Bigelle

Bigelle Capの日々の記録です。 Bigelleのホームページ: http://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/9542/ 

読書

浅田次郎「流人道中記(上・下)」

まったく久しぶりの更新です。その間も何人かの方が覗いてくれています。感謝です。

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浅田次郎の作品は、何作か読んだがどれも腑におちるものはなかった。ただ最後に読んだ「壬生義士伝」が結構面白かったので、このコロナ自粛でザァマに暇な中、新聞広告の「日本全土が感涙!」につられて通販で買った。

 

筋立てはさすがに当代きってのストーリーテラーなので一気に上下巻読み切ってしまったが、道中にまきおこる事件には、筋立てが理に合わない話もままあり、きわめつけは最後の締めくくりで、まったく納得いかず、読後感は極めて悪いものであった。

 

ネタバレになるが、不義密通の冤罪をきせられた大身が、それを雪(そそ)ぐこともなくなぜか諾としてうけいれ結果一族郎党を路頭にまよわせ、自身は蝦夷地に流されるなんて筋立てにはそれはないと思うし、こんな理不尽な話で終わらせ不愉快な思いを読み手にのこすなんていうのは、しょせん娯楽である小説の本筋から外れている。

 

もうこれも後味の悪かった「蜩ノ記」の葉室麟とともに浅田次郎作品を手に取ることはないだろう。

 

門井慶喜「屋根をかける人」。

この作品の著者の作品「家康、江戸を建てる」が面白かったので、書店で見つけて迷わず買った。主人公が、玉岡さんの代表作で「まけんとき」のメレル・ヴォーリスだったこともあり帰るなり期待を込めて読み始めてが・・・ほんと苦痛だった。文章があまりにも稚拙だったからである。途中まで、何とか我慢して100ページほど読み進めたが、もうアカン、ひどい文章、表現がなんどもでてきてついに我慢ならず。何百ページか飛ばして最後の百ページを読んで本を閉じた。久しぶりのギブアップ作品だった。ちゃんと今年読んだ本といっしょに並べようか、それとも他の残念作品と、大江健三郎作品といっしょくたに本棚の隅っこに並べようかどないしようかしらん。

 

昭和天皇(当時は今生天皇だが)が、メレルに直接終戦時の礼を述べる段は、「まけんとき」にもなかった場面で、このような会話がメレルと天皇の間に交わされたかどうかは、作者の創作かそれとも真実か解説でも不明としているがそれなりの事実に基づいているものと思う。

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・日本人は、なんでも会話の最初に「すみません」を入れるのにうんざりした。

・終戦時天皇は47歳。

・戦中から戦後にかけて、香淳皇后は1942年から44年にかけて宮中で聖書の講義を受けていた。

・昭和天皇も占領期には多くのクリスチャンと面会し、ローマ法王に親書を送り、皇后とともに聖書の講義を受けた。

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垣根涼介「室町無頼 下巻」。

GWの与那原~座間味~宮古で読もうとおもって、大事にとっておいた一冊。機中で、座間味~宮古の船中で、読んだ。久しぶりのナイトで結構きつかったが、ワッチ登板の合間に揺れるヨットの中でも読みふけった。(2019-5-10

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宮古島~関空。ANA機内にて。


・比叡山には僧兵が無数におり、日吉神社には神人(じにん)と呼ばれる世俗雑務をこなす下級神官たちがいた。

・下から見上げる人の顔は、その十年後の顔ともいう。

・番匠:木造建築の建築工。

・八代将軍義政の妻は日野富子。

・虹:虫偏が示す通り、古来から凶兆とされている。乱の兆しともいわれた。

 


百田尚樹「玄庵」。

久しぶりの投稿です。いっぱい書きためてはいるんだけど。UPする時間がなくて・・・
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大好きな百田さんの作品なので、ずっと読みたかったのだが、書店ではなぜかもうこの単行本は販売されておらず、文庫本発売のうわさも聞かないのでそれきりになっていた作品。

先日の沖縄行きで、玉岡さんの「姫君の賦」を那覇市内で探している途中で、ブックオフで見つけた。中古品だったが新品同様だったので、旅の移動の邪魔になるのも考えずに買ってしまった。新品同様と言ってもそこは、発売されてから時間もたっているので、読み終えてやはりいささかの劣化は気になった。もう中古品は絶対に買わないことにした。

2019-4-18

 

江戸、文化文政のころ碁打ちの話。将棋は学生時代から好きで、福島の将棋連盟まで指しに行ったこともある。ただ碁のほうは、周りに碁の好きな奴もいず、たまに教えてくれる奴がいても、その教え方がへたくそで(もちろん言いわけだが)面白みもわかないままだったが、開業してからとなりの内科の先生が碁好きで昼の休憩時間に懇切丁寧に教えてくれた。ほどなく彼が、プロに習うというのでその仲間に無理やり入れさせられた。四人一組で習うことにしその時、先生としてやってきたのが、木谷先生で、彼女は名門、木谷門の総帥木谷実師のお孫さんだった。月一で教えてもらい彼女のサークルにも入れてもらって、遠征(という一泊旅行の囲碁教室)にも参加させてもらったりもした。それは旅の移送途中も簡易碁盤を持ち出しあちこちで列車のなかで打ちながら、宿についたら食事前、食後ともう何番も暇があったら打つという囲碁三昧の旅でそれはそれで楽しいものだった。

おかげで、6級の免状をいただいたが、いまだに囲碁の楽しさはほとんどわからない。この本にも書かれているが囲碁を始めるのは、早ければ早いほうがよく、プロでも10代までに石を握らなければ高段には絶対になれないという。

将棋のほうは、小さい時から親父が好きだったので、なじんできたので、初段くらいの腕は(人に言われた)あると思うが、囲碁の6級は、名誉6級である。

 

下巻を読み終えたら、また碁盤を押し入れの奥から引っ張り出して、新聞囲碁でも並べてみようかしらん。

 

・囲碁は、紀元前1000年ごろ、中国で生まれたといわれる。

・平安時代には女性を中心に碁が盛んになった。紫式部も清少納言も囲碁が打てたといわれる。源氏物語、枕草子にも囲碁のたとえがよく出てくる。

・囲碁を飛躍的に進化させたのは江戸時代の日本人である。

・その始祖ともいわれるのが日海、顕本法華宗の僧侶。信長に仕え、囲碁名人の称を得た。

・名人は、信長の造語であるといわれる。京都の寂光寺の僧で、境内の本因坊という塔頭に住んでいたので、本因坊算砂と名乗った。

・信長と秀吉はわからないが、家康は碁好きだった。

・家康と算砂の棋譜は存在しない。おそらく算砂が家康の名誉になるものでないと遺さなかったのだろう。

・算砂は将棋もめちゃ強かった。

・碁は、日本語である。

・序盤、中盤、終盤の言葉は碁から生まれた。

・本因坊は、伊丹の剣菱が好きだった。

・碁盤、将棋盤の裏のへこみは梔(くちなし)の花をかたどったもの。四つの脚は実を模したもの。梔は口出しするなという意味が込められている。

・文化から文政にかけての時代(1800年ごろ)は化政時代と呼ばれそれまで上方中心だった文化が江戸を発信とするようになった時代である。

・「テラ銭」という言葉は、寺が博打場だったことから生まれた言葉だといわれる。

・碁の四つの家元は表向き僧籍のため、跡目は剃髪し、僧衣をまとった。ただ妻帯は許された。多くが別宅を構えていた。

・寺社奉行は、北町や南町奉行よりずっと格上で、譜代大名四人が月ごとに入れ替わった。

 


垣根涼介「ワイルド・ソウル下」。

先日久しぶりに読んだ現代小説「風よ 僕らに 海の歌を」(何度書いても覚えにくい外題だ。もうちょっとつかみのいいのにすればいいとおもうが)が、一気読みするほど面白かったので、同じジャンルで、長い間ベッドサイドに積み上げてあったこれを3月の沖縄行にお供させた。

 

風よ・・・と同じく実際にあった事柄を題材にしたもので、ここでは、外務省の犯罪ともいえる(というか犯罪そのものだとおもうが)南米移民を巡る悲惨さを中心に物語は進む。実際外務省は、害務省と揶揄されるようにその実態は、戦前のひどさと全く変わらないどころかますますその程度を悪化させている。隣国とのいわれなき中傷にもまともな対応ができないほか、先例主義、ことなかれ主義、先送りなどなどその官僚の権化ともいえる低レベルさに加え、外交官たちの選民思想、外交特権、使い放題の予算には、これでまともな国の国交担当部署なのかと、あきれを通り越して、強い怒りを感じる。

 

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下巻は、ブラジル移民で親兄弟、財産全てを失った主人公が、現在の外務省に復讐を決行する。上述したが、日本の省庁の、官僚の下劣さは、旧日帝国軍のその組織図と驚くほど近似している。結構なまともな、優秀な部下がいるのにその上層部には「なぜ?」という下劣な人物がのさばっているという構図である。ホンマこの国はどないなっとるんかと嘆かわしいことだ。

 

 

巻末の宮沢和史氏の解説文が秀逸である。

長くなるが引用する。

―「ワイルド・ソウル」このタイトルを書店で見た時、何とも言えない切なさと郷愁をおぼえた。「野生なる魂」私たちが無くしてしまった言葉だ。今の日本人が金と引き換えに売りさばいてしまった言葉だ。戦争に負け、占領軍に統治され、ストックホルムシンドロームにも似た日米の関係性の中で、自らを去勢してしまうことで開き直った我々は、自衛隊を煙たがり、日の丸を揚げることに抵抗を感じ、国歌斉唱を拒み、日本人としての誇りさえも売りさばき、それによって手にした金で世界を買い、そして、今、全てを失ってしまった。私たちは、全てを失ってしまった。私たちはいったい何をしているのだろう?どこを目指しているのだろう?―

 

・スペイン語とポルトガル語は兄弟言語。

・ブラジルには現在140万人以上の日系人がいる。

 


増山実「風よ僕らに海の歌を」。

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人間関係が複雑なので一覧表にして読み進んだ。こうして読むもの久しぶりだった。



久しぶりに並行読みしている本をすべてストップして読みふけった作品。作者は、私の数あるお気に入りの小説の中でもベスト5にはいる「勇者たちへの伝言」の増山実。

先月紀伊国屋で徘徊していて増山実の名を見つけまよわず買った。ちらっと読んでそのままになっていたのだがたまたま先週土曜日は何の予定もなかったので続きを読みだすととまらなくなった。(2019-3-12

 

8章から構成され、その中でまたいくつかの項に分かれ、そこの登場人物の断片的な語りで物語は紡(つむ)がれていく。それら話はひとつの物語として完結するが、全体的なものは漠然として見えてこない。しかし章が進むにつれ彼らが語った小さな糸が絡み合って物語の本筋へとつながっていく。このそれぞれが作中の人物(最後までこの人物が誰なのかは明かされない)に淡々と語るシーンは、増山文学の本骨頂であり、その語られる内容は、まるで語り手に同化したように目の前に情景が浮かんでくる。そして全体の流れは、章を追うごとにいきおいをましていく。こちらもそれにつれてページをめくるのももどかしくなるほど読む速度があがり、最後のページを読み終えるとこの物語が壮大な親子三代の家族ストーリーだったと知る。そして描かれた物語の一場面一場面が絡みを解かれたように目の前にはじけて浮かびあがる。素晴らしい作品だった。

たぶん今年のわたしの大賞となる作品となろう。

 

物語は、昭和1898日イタリアが降伏したその日の神戸港沖から始まる。舞台は、私が結婚後11年半にわたり輝いた日々を過ごした宝塚へと移る。描かれる街並みはすべて慣れ親しんだ思い出あふれる場所で、何度も涙が出そうになった。主人公が開くイタリアレストランのモデルであろう「アモーレ・アベラ」は自宅から徒歩数分に位置したし、宝塚ホテル、宝来橋、宝塚ファミリーランド、西谷地区、武田尾すべて何らかの過去の自分のいた状況が浮かぶ施設、場所ばかりであった。しかも物語が進んでいくと、学生時代何度も通った淀川河畔のラサスケートリンクがあらわれ、そしてさらになんとベンチャーズまでもが登場する。彼らはそのイタリアレストランに現れるのだがそこでの場面は、バンドをやっているものならゾクゾクするほど興奮するもので、たぶんこのくだりは作者の創作ではなくて事実であろうと思う。

 

超おすすめの作品である。

 

194398日イタリアは突然無条件降伏した。

・イタリア軍は、武器の開発は苦手だったが、「食」に関しての開発は熱心だった。レトルトパックも戦争中どこでもおいしいものが食べられるようにイタリア軍が開発したという説がある。

・イタリアには南北問題がある。

・突然のイタリアの無条件降伏は、末端の兵士には伝えられなかった。イタリアらしいといえる。

・シチリアを占領したスペイン軍は、無敵艦隊を作るためにシチリアの森林を伐採しまくった。

・アメリカ軍のイタリア上陸はシチリアから行われた。

・無線電信を発明したのはイタリアのマルコーニ。

・人生で予想できることが一つだけある。予想もしないことが起こるということだ。

・イタリアではフィアットの自転車が有名。

・武田尾は関ケ原の戦いで敗れた豊臣方の落ち武者の「武田尾直蔵」という武士が発見したことによる。

・木が風に吹かれるとき幹に耳を当てると「ザーッ」と水の流れる音がする。

・船が敵の機銃掃射を受けるとき怖いのは頭上をかすめる弾丸ではなくて、甲板に打ち込まれる弾丸の跳ね返りだった。

・サンタルチアは、ナポリの港の名前。

さー、あんたあーる、ちーあと唄う。

・シチリアには、「トマトの季節に、食卓にまずい料理は並ばない」ということわざがある。

・戦争の間、宝塚には軍需工場があった仁川をのぞいては、米軍の爆撃を受けなかった。占領後遊園地他を、アメリカ軍が使うためだった。

・昏(くら)い心を抱えながら・・・

・宝塚大劇場こけら落としは、1924年、大正13年。

・樹影。

・大阪から、淡路島の南方に行くには宇野から高松を経て鳴門海峡を渡っていった。船の名は住吉丸だった。

・園井恵子は、広島の中心部700mで被爆し、被爆当初は症状もなかったがやがて高熱、皮下出血、下血という放射線障害の症状が次々と現れ、821日に亡くなった。

・兵士たちは、死ねば靖国神社で会おうと約束した。

・終戦の翌年212月に大劇場その他は返還された。

・ピノキオはイタリアの童話「ピロチオ」である。

・「ファンタスチィコ」すんばらしい。「ボナセーラ」こんばんは。

・アメリカ人はトマトソースの代わりにケチャップを使う。

・手塚治虫は御殿山に住んでいた。

・スパゲッティのマリナーラは、船乗り。ペスカトーレは漁師という意味。

・おそ松くんのイヤミのモデルはトニー谷である。

・トニー谷は、宝塚の「新芸座」で働いていた。

・岩谷時子は、越路吹雪の付け人だった。

・スペイン語とイタリア語は7割がた同じである。

・メリーゴーランドはイタリア発祥で、カロセッロで戦争という意味で、馬に乗る兵士の訓練用に作られたもの。

・エリオは昭和21年生まれ。

・「ノーキーの弾くギターの音は、中音域に快い歪がある。これがベンチャーズサウンドの肝やと思う。この歪を創り出すには、ギターの出力とアンプの受け入れ側のアンバランスなイコライジングが必要なんや」

・スパゲッティ・アマトリチャーナ。ベーコンとひき肉とトマトソースのパスタ。アマトリーチェは町の名前。

・テレフォーノは電線風という意味で。溶けたモッツアレラが溶けて糸を引いて電話のコードみたいだから。

・マルクス・アウレリウス「自省録」。

・ダウンタウンズという広島のバンドはオリジナル曲ももち、吉田拓郎というサイドギターと、ボーカルを担当していた男が人気だった。

・ニーナシモンがデューク・エリントンの曲ばかりを歌ったアルバムがある。その中にソリチュードがある。他に「アイライクサンライズ」。

・カルパッチョは中世イタリアの画家の名前。強烈な色使いが印象的で、赤身のフィレの生肉のこの料理をカルパッチョと呼ぶようになった。

魚のカルパッチョは日本で生まれた。

・胡麻はアフリカからシチリアに伝わってヨーロッパに広がった食材。

 

