秀吉嫌いなのに買ったのだろう・・・
 にしても文字が小さい。こんな小さな活字でよく売っていたものだ。

 秀吉が備中高松城を包囲している陣中に、信長横死の知らせが入るところから物語は始まる。
 そこから大返しをして光秀を討ち、信長の後継者として織田家臣団の中から頭一つ抜け出す。そして柴田勝家を滅ぼした賤ヶ岳の戦いを経て愈々その地位を確かなものにしていく。このあたりの狡猾さは読んでいても不愉快なものでまたその病気ともいえる好色さは異常であるが、周りの者たちはそのあたりを権力者となりつつある秀吉には諫言することは出来なくとも諾として追従したのであろうか?藤原正彦氏は、日本軍上層部になくて武士にあったのは「誇り」だというが、この戦国時代の小説を読みあさっていると戦国武士に「義」はなくてあったのは「利」だけであったようにも思える。

 賤ヶ岳を制し家臣団には、もう歯向かうのもはなくなったあとは、信長の息子たちの追放である。嫡子信忠は、信長とともに討たれているし、次男信雄は愚鈍を絵にかいたような男であったというし、信長後継者としてふさわしいと思われた三男三七丸信孝は、後援者勝家が果てると自刃してしまった。
 信忠と信雄は同腹で信孝は別腹である。しかも信勝、信孝同い年である。そのため信雄と信孝は大きく反目しあっていた。そこを狡猾な秀吉は突いたのである。もし信忠が討たれていなければ秀吉の天下はありえなかったろう。畢竟するに信長、信忠を一度に葬った光秀は秀吉に天下を与えるために謀反を起こしたようなものである。故に一部の歴史家は本能寺の変の黒幕に秀吉がというがそれはありえないことだと思う。

・「兼見卿記」には、安土城が炎上したのは、6/15であると記されている。イエズス会宣教師フロイスの記録には信雄が、気が狂ったか、愚鈍なためかは知らないが安土城の最高所の主要な室に火を放った。とある。

ホンマ信雄はあほな奴である。

・斉藤利三の長女はお福。のちの春日局である。

・信雄を擁する秀吉、長秀、恒興と、信孝側の勝家、一益とが対立した。

・9/11お市の方が信長の百か日法要を行った。翌日9/12秀吉が養子の羽柴秀勝(信長の4男)を喪主として百か日法要を行った。

・天正11年(1583)4/23の夜、勝家は北の庄の天守で最後の酒宴を開いた。そのあとお市ほかの妻妾を手にかけ自刃した。これには諸説あり翌日勝家は最後の戦いをしたのち天守で寄せ手の見守る中、立ち腹を切ったとする説もある。勝家に80余人が殉じたといわれる。

・同年5/2信雄は、信孝に自裁を求め野間の大御堂寺え切腹した。26歳であった。その辞世の句は今も残されていて信長か好んだという薄墨でにじむような流麗な筆跡で書かれている。
「昔より主をうつみの 野間なれば むくいをまてや羽柴筑前」

信孝の主を殺した秀吉に対する深い恨みを感じさせる句である。
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山岡荘八「織田信長」〔4〕。

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  美濃を制した信長は、愈々朝倉攻めに向かう。このあたりの信長の息もつかせぬ進撃には鬼気迫るものがある。信長が私利私欲のためではなく「天下布武」の旗印のもと乱世を終えさせようという強い信念をもって突き進む。それに対抗する勢力は、日本全国武将を敵に回したといってよく、彼の周りはまさしく四面楚歌であった。それに唯一実直なほどに味方として従ったのが家康である。信長の配下には勝家、長秀、成政、秀吉、光秀等々一騎当千の武将が数多くいたが同盟という形で最後まで信長を裏切らなかった戦国大名は家康だけである。家康が信長に心酔し硬い同盟補佐をしなければ信長の天下統一は本能寺でその野望やついえたが決してなしえなかったといえる。家康にしては秀吉が信長亡きあと策を弄しライバルを蹴落としあっという間にその継承を掌握したが内心決して許せないものがあったろう。
 信長の生涯は、戦いの連続でそして裏切りとの戦いでもあった。信長ほど裏切りにあった武将はいない。
足利義昭、松永久秀、荒木村重、浅井長政、そして明智光秀等々であるが、光秀は唯一その成功例であるが、何と言いっても最大の裏切り者は、秀吉である。今並行して読んでいる津本陽の「夢のまた夢」でも秀吉のその主筋に当たる織田家への裏切りは読んでいても許せないものがある。因果応報。秀吉亡きあと家康の執念深いこれまた裏切りは秀吉の自ら招いた報いといえる。

 さて今巻は、信長が朝倉攻めで一乗ヶ谷へ迫るところからはじまる。そして木の芽峠に陣取ったところで長政の謀反の報が入る。桶狭間とともに信長生涯での最大の危機が迫る。長政に裏切られ後ろを攻められれば朝倉との挟撃にあい万事休すである。ここで有名な金ケ崎からの撤収がはじまる。このあたりの面白さは津本陽の「下天は夢か」の描写が秀逸で何度読み返しても面白い。
 ただこの作品では実にあっさりと流している。この辺りは山岡荘八の研究不足というかなぜこの劇的な事件をもう少し突っ込んで書かなかったのかと思う。この作品全般にいえることだがこの「織田信長」は、淡々と「信長公記」を元に濃姫と掛け合わせてすすめているように思う。

 九死に一生を得て岐阜に生還した信長は息もつかせず朝倉に加担した叡山焼き討ち、信玄との対決、そして朝倉をほろぼし長篠の戦いで勝頼を破り愈々長政を討つ。。。
 最終巻も読み始めているが、信長の決断、行動の迅速さは鬼神そのものである。

 何度読んでも信長の生涯は痛快無比に面白い。

山岡荘八「織田信長」〔3〕

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 今回の下甑クルージングに持参した本。今回は前半海がなんともべたなぎでしかも風も程よい追い風でほとんど揺れず、航程もいつもの走りっぱなしではなく直前にばたばた計画した割には我ながらよくできていてホントのんびりゆったりしたものだった。そんなことでワッチ、ラットはみんなに任せて初めてのデッキでの読書はホント気持ちのいいものだった。

 

桶狭間以降、美濃攻めから越前朝倉攻めそして浅井長政の裏切りから姉川の戦いへと進んでいく。波乱万丈の信長の生涯は何度読んでも面白い。

ただこの山岡荘八が書いた頃より信長の研究は最近の信長人気もあり急速に進んでいてこの中に書かれている事実はいささかならず陳腐になっているところも多々ある。一番顕著なのが正室お濃が信長の良き相談相手になってその政略にも大きく携わっている風に描かれているところである。最近発見された資料を基に描かれている信長小説を読んだ後に読むのがいいと思う。

が、ホント何度読んでも信長の生涯は面白い。

 

・元康は8歳から19歳まで、12年間今川家で育てられた。

・水野元信は於大の兄

・足利義昭は信長より3歳年下。

藤沢周平「密謀」(下)。

 今回の長崎行きに選んだのは密謀の下巻。藤沢作品が本棚に増えていく。毎晩本棚に並んだ思い出の本たちを眺めて悦に入って飲む酒は旨い、‼️
 このところ何故か秀吉がらみの歴史小説ばかり読んでいる。

 外題の密謀とは、関ヶ原の大戦(おおいくさ)に謀(はか)る三成と兼続との密談である。
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 家康が愈々その本性をもろに現しはじめ天下制覇にうごめく。
 多くの大小大名が家康になびく中、三成が秀吉の遺訓をまもり、この大きな流れに竿をさす。
 兼続と三成の友情を中心に物語は展開していくが、彼らの二人の絆は歴史に確かではないという。

 所謂歴史小説と、時代小説との線引きは、むつかしいところであるが史実という大命題にほぼ忠実に沿ったのものが前者で、それをもとに作者が思い描いたのが後者ということになろうかと思うが、その境界ははなはだ不明瞭である。
 この作品では、家康が策を弄し豊臣恩顧の武将たちを懐柔し砂場に立てられた棒を崩すがごとく豊臣の屋台を削ぎ徐々にそして且つ着実に我が足元を固めていく。そこで描かれる家康の陰湿な老獪さはあまり気分のいいものではないが、これも秀吉の自分で蒔いた種で自業自得である。if三成をあれほど偏用していなければその死後の展開も大きく変わっていたであろうに、if淀殿の周りに智将がいればまた歴史も変わっていたであろうに。

 関ケ原の天下分け目の戦いは、歴史の奇跡のようなことがらが幾重にも重なって起こった戦いであろうし、これも光秀が挙兵して信長を討たなければ・・・秀吉が大返しをしなければ・・・三成にもう少し人望があれば・・・家康が秀吉を心から憎んでいなければ・・・暗愚の秀秋が小早川家に養子に出されていなければ・・・およそ起こりえなかったドラマのような事変である。
 
 歴史のifを思い描くのはとてつもなく面白い。



 上杉景勝が、関ケ原の戦いの後家康に膝を曲げ、長井、伊達、信夫三国に所領を減封され徳川の世に背を向けて歴史の表舞台から消えるところで物語は終わる。

 自分の歴史の知識から抜けている上杉の盛衰を大きく補ってくれる面白い作品であった。


・秀吉には側室がとても正気だとは思えないほど多かった。それもその彼女らの「出」は信じられないほど華麗である。もちろん今の世の基準から見ると到底出す側の倫理観も理解できないし、それを諾と認める周りも道徳外である。

 前田利家の三女の加賀の局、京極の娘、蒲生氏郷の妹、信長の五女、織田信包の娘などなど、秀吉の病気ともいえるこの性癖と執着癖は勿論異常だが、これに追従していた取り巻きたちの卑屈さも尋常ではない。

・家康は、3才の時に生母と別れ、6才で今川に質に出され途中織田に売られたりしながら生まれ故郷の岡崎に帰るまで11年間人質として過ごした。


 家康が天下を取り秀忠に将軍職を譲って隠居生活に選んだのは、その生まれ故郷の岡崎ではなくて人質として過ごした駿府だった。この辺りの家康の深層心理はまことに面白くいつかホント小説でも書こうかしらん。。。

・三成が関ケ原に敗れ、東軍が佐和山城を取り囲んだ。守将の三成の父正継、兄正澄が腹を切り城兵は助けるという交渉は成立寸前までいった。それをぶちこわしたのは田中吉政である。田中の兵は、交渉途中で城になだれ込んだ。

 先日の信長を巡る旅で中井講師から教わったことだが、そのときの東軍兵の略奪、残虐さは陰惨を極めた。そして一部の雑兵たちは城内部のふすまの絵柄を破って折りたたんで懐に入れて持ち去ったという。  だが皮肉なことにそれらは歴史資料として残り、その他のものは佐和山城と共に焼け落ち現存していない。
 
 信長の3男の愚鈍信雄が安土城に火をかける前に、if先に入った光秀が部下に取り切りかまいなしにしていれば、狩野永徳が描いた屏風絵、襖絵ほかの今では超国家文化財になっているであろうもろものの美術品他安土城の多くの資料が残っていよう。(安土城の完全設計図は、今のところ現存していない)

歴史のifはホントに面白い。

再掲 大山倍達正伝。。

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「大山倍達正伝」。
倍達の生涯は、多くの嘘にまみれているが、彼の空手家としての実力、武道家としての生きざまには、大きな尊敬を抱くものである。

ほぼ一年がかりで読んだ。
崔永宜(チエヨンイ)。後の大山倍達は、朝鮮、今の韓国の裕福な農家に生まれた。
父親と喧嘩して日本に密航し、喧嘩三昧の日々を経て渡米し空手家「大山倍達」として名声を博していくも、その根底には朝鮮人としての誇りと、日本人として生きていくための虚像の中での葛藤があった。
やがて倍達の空手は、日本人の若者のあこがれの的となり彼の名声はマスコミにも祭り上げられれ揺るぎのないものになっていき、「極真空手」は、日本のみならず世界に支部をかまえその弟子たちは百万人とも二百万人ともいわれるまでに成長する。

一部と二部に分かれて構成され小島、塚本によって大山倍達=崔永宜の虚像と真の二つの生涯に迫っていく。

大山倍達としての生涯は、虚実入り混じりというか多くの嘘で塗り固めれているが、晩年の倍達は、自分が朝鮮人であることを、あまり隠さなくなってきていた。自分でも語っているようにプロボクシングの試合においても、日本人が勝つと「くそっ!」と思うと語っているし、日本人を演じることに疲れていたようである。力道山と木村政彦の関係においても倍達は、木村を武道家として仰いで尊敬していたようで、力道山とのあの試合においても木村がマットに沈んだ後、リングサイドにいた倍達は激怒し「ぶっ殺してやる!」とリングに突進したという。力道山は、その試合の後その筋からも命を狙われ、倍達も執拗に力道山をつけ狙ったという。結局は、関係者が間に入り手打ちとなったが、大山は生涯といってもその何年か後に力道山は亡くなったが、力道山を嫌い続けたという。

・朝鮮では古くから「同姓娶(めと)らず」という不文律が存在した。つまり「同祖」の男女が結婚することは近親婚として禁じられた。父系の血縁によって結ばれた関係を表すのが朝鮮における「姓」である。父系の決闘を明確にするために、朝鮮では結婚後も夫婦は別な「姓」を名乗るのが伝統である。
 
 現在の日本では「姓」と「氏」の区別がきわめて曖昧になっているが、あえて「氏」を説明するならば。血縁関係でなく「家族」の表示といえば理解しやすいだろう。結婚した男女は当然のように別々の血縁を有している。しかし結婚によって「家族」を構成したならば夫婦や子供は同じ「氏」を名乗る。そこが朝鮮の「姓」との決定的な違いである。

・ちなみに「三国人」は、正式にには「第三国人」という。連合国軍が名付けた「メンバー・オブ・ザ・サード・ネーション」の日本語訳で、日本の植民地だった台湾や朝鮮出身の人々の「地位」を表した言葉である。第一国人はアメリカをはじめとする戦勝国民、第二国人は敗戦国民・日本人を指す。戦勝国民でも敗戦国民でものない朝鮮人たちをGHQは「第三国人」と呼んだ。
 
 60万人の在留朝鮮人に対して、在台湾人は4万人程度だった。

・生前大山は、李承晩について次のように語っている。
「李承晩は好人物だったが、日本の支配下にあった時代、日本軍に随分酷い拷問を受けたと言って大変な日本嫌いだった。だから本来テコンドーは「韓国空手」と呼ばれ空手から生まれたものなのに、逆に朝鮮武道が日本に伝わり空手になったという持論展開していた。その部分で、私と李承晩は合わなかった」

・大山の原点「力なき正義は無能なり」ともいえるパスカルの言葉

 正義、力。
 正しいものに従うのは、正しいことであり、もっとも強いものに従うのは、必然のことである。
 力のない正義は無力であり、正義のない力は圧政的である。
 力のない正義は反対される。なぜなら、悪いやつがいつもいるからである。正義のない力は非難される。したがって、正義と力をいっしょにおかなければならない。そのためには、正しいものが強いか、強いものが正しくなければならない。
『パンセ』(パスカル)断章298より

藤沢周平「闇の梯子」。

このところ藤沢作品ばかり読んでいるような気がする。マァばかりでなく他の本も読んでいるのだが藤沢作品は読みだすととまらなく引きずりこまれるのでどうしてもほかの作品は読みかけになってしまう。そんなことでベッド横に読み欠けの本がほんがうず高くなってしまった。昨晩数えたら15冊もあった。

 藤沢作品もかなり読んで本棚の一角をデンと占めていて威張っている。あと読んでいないのは新潮文庫、角川文庫あわせて20作品ほどあると思う。それにしても藤沢作品は面白い。
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この短編集に収められている5作は藤沢氏のきわめて初期の作品で「暗殺の年輪」、「又蔵の火」につづく3冊目のの短編集である。前2冊は、物語全般に暗く、陰湿で二度は読みたくもないがこの3冊目は、どれもなぜか物語の基調も明るく、流れも酷い殺戮も扱っているが基本はほのぼのと軽くさわやかである。もう一度読み返したい作品ばかりだ。

「父(ちゃん)と呼べ」
盗人の手伝いをさせられていた男の子をひょんなことから面倒を見ることになった。その父親は島送りとなってしまって終生帰ることはないと思われた。最初はおびえていたその子もしだいになついてきて子供のない夫婦にとって鎹(かすがい)となっていた。そんなとき、妙齢の女性が訪ねてきた。その女性はその子の母親であると名のった。男の子は母親をえらび去ってしまった。残された夫婦は、夫に妻からちゃんとよんでくれと頼む。ばかばかしくも二人の目には涙がいっぱいたまった。
「闇の梯子」
「入墨」
「相模守は無害」
「紅の記憶」

烏鷺を闘わせる=囲碁をすること。

藤沢周平「密謀」上巻。

何度も読み始めては挫折してなかなか先に進めなかった作品。
半年も以上に買った本である。
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今回信長を巡る旅の前日にもう一度最初から読みだして、旅のバスの中でも読んで、そのあといっきに読んでしまった。「一茶」と同じく1/3ほど読み進めるとすらすらといっきに読めた。あと頓挫して枕元にある藤沢作品の伝記物は、雲井瀧雄を描いた「雲奔る」のみである。

 直江兼続(かねつぐ)の生涯を描いた作品。信長から家康にいたるまでの戦国時代の全体像をおぼろげながら理解しつつあるがこの兼続が仕えた上杉のことはほとんど理解していない。この作品で謙信以来の上杉の信長、秀吉そして家康の関係が少しは理解できた。

 上巻では兼続が主君景勝を景虎との謙信の跡目争いいわゆるお館の乱を制し上杉の頭首となり信長との戦いを経て秀吉に同盟というか臣下するまでを描いている。本能寺の変から秀吉が天下を取り景勝が上洛し、越後を安堵され、秀吉の最後の反逆者北条を征伐し天下をほぼ手中にする時代を追う流れは、知らないことばかりであった。

・景勝の母は、謙信の実姉である。
・小牧、長久手の戦いに実質秀吉は家康に負けた。しかしこの時秀吉が動員した勢力はそのほとんどが旧織田の軍勢であった。大義名分のないこの戦いに旧織田勢力を味方につけさせたのは秀吉がばらまいた膨大な利であった。そしてこの戦いに味方した勢力は以後の秀吉の頤使(いし)に甘んじる掌中の兵力となった。
 この戦いで秀吉の得た利は、計り知れない。戦いには負けたが秀吉はこの戦いで信長の勢力を実質受け継ぐことになった。

頤使=あごで指図して人を使うこと。
・佐々成政は織田の武将の中で最後まで秀吉に歯向かった人間である。ただ秀吉はその佐々を殺さずに最後には肥後一刻の領主に封じた。秀吉得意の他の武将への大きな宣伝効果となったであろう。(だが陰湿な秀吉は、何年も経ったあと成政を切腹させている)

・北条攻めで兵糧奉行に任ぜられた長束正家はその才能をいかんなく発揮した。

・小田原城は4か月持ちこたえたのち天正18年7月5日ついに城を開いて秀吉に降った。北条氏政、氏照は腹を切り、城主氏直は家康の女婿という縁で助命され、氏規とともに高野山に追われた。

藤沢周平「神隠し」。

昭和50年初期に発表された短編11篇。
初期作品の割にはすがすがしく筋立ても面白く結末も納得のばかりであった。
短編は読んでもすぐに忘れてしまうのだがこの11篇は、そのストーリーがいいのかなぜかほとんど今も覚えている。にわかにボケが改善されたというわけではたぶんないだろう。。。
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「拐(かどわか)し」
娘が誘拐される。誘拐犯から身代金をせびられるが、それは小出しに何度もという奇妙なものだった。番所に届けようとしたそのとき娘が帰ってくる。狂言だった。という話。

「昔の仲間」
藤沢作品定番もの。昔一緒に悪事を働いた仲間が成功した男のもとを訪ねてくる。困った男は・・・という話。

「疫病神」
自分たち母と兄妹を放蕩の末捨てた父が見つかった。母は苦労の末死んだのを見ている妹は反対したが兄はそんな父を引き取った。しばらくはおとなしくしていた父だったが時をおかずにまた放蕩がはじまった。父は家の金を盗み手が付けられないことになった。

「告白」
惚れて一緒になって苦楽を共にして老境にはいった夫婦。夫は確かめたいことがあった一緒になって間もないころ一日だけ妻が家を空けたことがった。夜になっても帰ってこず番所に届け出ようと思った深夜ふらりと帰ってきた。そのときにはまだ新婚で遠慮もあり訊けなかったが、ずっとこころに引っかかっていたことだった。妻が告白したその内容は思いもよらないことだった。

「三年目」
街道沿いで働くおはるは、三年前立ち寄った男に一目ぼれその男は三年後に迎えに来ると約束した。今日がその三年目であった。

「鬼」
不器量でそれもかなりの醜女でみんなからは鬼と呼ばれていた。当然男は誰も相手にしなかった。そんな時川に流れついた武士を救う。その男は藩から追われているといった。かくまってやるうちにその男に抱かれてしまう。初めての快感だった。やがてその村にもその追手がやってくる。明日逃げるというその男と別れたくない醜女は・・・という話。

「桃の木の下で」
志保は、使いの帰り道斬りあいに遭遇する。襲われた男は死に斬った男は夫の知り合いであった。帰宅後夫に打ち明けると誰にも言うなと口止めされた。実はその斬りあいには夫もかかわっていた。顔を見た志保を夫は殺そうとした。
 志保には本家にはおさないころ一緒によく遊んだ遠縁の兄のように慕う少年がいた。嫁いでからもその少年のことは淡い思い出として心の片隅に残っていた。その男は志保の窮地を救い夫も成敗する。男は言った「家に来るか」と・・・
エエ話しやった・・・

「小鶴」
その家の夫婦喧嘩は城内でも有名だった。ある日その夫が若い美しい娘を連れて帰った。橋のたもとでぼんやりしていたという。その娘は明らかに武家の娘で記憶を失っているようだった。ただ自分の名を小鶴といった。
 しばらく預かることにしたが子供のない夫婦にとってその娘はかけがえないものとなり夫婦げんかも絶えた。気立てもいいその娘を養女にと相談し始めたころ・・・
という話。これもええ話しやったナァ・・・
「暗い渦」
腕のいい筆職人弥作には許嫁がいた。おゆうといったが弥作が許嫁だからと迫ろうとしたときにはいつも連れのお銀を連れてきた。今度こそと誘った日には、自分は都合が悪いとお銀だけをよこした。やる気満々だった弥助は勢いでお銀を抱いてしまう。そして孕ませてしまった。しかたなくお銀を嫁にもらったがお銀は妻として申し分のない女だった。年が経ち弥助は裏町でおゆうを見かける。おゆうはやつれて、とてもいい暮らしをしているとは見えなかった.