 


2018読んだ本。

2018年読んだ本は、例年に比べてかなり少ないこととなった。
11月半ばに、映画「Bohemian rhapsody」を観てからQUEENにどっぷりはまってしまって、そればかり観たり、聞いたりしていた。映画は。結局5回も観に行った。もいっぺんくらい観てもいい感じ。

そんなことで11月12月に読んだ本は数冊である。

今年も面白い作品を見つけて楽しんでいこう。
「本はこころのごはんです」
長崎浜町の本屋さんで見つけたこの言葉、大好きです。
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3

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みんなみんないい作品だったけど、Captainお勧めの8冊たち。

その中でも特押しの4作品は、

「君死に給ふなかれ」
終戦間際に、練習機赤とんぼで特攻に向かった若者たちを描いた気高くも悲しくもある作品。日本人の素晴らしさと、一部軍部を代表するおろか且つ、卑劣などついてやりたくなる日本人が腹立たしく描かれる。

今年宮古に行ったら、慰霊碑に参って一輪の花でも手向けようとおもう。

「かちがらす」は、幕末鍋島藩藩主鍋島直正の先見の明を描いたもの。痛快である。

「立花宗茂」戦国時代。気高く生きた武将を描いたもの。男はこうありたいと、目覚めさせてくれる作品。アラスカクルーズの中で徹夜で読みふけった一冊。

「沖縄県知事・島田叡」戦中死を賭して沖縄に赴いた素晴らしき一人の日本人を描いたもの。Langkawi のビーチで読んだ一冊。こんな日本人がいたことを誇りに思わせてくれる作品。


伊東潤「江戸を造った男」。

  読み終えた本は、付箋をはがしながら一生懸命読後感想文を書いているのだが、なんせ付箋が多くすぎてなかなか完成しない。記憶の衰えは今にはじまったことではないが、付箋の箇所は覚えていないことも多々ありまたずんやり二度読みしてしまい遅々として進まないことだ。まぁ二度愉しめてそれはそれでいいのだが・・・

 

難波の地下鉄構内にある本屋さんで買ったひとつ。この本屋さんとは趣味が合っていつも立ち寄ると何冊か買ってしまう。

偉人の一代記という作品はほんと面白い。今年に入ってからも、覚えているだけでも、「かちがらすの鍋島閑叟」、「立花道雪」、「立花宗茂」の三冊はほんと面白かった。彼らに一様に通じるのは、人間が大きく、人情味あふれ、誠実だということだ。

そんなで昨日おとといと、一気に600ページの大作を読み終えた。当然ちょっと寝不足かな。

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さてこの作品、「河村瑞賢」の話である。江戸時代、東北の御用米(幕府天領で獲れた米)を、航路を開いて江戸に運ぶルートを作り、大坂の河内平野の氾濫する流域を治水によって穀倉地帯に変貌させた男である。


前野徹「第四の国難」。

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これも10年以上前に買った一冊。

20年以上も前に中国の李鵬が1995年「20ページ年もすれば日本なんかこの地球上から消えてなくなる」とのたまったが、まぁとりあえずまだ日本という国は現在存在しているが中身は実際滅んでいるかもしれない。先日も若い(といっても30歳だが)女性に「先日護国神社で特攻隊の慰霊祭があったので出席してきた」と話したら、「特攻隊って何ですか?」と問われた。唖然としつつも、一応の説明をしたが、わずか70年前に国、父母兄弟のために一命をとして敵に突っ込んでいった若者たちがいたこと。そして靖国で会おうと散っていったかられの慰霊を、その神社に、一国の長たる首相、元首たる天皇が参拝もしないというのは異常な国柄である。

 

 

さてこの作品、腑に落ちることばかりでかえって学ぶことが少ないことであるが、それなりに付箋がいっぱいついてしまった。二度読みしながら、抜粋してみよう。

 

・野呂田衆議院が先の戦争を「大東亜戦争」と呼称したうえで、

「米国が石油などを封鎖したから、日本はやむをえず南方で資源確保に乗り出し・・・いわば米国の策にはまってしまい・・・大東亜戦争で植民地主義がおわり、日本のおかげで独立できたという国の首脳もたくさんいるが・・・戦争で負けてしまったのは、政策の誤りであって、日本の文化、歴史、伝統が悪いと反省してしまったのは、本当に大きな誤りだ」と述べたところ、新聞各社が一斉に反発した。

しかし、この発言のどこが真実でどこが間違っているのか、はっきりと指摘した新聞社はひとつもない。例によって、戦争を助長する危険な政治家というレッテルを野呂田議員に貼って、その発言を封じ込めただけである。

 

・マレーシアのマハティール首相をはじめとして、日本にかんしゃしている首脳もアジアにはたくさんいる。

 

・大東亜戦争は日本政府が正式に決定した呼称で、太平洋戦争は戦後アメリカに押し付けられた名称である。日本が戦ったのはあくまで東アジアであり、太平洋が舞台ではない。

 

・アメリカでは大統領就任式の時に、聖書に誓う。アメリカではキリスト教と政治は表裏一体である。

 

要するに「政教分離」とは、アメリカ等西洋諸国が、あまりのキリスト教徒と政治の同調を戒めるために唱えた文言であり、政治と宗教とのそれほどの強いつながりのない日本で、重箱の隅をつつくところまでそのつながりを否定するのは、きわめて不自然である。

 

・えひめ丸と米原子力潜水艦との衝突時森首相がゴルフをしていてすぐに官邸に戻らなかったことがえらい問題になった。だがその時ブッシュ大統領がどこにいたか、どう対応しかたに触れた新聞は産経が少し触れたくらいで他の新聞社は一切報道しなかった。

 

・モンゴル帝国は、五代目皇帝フビライハンの時に大都(北京)に都をおいて国号を中国式に「元」と改称した。一回目の蒙古襲来は、1274年(文永の役)。三万人、九百艘で攻めてきた。大敗した元は、二回目は128166日(弘安の役)。4400隻、14万人で攻めてきた。この戦いは54日間に及んだ。そして730日台風が来て博多湾を襲い、3/4の兵力を失い無事帰還できたのは3万人に満たなかったといわれる。大群の中には、宋や高麗の兵もたくさんいた。

 

つづく。


あらすじとイラストでわかる「般若心経」。

  もうあっという間に、年末である。後二か月余りである。今年は、例年に比べて読破した本の数が少ない。理由は簡単、iPadでトランプゲームを馬鹿みたいにしているからである。自分では、ボケ防止になるのではと、かってな理由をつけて励んでいるのだが最近はiPadでどのくらいの時間、それを閲覧しているかがわかる。そしてそのゲーム使用時間も分かるのだが多い時には週10時間になることもある。10時間あれば小説一冊読める時間である。iPadTVを至近距離で観ているようなものなので眼も悪くなるし、これはよくないと思うのでせめて5時間以下にしようと思っている。

  Anyway、「般若心経」読めば読みこむほど奥深い教義である。

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・ブッダとはサンスクリット語で「覚醒者」のこと。つまり悟りを開いた者。

・お経は「伝承」を意味するサンスクリット語の「アーガマ」であり、中国で漢訳されて「阿含経」となり「お経」となった。

・菩薩は、修業中なので「後光」が差していない。

・仏とは、ブッタのことで仏=如来である。

・仏には、四階層あり、如来、菩薩、明王、天部である。基本的には如来が仏だが菩薩以下も便宜的に仏と呼ぶ。

・お経は無数にあるが、心という文字が入っているのは「般若心経」だけだという。

・仏説(仏の説く)、魔訶(ザァマニ)、般若(心の智慧)、波羅蜜多(彼岸に渡る=悟りを開く)、心(核心の)、経(教え)

・舎利子:釈迦の十大弟子のひとり。シャリープトラ。

・受(心や体で感じたこと)、想(心に思う浮かべたこと)、行(意志や行動)、識(意識)

・般若心経は玄奘の漢訳がベースである。

・釈迦の教えを記した「経」、仏教の戒律を記した「律」、それらの注釈を「論」といい、この三つのことを「三蔵」という。

・密教は大乗仏教から派生した宗派の一つで、真言をとくに重視する仏教。

・浄土真宗と日蓮宗は般若心経を重要としない宗派である。

・薬師寺は、天武天皇の発願によって建立された。

・曼荼羅とは、仏の相関図のようなものである。

・東京国立博物館には法隆寺宝物館がある。

・日本最後の女性天皇の後桜町天皇はひらがなの般若心経を遺した。

・南無阿弥陀仏は。浄土宗の法然が考案したもの。

・「南無妙法蓮華経」を唱える宗派は、基本的に「般若心経」や南無阿弥陀仏を唱えない。

・南無阿弥陀仏は念仏と言い、南無妙法蓮華経は題目という。

・嵯峨天皇は、友人かつ信者だった空海に東寺をプレゼントした。空海はそこを拠点に真言密教を発展させた。東寺の五重塔の高さは日本一である。

20113月の東北大震災では、ダライラマ14世の呼びかけでチベット亡命政府が置かれているインド北部のダラムサラで約1500人の僧侶や一般の人々たちが、合計10万回の「般若心経」を唱えて慰霊してくれた。

・タイトーが配信している通信カラオケには「般若心経」が入っている。

田辺聖子「私の大阪八景」。

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大阪ほんま本大賞特別賞の作品。おすすめの一冊。

 この大賞関連受賞作品は必ず読んでいる。田辺氏は大阪福島区出身で1928年生まれとあるから昭和3年生まれの、御年90歳である。

学生時代に田辺氏の作品は二作ほど読んだことがあるが内容はまったく覚えていない。

 

主人公の軍国少女であるトキコが戦前戦後のどさくさを大阪福島区を舞台に力強く生きていく様を描く。当然トキコのモデルは、田辺氏自身である。

今では放送禁止用語が、バンバンと登場する。「片手落ち」が差別用語であると初めて気がついた。土工、失語症、脳膜炎、低能、ルンペンなどなど全部今では使えないのだそうだ。どうかと思うがなぁ・・・

 

それにしても大阪弁まる出しで描かれる大阪下町風景、人情はほんとほのぼのとホンワカである。それと終戦を境に、激変した日本のありようと、日本人の卑屈さは情けないの一言に尽きる。

 

・「神サマ、どうか、トコをべっぴんさんにしてください)とトキコは祈った・・・

しかしその代わりに、タケ子みたいなアホにしてもええか、と大阪弁の神サマの声がきこえたような気がしてトキコは狼狽した・・・」

 

このくだりを読んだときには、真夜中だったがおもわず大声をだして笑ってしまった。

 

・文中トキコの母が、東条首相をボロカスにけなす場面がある。戦時中でも東条は人気がなかったのだと思うが、内輪とはいえそんなことを市民は口にしていたんだと意外であった。

 

・昭和18年後半から、秋の体育大会が取り止めになり、大学の卒業が三か月もくりあげになった。

早く卒業させて兵力とするためである。

・この年、イタリアが降伏した。

 

・台湾に徴兵制がしかれた。学生が航空兵となって出陣していった。

 

かれらのほとんどが特攻で散っていった。

 

もうこの辺で日本政府は降伏すべきだったのである。それを後の勝算もまったくないまま市民を平気で前線に送り、むだに死なせて、送った奴らは戦後も何食わぬ顔で市民の中に紛れ込んで嫌味なほど長生きし畳の上で死んでいったのである。

外道な奴らめ。

 

・学生は、文系の学生が選んで送られた。そのため日本が負けると悟っていた親たちの中には、文系から理系に転向させるものがいた。

 

・その後朝鮮半島にも徴兵制がしかれた。

 

・当時奉安殿なるものがあった。昭和天皇夫妻のご真影が中にまつられていた。学校内にも置かれていたが、失火で焼けてしまった奉安殿の責任をとって校長が割腹自殺した事件もあったという。

戦後日本中の奉安殿がGHQによってことごとく破壊されたが、奄美の喜界島にそれが残っていると聞いていたので見に行こうと思って見逃してしまった。

 

・戦争末期には、15.6歳の中学生までが志願の下に戦争に駆り出された。教育塔の前で募集が行われた。

 

・トキコの家は、写真屋を営んでいた。空襲でその家屋が焼けたとき、写真を受け取りに来た人は、「気の毒だしたな」と黙って引きかえしていったが、朝鮮人の客たちは写真代をかえせと要求した。

 

・「皇国の不滅を叫び・・・後に続く者あることを信じて逝った幾多の英霊に対して我ら一億、なんのかんばせあってかまみえん」とトキコは・・・だんだん文語調になってかきすすんだ。

 

・戦中柔剣道を教えていたチョビ髭の先生は、政府の配給の町内会の係をしていたが、あたかも自分が配給するかのように威張りちらしていたが、終戦後はいつの間にかチョビ髭を剃りおとし、急に腰も低くなってねこなで声で町内会の者たちに接した。

 

・昭和22年になると正月行事もだんだん旧にもどりつつあった。

古川薫「君死に給ふことなかれ 神風特攻龍虎隊」。

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この手の作品を読むたびに、実は日本人というのは、本当に愚かな民族なのかもしれないと嘆かわしくなってくる。

あるいは日本人には二種類あって、その一つが、無責任て浅はかで、卑怯で、感情的で、強いものには卑屈に弱く、弱いものには徹底的に強く、そんな卑劣な質をもった民族なのかもしれないとも思う。残念ながらそんな連中は戦後ますますその質を磨き、国を想い、家族を護るために「靖国で会おう」と空に散っていった若者たちへの感謝も憐憫もみじんもなく、一国の長の国を代表しての当然の鎮魂の参拝に猛烈に反対する。

先日何かのTV番組でやっていたが日本人のルーツのDNAは隣国中国朝鮮とはまったく異なっていて遠くひとつは中央アジアの少数民族、もう一つはインド洋の小さな島に住む民族とそれを同じくするそうである。

この作品中にもその唾棄すべき輩がうようよ登場する。若者になんの憐憫もなく片っぱしから特攻に送り出した上官たち、機体不備などで引き返してきた搭乗員を殴り飛ばしたあげく、振武寮なる小屋におしこめ陰湿な制裁の限りを尽くした上官(その一人は、戦後特攻員たちの報復を恐れ、厳重な戸締りと、軍刀を肌身離さず就寝時には枕元に置いていたという。そしてその男は、嫌味なくらい長生きして死んだという)

 

 現代の若者たちに是非一読してほしい一冊である。

 

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高田かおる「花だより」。

 毎巻楽しみに読み続けた「みをつくし料理帖」の完結編。
 久しぶりにふれる高田さんの筆致は、やはりどこかやさしい。ぐっと琴線にふれる表現は彼女独特のものである。
 今回のアラスカクルーズの旅の始まりから読み始めてた。ただ成田~シアトル間は、成田のラウンジで日本酒を飲みすぎて機内での夕食後爆睡してしまって、その後一切トイレにも立たず、気が付いた時には、というかCAに無理やり起こされた時には、機はごうごうと揺れて着陸態勢に入っており、ものの数分でシアトルにランディングしたものだった。
 せっかく初めてのANAビジネスの完全個室もまったく味わうこともできず、池井戸潤原作の機内映画「空飛ぶタイヤ」も最初の1分間ほどしか見ていない。

 そんなことでこれを読み終えたのは、クルーズ船の中二日目だった。クルーズでは、毎度そのキャビンの読書灯の暗さに、読むこと自体に呻吟するので今回は厄介な荷物になるがマイライトを持参した。
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さて本書、もうこれで続編は、残念ながらおしまいだそうで、登場人物の今後の幸せを願ってやまない。
いいシリーズだった。ただ高田さんのこれに代わるシリーズ「あきない世傳・・・」は、まだ一巻も読めていない。なぜかとても読みにくいのである。

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ホランドオブアメリカのキャビンにて。
マイライトをセットして読む気満々。
ただこの船のキャビンの読書灯は結構明るく、マイライトなしでも十分不自由なく本を愉しめた。
横にある、置き時計、電子書籍はクルーズでは必携である。


 
・誰しも、雨降りの時に傘を差しかけてくれたひとを忘れないものです。

・坂村堂はいそがしく、畢竟、種市とりうは顔を突き合わせて・・・

 

・駕籠代は下りの方がのぼりより高かった。

 

・一口坂は「いもあらいざか」と読む。

 

・大坂には「女名前禁止」という掟があって、女は家持にも店主にもなれなかった。

 

理不尽なことがまかり通っていたものだ。知らなかった。

 

・神無月二十日は「誓文払い」で元は京の習いで商人が商売上でついた嘘を払うために年に一度京極の冠者殿に参ったことを起源とする。大坂では今宮に詣でたりして商売繁盛を祝う。

 

・夫の返事も待たずに、澪は土を蹴り、種市めがけて夢中で駆け出した。

このくだりは、このシリーズのファンにしかわからない感動的な場面である。高田さんのみをつくし料理帖では、何度か涙させてもらった。



湊かなえ「ポイズンドーター・ホーリーマザー」

先日の旅行前にちょこちょこと読んでしまった一冊。旅の機内で読もうと思っていたがパラパラ読み切って旅には、彼女の別の作品をお供させた。

推理小説6篇からなる。それぞれに面白かったが、ほとんど内容は忘れてしまった。
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板倉光馬「あゝ伊号潜水艦」。

三年がかりで読んだ一冊。1/4ほど読んで2年ほどほったらかしになっていたが、このところちょこちょこ読みすすめるうちにラバウルが登場するころから、訪問したことがあるだけに描かれる景色が目に浮かび引き込まれるうち昨日一気に最後まで読んでしまった。今日はいつものごとく一寸寝不足である。(2018-9-7)。

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それにしてもこの類のいわゆる戦記物を読むたびに暗澹とした気持ちに陥らされる。あまりにも司令部がお粗末すぎる。それ以前に日本の外交が外交とは名ばかりの場当たりそのもので、この情けなさは、幕末の幕府の幕臣から、その後政権をとった薩長閥へと綿々と受け継がれていく。そしてそれは残念ながら今の外務省、現政権まで引き続いている。

太平洋戦争が英米に仕組まれた挑発だったことはやっと最近となって、大っぴらに語られるようになったが、あえて苦言を呈するとすれば、挑発に乗り、明治以降の得たすべての財産を一気に失った昭和軍部上層部の愚かさは断罪されず、総括もされずいまだにうやむやのままである。

この軍司令部の、信じがたい硬直し身びいきの激しい派閥組織は、この作品中にもいかんなくその愚かさが発揮される。その場当たり的作戦ともいえない作戦、朝令暮改は、この戦争全般にわたって末端の将兵をまったく無駄な死に至らしめる。

 

この作品ではないが、大体真珠湾攻撃に始まる(正確にはそうではないが)対米戦争に、戦後の終結案をまったくもたないで、突入したことは信じがたいことである。松の廊下で切りつけた浅野内匠頭や、信長を討ち取った後の展開図をまったくもたなかった光秀らのようにいわばカッと頭に血がのぼって自分の後ろにどれだけの一族郎党がいるとも忘れ、気がふれたとしかいいようののない歴史の愚者と同類である。読んでいるなかで軍上層部の身勝手かつ戦術とはとうていよべないその場しのぎの指令になんどむかついたことか。

 

中でも後半349ページからの「竜巻作戦」なるものは滑稽を通り越し軍令部のバカさ加減は悲痛である。小学校以下の知能のレベルの人間が軍のトップクラスでふんぞり返っていたのである。

 

長くなるが読んでいただきたい。

軍令部長黒島亀人少将は戦局打開のため名づけて「竜巻作戦」なるものを立案した。

それは、水陸両用戦車による奇襲構想で、その水陸両用戦車を敵艦隊の泊地付近まで潜水艦で運ぶ。そして夜陰に紛れて発進させサンゴ礁に到達するとカタビラでサンゴ礁を越え、また再び浮いて海面を進み目の前に停泊している敵艦隊に魚雷を発射する・・・

 

これ正気の沙汰だと思いますか?

だが黒島少将(大将、中将の次にエライ)はこの神がかりな作戦を起死回生の作戦だとこれを強引に推し進めようとした。こんな奴が、海軍少将と仰がれてあの戦争を戦ったのである。

このバカげた以下の作戦がなんと軍令部で否決もされず認められ黒島は、この作戦遂行のために兵器の製作を命じた。昭和18年年末のことであった。そしてこの作戦の決行日が翌年の410日と定められた。 

 

6隻の潜水艦が戦地から呼び戻され瀬戸内海の柱島に集められ準備できしだい作戦は決行されることとなった。

しかし筆者板倉氏は、ここで初めてこの作戦のことを知った。極秘作戦と招集された板倉氏は、闘志燃えたぎっていたが、この作戦の内容を知るや失望を越え抑えがたい怒りを感じた。

 

彼は軍令部、軍事務局長の作戦指導部の面々の前で、立場を越えて猛反対した。

警戒厳重な敵の泊地に多数の潜水艦が同時に接近するなど可能と考えているのか?

もし一部の潜水艦が環礁にたどり着いたとしても敵前で浮上して水陸両用戦車を発進させるのが可能か?それに20分以上かかるであろう間に敵レーダーが気付かないわけがない。もし水陸両用戦車を発進させても長時間海水に使っていた水陸両用戦車のエンジンがすぐにかかるかすこぶる疑問である。もしそれも克服して環礁を乗り越えて進んでも適艦に近づくまで敵は傍観しているはずがない。

 

 

と主張した。この主張に指導部のお偉方は激怒し、この任務にあたる特攻隊員さえも「潜水艦長が尻込みするとはなにごとぞ」と詰め寄った。だたし板倉氏の意見に同調する者もいたが、他にこれといった妙案を持たない軍令部はあくまで強行しようとした。

喧噪の中でまとまりがつかなくなった会議は、潜水隊司令の

「ここでいくら議論しても始まらない。一度もののためしに実験しよう」との結論に落ち着いた。

そして実験は開始された。

水陸両用戦車は潜水艦を離れて無事海を驀進しだした。ここまでは何とかうまくいった。

ところが・・・・

 

その轟音は物凄く周囲を振るわせた。そしてその速度はわずか4ノット。爆音を海上に響き渡らせのろのろと海上を進んで敵艦へ。

だれが考えても敵が気付くだろう。

そしてさらに陸に上がると、ヒキガエルのようにのろのろと進み、こぶし程度の石ころでキャタビラが外れて立ち往生してしまった。マンガである。さすがに艦隊幕僚もこれを見て押し黙ったが、この「竜巻作戦」を打ち切るとは言明しなかったという。

改めてもう一度言いたい。こんな馬鹿どもが軍上層部にのさばっていたのである。戦争なんて勝てるわけがない。この「竜巻作戦」はその後日の目を見ることはなかったという。

 

読んでいても怒りに震えてきそうな話である。

 

 

また353ページからの「あまりにも大きな痛手」の項も紹介したいが、これは本文を読まれたらと思う。戦闘の最中、潜水部指揮官は、意味不明の配備の変更を行いその都度潜水艦は敵レーダーに捕捉され、18隻、実に作戦に参加した潜水艦の74%を撃沈されてしまったという。これらはほんの一例であり、机の上で考える海軍兵学校上がりの馬鹿どものために何万人もの将兵が無駄死にしたのである。

 

・明治37年に日本海軍が最初の潜水艦を軍艦旗を掲げて以来、終戦までに日本海軍が進水させた潜水艦は、241隻になる。

・戦争が進むにつれて潜水艦の敵は、駆逐艦から飛行機に移っていった。レーダーを備えた対潜哨戒機が出現したためである。

・走行充電中は、機械の振動で聴音機が役に立たなくなる。

・潜水艦の消耗がはげしいので、乗員の養成が間に合わない、というより消耗を低く見た精兵主義の愚かさの故である。

・潜水艦の搭乗員は、熟練を要するのでみんな下士官クラスで、兵はいない。

・日本海軍の潜水艦は本来艦隊の決戦用として計画され、そのために高度の性能と装備を有したが、ほとんどその本来の目的に使用されず、輸送船として使われた。

・当時日本の潜水艦の性能は世界第一級であった。水上速力は、23ノット以上を記録し、これは当時の英国の最新鋭艦をしのいだ。

・日本海軍の潜水艦は、排水量(水上)によって、伊号1000トン以上、呂号1000トン未満500トン以上、波号500トン未満、その他に種別された。

・潜水艦搭乗員は、その任務の過酷さから、食料は白米が支給され、他の戦艦乗りから羨望の的であった。給料も他の戦艦乗りより数段上の等級のものが支給された。また陸上での保養に関しても温泉施設など特別の待遇がなされた。

 

湊かなえ「白ゆき姫殺人事件」。

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 サスペンスは普通読まないが、湊かなえは面白い。
 一気に読んでしまった。ただ、サスペンス物は面白いが後には何にも残らない。旅行機中などでの時間つぶしにはもってこいだが、後読みたい本がいっぱいあるのに、時間がもったいないことだ。。。。

 物語は、女性同士の陰湿な関係が根っこにあって、それが殺人事件までに発展する。
 やはり女性の真理は女流作家にしか描けないものだとつくづくあらためて実感する。玉岡さんの「孝謙と称徳」も二度読みしているが、女性深層心理の描写が実に細かく、巧みに表現されている。

 後三作、湊かなえの作品を買っているがいつ読もうかしらん。。。

湊かなえ「告白」。

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ミステリーは読まないが、知らずに買った湊かなえの短編集「望郷」が意外と面白かったので、彼女の代表作といわれるこれを買った。確か去年の奄美行きでKIXで買ったものだが歴史小説ばかり読んでいて今までほったらかしにいた。先日の沖縄行きで歴史小説から少し離れて機中で読もうと思って、他の歴史小説二冊と一緒にお供させた。この小説は、映画化もされまたそれで原作が売れるという相乗効果でデビュー作にして400万部を売り上げた。ちょっと不合理なところもあるが全体の仕上げとしてよくできたストーリーで、出だしの教師の告白をもう一度読みなおしているとけっきょく一気にまた全編二度読みしてしまった。

台風の接近でハーバー内まで大荒れでマストに吹き荒れる台風のいぶきを聞きながら読み耽った。マァこれもいい思い出となることだろう。

 

著者の湊氏は、因島の出身で、武庫川女子大学卒業だそうだ。

 ストーリーは、事故死した少女の母の教師が、教壇を去る前にクラス全員を集めた最後のホームルームで「娘は、この教室の二人の生徒に殺されたのです」と告白する場面から始まる。
そしてオムニバスで関係者の告白が数章にわたり展開され、最後にその女教師が壮絶な復讐を遂げるというストーリーである。二度読んでも十分面白かった。

 

昨日DVDを借りにツタヤに走ったが、なんと三部あったストックはすべて貸し出し中であった。ナンデダス、ずいぶん前の作品なのに。残念。。。また日を改めて借りに行こう。

西津浩美「炎の軍扇 立花道雪」。

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先に読んだ新名将言行録の中で紹介されていた立花宗茂に大いに興味がわき、その武将の描かれている作品をさっそく二冊買った。ネットで買ったのだがこの小説がその一つ。    
 てっきり立花宗茂が主人公でその出家名が「道雪」だと一人合点していたが、道雪は宗茂の養父であり舅にあたる人物であった。だがこの人物もまったく知らなかったが、豊後大友家の分家筋にあたり、武勇で知られ、またその人格は敵将からも厚く尊敬された人物だった。ちょうど信長が討たれ秀吉が九州制覇にかかる少し前の九州地方戦国大名がひしめき合った大混乱の時代を生きた人物であった。一気に読み終えていささか寝不足である。先日の台風や私事の法事で沖縄を二往復した激動の一週間の疲れがまだ冷めやらぬというのにあほなことである。

 

 この小説の中で登場する武将の中で、数少ない知った武将に大友宗麟がいるが、この殿様が、結構尊敬に値しない人物であることを知った。らんぼうもので、勝手気ままで家臣からの人望も薄かったという。キリシタン大名で交易により先進武器を整えた有能な人物を思っていたが大間違いだった、そしてその息子義統が輪をかけてのぼんくらだったと知った。

 

 この著者西津氏はまったく知らなかったが、自信でも文中に述べているように表現が事例の羅列がおおく、教科書的で非常にわかりづらかった。もう少し整理して書けばいいのにと思う。

 

・古代から武士のことを「弓取り」といった。

・毛利元就が呑み込んだ吉川家は元就の正室の実家であった。

・小早川家は、強力な水軍を擁していた。

・大友義鎮(よししげ)は自ら病弱と平癒祈願から33歳の若さで剃髪すると宗麟と改めた。

・鑑連(あきつら)は、剃髪し道雪と名乗った。道に積もった雪はその場を動くことなく生涯を終えるという意。

・鍋島直茂の「二太刀の畳切り」。大友軍に包囲された龍造寺軍は大友に軍議により降参しようとしたとき、直茂が畳を真っ二つに切り裂き、「そんなしたらアカン」といって決意を示した。

・元就の二男は、吉川元春となり、三男は小早川隆景となった。

・天正15年島津勢が白杵に攻め寄せたとき、宗麟がポルトガルから仕入れた石火矢(いしびや)=大砲=国崩しは大いに活躍し、今は靖国神社に保管されている。

・千熊丸は元服して大友家の義統(よしむね)から、偏諱をもらい高橋統虎(むねとら)と名乗った。

・炬火(たてあかし):手元を照らす篝火(かがりび)

・道雪が没した六か月後天正143月大友宗麟は大坂城の秀吉に島津の進行に対する応援を嘆願した。

 

 

海音寺潮五郎「新名将言行録」。

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8/12、台風に閉じ込められた与那原ヨットハーバーのバースにて。

 何かの本で紹介されていた一冊。その本が何だったか覚えていない。多分井沢氏の「逆説日本史」だったと思うが・・・
 手当たり次第にいろんな本を読んでいると、その本の中でまた面白い本を知ることが多い。またそれも読書の楽しみの一つだ。

 通勤途中で読んでいて、残り半分を先日の沖縄行きにお供させた一冊。

 歴史の中の古今名将と呼ばれた16人の名言が収められている。海音寺氏は、歴史小説の大家で司馬氏も時にふれて海音寺氏の助言を仰いだらしい。

源頼義
源義家
源為朝
源義朝
北条時頼
北条時宗
北条高時
竹中半兵衛
島津家久
堀秀政
黒田如水
山内一豊
池田輝政
宇喜多秀家
島津義久
立花宗茂

 それぞれに波乱万丈の人生を送った武将たちである。個々についてはまた抄録と感想を書きたいが、
このなかで特に興味深かったのは、源義朝(頼朝の父親)彼は保元の乱のあと、いくら天皇の命令とはいえ自分の父(為朝)を処刑した、そのために公家の間ではすこぶる評判が悪かった。そしてそれもあろうが、清盛に反乱を仕掛た。平治の乱である。それに敗れると、三人の子供、義平、朝長、頼朝らを伴い落ちのびた。そして尾張内海の野間で家臣の信頼する舅の家に身を寄せたが、その父子に裏切られて風呂入浴中丸腰で惨殺された。木刀一本もあればと無念の最後であった。この野間ではその400年後秀吉によって、信長の第三子信孝が自害させられている。この野間の坊はいつか訪れたい私のバケットリストの一つである。

 この中の最後に記載されている立花宗茂。この武将のことはまったく知らなかった。ウィキペディアで調べてみるとなかなかの人物のようである。興味がわいたので彼が主人公の小説を二冊ほど買った。さっそく読み始めているがこれが本当に面白い。
 宗茂が遺した言葉で興味深いのは、秀吉に関してである。彼は秀吉が信長の息子、および係累を無残に殺したことを口を極めてけなしている。あの時代にちょっと気がふれたように残虐になっている権力者、秀吉にそんな批判をした人物を私は知らない。前田利長にも時代を日和り保身にはしったひきょうものだと痛烈に批判している。また宗茂のことは詳しく紹介したい。