「夜の雷雨」
おつねは亭主に先立たれ息子は放蕩の末後ろ足で砂をかけるように家を出て行った。そんなおつねの唯一の楽しみは燈明寺で時折見かける可愛い娘だった。だがある時からぷっつりと姿を見せなくなった。心配したおつねは、うる覚えのその娘の奉公先を尋ねてみると病にふせっていた。しかもその店の女将は、ろくに治療も受けさせずに窓もない狭い部屋にその娘をやっかいもののように寝かせていた。見かねたおつねはその娘を連れて帰り懸命に看病する。やがてその娘の回復の兆しが見えだしたころ放蕩息子が帰ってきた。そしてまだ病み上がりの娘に襲いかかった。おつねはとっさに台所から出刃包丁を持ち出して・・・


「神隠し」
大店の御寮さんが行方不明になる。ただ3日目に何事もなかったように帰ってきたが、また時をおかずに行方不明になる。主人は思い当たるふしがあった。妻を探し当てたしもた屋でその主人はその家にいた男を突き殺してしまう。

この短編11篇はどれも藤沢氏初期に属するものだが基調がどれも題材によっては殺しも含まれるものだが陰湿さがなく読後感もいいものばかりだった。
そして冒頭にもかいたがなぜかそのストーリーを詳細に覚えている。なんでだろう・・・

もう一度いつか読みなおそう。。。

江戸古地図。

『「居眠り磐音」江戸地図-磐音が歩いた江戸の町』をネットで見つけて宗旨を曲げてAmazonで買った。

藤沢周平他の時代小説を読むときにその町の位置関係が理解できるとその面白さは倍増する。
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ネットでも分割された江戸古地図がみられるがこうした一枚ものはよりその位置関係がよりよく分かる。
もっと早くこの手の地図を知っていたら読んでしまった藤沢氏の名作集ももっと面白かったと思う。。。
残念。。。
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先日不図TVで今の東京と江戸の地図を重ね合わせるアプリがあるのを知った。それとイラストレーラーの何某が江戸古地図から立体的に起こした鮮明な江戸全体図を作っていたがそれはどこで買えるのだろう・・・

藤沢周平「一茶」

呻吟とまではいかないが、すらすらとはいかず読むとはいかない藤沢作品の伝記物、「密謀」、「雲走る」、「一茶」のうち、休みの前夜、2/3ほどの残っていたこれを結構面白く読み終えた。もともと一茶という人間は好きではなかったが、この作品の中でもあまりいい人間には描かれていない。

 

俳諧というものはもともとが連歌の座興、大笑いして読み捨てたものだったという。それを高尚なものにしたのが芭蕉である。一茶は生涯2万を超える俳句を作ったといわれるが、所詮川柳に毛が生えたようなものばかりで芭蕉の「五月雨を・・・」のような目の前にその情景が浮かぶような自然描写あふれる句とは格が違うと思うがこれは好き好きであろう。

 

一茶の生涯はその大半が貧しさとの戦いであった。ただその継母にいじめられ国をおわれるように出たのには同情の余地もあるが、あとせっかく紹介してもらった仕事をほっぽりだし次々と仕事を変え、あとはちょうどその頃はやりだした俳句の師匠を気取り、それというだけで旦那衆、今でいうパトロンにすがって生きた。郷里の父が死んだあとはその財産を巡って継母、異母弟と12年に及ぶ裁判を経て最終的にはその半分を得ることに成功している。その貧しさゆえに長く妻をめとることはできなかったが晩年人の紹介で迎えた年の随分離れた妻とは仲が良く、その日記には毎晩の夜の営みの回数が書かれていたという。その妻が若く病死すると次に時をおかずに迎えた妻は精力的な一茶にほうほうの体で逃げ帰ったという。三度目に迎えた妻との間に娘を残してその生涯を終えた。

やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり

雀の子そこのけそこのけお馬が通る

やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする

これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺DSCF6703

藤沢周平「藤沢版新剣客伝 決闘の辻」

藤沢氏のいわゆる伝記ものシリーズ。珍しく講談社からの出版である。新装版とあるようにいまだに改刷発行される藤沢作品の人気の高さをうかがわせる。
 
 収められてる5編おいても氏独特の情緒あふれる自然描写が時折みられそれはまったく楽しいが、どうしても史実を追うので氏の細やかなストーリーの展開がなく面白さにずいぶんと欠ける。
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「二天の窟」(宮本武蔵)
武蔵に関する文献は、意外ととても少ない。その中から氏が晩年の武蔵を「五輪の書」を描くまでを描いたもの。武蔵を狡猾卑怯な剣士ととらえている。

「死闘」(神子上典膳)
天正の末期、伊藤一刀斎の弟子の話。

「夜明けの月影」(柳生但馬守宗矩)
大坂城落城から家光の時代までの徳川内部で起こった事件に宗矩が将軍に助言をする。家光は宗矩が没した後も「このことは宗矩ならどうしたであろう」とあたりの者に漏らすことが多かったという。

「師弟剣」(諸岡一羽斎と弟子たち)
一羽流の剣を編み出した一羽斎がライ病にかかると弟子の一人が勝手に名を変えてその後継者を名乗る。相弟子の二人が師の敵を討つ。

「飛ぶ猿」(愛洲移香斎)
移香斎が剣の修行中に討った男の息子が、その仇と移香斎に挑む。この本の中で一番よかったかな?父の仇を息子が討つというストーリは、何度読んでも心を打つ。

伊東潤「国を蹴った男」

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短編6編からなる作品。冒頭の「牢人大将」を読んだのはもう半年ほども前になるかもしれない。

各編それぞれ一人の武将に焦点を当てて描いている。伊東潤の作品は何冊か読んでいてその歴史史実の描き方の精密さ、掘り下げ方はとても面白い。だがそこに彼の創作、想像を大体に織り交ぜるのが特徴といえばそうだが虚実相交えるという構図になり何が本当だか分からなくなり一寸不愉快である。歴史を原案にした歴史小説として読むべきものであろう。ちょうど明日で最終回を迎える「あさが来た」と同じ構造である。「あさが来た」も廣岡浅子自身の著書他を何冊か読んでいるのでTVの展開は回を重ねるごとに史実とはかけ離れていき、特に今年に入ってからは、浅子の生涯を参考にしたドラマとなってしまったが、この朝ドラは面白かった。五代役のディーン・フジオカが颯爽としていてまた良かった。史実では浅子と五代の交流は全くなかったようだが、それはそれで面白く描けていた。五代は、大阪界隈では知る人ぞ知るかなりの色男で結構な浮名も流していたようだ。

マァそれはさておきさて感想文。


「牢人大将」

信玄に傭兵として雇われていた男の話。信義はなく金のためだけに戦ったが信玄はその実力を高く評価したという。だが勝頼は、牢人を好まずその軍編成に名前を揚げることをしなかったという。

「戦いは算術に候」
豊臣にその人ありと謳われた算術、普請方の天才長束正家の話。戦(いくさ)における兵站の重要性は歴史に名を遺した武将たちすべてがその戦いそのものよりも知っていたことである。ただこの重要性を軽視したというより無視に近い形をとったのが太平洋戦争における愚かな海軍司令部である。

 正家はもともと信長の家臣丹羽長重の家臣であった。信長の時代丹羽の普請組の仕事が他を抜きんでて早いことに目を付けていた秀吉が長重を問い詰めてこの男のことを知りそして自分の家来にしたという。秀吉のこのあたりの人を見る目、人使いのうまさは天才的である。

・太閤検地

一反を360坪から300坪に変えた。この基準単位の統一により、慶長3年(1598)までに光成と正家が弾き出した全国の石高は、合計1865万石となり、これまでよりも600万石も増えた。これにより豊臣家の歳入は飛躍的に増大した。

 
「短慮なり名左衛門」
謙信に子はなく、後継者を決めずに死んだため、その家督をめぐり、北条家から養子入りしていた三郎景虎と、上田長男家から養子入りしていた喜平次景勝の間で、跡目争いが勃発した。 御館の乱である。

「毒蛾の舞」
毒蛾とは、前田利家の妻、まつのことである。この作品では、利家を策謀家で義理人情に疎く、とてもやな奴に描いている。ただ利家は史実でもかなりのいい男だったらしく利家に惚れきったまつが女性の武器を使って利家の出世を助けるというどこまでホントだかわからない話。ただ秀吉とは家族ぐるみの付き合いで、勝家に加担したにもかかわらず勝家が滅んだあと豊臣家で大きな力を持ったことを考えると、利家はそれなりの人物であったろう。

「天に唾して」
堺を代表する茶人今井宗久、津田宗及(そうぎゅう)、千宗易(利休)。その中の宗易の弟子として名を馳せた山上宗二の話。宗二はある日信長から秀吉の茶頭(さどう)を命ぜられる。初めて会った秀吉は醜い男だった。それにもまして茶道を出世の道具としてか考えていないようは下劣な男であった。茶道を通じて義を貫こうとする宗二と、茶道を政治の道具とする秀吉との軋轢は拡がるばかりでついに怒りを爆発させた秀吉は宗二を耳と鼻をそいで磔刑にしてしまう。秀吉の醜さ、狡猾さを存分に描いた作品。光成がその邪悪な秀吉に寄り添う。。。

「国を蹴った男」
蹴鞠作りの男と、今川氏真との主従を超えた友情を描いた物語。

山岡荘八「織田信長〔2〕桶狭間の巻」

久しぶりに何も予定のない日曜日。楽しみにしていた一日でもある。
 昨日は、本業の懇親会があってよせばいいのにまた飲みすぎた。今朝はゆっくり朝寝坊して起きては本を読み疲れたら寝てのだらけたbut至福の一日となった。何冊かちょこちょこと読みつないでこの作品を読み切った。その並行して読んだ中で伊東潤「国を蹴った男」でも信長の話が出てきて今思い返すとこの本の内容だったかそれとも「国を蹴った男」だったかどっちに書かれてあった内容だったかこんがらがっているところがある。似たような本を同時に読まなきゃいいのにと・・・いつも思う。
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この頃は時代小説ばかり読んでいるような気がする。
 この作品は、昭和62年、今から30年ほども前に初刊されたものである。その後信長研究は数々の書簡が発見されるなどして大きく進みこの小説の内容は歴史的事実と齟齬をきたしている部分が多々ある。