井上和彦「日本が戦ってくれて感謝しています」。

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好きな評論家井上氏による感動作品である。今は亡きやしきたかじんのTV番組「何でも言って委員会」で、金美齢氏が、井上氏のことを「かずひこ」と呼び捨てにして、たかじんが「あれっつどういう関係なん?」とびっくりしていたが、和彦氏は、金美齢氏の弟子であるというか手下あつかいだった。二人とも好きである。三宅氏も生きていたころのあの番組は欠かさす録画して楽しんでいたが、今も録画するにはしているが、めったに観ることはない。

 

「感激いたしました。どうぞこのような文章を一人でも多くの日本人が読んでくれることを願っております。こういう文章を読むと元気が出て、八十八歳の老齢が少し若返ったような気がいたします。ほんとうにいい文章を読ませて下さいました。伏して御礼を申し上げます」

国語学者の金田一春彦氏(平成16年逝去)からこの本の刊行に寄せての手紙だそうだ。

 

今の日本にはどこの国の人間かわからないような、日本という国に誇りも持たなければ、感謝もない輩がうようよといるが、もうこういった連中を説き伏せるのは無理であるしまったく無駄である。もうこの年になって、まともな自分と意見の合う人たちとだけ交わって楽しく過ごしていくことにしている。いやな奴は相手にしないのが一番である。

 

第一章「インド」独立戦争を共に戦ってくれて感謝しています。

第二章「フィリピン」白人への最後の抵抗と勇気を敬っています。

第三章「パラオ」打電「サクラサクラ」は武勇の象徴です。

第四章「台湾」「大和魂を持っていた」と胸を張っています。

第五章「マレーシア」アジアは英米と対等だと奮い立たせてくれました。

 

の五章からなる。涙もろい筆者が、あちこちで泣く場面が数多く描かれるが、読んでいる自分もつられて涙した場面が多くあった。自分も世界各国を訪問し、現地でもその国の人々とも接する機会も多かったが、えっつと感激するくらい日本そして日本人は世界で尊敬、親しく思われている。いやな思いをしたのは、ウイーンのウエイトレス、ロンドンの劇場のもぎりのおばはん、マイアミの売店のおばはん、エールフランスのスチュワーデスくらいかな、今日本では嫌韓で一杯だが、かの国でも嫌な思いをしたことが一度もない。台湾は何度行っても日本より旅していても気持ちのいいものである。

・インドで好きな国第一位は日本である。

・昭和191025日から昭和20815日までのおよそ10か月に海軍特攻機23672524人、陸軍11291386人が散華した。

・パラオのペリリュー島には、神社がありそこの石碑にはこう書かれている。

「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」(原文英語)

この感動的な賛辞を書いたのは米太平洋艦隊司令長官C・W・ミニッツ提督である。

井上氏はこの碑に思い、言う。「この地を訪れる日本人を無条件に驚かせ、そして世界の常識を思い知らされる」と。

228事件:中国大陸における中国共産党との内戦に敗れ、国家まる抱えで台湾に逃げ込んできた国民党政府が引き起こした前代未聞の大虐殺事件のこと。

・高砂族とはタイタル族、アミ族など先住民族11部族の総称。

・台北から南東へ30キロ、「烏来(ウライ)」の村落がある。日本軍として戦った村民の誇りがそこにある。その温泉街からさらに数キロ上流に、彼らタイタル族が日本兵として戦った記念碑「高砂義勇隊記念碑」があるという。一度必ず訪ねてみたい村だ。

台北にはかつて日本人墓地があった。「第十四号十五公園」で、そこには明石提督の石碑がある。

徳川幕府が

平戸にオランダ商館を開いた17世紀初頭その中継地としてオランダ人が台南に基地を開いたその統治を終わらせたのが鄭成功である。

「台湾人元志願兵と大東亜戦争」:この本の中で紹介されていた。早速買って読んでいる。

台南には君が代を歌うお寺がある。「鎮安堂」別名「飛虎将軍廟」という。

「台湾と日本がアジアを救う」(明成社)許国雄著:これも買った。

日本統治時代に高砂族間で使われていた日本語が今も部族間の共通語となって今に至っている。司馬さんはこう書いている。

『この地球上で、日本語が「国際公用語である唯一の例は、台湾山地人のあいだでしかない」と

台南には「鎮安堂」通称「飛虎将軍廟」と呼ばれ地元民の厚い信仰をあつめるお寺がある。ここでは祝詞に君が代があげられる。

日本統治時代上下水道などは内地より早く整備されそのために世界有数の伝染病根源地と知られた台湾から伝染病が消滅していった。このことがその後の台湾の発展に大きく寄与することとなった。

司馬遼太郎さんが「坂の上の雲」で描いた日露戦争の功労者たちが、台湾総督を経験している事実がある。

 

後藤新平はアヘン中毒の全容を把握しアヘンを専売制にして中毒者を減らすことに成功した。

李登輝は日本での心臓手術のために日本にビザ申請をしたがあろうことか守首相の意向に反して河野洋平外相をはじめ植田邦彦外務省アジア大洋州局長ら媚中派が猛烈に反対した。だが森首相はこれらの反対意見を断固としてはねつけ李登輝氏に対してビザ発給した。

 

マレーシア

イギリス人の手あs機となってマレー人を酷使した中国系とマレー系の折り合いは悪く、戦前戦後にわたって今も反目し合っている。

タイ進駐が日本軍による侵略であったというのは捏造である。当時タイ王国と日本は同盟国であった。

後にタイ王国首相となったククリット・プラモードは昭和30年、

「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁を成した日本というお母さんがあったためである。この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。われわれはこの日をわすれてはならない」

この日とは、昭和16128日のことである。

インパール作戦は補給なき日本軍のおろかな作戦として今も一部の軍事の造詣のないしたり顔の評論家があげつらうが、この作戦の本質は、日本ぐん約7万8000人とインド国民軍約2万人の「日印合同軍」による、対英インド独立戦争でありこの戦闘がインド独立大きな影響を与えた。

外務省は、ブッシュ大統領による靖国神社への参拝計画を明治神宮に変えさえた。

大東亜戦争におけるマレーシアでの抗日戦争は、マレーシアのためでなく中国のためであった。

日本軍がマレー人を虐殺したと教えられていた日本の教師に、マレーシアの元上院議員は

「日本軍はマレー人を一人も殺していません」日本軍が殺したのは戦闘で戦ったイギリス人や、イギリスに協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。どうしてこのように日本人は自分たちの父や兄たちが遺した正しい遺産を見ようともしないで、わりことばかりしていたような先入観を持つようになってしまったのでしょう。これは本当に残念なことです」

首都クアラルンプールでは、マレー系、中国系、インド系がひしめき合ているが、全人口では60%を占めるマレー系がクアラルンプールでは40%以下で中国系が50%を占める。この国の経済が中国系に牛耳られてきた歴史を物語るものである。

 


ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子「大航海時代の日本人奴隷」。

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日本に奴隷がいたなんて逆説の日本史を読むまで知らなかった。この本はなんで知ったのか記憶が定かでないが、井沢氏の作品に出て紹介されていたのかなぁ・・・

朝鮮人奴隷は、古代飛鳥時代からあった様で、日本人奴隷が歴史に正式に登場するのは戦国時代で、戦国大名が鉄砲のための硝煙をえるためにポルトガル人などを通して外国に売ったという記録が残っている。それを咎めたのが秀吉である。秀吉の晩年は、残虐非道のボケ有害老人だが、信長に仕えた若い頃の秀吉、正式には藤吉郎だろうが、は慈悲深い素晴らしい人物である。
晩年の秀吉で、唯一評価できるのがバテレン追放と、奴隷に激怒し、それらの関係したものどもを厳罰に処したことである。

・世界中の有色人種が白人の奴隷にされ辛酸をなめたが、ブラジルのインディオだけは奴隷にされなかった。彼らが道徳的に奴隷に不向きであるとされたからである。その点従順でよく働く日本人奴隷は高く売れたという。
・ポルトガルには、16世紀中ごろから天正少年遣欧使節より以前から日本人奴隷がいた。
・1619年の時点でマニラには2000人の日本人がいた。
・イエズス会の宣教師は、奴隷として売買される日本人の存在を知っていたし、その取引が正当化されるプロセスにも関与していた。
・秀吉は、日本人が海外へ売却されている現実を、イエズス会の問題でもあると認識していた。
要するに奴隷売買のプロセスにおいてイエズス会はそれに関与していることを秀吉は知っており、それを見逃さなかったということだ。
・日本人奴隷の出身地でいちばん多かったのは、「豊後」である。これは単に大友宗麟が積極的に奴隷売買に関与したというより、大友氏と敵対した島津氏による「乱取り」により、戦争で捕らえられた豊後領民が、薩摩経由で長崎に運ばれたと考える方が自然である。

完成。

井沢元彦「天正十二年のクロ―ディアス」

井沢氏の歴史ミステリー。歴史的史実を背景に井沢氏のがミステリー仕立てで書いた小説。まずまずかな。

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・黒田官兵衛は秀吉より10歳年下。

「歴史ミステリークラブ」地図で読む戦国時代。

「歴史ミステリークラブ」地図で読む戦国時代

大体内容はほとんど知っているものばかりだが、やはり忘れているものや、初めて知る知識もあった。それなりに面白かったがこの本の売りものである添付地図はあまり役にたたなかったかな・・・

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・室町幕府四代将軍足利義持(よしもち)は実子を五代将軍とするが早世されてしまった。気落ちした義持は悲しみの中で、後継者を立てずに死んでしまった。そこで次代将軍は、なんと義持の兄弟の四人の中から(みんな出家していた)くじ引きで選ばれた。そこで六代将軍となったのが義教(よしのり)である。

 

・このくじで選ばれた義教が、頑張るのだから歴史は面白い。室町幕府は、関東支配のため鎌倉府という出先機関を置き、その鎌倉公方として尊氏の三男を初代として世襲でつがせていた。だが義教が将軍となるとそれまで結構好き放題していたがあからさまに勝手に出兵したりと独立機関のごとく無茶をしだした。鎌倉府のそれまでもの勝手振る舞いを快く思っていなかった義教はこれぞ好機と、大軍を投じてこれを討った。

 

・それからの義教は、権力強化に努め、自分に反対する者は容赦なくつぶした。そのやりかたは元僧侶とも思えぬ苛烈を極めたものだった。家臣にもきびしく、些細なことで領地を取り上げたりした。そんななかで、自分の領地を召し上げられると危機感を強めた赤松満祐(みつすけ)は、義教を自邸に招き宴席で殺害した。義教はのこのこと出掛けて行って討たれたのである。これをその起こった年、嘉吉元年(1441)にちなんで「嘉吉の乱」という。この辺は、井沢氏の「逆説の日本史」で詳しく学んだことだ。

 

・今川義元は、次男坊で出家していたが兄が24歳で死んだため、後継者として示された。それを推したのが臨済宗の僧太源雪斎(たいげんせっさい)である。今川を仕切っていた実母寿桂尼の後押しもあり決まりかけていたがこれに異を唱えたのが側室腹の異母兄であった。この内乱は国を二分する争いとなったが相模の北条氏綱が承芳(しょうほう)について、異母兄を滅ぼした。承芳は還俗し家督を継ぎ今川義元と名乗った。この乱を異母兄が決起した城の名を取って「花倉の乱」という。

 

・甲駿相三国同盟:今川義元夫人は、信玄の姉、義元の娘と信玄の嫡子・義信は夫婦、信玄の娘は北条氏康の嫡子・氏政と夫婦、義元の嫡子・氏真と氏康の娘は夫婦。

 

・信長は、松永久秀を家康に紹介するときに、「こいつは、主の三好家を乗っ取り、将軍義輝を殺害し、奈良の大仏を焼き払った、三つの悪行を働いた極悪人」と紹介した。

 

・お江は、秀忠との間に家光のほかに、後水尾天皇の女御(にょうご)となる東福門院を産んだ。

 

要するに浅井長政の子孫は、徳川幕府に、そして天皇家にも受け継がれたのである。今生天皇にも長政の血が流れているということだ。

 

・謙信は、生涯独身で実子がなく二人の養子がいた。一人は謙信の妹の子景勝、もう一人は越相同盟で越後に送られてきていた氏康の第七子景虎である。二人の間で謙信の死後家督を争ったのが「御館の乱(おたてのらん)」である。景勝が勝頼の妹と結婚し「甲越同盟」を成立させたことで優に立ち、景虎のこもる御館を襲撃し、自刃させ景勝が勝った。

 

・秀吉の九州平定緒戦で豊臣軍の先鋒を担った四国勢は島津軍の反撃をくらい大惨敗した(戸次川の戦い天正134月)。この戦いで長宗我部信親が討たれた。

 

・小田原城攻め:天正1875日に籠城していた北条氏直は二か月半で降伏した。前城主氏政は、切腹し、当主氏直は高野山へ追放された。

 

先の大河ドラマで、氏政役を高島兄弟の弟が好演としていた。氏康がその食べる姿を見て嘆いたという茶を二度かける場面が何度か出ていた。うまい演技だった。

 

・秀吉の刀狩は、検地と異なって全国規模では実施されず、不徹底に終わったといわれる。

 

・関ヶ原の戦いののち家康は東南アジアとの朱印船貿易を推進した。日本からの輸出品は金・銀。銅であり輸入品は生糸や絹織物だった。


木皿泉「昨夜のカレー、明日のパン」×

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帯の「本屋大賞第2位の感動作!」につられて買ったもの。2014年受賞だからこれもだいぶ前からベッドの横にあった。最近の本の整理で読みじまいした中の一冊。この時の一位が「村上海賊の娘」で痛快に面白かったので期待していたのだが、残念無念。9編の短編からなるが半分も読み切れずに読了は断念した。ほんと面白くなかった、読むのが苦痛だった。年に百数十冊読む中で、二年に一度くらいもったいなぁと思いながら閉じる本たちがある。残念ながらすべて女流作家のものばかりである。捨てるのはもったいないので本棚の一番下の隅っこに並べてあるが、その横に鎮座させている大江健三郎の作品とともに捨ててやろうかと考えている。

それにしても最近の本屋大賞はろくなものがない。

呉 善花(お そんふぁ)「攘夷の韓国 開国の日本」。

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この本も20年以上前に買ったもの。平成8年の刊行。今なら絶対に買わない。著者は1956年済州島で生まれ成人して日本に留学し以来日本に住み通訳、翻訳業を経て作家として活躍する。日本から見た韓国を、「古事記」「日本書記」の中の逸話を韓国人として対比、分析するユニークな作品。ところどころ我田引水なところも見られるが冷静に両国を分析していて面白い作品だった。著者は、反日でもなく嫌日でもなく日本に留学したことからも分かるように日本に親しみをもってくれている。これは彼女の出身地にも関係あるそうで、先ごろユネスコ世界遺産に指定された宗像・沖ノ島から済州島はほとんど同緯度・真西にあり、済州島の神話と「記紀」の内容には共通点が多いという。

この著書とは関係ないが、彼女の講演などでは日本人が決定的に嫌韓となったのは朴前大統領のあまりにもひどい日本バッシングからだ述べているが、私も含めて決して韓国嫌いでもなくむしろ近親感をいだいていた多くの日本人をまったく反対に向かせた朴槿恵の負の遺産はあまりにも大きいと思う。二度訪韓したことがあるが、釜山でも、済州島でも出あった韓国人はみんながみんなとても親切で、済州島では道を聞いた警察署では、「今から巡回するから」とめざす市場までパトカーで前まで送ってくれた。また海外で行き会った韓国人観光客も大阪で出会った韓国人旅行者たちもみんないい奴だった。でも韓国との国際試合などでの日本選手に対するラフプレーには強い怒りをおぼえる日本人は多いと思う。古代から朝鮮人と日本とのかかわりは幾重にも重なり、天皇家と関係も深い。そんなこんなを今のとんでもない日本人の心情にまで陥れたのは歴代韓国大統領である。

 

・韓国人は「日本文化のベースは韓国人がつくった」という。なんでもかんで日本のものは韓国由来だという。奈良時代の市民のほとんどが韓国人だった。文化もすべて韓国由来のものだという。それならもっと日本に親しみを持ち親日だったらいいのにと思う。

 

・韓国、北朝鮮には、京都や奈良のような古代の文化遺産はほとんど残っていない。とくに仏教建築物ではわずか数個の石塔を残すのみである。中国もこれは意外なことだが韓半島と大同小異だという。

 

・韓国ではかつて「百済の王子が天武天皇である」との仮説の基づいた本がベストセラーになったことがあるという。

これは、まったくの作り話とは言えないと思う。むしろ個人的には事実だと思う。ただし百済ではなくて新羅の王子であった可能性が高いと思うが、いずれにせよ天武には謎が多い。

つづく。。。

藤原正彦/小川洋子「世にも美しい数学入門」。

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大好きな作家、数学者藤原正彦と「博士の愛した数学者」の著者小川洋子との対談形式で書かれ数学にそれほど造詣が深くなくともパラパラと読める一冊。

藤原氏の語りは、ほんと面白い。おすすめの一冊。

 

・数学者としては一種のストーカー的資質を持っていないと数学の真理は得られない。

想い人が住んでいる駅に降りたら、もう興奮状態になるとか、式だった人が誰かの人妻になっても、30年後にそこへ降りたら涙が出るとか、そういう集中を長年続けるということは、数学を考えるのと同じだ。

 

・ノーベル賞には数学賞がない理由:ノーベルはソーニャ・コワレフスカヤという超別嬪の女性数学者に恋をした。彼女は絶世の美人だった。そのときノーベルには恋敵ミッタク・レフらーと言う数学者がいた。もしノーベルが数学賞を設けるとその男が獲る可能性が大だった。それでノーベルは数学賞を作るのをやめた。小さい話だがほほえましい話である。ノーベルは女ったらしだったという。

 

・藤原は、もし数学賞があったら日本人は二十は獲っているという。

 

・小学生のときに九九を習って生涯忘れないって民族は世界にあまりないそうだ。

 

・天才数学者を生むには三つの条件がある。

一つは、神または自然にひざまづく心を持っていること。天才をよく生むイギリス人は、神をあまり信じないが、伝統にひざまずく心を持っている。

第二に、美に感じる心を持っていること。子供のころから美しいものを見ていないとダメだ。

第三に精神性を尊ぶ心を持っていること。物欲ではなくてもっと役にたたないもの、文学とか芸術を尊び、宗教心をもつこと。

 

・イギリス人は植民地に愚民化政策をとった。

イギリス人は世界史の中でろくなことをしていない。とんでもない民族である。それに引きかえ日本の植民地政策は同化政策をとった。朝鮮半島しかり、台湾しかりである。植民地に土木事業を施し、教育機関まで設置したのは日本以外にはない。

 

イギリス人はあまり好きじゃない。友人のJohnは別である。

 

・友愛数:約数を全部足したものが相手の数字になるという関係。220284がそれにあたる。

 

・完全数:約数を足したものが自身の数字になるもの。61+2+3281+2+4+7+14

一桁だと6だけ、二桁だと28だけ、三桁では、496、四桁では8128が、とひとつずつある。

完全数は、連続した自然数の和で表される。281+2+3+4+5+6+7となる。

 

・ラマヌジャンは、母親が何千ページにおよぶ叙事詩、ラーマーヤナやマハーバーラタを暗記していておさないラマヌジャンに聞かせていたという。

 

ラマヌジャンのことは、藤原氏の著書(私が最初に読んだ藤原氏の本だが)「心は孤独な数学者」で知っていたが、この一冊は超おすすめである。インドから出た超天才で、ろくな高等教育を受けていないのにもかかわらず数学会を仰天させる発見を次々と発表した。この一冊は超おすすめである。

 

・「フェルマーの予想」を解いた何ドリュー・ワイルズというイギリス人はこの問題を昼も夜も24時間考えて、八年かけてこの問題を解いた。

 

・アラビア数字というが元はインド人が考えたもので、アラビアを通ってヨーロッパに伝わったのでこう呼ばれた。

 

・ゼロがあるから位取りができる。

 

・「ゴールドバッハの問題」:6以上の偶数は、すべてふたつの素数の和で表せる。

63+3147+73+11

 

これを描いた小説も読んだが、外国文学でとても読みにくく、難解だったことを覚えている。

 

玉岡かおる「天平の女帝 孝謙称徳」。

このところ日本列島は太平洋高気圧にすっぽりとおおわれうだるような暑さが続いている。若いころは、この梅雨明け十日間のカッと照る暑さが好きだったが、今は大嫌いだった寒い冬の方がまだましである。

そんなことで昨日はアメリカから居候しに来ている甥っ子たちは家内と元気にどこか知らないが出かけて行ったが、こちらは同じく暑さばてしているウィンディとお留守番。クーラーをガンガンに効かせた寝室でひねもす本を読んで過ごした。ウィンディもベットの横で気持ちよさそうに寝ていた。読んだのは、なかなか途中で前に進まなかった玉岡さんの「天平の女帝孝謙称徳」。3/4ほど残っていたが途中から俄然面白くなり一気に読み終えた。

今までは、読んだ小説を感想文を書き終えたらUPしていたが、それだと読んだ時と、ブログUP日がずいぶんとずれるので読んだらなるたけ早くUPしようと思っている。

 

玉岡かおる「天平の女帝 孝謙称徳」。

玉岡さんから「これは自信作です。よろしく読んでください」といわれた作品である。女官の目線から描かれる天平の宮廷内の人間模様。おすすめの一冊である。

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物語は、天平時代の女帝孝謙天皇(後に重祚して称徳天皇)の一代記である。この天武系最後の天皇であり事実上の実権を振るった日本史上最後の女帝を巡る前後数十年の歴史は複雑怪奇でドロドロの人間模様である。マァ振り返るには面白いが日本の歴史としてはあまり誇れるものではない。

 

出だしは、まず女帝の崩御から始まり、それの生涯をなぞるかたちで女帝に仕えた和気の広虫を主人公に物語は進んでいく。登場人物が多いし、玉岡さんが時代背景をあまり詳しく描いていないので、この時代の歴史を知らない人にはすごく読みにくいと思う。ある程度というか、この天武系から天智系にうつる天皇家の時代をしっかり知って読むと面白いと思う。

司馬さんのように「余談だが・・・」という解説があればいいと思うがそれは玉岡さんのスタイルには合わないのだろう。

 

395ページに及ぶ大作だが、最後の10ページは玉岡さんの代表作「まけんとき」全編を通じて流れていたさわやかな風が吹くようなに雰囲気につつまれて物語は終わる。いいラストだった。おすすめの大作。












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石平×黄文雄「これから始まる中国の本当の悪夢」。

   これも何年も前に買って他の何十冊と共に本棚で埋もれていた一冊。2015年刊行だからそんな古くはないかな。

以前はこの手の経済/政治本をたまに買っていたが今ではまずほぼ買わない。ただこれらの本を読みなおすと今現在の中国予想はどうなっているのだろうかと今度紀伊国屋をうろついて目に付くものがあれば買おうかなとも思う。ただ例によって今買ってもそれらを読むのが何年か先になる可能性がこれまた大なのでいつまでたっても「今」の中国を書いた本は読めないかもしれないなぁ・・・

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・世界を席巻したモンゴル帝国はグローバリズムの先駆けだったが、中華における元は100年程度しか続かず、結局閉鎖的な漢民族による明に戻った。

 

中国は、殷周秦漢と漢民族と周辺の遊牧民族による王朝交代が行われてきた歴史がある。

モンゴルは、チンギスハンの遊牧民族で中国支配後中国名の「元」を名乗った、その後にとってかわったのが漢民族王朝の明、そのあと明を滅ぼしたのがヌルハチひいきいる満州族の清である。

よって中国の四千年続く歴史というものはない。

 

・アメリカが建国以来将兵を一番失ったのは、ヨーロッパでもなくイラクでもなくアジアである。大東亜戦争から始まり、朝鮮戦争、ベトナム戦争とアメリカはアジアで莫大な犠牲を払っている。そうしてアメリカはアジアでの主導権を獲得したわけで、アメリカはその犠牲を無にするようなアジアを手放すことは決してできないのだ。

 

・満州人の清王朝が中国を征服したとき、北京も南京も市民は大歓迎して受け入れた。満州人に征服されたことについて一般の中国人は屈辱とは感じていなかった。清王朝は明の三倍くらい領土を拡大したが、このような強い相手には中国人は喜んで受け入れる。

 

・韓国人売春婦は、日本人と偽って商売することが多い。台湾で韓国人売春婦は一万円くらいだが、日本人だと5万円になるという。

 

・中央アジアのトルキスタンはトルコ系民族の国で、トルコ人はウイグル人のことを「おじさん」と呼ぶ。だからトルコ人は自分の親戚であるウイグル人が迫害されている中国への悪感情が高い。

 

・中国ではいったん権力から離れると冷たい仕打ちを受けるか、だれからも相手にされなくなる。

 

・胡錦涛時代に軍幹部をコントロールする力がなかったので、胡は、賄賂を見て見ぬふりをし、そのかわり軍が政治に関与することを禁じた。そのため胡時代には軍の汚職が蔓延することとなった。

 

・清朝の時代に、和呻というやつは賄賂をため込み国家歳出の15年分の蓄財をした。

 

・現在中国の億万長者の80%が元軍人や軍関係者である。

 

・軍事工場で解体されたミグ戦闘機は、その際機体がアルミ合金としてすべて企業に密売された。また四川省では戦車や装甲車1800両が解体され、企業に密売された。湖南省ではライフル銃や拳銃など27万丁が消失した。軍人と役人が結託したものである。こんなありさまだからいざ戦争が始まってもろくに戦えない可能性があるといわれる。

 

・文豪魯迅は、中国人は「奴隷になりたがる」民族だという。だから独裁によって強制しないとバラバラになる。中国に進出した台湾の企業家の中国での最適な経営法は独裁専制だという。

 

・中国が民主化されると、今の独裁体制より以上に混乱を招くとの危惧がある。また多くの中国人が他国に流れ込みムチャクチャするという恐れもある。中国の体制が崩壊したとして民主化にうまく向かうとはとても思えない。

 

・中国の反日は、江沢民時代から始まった。文革の時代にはまったくなかった。

そして天安門事件後の江沢民政権から本格的な反日が始まった。天安門事件から国民の目をそらすためである。

 

・鄧小平時代には日本といい関係を作る必要があった。中国は日本をアメリカに次ぐ重要な国だと考えていた。しかし江沢民は国内政治のために反日に傾いた。それを胡錦涛が関係を修復しようとしたがうまくいかなかった、そして習近平は一転して日本を無視する政策に転換した。

 

・旧ソ連やロシアは歴史問題を持ち出しても中国に絶対に謝らない、しかし日本は簡単に誤ってくれる。だから日本限定で歴史問題を追及するのである。

 

・インドの独立指導者として知られるチャンドラ・ボーズは「重慶の諸君(蒋介石軍)は、アジアの敵と手を組み、味方と戦っているのではないか」といさめた。アジアの解放者である日本とたたかい、侵略者である米英軍と手を組んだからである。

 

・東京裁判のパール判事は、195211月「このわたくしの歴史(東京裁判の判決文のこと)を読めば、欧米こそ憎むべきアジアの侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない、そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ」とまで言っている。

 

・日本はいくら憲法を守っても、相手国は日本の憲法を守らないからまったくナンセンスである。

 

・「週刊新潮」(201381日号)によれば日本政府が外国人留学生に使うお金は年間180億円で、しかもその62.7%が中国人である。

 

2008年の北京オリンピックで、長野で聖火ランナーが走った際に、沿道が五星紅旗で埋め尽くされ、チベット弾圧に抗議するチベット人や人権団体に暴力を振るうということがあった。こうした活動に留学生が駆り出されて中国の主張を一方的に垂れ流すプロパガンダ要員の役目を担っている。

 

・アヘン戦争では中国兵は100人対1人だったかイギリスの傭兵に勝てなかった。戦争は数よりも速力と武器が決定的な要因であるからだ。

 

・毛沢東が朝鮮戦争でやったのは人海戦術だった。そしてそこで最前線に立たされたのは、国民党軍の投降部隊だった。つまり、処理に困った政敵の軍隊を敵に殺してもらうということをやったのである。

 

林清梧「中国の希望と絶望」南京大学の学窓から何を見たか。

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前にも書いたが、このところ読みかけの本を整理もかねて読み切っている。これもその中の一つ。発行年を見るとなんと1996年である。今から二十年以上前に買った本である。当然なんで買ったか、いつ買ったかはまったく覚えていない。だがチラチラ読み始めると20年前の中国の「希望と絶望」が読み取れてけっこうおもしろかった。この時代には、中国は、20年後には崩壊していそうな書き方である。だがその今、中国はなくなるどころか日本経済の一翼をささえメチャメチャ元気である。中国に5年も中国トップクラスの大学で教鞭をとりながら末は永住も考えていた筆者から見てもわずか20年後を予測することはとてもむつかしいということだ。最近の中国分析をした本も読みたくなってきたなぁ・・・(2018/7/8)

筆者は、戦前日本統治時代の北朝鮮で生まれ、敗戦で塗炭の苦しみを経て日本に家族と共に帰還した。当時は父親は、朝鮮軍に言われない罪で拷問を受けたが、現地朝鮮人のアドバイスで「建国献金」として全財産を献金し何とか一命をとりとめた。筆者も強制労働に駆り出され、疲れと飢えのなか一人の現地のの農婦が
「かわいそうな日本人、サァ腹いっぱい食べなさい。負けて逃げる者を追い打ちしてはいけない。人間のすることではない」と白米を腹いっぱい食べさせてくれたのだという。筆者はこの農婦がいなければ生きて日本に帰られていないだろうという。この農婦は、入植中国人だったという。
筆者は、人生の締めくくりとしてこの農婦人の恩に報いるために南京大学の教壇に立つことを決めたのだという。


・中国上層知識人の家庭では子供がやっと歩き始め、言葉を何とか聞き取れるようになると耳かから「唐宋私選」を教え込むという。筆者は、見事な基礎教育であると称賛する。

この南京大学というのは、中国の中でも五指に入る超有名大学でその学生のレベルは極めて高い。そしてかれらは例外なく中国上層部の裕福な家庭に育ってきたものばかりである。

筆者の奥さんの中国語の先生で筆者の聴講生でもあるSさんは議論がわくと「中国にはこういう古詩がありますとすらすらとノートに以下を書いたという。
 

「欲窮千里目 更上一層楼」(千里の目を窮(きわ)めんと欲して、更に上がる一層の楼)

もうちょっと高く登ってみれば遠くが見えるという意。

 

訳も分からず英語を低学年から教えるよりも、意味は教えなくても和歌や漢詩をまるごと覚えさせることの方がよほど子供の基礎、情操教育に役立つものであろう。

 

・「一人の中国人は竜だけど、十人集まると豚になる」台湾の作家の言葉だが、日本人はこの逆だという。
 

・中国の教壇で、自由とか人権とか権力の横暴などの言葉は禁句だという。クラスの聴講生の中には必ず一人共産党員の共青委員がいて講師の言動をチェックし党書記局に通報するという。これでアメリカ人の講師が任期半ばで強制国外退去されたそうである。

それは、「アメリカで南北戦争があったが、あのまま二つの国だったほうがよかった。中国も大きすぎると思いませんか」という内容だったという。これは「中国の分割発展論」だと当局が弾圧したのである。

 