 この桶狭間の戦いも今川義元の上洛に伴う織田との衝突といわれてきたが近年の研究では義元の単なる織田征伐にあったということが分かってきているし、信長の迂回本陣急襲説も講談的には全く面白いがこれも信長は義元本陣に真正面から一気呵成に突入したであろうとの説が最有力である。他にも多々今の研究からすると「はてな」はあるが、やはり信長の生涯はむちゃくちゃ面白い。信長は、秀吉はもとより家康をもはるかに凌ぐ軍事天才であったといえよう。

 蛇足だが、司馬さんによると軍事天才というのは、他の分野の、音楽、文芸、スポーツ等他の天才と違ってはるかに人類が生み出しにくい才能であるという。日本の長い歴史においても軍事天才と呼べるのは、義経と信長の二人かもしれない。

 もう一つ蛇足、信長の波乱万丈の生涯は現代だけでも多くの作家によって描かれている。それも詳細をきわめているがこれはひとえに太田牛一の「信長公紀」のおかげである。この稀代の天才信長の生涯をこと細やかに後世に残した彼の功績ははてしなく大きい。ただ現代語訳でも文庫本で500数十ページに及ぶこの大作の中で桶狭間に関する記述は極めて少ない。ほんの7ページほどである。これは「信長公記」が牛一が晩年に自身の日記等をまとめて再編したものであり桶狭間に関しては彼も多くの資料を集めきらなかったことによるものだと思われる。その中でもこの戦いに藤吉郎が参加したという記述はなくこの「織田信長〔2〕」で描かれている藤吉郎が信長の近習として桶狭間で活躍するという話は山岡荘八の創意によるものである。

再掲。新野哲也「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」。。。

抜粋すべて終了しました。今一度読みかえして改めてとんでもない無能無知な阿保な日本人で構成された軍部をいただいて戦争に突入したことだと思う。。。



「なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたか」、「ゼロ戦と日本刀」、「日本人の誇り」とこの本。
この4作品を、読むまでも大戦のもろもろのことに関してある程度は知っているつもりであったがそれらはほんのごく一部であることを、どころかほとんど知らなかったとさえいえる。
日露戦争後、いかにして日本が隆盛し、世界の列強に比肩するまでとなりそしてアメリカに仕掛けられたとはいえ戦いを挑みそして敗れ、屈辱的な裁判を経て贖罪意識を植えつけられ今も尚その後遺症におかされているかを知るにつけ暗澹たる気持ちである。

このブログを読んでくれているのはほとんどが親しい友人たちであるが、この4冊は是非とも読んで共有して欲しいものである。
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見苦しいほどの付箋が付いている。未だ既読本の付箋も整理しきれていないがボチボチ書きとめよう。。。

・南太平洋戦線で、50万人近い将兵が死没しているが、大半は、餓死である。これだけで太平洋戦略が、日本軍の戦略がいかに無計画で泥縄式だったかを示している。

・日本軍は、アメリカとオーストラリアの海路を妨害しようと、日本とは遠すぎるガダルカナル島に進出した。日本海軍がそんなところに出で行ったのも愚かだが、これほど遠方まで足をのばしてまともに戦えるわけがいない。

・「北進論」を捨てて支那戦線に深入りした東条陸軍
近衛内閣が倒れた後、天皇から組閣を下命されたのが東条英機である。石原莞爾はその東条をこう批判した。「東条が南進をきめたのは、石油が欲しいからで、北支に手をつけたのは、経済的利点があるからと思い込んだからである。だが、北支には、何もない。南方で石油を手に入れても、アメリカと開戦したあとでは、タンカーの九割が撃沈されて、南洋が油まみれになるだけだ。石油がなくて戦争が出来ないなら、支那事変など、はじめから手をつけぬがよろしい。連中のやることはみなこれだ。そして、国民には、聖戦だの皇道宣布だのと宣伝する。聖戦と泥棒の区別がつかぬようでは、皇道が、侵略と誤解されることになる」
その石原がやったのが、満州国建国だった。
満州はソ連の脅威を断ち、朝鮮半島をまもり、支那ににらみをきかせる地政学上の絶好の地で、日本が世界覇権をにぎるには、満州建国が、南方進出と並んで、欠かすことのできない大戦略だった。

・日本が戦争に負けた理由は、さむらいにとって代わった、心ない、偏差値エリートが指揮をとって、世界一強かった日本兵を粗末にあつかったこと、その一言に尽きるだろう。

・毛沢東や周恩来は、かつて田中角栄に「日本軍が蒋介石をやっつけてくれたので、われわれの中国が生まれた」と謝辞を述べた。

・ソ連が消滅したあと、国家社会主義的な官僚制度をとっているのは、中国や北朝鮮を除くと、日本だけである。

・第一次近衛内閣で、日支戦争がはじまり、第二次内閣で、仏印進駐と日独伊三国同盟の締結、および、大政翼賛会の結成、第三次内閣で、日米開戦の決定と、近衛が首相になるたび日本は戦争へ近付いていった。

・開戦前夜の御前会議では、みんな押し黙ったままで言っていることも支離滅裂な状態であった。陸軍と海軍は張り合っていたため、どちらからも非戦論は出てこなかった。それを言えば予算を削られる可能性があったためである。

・一部の意見では、戦争に負けても戦勝国に取り込まれてそれも日本の生きる道だという考えもあったという。
これらの敗北主義が、敗戦革命の伏線となった。
米内光政は、アメリカの原爆投下とソ連の参戦を天佑といった。海軍大臣や総理大臣をやった男がこのような言葉を吐くこと自体、当時の軍部上層部が敗北主義に毒されていた。
信じられないことである。

・東京裁判で、東条は「海軍が反対していたら、日米開戦はなかった」と証言した。

・海軍の戦い方は、戦略的に誤っているだけでなく、戦術的にも欠陥だらけであった。
海軍には、太平洋の防衛計画というものがなかった。防衛計画のないまま攻撃を仕掛けたのである。

・海戦の三大原則は、海路防衛、輸送機能、上陸援護であるが、日本の海軍は海路を設営せず、輸送船をまもらず、兵站線の確保を怠って、鎌倉時代の戦の武将の一騎打ちのように、艦隊決戦を求めて赤道の向こうまで出かけていった。

先年、QEでラバウルを訪問したときに、乗客の誰かから日本は何故こんな遠いところまで攻めてきたのかと訊かれたことがある。ラバウルまでオーストラリアから船で1日、鹿児島からは5日間かかった。戦国時代の信玄でさえ京までは兵站線が延びる過ぎるのを知って上洛しなかったというのに。秀吉は、兵站の天才であったからこそ天下をとれたのに。。。

・海軍は、高速の補給船をほとんど持っていなかった。

・ミッドウェー海戦で日本艦隊は壊滅的な被害を受けるが、その後の南太平洋の戦いではミッドウェーの三倍の損失を受け、戦力のほとんどを失い日本の守りは完全に破綻した。海軍がなぜ、ニューギニア、ソロモン、ガダルカナルで不急の作戦を強行して本土防衛をおろそかにしたのか謎である。真珠湾攻撃や、ミッドウェー海戦自体、大東亜戦争の戦略から多くく外れている。

・東京裁判で、戦犯として裁かれた海軍の将官は、三人で刑死者はいない。海軍大臣となった米内は、親独派の岡敬純を罷免し後釜に大のヒットラー嫌いだった井上をすえた。米内と井上にとって、ドイツもドイツと同盟を結んだ陸軍も米英以上の敵だったのである。
介錯を断って切腹した阿南惟幾は、「米内を斬れ」という言葉を残した。敗戦の原因がすべて海軍にあったにもかかわらず、米内はそれを棚に上げて終戦工作をしたからだといわれるが、それだけではないだろう。近衛と同じく見えない力に操られていたのを米内にも見ていたのである。

・ヒトラーとむすんだ陸軍が滅び、敗戦を通して日本はアメリカの属国のような国になった。戦時中、英米派として憲兵に捕えられ、戦後首相になった吉田茂はそれを勝利と呼び憲法改正や国防に一切関心を示さなかった。

・日本が戦争に負けた原因=戦争指導者が愚かだった理由は、彼らがあまりにも官僚的・官僚主義だったからである。

・戦争指導者の愚かさは、現在の霞が関に通じている。日本が戦争に負けた原因をいまなお、国家の中枢に抱えている理由は戦後、GHQが温存した官僚制度を温存しているのに加え官僚システムがそれ自体自己保全性を持っているからである。
官僚制度の最大の弊害はその強烈な自己保全性にある。

・官僚の自己保全性とは、畢竟、予算の分捕りである。

・インパール作戦には数万の兵が戦闘や飢え、病気で倒れたガダルカナルの敗残兵が多く含まれていた。その生き残った兵士がインパール作戦に振り向けられてそのうち半数以上が餓死したのである。
当時大本営ではガダルカナルから撤退か転進でもめて殴り合いまでしている。撤退なら責任問題が生じる。そこで大本営は撤退といわずに転進という言葉をつかうことにした。彼らは転進という言葉の辻褄合わせのためにガダルカナルで疲弊した兵をインパールに送りこんだのである。これが官僚の思考方法、行動様式である。

・日本の軍隊には陸・海軍を統一する作戦本部はなく、海軍の軍司令部と陸軍参謀本部はいがみ合っていた。
タテ割りとなる官僚組織の弊害そのものである。

・レーダーはもともと東北大学の八木秀次教授が発明して実用化したものである。
だが軍部は採用しなかった。特許庁と商工省が「電探(レーダー)は発明特許として認めがたい」と、特許の申請を取り消したからである。レーダーはアメリカの原爆に匹敵する発明だった。
だが軍部は「敵に居場所を知らせるようなもの」とレーダーの導入をはねつけたのは、特許庁や商工省が特許申請を抹消したものを採用すると、担当者の責任が問われるからで、官僚化が進んでいた当時の軍部にはレーダーを導入する柔軟性さえ失われていた。
一方アメリカは、八木教授の論文を入手してレーダーを完成させてミッドウエィ以降の海戦にすべて勝利をおさめた。
レーダーを与えられなかった日本海軍は、目隠しをしたまま戦わされたようなものだが、陸軍も兵士に軽機関銃を与えなかった、陸軍は明治時代の三八銃でアメリカの機関銃に立ち向かい、海軍は敵のレーダーにつかまって遂に神風特攻に切り替えた。

・この奇怪な硬直した官僚軍部集団を支えていたものは何であったか?それは学歴主義であった。

・戦争が下手だった連合艦隊参謀長の宇垣纏は、海軍兵学校や海軍大学の卒業順次が自分より下のものには敬礼も返さなかったという。

・陸大を優秀な成績卒業した東条英機は丸暗記で有名な勉強家だった。座右の銘が「努力即権威」だった東条は、学業成績が良いものばかり重用して天才肌を毛嫌いした。東条は、士官学校、陸大、兵学校の成績順位で順番に身分を決めていった。要するにペーパーテスト順に重用していった。だがその学力はしょせん記憶力である。

・日本の軍隊が学歴主義になったのは、武士階級が消えエリートという西洋の物まね上手が、武士にとって代わったからである。

・日本が戦争に負けたのは、官僚化された軍隊に、学力主義が持ち込まれて日本の戦争指導者が、戦争下手の不適任者ばかりになったからである。

・日米開戦の永野修身と山本五十六、ミッドウェイ海戦の後に指揮を執った南雲忠一と参謀長の草鹿龍之介、ノモンハン事件の服部卓四郎と辻政信、珊瑚海海戦の井上成美。盧溝橋事件とインパール作戦で二度失敗を繰り返した川辺正三と牟田口廉也―みな、適性を問われることがなかった秀才コンビである。