・アメリカは、政府要人以外、中国共産党員の入国を認めていない。

・宋白華は北京大学の美学の教授であった。世界的にも有名で学部長や学長にも何度も推薦されたが名利に無関心な彼はそれを断ってひたすら研究に打ち込んでいた。この教授が心臓発作を起こして救急車で北京病院に運ばれたという。ところが病院では学部長をつとめたことがないという理由で入院を認めなかった。教授は救急車の中で死んだ。このことに対し学生たちは悲しみそして怒らせた。これが天安門事件で北京大学の学生が決起する引き金となったといわれる。

 

・中国人の商人は万事、買っていただくではなくて、欲しいものに売ってやる、の姿勢である。

・中国人にとって商品で大事なことは、中身が本物か偽物かではなくて値段が安いか高いかなのである。

・台中市の大学ではこの当時将来中国は10%の富裕層で支配されるようになるだろうと喝破した。

 

これは当たっているが、同時にこの当時の活気と明るさを保ち続けられるだろうかとも述べているが、これは残念ながら外れている。今の中国人は自信満々である。大阪の繁華街は中国人であふれている。そしてものすごく騒がしい。ただ彼らのマナーも少しは良くなっているが、先日も地下鉄の切符売り場で中国人が何台もの販売機を独占してワイワイやっている。後ろで何人並んでいようがお構いなしである。やっと終わったかと思ったらまだ路線図を販売機の前から動こうともせずじっと見ている。さすがに大きく咳ばらいをしたら、なんだという目でにらまれた。ひと言のあやまりもしなかった。

 

・中国共産党は、毛沢東という巧妙なリーダーに率いられて、主として農民を解放軍の主力として利用し、武力で中国を平定した。毛は武力以外に中国を平定する方法がないことを自国の歴史から学んで知っていたのだ。

・要するに毛の国家統一は、イデオロギーによるものではなく、それを看板にした毛という英雄による武力によるものだったということである。社会主義国が次々に崩壊していく中で中国がいまだつぶれないのは中国をささえるのは社会主義ではないからである。

・かつての日本陸軍の傲慢な軍人たちと違い、中国解放軍は国民に決して威張らない。

・中国で一番人気のあるのが英語科で、次に日語科、そしてロシア語はまったく人気がない。中国から金を持って行っても、買うものがないという。


由良弥生「眠れないほど面白い『古事記』」。

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紀伊国屋でぶらついていて見つけた本。週末で読んでしまった。ホント眠れないほど面白かった。近ごろはネットで買うこともしばしばだがやはり面白い本を見つけるのは本屋をうろつくに限る。

それにしても絶対に読むことはないと思っていた日本の古代史がこんなに面白いとはついぞ思わなかった。これも井沢元彦氏の「逆説の日本史」に出会ってからである。この作品も逆説の日本史の1,2巻をベースに読むとより面白ものだった。

「古事記」なんてのは高校時代にイヤイヤ学んで以来だが、マァ神話の部分は少なからずは知っているが知らないことの方が断然多い。

この書は大和朝廷の先祖、日向の国から起り東へ東へ、いわゆる神武天皇の東征だが、その武力で侵略、平定していった暦を神話として伝えたものである。第33代推古天皇の項で終わっている。それにしてもその壮絶な侵略(騙し討ち、裏切り等々)の話、内部抗争のえげつなさは戦国時代のそれと驚くほど似ている。これに加えて今では考えられない近親相姦図、異母妹とのまぐわい、おばとのまぐわい、父の後妻とのまぐわいもう何でもありで実の妹との恋愛もあった(流石にそれは許されないということで流罪となるが)が描かれる。

今度は、この同時代の歴史を描いた「日本書紀」を読んでみよう。

 

・やまととは、旧国名で今の奈良県全域に相当する。「大和」はもともと「倭(わ)」と表されていたのを「和」に変え、それに「大」の字をくっつけて「大和」とした。

 

・イザナキはアマテラスに「あなたは高天原に上って、昼の世界を治めなさい」、ツクヨミには、夜の世界、スサノオには海の世界を治めるよう命じた。

 

・ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトは、川を下ると広大な土地に出てそこに立つと何ともすがすがしい。「これはすがすがしい」と喜んで「須賀の地」と名づけた。

 

ダジャレもええとこである。

 

・スサノオノミコトがクシナダヒメともうけた六代目の孫がオオナムチノ神、後のオオクニヌシの神(大国神)である。

 

・オオナムチには大勢の異母兄弟がいた、彼らを八十神(やそがみ)といってオオナムチはいつも彼らにいじめられていた。

 

・八十神はあるときそれはそれはうつくしい娘を見つけた。因幡のヤカミヒメ(八上比売)である。

 

・八十神は出雲から因幡にヤカミヒメに会いに行った。求婚するために、である。そして気多の岬で皮をはがれたウサギを見つけた。

八十神は、海の水で洗えばすぐに治ると嘘を教えた。その通りにしたウサギさんはえらい目にあった。その後を通ったのが八十神の重い荷物をかつがされていたオオナムチである。

こころやさしいオオナムチはウサギに真水で洗い蒲の穂を集めてその花粉を敷きつめゴロゴロすれば治ると教えた。蒲の花粉が血止めに聞くことを彼は知っていたのである。

喜んだウサギは、ヤカミヒメはあなたのものになるでしょうと予言する。

 

・ヤマトタケルノミコトが騙されて野に火を放たれ焼き殺されそうになったとき、叔母からもらった火打石で目の前の草を薙ぎ払って火をつけその火でせまりくる火を撃退した。そして窮地を脱したヤマトタケルノミコトは、そのだました一族をことごとく切り殺し、火をつけて焼いてしまった。それが今の焼津の名の由来で、薙ぎ払った剣が、草薙の剣である。

 

神話には、歴史の中で起こった事実をうまくあてはめ脚色したものがたたある。

十二代景行天皇には80人の子供がいたが、その中の一人がヤマトタケルノミコトである。

 

・「あきず」はトンボの古名で、トンボが雄略天皇の腕に食いついた虻(あぶ)を、咥えて飛び去ったのでその地をあきず島と名づけた。これが秋津洲の由来。

 

・天皇が出先で娘の名を聞くのは求愛のしるしといわれている。天皇は名前を聞くとすぐにまぐあった。

 

 

黄文雄・石平「日本に敗れ世界から排除される中国」。

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もう4年ほど前に買って、ダラダラと読み終えた一冊。4年ほど前にこの著者の二人は、2017年ごろには中国はボロボロになっていると予言しているがまだまだかの国は元気いっぱいのようである。大阪の心斎橋、道頓堀あたりは中国人であふれかえり、この間ふらりと寄った黒門市場ではその様変わりにびっくりぽん。客も売り子も中国人で中国語が飛び交い、先日友人にその写真を見せてこれはどこだと問うたら東南アジアの一郭だろうと答えた。今大坂の経済は中国人で潤っている。さてそんな2018年の現実をこの書かれた時からしたら未来の時点で読むと面白いというか、これからいつまで中国は持つのだろうかと思いながら読み終えた。

 

・文化大革命の折、香港から逃げてきた香港人を台湾人は、バイトや募金で資金を捻出してアメリカや、カナダに亡命させたのだという。だが安全になるとその後は一切連絡が途絶えたという。香港人は、中国人はもとより台湾人も見下す人間が多いという。

 

2006年に、中国人に行ったアンケートでは、「生まれ変わっても中国人になりたくない」と答えた中国人は、2/3を超えた。

 

・国共戦争に敗れた蒋介石が台湾に逃げるときに、北京の紫禁城の宝物も一緒に台湾に持って行った。もしこのとき、蒋介石がこれを持ち出していなければほとんどが文化大革命でぶっ壊されていたであろう。またこれらは日本が紫禁城を占領したときに他国の国々はそれを略奪したが日本はその財宝をすべてを清朝政府に渡した。

 

・現在故宮博物館に残されている財宝は、すべて日本軍が保護したものである。

 

・中国による環境汚染が心配されているが、それよりも怖いのが中国発の「パンデミック」(伝染病世界流行)である。

これは中国人の、衛生観念の低さによるもので、またところかまわずタンをはきまくる民族性にもよる。鄧小平が外国要人と会談するときに足もとに常時たんツボをおいていたのは、有名なはなしで鄧小平がその小さなたんツボにペッとはく命中率は100発百中であった。

 

・宋の時代に、ペストで人口が2/3も減った。これによって宋は滅びた。元もペストの流行で衰退した。明は、天然痘とコレラが流行して華北だけで1000万人以上が死んだ。中国人は生活習慣的に伝染病を拡散しやすい。

 

・ヒラリー・クリントンは2012年にハーバート大学で講演したときに「中国は20年後に最貧国に転落する」と演説した。

 

 

文芸春秋編「大戦国史」。

この一冊も、ダラダラとよとよみ切った作品。戦国時代は、ザァマに面白い。
話は、まったく違うが藤井聡太七段の将棋は、とても面白い。彼の将棋は、四段の頃からずっと追いかけて観戦している。矢倉一辺倒で、面白みに欠けると言えばそうかもしれないが、彼のどこまで読み切っているのか、いつの時点でいまの場面を想定していたか?は、恐ろしいほどのさきを読む力を持っている。遅からず必ず棋界の最高位「名人」を獲得するであろう。ただこの名人位だけは、その棋戦で勝ち続ければすぐになれるものではない。A級で優勝して初めて名人への挑戦権を受ける。彼の場合、ことしC1からA級に昇段して、来年A級で優勝して初めて挑戦者となる。最短で再来年の春である。

すんません。これは大間違いです。彼は今年C1なのであと、B2B1クラスで昇級してやっとA級棋士となります。よって毎年昇段しても名人挑戦者になるにはまる三年かかります。メチャ間違いでした。

それにしても彼のここ一番に指す手は、強烈で、豪快でそして美しい。
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・「武田のゆる鏃(やじり)」武田の雑兵は、矢の鏃を矢柄にゆるく巻いて作っていたので体に刺さると矢を抜いても鏃が体内に残りそこから化膿して死ぬこともあった。

 

武田の悪魔性を示す事例である。

 

・信玄は、「戦に勝つということは、五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする」といった。

勝ちすぎは敵の恨みを買うという意味。

 

・国を亡ぼす大将は四人いる。馬鹿、利口、臆病、そして強すぎる大将である。

 

・家康が今川人質時代に、同年代の子らと受けた教育は、家康の人生に大きな影響を与えた。読み書きそろばんはもちろんのこと、非文字で得た教育も大きなものだった。すなわちそれは、雨の日や、夜に行われ「雨夜の会」と呼ばれ主君や、重役たちによって開かれた口伝による戦功や経験談であった。

 

・信玄の言葉に「分別深きを佞人と誤り、遠慮深きを臆病と誤り、がさつを勇ありと誤る、よくあることにて心得べきものなり」がある。

 

・義元は、今川氏輝の五男として生まれる。幼くして禅寺に入れられていたが長兄が24歳で死んだので、しかも子供がいなかったので三男と、五男ののちの義元が争った、いわゆる花倉の乱である。

 

・義元の、義は将軍足利義晴の一字をもらったもの。

 

・今川領の石高は意外と低く、駿河、遠江、三河あわせて70万石ほど、これに対して尾張一国だけで58万石ほどあった。義元にとって尾張の石高は垂涎ものであった。

 

・信長の父信秀が清洲織田家の三家老の中で抜きんでたのはひとえに津島湊、熱田湊の海運の港を擁していたからである。

 

・桶狭間というのは桶狭間山という小高い山のことである。大将が攻められやすい狭隘な盆地で休憩するわけがない。

ただにわか雨によって木立の陰に分散していたのと、義元が乗っていた輿を目標にされた。

義元と共に二俣城主、井伊谷城主と重臣二人も討ち取られてしまい統率が効かなくなった。

 

・義元が討たれた後、家康は信長と組み三河を切りとった。そして信玄は、甲相駿三国同盟を破って家康と組み今川を攻め信玄が駿河を、家康が遠江をと大井川を境に駿遠分割して切りとった。

 

・家康は、その後氏真に500石ほどの扶持を与えた。氏真の孫は徳川の高家となって存続した。

 

・長尾景虎は幼い時から仏門に入っていたが父の死後還俗して兄と争いそれを退け守護代となり春日山城に入った。

 

・毛利家の持つ石見銀山の年間収入は、33億円以上だった。元就はこれを軍事費に充てた。

 

・日本銀と中国生糸を柱とする貿易が盛んとなった。

 

・伊達政宗はカソリックを利用して幕府を転覆し政権を奪取しようとしていた。そのため支倉常長をローマ法王に派遣し「カソリック王」に任命されローマ法王支配下の「騎士団」を創設しようとした。これがうまくいけば国内の30万人以上のキリシタンを糾合し、スペインからの軍事支援を受け、徳川幕府に接近するオランダ、イギリスのプロテスタント勢力と戦おうと画策していた。だが政宗自身は改宗するつもりなどはさらさらなかった。支倉が仙台に戻った二日後政宗は残虐なキリシタン迫害に踏み切った。政宗の天下への夢はこうして儚く消えた。

 

・幕末には銃の改良が進んでいたので、薩長軍は兵隊に鎧兜を脱がせて軍服を着せた。また将校は狙い撃ちにされるのでみんなと同じ服装にした。戦場では目立った方がいいという武士の文化は近代にはいると180度の転換を余儀なくされた。

 

・藤堂高虎は足軽の出身だった。

 

・長篠の戦で背後の長篠城を奪われ退路を断たれ挟撃された時信玄なら、無理やり突撃して敗北を招くことはなかったであろう。

 

・信玄は合議制をとっていたと思われる。

 

・松永秀久は、何度も信長に反逆してそのたび信長は許したが、それは秀久が街道の運送業に携わっていた賎民たちの親玉だったからである。

 

・義元が預けられた今の富士市善徳寺の雪斎は子の穂とがもし大名であったら天下を取ったかもしれないほどの戦略家だった。

 

・雪斎は義元の代理として三河を攻めた時、安祥城を攻め落としたがその城主、信広(信長の庶兄)と生け捕りにして、織田に囚われていた竹千代と交換を持ちかけた。戦場で勝つだけでなく、その戦いを通して今川家の外交戦略を立てていたことがうかがえる。

 

・海舟は、西郷が禁門の変の後長州なんて、東国にでも国替えして5万石くらいやっておけば薩摩の天下になると大久保に手紙で送っている。これを海舟は、いさめ「幕府の内情は腐れ切っている、ここで長州がやられたら、唇破れて歯寒し、今度は薩摩がやられると説いた。幕末に志士たち比べても幕臣でありながら勝の器量は抜きんでている。

と津本は言う。

 

・殷王朝は600年続いた。それが周に替わるときに「牧野(ぼくや)の戦い」という中で「太公望」が登場するが、太公望は遊牧民だった。WHY?