・真珠湾攻撃や、ミッドウエイ海戦の指揮官が飛行機に素人で無能極まりない南雲忠一になったのは、ハンモックナンバーのせいだった。

・日本が戦争に負けたのは総合的な戦力が劣っていたからではない。陸・海軍とも装備は米英と互角で、兵力はむしろまさっていた。

・作戦はそれほど深い思考力を必要としない。・・・・攻めに回った時の果断さ、勝利への執念、そして兵力の消耗を避ける臆病さであろう。彼らにはそのすべてが欠けており、エリートにありがちな自惚れと、独善、自己顕示欲だけがあった。

・戦後、石原莞爾は、GHQ の訊問に「最大の戦犯は、原爆を投下したトルーマンで、日米戦争の元凶は、軍艦四艘を率いて、嘉永6年浦賀にやってきたペリー提督」と答え、東条英機も、東京裁判で「今大戦の審判は、アヘン戦争にまで遡らなければ、不可能」といった。

・日本の軍隊は、陸軍(参謀本部)と海軍(軍令部)の他に、統制派と皇道派という目に見えない部隊(軍閥)があり、その構造は複雑怪奇なものとなっていた。
陸・海軍がいがみあい、陸軍内部では内ゲバが深刻化して戦争に勝てるわけがなかった。

・陸軍では桜会が結成されその派閥抗争に激しさを増していった。桜会はクーデターによる軍事政権樹立を目指したグループで、中心人物は橋本欣五郎中佐で、中には日本を敗戦に導いた牟田田廉也、富永恭次、辻政信らがおりこれが東条英機の軍国官僚主義へと進んでいく。
桜会はクーデター未遂事件(三月事件・十月事件)を起こしたのち解散させられるが、メンバーの多くは統制派の実力者としてそのまま軍部に残り、対立する皇道派が2.26事件を起こし失敗し軍部から一掃されると陸軍の中枢を占めるようになっていった。
解せないのは、諸外国では極刑に処せられるべきこれらの国家転覆罪・反乱罪の首謀者らが軽い処分ですまされ追及が軍上層部に及ぶことはなかった。こうして甘い処分に味をしめた軍部は規律やモラルが徐々に確実に崩壊していった。統制派や海軍は、天皇陛下を「天ちゃん」とよんではばからなかったがその一方彼らは天皇を利用して好き勝手をやりだした。そしてその野放図の果てにできたのが桜会をのみこみ、革新官僚をとりこんだ独善的エリート軍閥、東条英機・統制派の「国家総動員」と「統制経済」だった。国家総動員法はヒトラーの、統制経済はスターリンのまねであった。

・武士的な情緒や行動倫理を持つ皇道派と、合理的な統制派が合体すれば日本の軍隊は世界最強となったかもしれない。だがそれをできたと思われる永田鉄山はテロに斃れ、石原莞爾も、表舞台から去っていく。

・昭和10年8月永田は、陸軍の相沢三郎中佐に惨殺された。

筆者は「日本史でこれほど重大で、罪の深い暗殺は例がない」と書いている。

・軍政の永田と軍事の石原がコンビを組んでいたら、鬼畜米英や生きて虜囚の辱めを受けず、と叫んだ東条の出番はなく、あの戦争は全く違ったものになっていたか、そもそも起きなかったであろう。

・東条は、敗戦間際独立運動家でインド国民軍を創設したチャンドラ・ボーズに頼みこまれて牟田田のインパール作戦に許可を出している。その時東条は反対する参謀本部に「あの愛国者に報いることは日本の使命」といったという。

・永田の「対支一激論」は石原の「支那撤退論」と通じるところがあり二人が生きていれば早い段階で支那から日本軍を撤退させていたであろう。
陸軍大臣であった東条は、支那戦線の縮小を求める近衛首相に「できない」と返答している。

・2・26事件が起きたために統制派が息を吹き返して日本を負けいくさに引きずりこんだという事実がある。
2・26事件が成功していれば、日本は皇道派の戦略によって対ソ戦と島嶼防衛、南方戦略に戦力を集中させ、海軍の太平洋戦略と統制派の支那消耗戦は、放棄されていただろう。
陸軍はおおむね決起舞台に同情的で、・・・統制派が討伐隊を出そうにも山下奉文らの皇道派が封じ込めていたであろう。要するに、天皇の命令がなければ2・26事件は成功していたであろう。

・皇道派に方法論がなかったように、統制派と海軍には、目的論が不在であった。何のために戦争するのかわからないが、予算を分捕って、陸軍は支那へ、海軍は真珠湾へ突っ込んでいき、あとは無責任に、和平調停を待った。
それが皇道派を壊滅させた統制派と海軍の戦争だった。

・こうすれば戦争に勝てる、戦争に勝ったらこんな世界を作り上げるという青写真のないまま、彼らは戦争に踏み切った。あったのは石油を断たれると日本は滅びる、ハルノートを受け入れると三等国になるという強迫観念だけで、戦争を始めるとどんな結末になるかという冷静な分析はなされなかった。

・日本の軍部で内ゲバが激しくなったのは上層部がエリートだったからである。英米も上層部はエリートだったが違うのは彼らは「ノーブレス・オブリージ(高い位置に伴う道徳的・精神的義務)」といういわば武士の魂のようなものを持っていた。ところが先の大戦を指導したエリート軍務官僚は、軍事テクノラートであって武士でも軍人でもなかった。

・戦後、天皇の官僚はそっくりGHQの官僚となって霞が関に引っ越してきた。2・26事件後の粛軍体制と「国家総動員法」の革新官僚群―日本を敗戦に追い込んだ官僚体制が、何食わぬ顔で、いまも霞が関に陣取っているのである。

・ヨーロッパ列強にズタズタにされたアジアの中で、日本とタイだけが侵略をはねつけることが出来たのは、両国に、天皇と王がいたからである。

・鹿鳴館文化は、葛飾北斎らの浮世絵版画を二束三文で外国に叩き売るような文化破壊を伴っていた。蔑亜(日)排王欧の風潮は、岩倉具視がパリの街角にガス灯が立っているのをみて衝撃を受けたような、もともと、根の浅い情緒的なものである。
伊藤博文、山県有朋、井上馨ら、足軽出身の政府要人に、それらが近代化の象徴に思えたのは、かれらに、精神文化の担い手だった武士の心が欠けていたらである。

・文化破壊が有害なのは、売国思想を伴うからである。

・毛沢東の戦略は、のちの文化大革命で明らかなように、徹底した文化破壊で、歴史や文化を失えば、人間はみな共産主義者になるというものだった。この恐ろしい戦略に手を貸したのが、外国勢力のGRU(ソ連参謀本部情報局)だった。

・民族や国家、歴史や文化の存亡がかかったヨーロッパ型の戦争は、すべてを奪った後、皆殺しである。日本は、太平洋へ悠々と一騎打ちにでかけたが、アメリカは原爆と都市空襲で、ソ連は国境を破って、非武装の日本人を大量虐殺した。内ゲバに明け暮れていた日本軍は、ゆるんだ精神のまま戦争を仕掛け、そしてボロボロになって終戦を迎える。

・ヤルタ会談で、短躯のスターリンは、ルーズベルトを見上げてこういってのけた。「北海道は、わがソ連邦の領土とする。本州はアメリカと中華民国が領有し、九州と四国は、イギリスとフランスに割譲されるべし」

・日ソ中立条約を破って満州・樺太・南樺太・朝鮮戦争に進撃し、おびただしい数の日本の民間人を撃破したうえ、60万人にものぼる日本兵をシベリアに強制連行したばかりか、スターリンは、蒋介石やチャーチルに拒絶された日本の<四か国割譲>を単独で実行に移すべく、択捉島と国後島に戦艦を接岸させてこれを占領すると、さらに道北をうかがった。

・ルーズベルトに代わって大統領に就任したトルーマンは、ソ連に対する軍事的優位をしめすため、広島と長崎に、予告なしに原爆を投下した。

・日本が目指した近代化=西洋化が行き着いたのは、さむらいの文化を捨てた、驚くほどの戦争下手と、共産主義と英米主義に引き裂かれた、脱亜入欧のなれのはての、かつて体験しことのない敗戦だった。

・先の大戦には、スターリンとルーズベルトという、二人の主役がいた。
前者は、悪玉で、後者は、愚者だった。愚者は、悪玉より始末がわるい。前者は、たぶらかすが、愚者はたぶらかされるからである。
ルーズベルトは、日米戦争にかかわりのないソ連に対日参戦をもとめ、一方、蒋介石にそそのかされるまま、日本にたいして敵対政策をとりつづけた。

・ルーズベルト大統領とハル国務長官のもとには、多くの共産主義者やスターリンのスパイが潜りこんでいた。
なかでも、ハリー・デクスター・ホワイトとロークリン・カリーはルーズベルトの政策決定に大きな力を持っていた。
後日、議会の承諾なしに、ハル長官が日本政府につきつけることになる対日最後通牒-ハルノートは、ハル自身が書いたものではない。ホワイトが、それよりも、はるかにきびしい内容にリライトして、ルーズベルトにのませたのである。

・小柄な支那の美人が、ニューヨークやハリウッドなどの支那支援集会に出席して達者な英語で、涙ながらに支那への対日制裁をうったえると、タイムやライフが、それを大々的にとりあげ、やがて宗美齢は、アメリカでもっとも有名で、人気のある東洋人になった。

・愚者はたいてい嘘つきである。1940年10月30日、ルーズベルトは、三選をかけた大統領選挙の一週間前ボストンで「・・・海外のいかなる戦争にも、けっして送りこまない」と演説した。
1939年9月におこなわれた世論調査では米国民の97%が欧州戦線の参戦に反対していた。参戦しないという公約を立てなければ選挙に勝てそうになかったルーズベルトは、自らに戦争をしないとこいうことを課したのである。宣戦布告なしに攻撃でもされない限り・・・

・しかし日本は、真珠湾攻撃に踏み切った。
ルーズベルトは、満面の笑みを隠して下院議会で対日宣戦の演説をおこなった。
つづいて演壇に立った共和党のハミルトン・フィッシュ議員は、党派を乗り越え、ルーズベルト大統領のもとに団結して、祖国の危機に立ちあがろうという演説にすべての議員が立ちあがって拍手を送った。
だがハルノートの内容を知ったフィッシュ議員はこの演説の内容を撤回した。
彼は「わたしは、ルーズベルトが日本に恥ずべき最後通牒を送って、日本の指導者に開戦を強要したことを知った。わたしは、わたしの演説を恥ずかしく思っている」といった。

・ロバート・スティネットの『真珠湾の真実』によると、ルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていたという。それを教えたのはチャーチルである。
当時アメリカは日本海軍の暗号は解読していなかった。解読したのは、ミッドウェー海戦の直前である。