 

・帷幄(いあく)の師

 

・会津の上杉景勝は関ヶ原の七日前に二万の兵で最上を攻めていた。兼続と三成の裏約束はなかったと言える。

 

・家康が関ケ原で勝ったことで、信長、秀吉の重商主義、対外拡張路線から、農本主義、内需拡大路線に大きな転換がなされた。当時の日本は、世界の銀の三分の一を産出していた。

 

・江戸幕府が安定すると1600年代200万ヘクタールだった水田は、1700年代には300万ヘクタールに人口は1500万人から3000万人に倍増した。

 

・信秀は、熱田、津島の港を抑え巨万の富を築いた。

 

・家康の治水事業は、信玄をまねたものである。

 

・平城京から平安京に遷ってからは、もう遷都は行われていない。それは京の周りの木を使いきってしまったからである。はげ山には松を植えた。それによって松茸が食べられるようになった。

 

1666年幕府は、「諸国山川掟」を出した。下流域の治水のため上流域の森林を切るな。開発したところには新しく苗を植えよ。はげ山から土砂が流れ込むと港が浅くなるからである。

 

・この本の対談で、江戸幕府は日本の歴史上最低の政権だったと断言されている。理由は江戸時代は日本の歴史の中で平均身長・体重が一番小さい時代だからで、男で150cm、体重50kgだったという。

 

・海外のデーターによると、1700年ごろには日本は世界のGDPシェアの45%を占めていたが、鎖国の間に貧しくなって江戸末期には2.2%まで落ち込んでしまった。

 

             

斎藤英喜「とんでもなく面白い古事記」。

 古事記関連の本はこれを含めて二冊目だが、外題のようにほんと面白い。その物語は、相続争いでのだまし合い、殺し合い、近親相姦何でもありで、もうメチャクチャである。

何回も読まないと、どれがどの話かこんがらがりまくりである。

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・イザナキとイザナミは兄弟であったが子をなした。当然その子は遺伝的なリスクを負いやすく最初の子は、骨のないひる子で非常にも二人はその子を海に流した。

 

このひる子が西宮に流されて西宮神社にまつられているという。福男の疾走で有名なあの神社である。

 

・二人が次に産んだのがオオヤシマで、淡路島、四国、隠岐の島、筑紫、壱岐、対馬、佐渡島、本州(アキツシマ)の八島。

 

・「桃太郎」の原話では、桃を食べて若返ったおじいさんとおばあさんが励んでまぐわって誕生したのが桃太郎である。桃は不老長寿をもたらす果実である。

 

・スサノオノミコトの六代後の子孫がオホアナムジ(後のオホクニヌシ)である。

 

・稲羽の白兎:オホアナムジはワニに皮をはがされたウサギを助け、ウサギはお礼に「あなたはヤガミヒメと結ばれる」と予言した。

・オホアナムジは、ヤガミヒメと相思相愛となるが八十神の嫉妬をかい二度殺されて二度よみがえる。でもこれではまた殺されると、木の国に逃げる。今の和歌山県である。そこで頼ったのがスサノオノミコトである。六代前のじいさんがまだ生きていたのである。なんと不思議な・・・

 

木の国が、紀の国、紀州の語源になったといわれる。

 

湊かなえ「望郷」。

   いつ買ったのか覚えていない。
 読みたいランク順に、ベッドサイドの上段、下段、書斎書棚の左側、右側と並べて、普通は大体10冊ぐらい、多い時で30冊にもなることもあるが並行してい読んでいる。
 この作品は順位三番目の棚に置いてあった一冊。書棚を整理していて何となく読み始めたら面白くて一気に日を跨いで読んでしまった。読んで初めてこの本が短編集であること、湊氏がミステリー作家であることを知った。短編だとはつゆ知らず読み始めてこれから面白くなりそうだと思ったらあっけなくジ・エンド。これだから短編は好きではない。ミステリーも読まないがこの作品のみんなは結構面白かった。そんなもんで先日沖縄に行くときに空港で彼女の代表作であるという「告白」を買った。その旅の中では読めなかったが何かの旅のお供に持って行こうと思っている。

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ミステリーって知らんと買ったと書いたけど、帯を見たら、推理って書いてますやん・・・

逆説の日本史5⃣「中世動乱編」。

 流罪人源頼朝が奇跡の復活をなしとげ軍事天才義経の奇跡としか言いようのない三つの戦いで平家を滅ぼし鎌倉幕府を開く。しかしその代もわずか三代で滅亡し北条氏の執権政治へと移り変わっていく。そして北条氏によって武家政権が完成されていく。

知らなかった歴史でありとても面白かった。

 

義経は、なぜそれだけの貢献をしながら頼朝に討たれなければならなかったのか、義経が不憫である。だが義経にも頼朝に討たれるそれだけの理由もあったようだ。頼朝は、井沢氏もここで書いているように奇跡のように幸運が舞い込みそれらをことごとくものにした人物である。義経はそれに引きかえ、頼朝たもとを分かってからは不運に見舞われ続けた。最大の不運は、頼朝に追われ捲土重来を期して「大物の浦」から親衛の家臣、その財宝を積んで船出の日に台風に見舞われたことである。この「大物の浦」は、仕事場からすぐ近くなのでその潮待ちをした神社の見学に行ったことがある。その神社は義経が船出したころはもちろん海辺すぐに位置していたが、今ではその海岸線は車で10分ほどもかかるほどかなたにあった。

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以下抜粋と感想。

・八幡神とは「応神天皇」を祀ってあり天皇家の祖先神の一人である。

 

・頼朝が伊豆蛭ヶ島に流されたのは14歳の時だが、20を過ぎた頃恋人ができた。伊東の豪族伊東祐親(すけちか)の娘で名を八重といった。子もなし千鶴(せんづる)と名付けた。ところがこれを聞いた八重の父親はその子を殺し、八重は別の男の所へ嫁にやって頼朝すら殺そうとした。

 

平家によって流罪人となった頼朝の子を育てるなんてことは、反逆罪そのもので一族みな殺しにあう可能性があったからである。頼朝はいわゆる「もてた」男であったようだ。

 

・頼朝が次に好きになったのは北条時政の娘政子であった。これを知った時政は他の男に嫁がせた。だが政子は嫁ぎ先から逃げ出し伊豆山権現の別当寺に逃げ込んでしまった。この時政子を嫁がされた先は、伊豆の目代(代官)で平家の直属の役人で下手をすれば北条家がとり潰されるおそれもあることだった。

 

・「平家に非ずんば人に非ず」とまで言われた平家もようやく衰亡の兆しを見せたのは、1177年の鹿ヶ谷(ししがだに)の陰謀からだろう。後白河法皇のもとに俊寛らが俊寛の山荘に集まり平家打倒陰謀をめぐらしたが内通され、俊寛は流罪、他は死罪となった。

 

俊寛が流罪となったのは、薩摩硫黄島で、この島を訪れた時に、俊寛のいたあばら家のあった史跡に行ったことがある。

 

・北条時政は、平家の翳りを見抜いていた。

そして政子は頼朝と通じ、嫁ぎ先の山本判官から逃げ出した

 

・その三年後、後白河法皇の次男以仁王が「平家追討」の令旨を出した。それが全国の源氏に伝えられたのである。

 

・令旨とは本来「皇太子や親王の命令」である。これをそそのかしたのが源頼政である。

 

・以仁王はその後の戦いで死ぬ。頼政も討たれた。そして頼朝の身にも危険が迫ってきた、頼朝はイチかバチかで挙兵した。

 

・政子の父北条時政は頼朝に賭けた。

 

・これらのことは頼政が反乱を起こさなければ起こらなかったことである。

頼政は、その意味でまさに歴史を動かした男である。

 

・頼朝の大惨敗。

頼朝は一度平家の大群に大惨敗している。逃げ延びる途中に敵に追いつかれ自害しようとしたが、梶原景時という武将が頼朝を止め逃がしてやった。梶原は、この時平氏に従っていたものの武士の出身でありながら律令体制と同化してしまった平氏には大きな不満を持っていたことであろう。景時は後に頼朝に仕えることになる。

 

この景時が、義経とそりが合わず、最終的にはその讒言で頼朝が義経追討の命令を出したといわれる。

 

・平氏は軍事力だけでなく大きな経済力も持っていた。それが頼朝の挙兵(1180年)以後わずか五年で完全に滅亡してしまった。

 

・清盛は、頼朝の挙兵からわずか半年後に64歳の生涯を終えた。

 

・頼朝が惨敗した「石橋山の敗戦」から40日を経て清盛は、追討兵を出した。源軍の余りの負け方に泰然と兵を送ったのである。しかもその大将は清盛の嫡孫で経験の浅い維盛(これもり)であった。頼朝はその40日の間に態勢を立て直し、また平氏に不満を持っていた国士たちが頼朝のもとに集まり富士川の合戦は源氏の勝利に終わる。

そして清盛は強引に福原(神戸)へ遷都し、後白河法皇、高倉上皇、安徳天皇を福原に遷した。福原は瀬戸内海へ直接面しており清盛にとって守りやすかったのである。

 

・後白河公家たちは急な遷都で屋敷もまだ整っておらず不満たらたらだった。そこへ公家たちの参拝が減って減収した比叡山延暦寺から圧力がかかった。都を戻さないと山城国を奪ってしまという脅しだった。清盛はついに都を京へ戻すことになった。この下り目のところに清盛は反平家の拠点となっていた南都の仏教勢力を討たせた。この焼討のために創建以来数百年の威容を誇り続けた奈良東大寺の大仏が焼失してしまった。この暴挙に対する反感はそのまま平家に対する反感となった。

 

・「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という書きだしで有名な「方丈記」の鴨長明はこの時代の人である。

 

1180年安徳天皇が4月に即位した後8月から9月にかけて以仁王の令旨を受けた頼朝や木曾義仲が挙兵するところで西日本に大凶作が襲った。対して東日本では豊作であったという。

 

・この年の10月に富士川の合戦で大勝利を収めたにもかかわらず頼朝は京へ追撃せずいったん鎌倉に戻り態勢固めに入った。頼朝の軍事的センスをうかがわせる。しかし最初は頼朝も京への進軍を主張したらしいが有力武士団の長がこぞって反対したという。

 

・「忠ならんと欲すれば孝ならず」:天皇家に忠実であろうとすると親には不孝となる。

 

・清盛亡き後平家を京から追い出したのは頼朝ではなく木曾の山中で挙兵した義仲であった。

 

・義仲と頼朝は従姉妹にあたる。

 

・義朝が清盛を除こうとした平治の乱。1159年。平治元年。

この大乱に義朝は敗北し逃げる途中に立ち寄った尾張の累代の家人の長田忠致(ただむね)の裏切りによって殺された。おりしも正月であったので、忠致は風呂を勧めた。この当時の風呂は、今と違ってサウナのような部屋を作りその中で焼いた石に水をかけ蒸気を発生させ体を温めるという、今で言うスチームバスであった(だからこそ「風呂」と今でも書く。今の入浴スタイルは「湯に入る」と言った。この時代にはまだなかった)義朝は裸に湯帷子(ゆかたびら)(麻の一重の着物、浴衣の語源)を着て中に入ったところを襲われ、丸腰の義朝はなぶり殺しにされた。義朝は武芸に通じていたが丸腰ではどうしようもない。無念の最後を遂げる際、「せめて木太刀一つ有りせば」と叫んだという。義朝の殺された場所は、現在野間大坊という寺になっているが、ここには義朝の同塚がある。

 

この場所は、400年ほどののち、信雄に追い詰められた信孝が秀吉を呪いながら自刃した場所である。この話のつながりは面白いものでまた紹介したい。

 

・義朝の死に先立って当時少年だった頼朝は父とはぐれて美濃あたりで捕らえられた。長男義平は別行動で飛騨にいたが父の死を知ると単身京へはいり清盛を狙ったが、発見され六条河原で斬首された。

 

・鎌倉に帰った頼朝は、京には上らず鎌倉で態勢を整え時期を待った。一方信濃、北陸の寄せ集めの軍団しか持たない義仲は、頼朝の下風に位置することになった。頼朝に、敵意のないことを示すため嫡子義高を人質に送った。このままではじり貧になると考えた義仲は京に攻め入ることによってその地位を挽回しようとした。俱利伽羅峠の戦いである。この戦いに圧倒的勝利を収めた義仲軍は近江坂本まで進出した。

 

・ここにおいて、常に「強いものの味方」である比叡山の僧兵も義仲軍と合流し、平家に捕えられることを恐れた後白河法皇は比叡山に亡命した。平家はついに幼い安徳天皇と三種の神器をもって京を脱出した。

 

・京に勇躍入った義仲だったが、それからほどなく後白河と対立することになった。皇位継承問題である。後白河は、高倉天皇の子である幼い二人に継がせようとし、義仲は、危険を顧みず令旨をだした以仁王の遺児北陸宮を押した。後白河は占いの結果だとして自分の気に入っている下の孫を天皇にした。これが後の後鳥羽である。

 

・義仲と具合が悪くなった後鳥羽は、ひそかに鎌倉の頼朝と連絡を取り、頼朝の東国での荘園・公領を認めた。ここに鎌倉幕府の第一歩が始まったといえよう。

 

・義仲は平家追討の先遣隊を放ったが備中水島のたたかいで全滅に近い打撃を受けた。焦った義仲は法皇と、新帝を幽閉し、征夷代将軍に任じられた。

 

・混成軍である義仲の兵たちは京で狼藉に限りを尽くすようになっていた。

 

・義仲は征夷大将軍となったわずか九日後頼朝の命を受けた源範頼・義経の軍勢が京に侵入し法皇を救出した。義仲は敗走し主従わずか七騎で落ちて行く途中矢で射られて殺された。

 

・鎌倉幕府の成立にいたる戦いは最終的には「源平の戦い」ではなくて「源源の戦い」であった。

 

・義朝の母は熱田神宮大宮司の娘だが、義経の母は宮中に仕える雑仕女(ぞうしめ)だった。名を常盤という。絶世の美女だった。

 

・平治の乱で敗走する途中で、義朝は殺され、頼朝が捕えらたのと前後して常盤も三人の子(今若8歳、乙若6歳、牛若2歳)と共に捕えれた。清盛はその美貌に打たれ子供ともども命を助け常盤を妾にした。のちの常盤は清盛の子(女子)を産んだといわれる。そして驚くことに清盛と別れた後、中流貴族に再嫁している。

 

・この頃に「貞女は二夫にまみえず」という儒教の遺徳はない。女性が「家」に閉じ込められ貞操を求められたのは、江戸時代のそれも中期以降の武家社会ことでありこれを「封建的」と呼ぶがこれはおかしなことであり封建主義とは「土地を仲立ちとした主従関係」のことで、貞操とは関係ない。

これはあくまで儒教であり、日本は長い歴史の中で江戸時代と戦前の時代だけが女性にとって窮屈な時代だった。つまり現代(いま)性風俗は昔に戻っただけである。

 

・坂上田村麻呂は桓武天皇の軍事官僚。

 

・東北の蝦夷(えみし)が力をつけ南下して戦いを挑み驚いた朝廷が源氏の棟梁源頼義を鎮西に向かわせたのがいわゆる前九年の役。

 

・大きな対外戦争を「役」と呼ぶ。元寇も「弘安の役」だし秀吉の朝鮮出兵も「文禄・慶長の役」である。

 

・頼朝に追われた義経は、少年時代かくまってくれた東北藤原氏を頼ったが不幸なことにその理解者で頼朝に義経の引き渡しを求められたが頑としてそれをけった藤原秀衡(ひでひら)を再亡命後わずか数か月で失ってしまった。後継者の泰衡(やすひら)は、義経を討ってその首を鎌倉に差し出したが、その後すぐに幕府軍に殺された。

 

・長い戦争史の中で、戦術というのは、しばしば固定化されて常識化される。しかし、歴史はそういう常識化された戦術を改め、まったく新しい戦術を開発した者が、勝者となることを示している。楠木正成がそうであり、信長もそうであり、日露戦争時の日本海軍がそうである。これの嚆矢が義経であり、義経は騎兵の集団運用という世界史に見てもあまり例のない戦術を開発した。

 

・一の谷の合戦で、平家は多くの武将を失ったその中には有名な敦盛もいた。船に逃げようとする敦盛を討った熊谷次郎直実がその後出家するエピソードもこの時のものである。

 

・しかし一門の総帥平の宗盛は安徳天皇と三種の神器を奉じて逃げ延びた。

 

・この後源平合戦は、屋島に続く。

 

・誰もが警戒をゆるめる嵐の日、時化をものともせず摂津国渡辺を出航した義経は、追い風に乗って普通なら三日かかるといわれた航程をわずか四時間で進み阿波勝浦に上陸した。と吾妻鏡には記載されている。

そして平家が源氏が来ると固めていた北側ではなくて南から浅い川を渡って攻めた。天皇と三種の神器を守っていた北側からいえば一番奥の内裏は南側からいえば川のすぐそばであった。この戦いで日暮れ近くになって海上に逃れた一艘の船から美しく着飾った上臈が棹の先に扇を差し出した。

「これを射てみよ」

対岸の源氏の中からこれを見事にいたのが那須与一という若者である。

 

・義経は、京から脱出しようと大物浦から出航したが、大嵐にあい精鋭部隊のほとんど失った。義経にはもう東北の藤原氏を頼って亡命するしかなった。この時残ったのはたった四人。その中には弁慶と静御前がいた。一行は天王寺から吉野へ逃げた吉野の山中で足手まといになった静と別れた。静は妊娠していた。