・ルーズベルトは、さらに嘘をついていた。
「フライング・タイガース」である。
この時期アメリカは、フライングタイガースとよばれる空爆部隊を支那に派遣して、支那軍と合同で日本本土を爆撃する計画を立てていた。目標は、大阪、神戸、京都、東京、横浜で爆撃には木造住宅の多い日本家屋に合わせて焼夷弾を使用する計画だった。この計画に、陸海軍長官とルーズベルトが承認のサインをしている。
この情報を日本陸軍は中央特集情報部を通して知っていた。この情報をアメリカ議会に告発したらルーズベルトの公約違反がばれて辞任に追い込まれる可能性があった。またそうならなくても日米交渉が有利に進む可能性があった。またそれ以前に対日制裁が撤回されていたかもしれない。
だが日本政府は、沈黙した。
ハルノートの度外れた要求も、フライングタイガースの違法参戦も日本は公表すらしなかった。
理由は、外交の拙さだけではない。日本の官僚制度は、外務省、内閣、海軍・陸軍と縄張り意識が強く互いに情報遮断し合い、その結果日米交渉に限らずすべての外交交渉が、秘密交渉になっていたからであった。

・ルーズベルトは、戦争がはじまると、日系人を沙漠の金網の中にとじこめた。同じ敵国人でもドイツ系、イタリア系米国人が強制収容所にいれられることがなかったのは、彼らが東洋人でなかったからである。

・ルーズベルトはヒトラーを憎んだが、ドイツ人を憎むことはなかった。だが東条を憎む以上にルーズベルトは日本人を憎んだ。マンハッタン計画はもともと、ドイツの原爆開発に対抗するものだった。だがルーズベルトは、ドイツではなく、日本18都市への原爆投下命令所にサインをしている。ドイツ空爆は、工場施設に限定されていた。だが日本への都市爆撃は、民間人をターゲットにしたジェノサイトだった。

・日本の潜在能力に恐怖を感じたのは、ルーズベルトだけではなかった。列強のすべてが非白人による帝国の出現に怯えた。ヒトラーでさえ、シンガポール陥落の報を聞いて「うれしいような、かなしい気分だ」と述べている。人種差別主義者のヒトラーにはほろ苦かったのである。

・ヒトラーが、モスクワを落としても、スターリンがナチスを倒しても、英仏には、負けしか残されていなかった。英仏を救うことが出来るのは、眠れる大国ーアメリカの参戦だけだった。

・日本がアメリカに戦争をしかけなければ、イギリスは滅びていたかもしれない。

・ロバート、スティネットの『真珠湾の真実』はど多くの著書は、ルーズベルトが日本軍の真珠湾攻撃をあらかじめ知っていたとのべている。だが当時、アメリカには日本軍の極秘情報をさぐりあてる諜報機関も、海軍の暗号を解読する能力もなかった。

・イギリスは極東連合局FECBを通じて海軍の動きを全てつかんでいた。

・一度公開されたのち、ふたたび封印されたFECGの極秘資料には、択捉島単冠湾に集結した日本海軍機動部隊が、ハワイにむかった日時までがしるされていたという。

・イギリスが解読できたのは、日本の外交暗号「パープル」と海軍の作戦暗号で、陸軍の暗号は戦争が終わっても暗号スタッフが地下にもぐったためにいまだに解読されていない。

・日本の「パープル」と並んで解読が困難だった暗号がドイツの「エニグマ」であった。だがイギリスは遂にその解読に成功する。それによってドイツ軍の情報は筒抜けとなったが、チャーチルは、あえて爆撃目標となった街を見捨た。暗号を解読していることをドイツに知られないためであった。

・アメリカは、真珠湾攻撃等の情報をイギリスから得ていたが、独自に解読したのは珊瑚海海戦以降である。

・日本の海軍は陸軍と違って防諜センスが甘く、無線傍受や、暗号解読に対する警戒心がなかった。同一の乱数表をくり返しもちいて、同じ暗号を何度も送った。結果、ミッドウェイの「AF」や、ハワイの「K作戦」などの地点略語が、米軍内で隠語のようにあつかわれる始末だった。

・1,944年3月31日、戦死した山本五十六に代わって連合艦隊司令長官になった古賀峯一大将と参謀長福留繁中将、司令部要員全員が乗った既報気が遭難して、作戦上の極秘資料が行方不明になった。
このとき、福留以下9名がフィリピンのゲリラに捕えられたが、ゲリラとの交渉で解放された。だが極秘文書は返還されなかった。ところが、海軍は作戦の変更、暗号の更新も一切おこなわなかった。戦後、公開された米側の公文書によると作戦計画や暗号書などはすべてアメリカ軍に渡っていた。


マァ、アホを通り越した愚かさ、卑劣さである。上層部連中は、自分らの失態に関しては、責任追及を恐れてほほかむりをしてなかったことにしたのである。
一方不時着して敵捕虜となり、解放された陸攻搭乗員たちには非情過酷で、連日出撃させ全員戦死させてしまっている。

・日本の外務省と海軍の暗号が筒抜けで、陸軍のそれが無事だった理由は一つしかない。何らかの方法で外務省、海軍の暗号がイギリスに持ち出されたのである。


マァここまで日本の軍隊というのは、愚かというのか、どういう言葉で表現したらいいのだろう。チャーチルは日本人というのは下等な人種と思っていたという。

・日本は満州を建国して、南方から列強を追いだしたところで戦争の目的は達成されていた。後は本土・満州・南方・南洋諸島を守っていれば、米・英・ソは手が出せなかった。しかし日本軍は、何の利益もないのに支那大陸に攻め入り、ハワイ真珠湾に奇襲をかけ、アメリカの参戦を招いた。そればかりでなく、連合国軍に勝つために急所だった「西方戦略」を放棄して本土防衛を怠り、米豪分断という戦略的価値のない目的のため、南太平洋にでかけてゆき、世界一の海軍を全滅させてしまった。

・チャーチルは「今度の戦争ほど防止することが容易だった戦争はかつてなかった」といった。

・パールハーバーアタックを聞いたチャーチルは一日中部屋にひきこもり、部屋からでてきたとき一言「勝った」とつぶやいたという。

・原爆投下を勧告した「暫定委員会」に海軍代表として参加していたラルフ・バート海軍次官でさえ、何度もホワイトハウスを訪れ、日本にたいして、ヤルタ協定に従ってソ連が対日参戦すること、原爆を使用する用意があることを事前につたえて、降伏を勧告すべきであると説いたがトルーマンはとりあわなかった。チャーチルも、トルーマンに無警告の原爆投下を諫めている。トルーマンの返事は「日本は真珠湾を攻撃するとき、警告をしたか」だった。

・ドイツは日本と違って国家が消滅していたので、戦後処理の必要がなかった。ニュールンベルグ裁判で裁かれたのは、戦犯ではなく、ホロコーストという大量殺人の犯罪者たちだった。東京裁判でGHQが、ニュールンベルグ裁判でもちいた『平和にたいする罪』という事後法をもちだしてきたのは。主権国家には交戦権がみとめられているため、戦争行為を、戦争犯罪として、裁けなかったからである。

・ルーズベルトは、十数発の原爆で、数百万の日本人を殺戮する計画を立てていた。本土決戦が、実際に行われていたら、原爆の被害は、広島と長崎だけではすまなかった。

・ルーズベルトの急死後、トルーマンが大統領になったとき、ようやく、日本に対する降伏勧告書が作成された。元は、天皇の地位保全が明記されていた。これがそのまま日本側に提示されていたら、もっと早く戦争が終わっていたはずだった。
 日本側がこの勧告書を拒否したのは、バーンズが勝手に、<天皇の地位保全>の項を削除したからで、ポツダム宣言から、<立憲君主国>の文字をもぎとったのも、バーンズだった。
 理由は日本が早期に条件降伏すれば、原爆投下の機会が失われるからである。

・原爆の無警告投下に強く反対した者も米国政府にたくさんいた。それをはねつけたのもバーンズだった。

・トルーマン新大統領は、バーンズの提案を容れて、無警告という、非人道的な方法で、原爆の投下を命じた。

・戦後石橋莞爾は、GHQの諮問にたいして、原爆を投下したトルーマンが最大の戦犯と非難した。だが不思議なことに、東京裁判では、被告席に座らされた誰も原爆投下の抗議をおこなわなかった。

・パル判事が、原爆記念碑の碑文に『過ちはくり返しません』とあるのを見て怒ったのは有名な話である。あれほど勇猛で、誇り高かった日本人が、なぜ、こうも卑屈な民族になりはてたのかと、一人涙したといわれる。

・無理もない。戦争で真っ先に死んでいったのは、甲種合格の逞しい男たちや、優秀な学徒であった。戦後生き残り羽振りを得たのは、軍隊からはじき出されたひ弱な者たちや、戦争に行かなかった役人、学者たちだった。

・広島平和公園の碑文『過ちはくり返しません』をかいた広島大学の雑賀忠義教授は、世界市民として、原爆投下の責任を共有するといった。

・東京裁判開廷の日、戦争中、鬼畜米英、撃ちてし止まん、真の兵士はわらって死ねと煽った日本の新聞は、「GHQのみなさま、お役目ご苦労さま」と書いた。

・東京裁判は、アメリカが原爆と空襲で殺戮した民間人とほぼ同数の支那人を-日本兵が殺したという虚構をつくりあげるためのセレモニーで、「平和にたいする罪」は、そのための小道具だった。
 南京大虐殺は、ブレークニーとローガンが、アメリカの原爆投下を争点にあげると、とつぜんもちだされた。

南京大虐殺を報じた外国人はベイツで実際に虐殺を見たわけではない。証言したのは支那人5人と3人のアメリカ人だった。
東京裁判が終わった、ベイツは用済みとなって消えた。

・それから33年後の1971年、朝日新聞の本多勝一が、日支戦争中に、日本軍から被害をうけたという中国人の証言をまとめた「中国の旅」がベストセラーになると、同書に引用されたベイツの寄書が、ふたたび注目を浴びることになった。

・南京陥落時に在南京日本国大使館に勤務していた福田篤康氏は「20万、30万はおろか、千単位の虐殺も絶対にない。外国人ジャーナリストの衆人環視のなかで、そんなことをしたら、大問題だ。絶対にウソである」と述べている。

・当時歩兵が持っていたオンボロ銃と2~3人斬れば使い物にならなくなる軍刀で、休むことなく50日間、一日、6000人を殺すことは物理的に無理である。
たとえ可能だったとしても、死体の処理は、とうてい、手に負えるものではない。
 中国政府は、日本軍が、遺体を隠したといっている。だが、30万もの遺体をどこかに埋めたのなら、これまでの発掘調査で人骨のかけらさえみつかっていないのは、どういうわけであろうか。



●日本大使館が「宣戦布告」を遅らせたことについて、非常に不可解な事実がある。

先の大戦では、信じがたいことが多々起きたがその中でも日本大使館が宣戦布告を遅らせたことほど異様な出来事はない。

真珠湾攻撃が宣戦布告の55分前にはじめられたのではない。日本大使館が、宣戦布告書の提出を1時間遅らせたため、結果としてだまし討ちになったのである。

・・・ハル長官に、覚書を届けなければならない翌日、大使館員は、全員遅刻した。

普段、夜遅くまで勤務しても、翌日、遅刻をする者など、一人もいなかったにもかかわらず、宣戦布告書を手交する前日と当日にかぎって、そんなことが起きた。

 126日の午前630分、外務省から、予告電報につづいて、午後3時までに、14通のうち、13通の電報が、大使館に届いた。・・・だが、かれらは翌朝までにすませておかなければならなった、13通の電報の解読とタイピングをサボって、送別会で飲み食いをして、翌朝、全員、揃って遅刻した。

 それだけではない。6日の夜にかぎって、外電を受信する電信課の担当をおかず、7日の朝は、だれも、電信課に足を運んでいない。7日の早朝に届くと知らされていた14通目をみつけたのは、大使館員ではなく、部外者の海軍武官だった。

 戦後、関係者は、処罰をうけるどころか、全員が外務省で異様な出世をしている。

・・・戦略的に失敗だった真珠湾攻撃と、その真珠湾攻撃を“だまし討ち”に仕立てた宣戦布告の遅滞には、吉田茂を筆頭とする英米派の影がうごめいている。


・ロバート・レッキーは「日本軍は、世界一強かった―日本の戦争指導者は、世界一、愚かだった」といった。


・基地や戦艦をまもるだけなら、飛行機も、レーダー網にひっかからずにすむ。

 アメリカの士官学校の教科書にも載っているという、石原莞爾の「島嶼防衛構想」を聞いた米海軍の関係者は、首筋をなでながら、石原が日本軍の総大将でなかった幸運を感謝したという。


・「努力即権威」を座右の銘にしていた東条は、勉強に努力を惜しまず、じぶんと同様、士官学校や陸大をトップで卒業した者たちをとりまきにして、かれらに戦場の指揮をとらせた。


・真珠湾攻撃や中国、南洋進出などやらず、サイパン島を要塞化して、アジアからヨーロッパ列強を追い出す当初の戦略にしたがっていれば、アメリカは、日本に手も足も出なかった。

・・・書こうとしたのは、そのことだけはなかった。日本の勝ち戦を負け戦にした、日本軍、とりわけ、日本海軍の謎にみちたふるまいだった。


・統制派の台頭と薩長閥を放逐した永田鉄山や東条英機らの「バーデン=バーデンの密約」によって、日本軍は、学閥エリート、欧米留学組の牙城と化した。


・武士にあって、エリートにないのが誇りである。







藤沢周平「龍を見た男」

今回の長崎行きで持って行った本。
野母崎でもゆっくりとした時間が持て、その帰路ではべた凪の中ナックに舵を任せて出島までキャビンに潜り込んで至福の読書タイムも持てた。一冊しか帯同していなかったので、読み切ってしまい夢彩都の紀伊国屋でまた藤沢作品を一冊買った。氏の長編はもうほとんど読んだし、短編も2/3くらいは読んでしまった。藤沢作品の名作はほとんど読んでしまったのかもしれない。すべて網羅したらまた好きだった作品をパラパラ読み返そうと思っている。
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 表題のほか8編からなる短編もの。
 「本所しぐれ町物語」と同じく筋立ての甘い作品ばかりであった。起承転結の結がないので何とも読後感がおさまりがつかない。ただその氏独特の自然描写、背景の描き方は読んでいるだけで心が豊かになる。
 この作品たちも藤沢ファンがひそかに読むものであろう。

「帰ってきた女」
 さんざん不義理をして兄を裏切り男のもとへ走った妹。その後は男に捨てられ女郎にまで身をおとしていた。金になると思ったかその男が明日をも知れぬ命だと知らせに来た。兄は、二度とかかわることをしないと突き放したにもかかわらず妹を探し出し引き取り介護する。その介護の甲斐あって回復した妹はまたその男と会っているとのうわさが流れるという話。藤沢作品でよく描かれるの兄と妹の温かいきずなを書いた作品。

「おつき」
「龍を見た男」
「逃走」
こそ泥の話。そのこそ泥があるとき赤子を拾う。その赤子を自分を追っている岡っ引きの女房に押し届ける。
「弾む声」
隣の娘を誘いに来る友達の女の子の弾む声が老境にある夫婦には心地よいものだった。だがある日突然にその女の子はぷっつりと姿を見せなくなる。
「女下駄」
下駄職人の男は、けなげに働く嫁が好きだった。その嫁に心を込めて下駄を作った。喜ばせてやろうと・・・だが嫁には男の影がちらつくようになってきた・・・
「遠い別れ」
「失踪」
「切腹」
 意地の張り合いで些細なことで仲たがいした二人の男が、いざという時にはわが地位も名誉も捨てて友情でおたがいの窮地を救う。この本の中で一番よかったかな。最後の結末も納得である。

続く

佐伯泰英「居眠り磐音 江戸双紙1 陽炎ノ辻」

P1020543

 これも帯のザァ~マニテンプティブな文句につられて買った本。何でも今回最終52作で完結したとのことだが今まで全く知らなかった。それにしても現時点で2000万部も売れたらしい。下世話だがものすごい印税収入であろう。昔は、所得番付が毎年公表されて司馬さんが毎年のように関西で文化人部門だったか何部門だったか忘れたが番付ナンバーワンだった。他人の懐具合を盗み見るようなこの別名長者番付は下品といえば下品だがそれはそれで興味深いものであった。
 この作家もこの販売部数だと天文学的な収入であろう・・・なんてのはどうでもいいことだが・・・



さて感想文。。。

そんなに売れたのなら第一部だけでも読んでみるかと買った。

読みだしてすぐものすごく藤沢周平を意識した筆致で、明らかにまねていると思った。 


 物語は、豊後水道に面する関前藩の前途有望な、磐音、琴平、慎之輔の3人の若者が江戸での遊学を終えて藩政を立て直すという使命に燃えて帰国してくるところから始まる。明和9年(1772)の設定だが、この関前藩は架空の藩である。ただ後半江戸が舞台となる深川本所あたりはすべて実在の地名でそれもかなり正確にその町の位置関係が再現されている。




幼いころから兄弟のように同じ剣道場に通い、学問も机を並べて競い合った3人であった。実生活においても一人妻帯者の慎之輔は琴平の妹を娶っていたし、磐音もその末の妹と婚約していた。江戸からは大坂まで陸路、大坂からは海路で長旅を終え懐かしい街並みを抜け橋のたもとでそれぞれの家に別れた。その夜に事件は勃発した。なんと慎之輔がその妻を手討ちにしてしまったのである。手討ちしたわけは妻の不義密通であった。その遺体を引き渡しも戸板に血がべっとりとついたまま玄関先で追い払うような無慈悲なものであった。だが引き取りに行った琴平はその仕打ちも妹の犯した罪を考えれば無念だが我慢するしかなかった。だが時を置かずにそれは全く噂にすぎず、またそれを流した男は藩でも札付きの鼻つまみ者であることが判明する。逆上した琴平はその仔細を問い正すこともなく妹を無残に惨殺した慎之輔とその噂を流した男を斬り殺してしまう。それだけならまだ琴平にも情状酌量の余地があったが、藩でも一二とその剣の腕を謳われた琴平は取り押さえようとした役人を4人も斬ってしまう。これではもう藩としては許すことができなくなりその討ち手に磐音が選ばれ死闘の末琴平を討ち果たす。道場では一度も琴平に歯が立たなかった磐音だが道場師範代は真剣を交えたら磐音が勝ると予言した通りであった。



藩の命令とはいえ琴平を討った磐音は、もはや藩では生きていけないと覚悟し藩に暇届を出して江戸に舞い戻り浪人生活を始める。そして日々の糧を得るために用心棒を生業とする。

 筋立ても藤沢周平の用心棒シリーズとそっくりであるというよりほとんどそのままである。

藩を出るまでの段は、情景自然描写も及ばずながらも藤沢氏をものすごくまねているが残念ながらやはり藤沢氏の描写はこの作家の一枚も二枚も数枚も格段に上等である。この作家の描く物語は45分物のTVドラマのようであり、藤沢氏のそれは自然豊かな城下町を背景にした総天然色(ちょっと古い表現か)の映画を見るようである。



磐音が江戸に出てからの段は、藤沢氏を意識するのは無駄だと知ったのかほとんど自然描写はなくなりストーリーのみを追う展開となっている。磐音の棲む長屋も藤沢氏の捕物帳の伊之助がうろつく本所あたりで全く同じ界隈である。

 先日それを読むために買った江戸古地図が望外に役に立っている。ただ実際の土地勘がないので場所は地図上で目で追えるのだが距離感がほとんどつかめない。一度東京に行ったときにそこらあたりを歩いてみたいものだ。その点、たとえば朝井まかての「すかたん」や、高田郁さんの「銀二貫」なんぞは、物語の舞台となる天満界隈はもとより、天満から大国町まで熟知しているので歩いてどのくらいかかるか手にとるように分かり読んでいてさらに情景が目に浮かび登場人物と一緒に歩くことができとても楽しい。誰か市井ものでいいから大坂を舞台にした時代小説を書いてくれないかしらん・・・



・半可通=知らんのに知ったかぶりすること、またそういう奴


・この舞台となった時代は、あの悪名高い田沼意次の改革の時である。時代小説でよく出てくる「南鐐二朱銀」がこの後半の物語のいわば主役となってそれを巡る話で展開する。

・烏金(からすがね)=その日暮らしの棒手振りなどに朝方資金を貸して、夕刻に回収する小口の金貸し。





蛇足だが、時代小説を読むときに、慣れないと困るのが、時間の表記と、貨幣価値である。時間は、暮れ六つと明け六つがそれぞれ午後6時と、午前6時に当たるのでそれを基準に計算して読んでいたが最近では流石に慣れてきて五つ半とか、四つとか書かれていても換算せずにすぐに理解できるようになった。
 貨幣は、江戸初期と末期、また現代と人件費と物価とのバランス等はあるが大体一文=30円で計算して読んでいる。マァこれでおおむねよしであろうと思う。時代小説に出てくるかけそばは一杯10文から20文である。



四朱で一分、四分で一両で、(四進法)。
そしてこの文中では1/8両が約500文であり、これでいくと一両が大体12万円となるがこれは少し多すぎるように思う。


 もう一つ蛇足だがこの明和9年は、「めいわく(迷惑)ねん」と揶揄されるように、江戸庶民にとっては大災難の年で、「明和の大火」「田沼の改革」等々散々な年であった。

 そんなこんなで結構面白く読んだが、やはり藤沢作品に比べると筆致、筋立てで数段落ちるように思う。

だが今読んでいる藤沢作品の「一茶」「雲走る」「密謀」が今一つ面白くない、どれも実在の人物を描いたいわゆる伝記ものだが、藤沢氏はこの伝記ものの出来があまり良くない。はっきり言って退屈なのである。


 この磐音シリーズは延々と続くのでこれを読みだしたらこれら藤沢作品他を読む時間をだいぶとられるだろうと思うが・・・さて第2巻を買って読もうかなぁ~~どうしようかなぁ・・・ザァ~マニ迷うなぁ~~~

藤沢周平「ささやく河」。

本 010
捕物シリーズ第三弾。
 島帰りの男が殺される。追い落としの罪(今でいう追いはぎ)での島送りだったがその男にはその2.3年前に二人の男と組んでもっと大きな事件、大店に押し入り強盗し、しかも丁稚一人を殺めていた。3人組はその後、強奪金を山分けし二度と会わないと約束して別れたが18年後島から帰った男はそのうちの一人の居所を探し出しゆすりをかけその直後に殺された。という話。
 この話はほとんど同じ筋立ての藤沢氏の短編を読んだことがある。
ただこの長編はそれより一つも二つも複雑に練られていて新鮮で、この3シリーズの中でも一番面白かった。忙しかったので三日程に分けて読んだが、毎晩寝床に入って読むのが楽しみだった。
 この物語でも両国橋を中心にしきりに町名が出てくるので、いつものように両国以外は架空の町名だと思っていたが不図ネットの江戸古地図で両国橋辺りを調べてみると、伊之助が住む長屋がある亀井町や伊之助に思いを寄せる女将の居酒屋がある松井町がホントにあった。

 早速江戸古地図を買って
本 009
虫眼鏡で見てみると町の位置関係がよく分かり伊之助のうろつく姿が見えるようだった。物語の背景となる場面が目に見えると全くその物語の面白さが倍増する。その地図とにらめっこしながらもう一度この作品を読んでみようと思う。

-伊之助はその一角を通りすぎて、橋に踏みこんだ。日はこれから行く神田の町のむこうに沈むところで、町の中の森の梢や大川の東河岸の町々には、まだ金色の矢のような日射しがさしかけているものの、橋はもうたそがれのいろの中にのみこまれようとしていた。

-同間声

中島要「なみだ縮緬」

P1020432
シリーズ第5弾である。もともと中島要なんて作家は知らなかったのだが高田郁さんが帯に推薦文を寄せていたのでこの初刊を買った次第。最初の3作品は高田さんの推薦通りに流石に面白かったが4作目あたりから話が崩れてきたようで、前作では京から進出してきた呉服屋が犯罪がらみのえげつない商売をしてそれにまして飯屋にいる与太者に上方の商売はえげつないなどと吠えさせて非常に不愉快であった。これ以降、この作者の作品は金輪際読まないと決めていたが何を思ったかこの本を買ってしまった。だがこの2編目のなかでまたしてもこの京から来た呉服屋の若旦那が商売仇の店先でわめき散らす。。。。流石にここで読むのをやめた。なんぼ何でも京で成功して江戸に支店を出すほどの大店の主人が商売敵の店に乗り込んで大勢の客の前で大騒ぎを仕掛けるなんてことをするだろうか。ましてや利に聡い上方の商人はそんな損をすることは絶対にしない。この作家は関西人をなめているのか、過去によほど関西の男にでもだまされ捨てられたうらみでもあるのではないか・・・今度こそこの作家の作品は絶対に読まない。。。

真田三代と信州上田。


P1020422
 昨年の4月みんなで長野のエリちゃんを訪ねたときに、彼女が案内してくれた別所温泉の花屋旅館で買った本。
 一年がかりで読んだことになる。今年奇しくも正月から大河ドラマで真田信繁が主人公の「真田丸」が放映され始めその折の上田、海津城訪問がタイムリーとなったが、真田信繁についてはほとんどその人物を知らなかった。関ケ原の戦いの折上田で秀忠の大軍を全く劣勢の軍勢で父の昌幸食い止め関ケ原に間に合わせなかった。父子で真田の名を残すために東西両軍に分かれて戦った(このことは近年見直されている)くらいの知識のみである。
 ただ幸村という名が、講談上のもので本名が信繁ということは知っていた。大坂夏の陣で討ち取られた安居神社も行ったことがある。
 今回の放映で「幸村」という通称が広く「信繁」に呼称改めされるであろうが、この本の中でも幸村という名が大きく使われている。このガイドブックも大きく書き換えられるであろう。

Anywayドラマ「真田丸」中々面白い。。。

-三方ヶ原で家康を粉砕したのが元亀3年。その翌年甲府への帰還途中天正元年(1573)に信玄は亡くなった-

滝口悠生「死んでいない者」

P1020430
 読むのが苦痛な作品だった。何でこんな小説が芥川賞に選ばれるんだろう。。。
 葬式の通夜に集まった親戚のそれぞれの事情をだらだらと&だらだらと延々と描いている。大家族の親戚なのでやたら似たような名前の人物が登場する。そしてだれだれの顔が似ているとかもう一つの今回の受賞作と歩調を合わせたような内容が語られる。そして一人称の語る人物がころころと変わるのでものすごく読みづらい。何とか我慢を重ねて2/3ほどまで読んだが、いつまでたっても物語が進まないので忍耐もこれまで・・・やめた。
 時間損したナぁ・・・

藤沢周平「漆黒の霧の中で」

彫師伊之助捕物覚え第2弾。
未明から読み始めて昼過ぎ読み終えた。
伊之助が偶々出会った水死事件の解明に挑む。読みだすととまらない面白い作品だった。
2015-9-30屋根修理
―生酔い本性たがわず―

堀越二郎「零戦」。

P1020415

 正式名「零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)」誕生にかけた堀越二郎の自伝。

 昭和1210月海軍から三菱重業名古屋航空機製作所に一通の書類が届いた。それは戦闘機の設計依頼書でその中に書かれていた戦闘機の性能要求はとてつもないものだった。

その内容は、掩護戦闘機として、敵の戦闘機よりすぐれた空戦性能を備え、迎撃戦闘機として、敵の攻撃機をとらえ、撃滅できるものというもので、長距離を飛ぶという航続性能と機敏に動くという運動性のおよそ相反するものを要求する苛酷なものであった。とても実現できるとは思えない要求で堀越らは海軍に要求項目を減らすように求めたが頑として受け入られなかった。それから堀越を中心とした三菱航空機制作プロジェクトチームのはるかな目標に向かって壮絶な挑戦が始まった。

そしてテストパイロットの2名の殉職者他数々の難題の克服を経て遂に昭和157月末、彼らの作った戦闘機は十二試艦機として海軍に制式機として採用された。時に皇紀2600年であった。「零式艦上戦闘機・一一型」と名づけられた。「零戦」の登場であった。


こうしてまず支那戦線に投入された零戦は、当時の世界最強、無敵を誇り圧倒的な空戦戦果を挙げた。当時の軍部イコールといっていい海軍は(大東亜戦争は大きくは海軍の戦争であったといえよう)この零戦をもって大東亜戦争への突入を決定したといっても過言ではない。


その戦いの中で当初は無類の強さを発揮したが戦いが長期化複雑化していく中で零戦もアメリカに徹底的に研究されその弱点が暴かれ、戦争末期には古(いにしえ)の戦闘機となっていった(アリューシャンでほとんど無傷でアメリカ軍に発見された零戦はハード、ソフトとともに徹底的に解剖された)。

だが軍部はその華々しく登場し、無敵を誇った栄光が忘れられずに零戦を酷使しつづけた。その生産機数は、1万機を超えた。同一機をさほどの大きな改良もせずに何年も使い続けるとは信じがたいことである。後継機として末期に敵の新鋭機に対抗できる機として紫電そして紫電改が登場するのは終戦の4か月前のことであった。その登場からもなおも零戦は飛び続けたがその最後の役目は若者を敵に体当たりさせる役目であった。堀越は、その事実を前に涙にくれたという。特攻を立案した者は勿論、漫然とそれを命じた阿呆の軍部連中、現場の無能、且つ冷徹、且つわが身だけかわいさの指揮官たちは日本人として決して許せない連中である。



  この作品を読んでますます、もう一度戦闘機という役を担い生まれ駆り出されていった悲運の零戦を戦前の日本の技術の粋を集めた芸術作品として再生しこの平成の穹天に舞い上がらせてやりたい意を強くする。

本文より。。。

-戦闘機ほど、エンジンによってその性能を左右される機種はない-

零戦が完成後中国戦線に投入されるに及んで堀越はこう述べている。

-私は、千何百年来文化を供給してくれた隣国の中国でそれが験(ため)されることに、胸の底に痛みをおぼえていた-

-こうして、一日平均一機が生産され、各務原から横須賀に空輸されていった-

-零戦の型を表す一一とか二一とかいう番号は、上の数字が機体の変化を、下の数字がエンジンの変化を表している。したがって一一型から二一型への変化は、エンジンがそのままで、機体が目立った改造があったことを表しているのである-

-私も米英の抵抗はもっと激しいだろうと予想し、日本がこんなにも戦えるとは思っていなかったので、あいつぐ勝利に、もしかすればという気になってきた。最後まで戦えば日本は負けるだろうという最初の印象は変わらなかったが、いい時期に停戦ができれば、あまりひどい負け方はしないですむのではないかと思った-

-戦争がはじまった直後、オーストラリア、NZ、ジャワなどに分散していた3千余名の日本人はオーストラリアの3地区に分かれてキャンプに収容された。そのころオーストラリア空軍は、緒戦から日がたつにつれ威力をましていく零戦のために、手も足も出なくなっていた。議会では毎日のように、空軍を非難する演説がなされ、新聞は筆をそろえて無能な空軍は廃止したほうがましだとまで書いていたという・・・キャンプ内で・・・三菱商事の社員は、はからずも零戦のおかげで、大変厚遇を受け、肩身の広い思いをした。というのは、キャンプの監督将校たちは、三菱重工と三菱商事の区別ができず、ただ「三菱」という名前だけで、

「きみたちは、あの強いゼロ・ファイターを制作している三菱の社員だろう」

という尊敬のまなざしで接し、あっぱれだといわんばかりに、精神的な礼遇をしてくれたからであった。そこには、報復的な憎悪感はまったく見られなかったという-


-最大速度は、この前の型より二十キロ以上もふえ時速五百六十五キロとなった。これが、零戦の各型のなかでも、もっとも多く生産された五二型である。ただこれに乗ったパイロットたちに聞くと、二二型より翼面積が少ないために空戦性能が低下したことは否めなかったらしい-


-零戦の生産は終戦の日まで六年間も続けられ、三菱、中島両社あわせた生産総数は一万四百二十五機に達した-

本谷有希子「異類婚姻譚」

 学生時代、医局時代は芥川賞が発表されると必ずその作品を読んだものだ。ただ当時直木賞受賞作は、大衆文学なんぞと小馬鹿にして一切読まなかった。今から思うと赤面の至りである。
 最近では、真逆で毎回の直木賞受賞作品は必ず読むが芥川賞受賞作品はめんどくさくて読む気がしないし面白くもない。
 話題になった「火花」も知り合いの女の子が、あまりね、というので全く1ページも読んでいない。

 ただ今回は、先日長崎に行った折、帰りの空港でこの本を見つけて何となく買ったものである。
 受賞二作品の内最初の小説を先日から読んでいた。
 マァ平凡な作品である。何故この作品が芥川賞なのか理解できない。 最近の芥川賞はこんなに程度の低いものだったのかと愕然とする。 
 

 若い新婚カップルの女性の目から亭主を観察しながら二人の身のまわりに起こる出来事を淡々と追っていく。そして最後は、なんともわけのわからない終末を迎えてジエンド。

 受賞もう一つの作品はどんなのだろう。
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