腹心の弁慶以外の武将は京で捕らえられたが義経は奥州まで生き延びた。そのルートは不明である。

 

・頼朝は、義経に「頼朝追討」の院宣を出した後白河法皇に、これをネタにねじ込んだ。この法王の「ミス」に付け込まれた後白河は震え上がった。そして武士の権利を認めさせた。

 

・これによって武士たちは初めて国家公認の土地所有者となったのである。

 

・この時幕府は朝廷から「兵糧米反別五升徴収権」を獲得した。田地から一反あたり五升の兵糧米を徴収する権利。一反から取れる米は一石(百升)だからそのたった5%の徴収権だが「国家公認の権利」ということが大きかった。

 

・平家を滅ぼした頼朝は次に年来の敵である藤原氏に矛先を向けた。都合のいいことに義経をかくまっており攻める口実はあった。そして義経にとって不幸なことに頼朝取って好都合なことに義経を庇護していた秀衡が急死した。

 

・奥州藤原四代のミイラは平泉の中尊寺金色堂に安置されている。

 

・秀衡の後を継いだ泰衡は父の遺言に背いて義経を殺し自滅の身を歩んだ。

 

・宣旨:詔勅を簡便化した公文書。

 

・奥州藤原氏の滅亡

1187年(文治32月義経、平泉に入る

        10月秀衡、死去

1188年     2月頼朝、泰衡追討の宣旨を求む

        10月朝廷、重ねて泰衡に追討を命ずる

1189年     4月泰衡、義経を衣川にて討つ

        6月義経の首、鎌倉で実検される

          朝廷、頼朝奥州征伐の準備を始める 

          朝廷、奥州征伐中止を勧告

          しかし頼朝かってに出陣白河の関を越える。

        9月泰衡、逃亡の途中、家来の裏切りで殺される。

 

・この頼朝の勝手の出兵は、後の関東軍の暴走、勝手に既成事実をつみ重ねるのと同じ構図である。

 

・このように正規の手続きを踏まない戦いは「戦争」と呼ばずに「事変」と呼ぶ。

 

・戦国時代にやって来た宣教師は日本の仏像や神像を破壊しまくった。

 

・東京裁判で処刑された東条英機らの遺体はすべて焼却処分された。遺族にすら遺骨の受け取りを許さなかった。そしてそれらは混ぜ合わされいずこかへ棄てられた。マッカーサーがもしこれらの戦犯の墓でも作らせたら軍国主義のシンボルになりかねないと恐れたからである。

 

・日韓併合条約に調印した当時の総理大臣李完用の墓はない。「国賊」ということで暴かれ廃棄された。

 

・頼朝は歴史的な「超バカつき男」だった。以後日本史ではかろうじて秀吉がいるくらいだ。

 

・義朝が野間で討たれたのは大晦日だった。1159年(平治元)1229日。

 

・腹心の部下の舅(長田忠致(ただむね))の家ということで義朝は気を許し逗留し風呂に入りそこで殺された。

 

・湯に入る風呂は室町時代以降に発達した。

 

・父の悲報を聞いた長男悪源太義平(頼朝の兄)は飛騨で再起の兵を募っていたが今はこれまでと単身京へ戻り清盛を狙ったが失敗して捕らえられ処刑された。

 

・忠致は頼朝が挙兵し関東王になると長男を連れて頼朝の元へ降伏した。頼朝は機嫌よくこれを許し「つみをゆるすから働け」と言った。長田父子は西国戦線でめっちゃ勇敢に戦った。すべてが終わり、頼朝の天下となった時、頼朝は恩賞を与えると長田父子を呼び出したいそいそと現れた二人を、頼朝は父義朝の墓の前で土磔(つちばりつけ)にかけてなぶり殺しにした。

 

頼朝の陰湿さを示す、歴史の事実である。

 

・判官びいき(ほうがん):判官源義経に同情する気持ち。

 

・正妻は館の北対(北側)に住むのが通例で奥方を北の方と呼んだ。

 

・頼朝は、長女の大姫を後鳥羽天皇に嫁がせようとした。子を産ませそれを次代の天皇にし自分が外祖父になろうとしたのだ。

これは藤原氏とそれを猿真似した平氏とおなじである。

 

・フランスとイギリスはかつては兄弟の国だった。1066年フランスのノルマンディ公ウイリアムが、ドーバー海峡を渡ってイングランドを征服しイギリス王(ウイリアム一世〈征服王〉となった。つまり、この時代以降のイギリスは形式的にはフランスの臣下だったのだ。

・湯武放伐論=易姓革命

 

・現代の複雑膨大な官僚機構:ここではしばしば人のために組織が設定され、仕事が発見される。

 

1199正月頼朝は落馬にて急死した。諸説あり。

 

・頼朝は、大姫入内(じゅだい)問題でつまずいた。大姫は二十そこそこで病死した。

 

・「蘇我兄弟の討ち入り」古来から日本三大仇討の一つ。曽我兄弟が頼朝の側近を親の仇と打ち取ったのもの。だが兄弟は頼朝も狙った。これは蘇我兄弟が仇討を装ったクーデターであるとみる見方がある。それに連座して頼朝の弟範朝が伊豆に流された。

 

・頼朝の急死で18歳の長男頼家が後継者となった。

 

・頼家は暗愚だったと「吾妻鑑」に書かれているがこの書は北条氏の執権政治が確立されたのち書かれたものであるので鵜のみできないが、やっぱりあほやったんだと思われる。

 

・頼家には、嫁さんの実家の比企氏が後ろ盾についていた。比企氏の勢力拡大を恐れた母の北条政子は、比企氏を暗殺した。ついでに頼家の子一幡(いちまん)も殺してしまう。病を得ていた頼家は比企氏滅亡の翌年死んだ。

 

・政子は、頼家の弟千幡(せんまん)を将軍にした。実朝である。

 

・『愚管抄』には、次のように記されている。頼家は病気が重くなったので出家し後は一幡に譲ることにした。だがそれでは比企氏の全盛時代になると恐れた時政が比企能員を暗殺し、病床の頼家を幽閉しこの一幡も殺そうとした。だが一幡は母が抱いて生き延びたが残る一族は皆殺しにされた。やがて奇跡的に回復した頼家はこのクーデターを聞いて怒って太刀をとったが政子がとりついて修善寺におしこめてしまった。この後ついに一藩が捕えられ殺されてしまった。

 

・千幡は元服し実朝となった。妻は関東武士団の有力者の娘が選ばれるのが常であったが第二の比企能員を生むことになりかねないと懸念した北条氏は、公家の娘を選んで実朝の妻に迎えた。これがとんでもない間違いとなった。実朝は妻とその実家を通じて京の文化に強い親しみを持つようになってしまった。実朝は個人和歌集を出すほど無茶歌がうまかった。正岡子規も無茶ほめている。

 

・芭蕉は、「俳諧とは夏炉冬扇の如し」と言った。夏の火鉢、冬の扇子。つまりいずれも無用のもののたとえ。

 

・実朝に嫁いできた娘には姉妹がおり、その一人は入内している。つまり実朝は後鳥羽と相婿の関係にあった。

 

・幕府創設の大功労者である北条時政、実朝の時代には幽閉されていた。

 

・頼朝は落馬によって死んだとされているが、暗殺説が根強い。その黒幕が時政だといわれる。二代目頼家に関しては時政の関与ははっきりしている。比企一族の勢力拡大を恐れた北条氏が比企能員(よしかず)を謀殺し一族を滅ぼし、頼家まで殺した。時政は頼家の母政子の父であり、頼家にとっては外祖父にあたる。頼家は比企一族を重用し嫁もそこからもらった。一幡という子も産まれている。頼家の後の将軍は弟の実朝(千幡)ではなく一幡になる恐れがあった。そうなれば比企家が北条家にとって代わることになる。そこで時政は先手を打って比企氏を葬りそれに不満を唱えた頼家をも殺し実朝を立てたのである。時政は御家人合議制を破って一人で幕府の命令を出せる形を作った。時政66歳、実朝は12歳であった。ここでやめときゃよかったのだが、彼には若くて美人の後妻がいた。この女が曲者でわがままで権力欲の権化のような人間だった。時政はあろうことかこの女にそそのかされてクーデターを策した。実朝を追放して、彼女の女婿を将軍にしようとした。これを阻止したのは娘の政子と息子の義時だった。時政は出家させられ幽閉されただ78歳まで生きた。

 

・北条氏は源氏でない、平氏である。

あるにもかかわらず、時政が頼朝にかけた政治感覚は素晴らしいものである。

 

・実朝は頼家の遺児で出家していた公暁に仇討された。

 

12215月後鳥羽はついに北条義時追討の院宣を下した。承久の乱である。

 

・上皇の院宣。皇太子の令旨。天皇の綸旨。

 

・近代にいたるまで日本の軍隊は補給ということ適切に教えなかった。明治なってドイツの軍人が日本に戦術を教えに来た時も、補給の思想がないのに驚いた。

 

・後鳥羽が出した院宣に鎌倉武士たちは浮足立ったがこれをまとめ反撃の激励をかけたのが北条政子である。これによって幕府軍は朝廷軍をやっつけた。

 

・旗色の悪くなった後鳥羽はすぐに退却し義時追討の院宣をとり消したばかりか、これは部下がやったことだと責任逃れをした。武士でありながら朝廷に味方した者たちはすべて処刑された。後鳥羽はこれだけのことをしても処分を免れると信じていたらしい。信じていたからこそ部下に責任を押し付けたのだろう。

 

・後鳥羽の諡号は、もともと「顕徳」であった。祟りを恐れて死後三年もたって後鳥羽としたのである。

 

・承久の乱をおさめた北条泰時は、歴史上で悪くいう者がほとんどいない。かれは後鳥羽を島流しにした後、朝廷のルールや慣習などを残し、形の上では朝廷(律令体制)を尊重した。これは江戸時代まで残った。

 

・泰時は、戦後処理として朝廷の権力を無力にする御成敗式目(貞永式目)を作った。朝廷に代わり武家による政治が始まったのである。

 

・まさに泰時は、武家政権を確立させた男なのである。

 

・「御成敗式目」は、当時腐るほどあった土地争いの解決のための実にこまごました決め事である。こんなものができたということは当時の一番のもめごとが土地問題であったことをしめすものであり、時代を映したものである。

 

・憲法89条:公金その他の公の財産は・・・公の支配に属さない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、またその利用に供してはならない。

 

年間3500億円以上の予算を計上している「私学助成金」は実は憲法違反である。

 

・泰時には優れたブレーンがいた。明恵(みょうえ)と呼ばれる坊さんである。

 

・平家も武士であったが、主として西日本を根拠地とし、清盛が政権を得ると、公家化した律令制度と荘園制を認めたのである。このことは坂東の開墾地主たちを失望させた。

 かれらは頼朝を擁して挙兵し、やがて鎌倉を根拠地とした。つづいて、源平の対決がおこなわれた。(司馬遼太郎)

 

・鎌倉幕府成立は、土地革命である。

 

・北条政子はキリスト教によらずして一夫一妻を唱えた。アジアでは奇跡であった。やがて頼朝が死ぬと。彼女は頼朝との間になした子どもが公家化していくのを断固として認めなかった。政子は子よりも北条家が関東地主団の利益を代表しているという意識がありともすれば律令を復活しようとする京都公家をつぶす義務があると考えていた。武士たちはこれから室町時代にかけて、少しずつ公家たちの私有地を侵食していく。公家たちは武士たちに土地をとられていった。武力がなかったからであり、寺社勢力は独自の武力でこれを守った。寺社勢力が国家の統制に服するのは信長の出現まで待つことになる。

 

・三内丸山の発掘によって縄文人は「定住していない」から「定住していた」に劇的に変わった。

藤原正彦「世にも美しい日本語入門」。

大好きな作家であり数学者でもある氏の作品。

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この中で紹介されている、新渡戸稲造「武士道」、岡倉鉄心「茶の本」、山川菊栄「武家の女」(これは読んだ)、「きけわだつみのこえ」、宮本常一「忘れられた日本人」、福沢諭吉「学問ノススメ」「福翁自伝」(これも読んだ)は早速すべて買ったがまだほとんど読み切れていない。

・シェークスピアは四万語を駆使したと言われているが、日本語は中学生用の国語辞典で五万語、広辞苑は23万語が記載されている。森鴎外は数十万語を使えた。

 

・藤原氏は「即興詩人」は、英語の本を読むよりむつかしいという。私も買ったが絶対読み切れないと思う。しんどい。。。

 

・車に関する単語だけで「空車」「駐車」「停車」「対向車」などの日本語に対応する英語はない。

 

・明治になって、「民主主義」「哲学」「国際」「科学」「思想」「概念」「解剖」「社会」などの言葉を作った。これは中国に逆輸出されている。

 

・江戸時代の江戸での識字率は、50%といわれロンドンでの当時のそれは20%だった。

 

・「パクパク食べてガンガン飲む」というのはほかの言語には訳せない。

 

・イギリスでジェントルマンとして、一番大切なのはユーモアのセンスである。

 

・英語はもともとゲルマン語だった。

 

・イギリスのユーモアとアメリカのジョークとは全然違う。ジョークとはイギリス人に言わせると「オヤジギャグ」である。

 

 

植松三十里「かちがらす・幕末を読み切った男」。

   昨日は久し振りに日がなベッドで読書三昧。夜明けとともに起きだして約十時間一気読みした。最近は日本史関係の本ばかり読んでいるのでこういった小説に出会うことが少ない。マァこの作品も日本史関係の一作であるが。

この本は、先日たまたま、「食べてはいけない国産食品」のテンプティブな外題につられて買った週刊新潮の中で紹介されていたものだ。週刊新潮も、週刊文春とともに以前は愛読し、気に入った記事はスクラップにして読み直していたものだが、最近の両紙は明らかにおかしい。極端に左がかった記事や、くだらないゴシップ記事が多すぎる。

 

マッそんなことはどうでもいいが、その新潮の文芸評論で「植松三十里の中で最高作品、今年の歴史小説のベストテンに入る・・・」と激賞されていた。その評価もあったが主人公の鍋島直正が幕末の英傑の中で私の大好きな人物であったこともあり、一昨日待ち合わせの時間が迫る中、寄り道して書店に走った。そしてその内容はその評論に十二分に応える作品だった。

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・鍋島直正。佐賀鍋島藩の10代藩主。正室は、家斉の娘。継室は家斉の弟の娘。

・父は前藩主斉直。その十七男。これで父斉直がたいがいの男だったのがわかる。家斉に負けず劣らずの女狂いのオットセイバカ殿だったことだろう。斉直の名も、家斉の一字をもらったものだ。

 

余談だが、家斉は、何十人の側室に何十人の子を産ませ、成人したのは半数ほどらしいがその成人した娘たちを片っぱしから全国の大名に押しつけた。娘だけでなく、息子たちも継嗣のいない藩に養子として押しつけまくった。押しつけられた方は、将軍家と姻戚関係になるのでそれなりのメリットもあったが、遠縁でもその家系を継ぐものがあれば一応の家系がたもたれたものをまったく血縁のない養子を押しつけられるのは家臣ともども忸怩たるものがあったことであろう。

話を元に戻そう、直正が十七男で世継ぎとなれたのはひとえに正室腹だったからである。逆に見れば、彼まで十六人の妾腹の男子がいたということで、その母子の養育費用は莫大なものだったことだろう。そんなこともあり直正が藩主を継いだころの鍋島藩の台所は火の車で、直正は国元に帰るなり藩政の大改革を迫られた。直正は、側室も娶らず、その食事も質素、一汁一菜と自ら率先して節約に努め、人員を減らし、藩内産業の育成に努め、交易にも力をそそいだ。直正は、フェートン号事件で外国からの侵略が目の前に迫っていると痛感し、鎖国を改め一刻も早く開国し、外国の産業を積極的に取り入れ諸外国と対等の力をつけるべきだと考えた。直正は、国内で最初の反射炉を藩内に設置し、製鉄に成功し、それまでの青銅製の大砲から鉄製の大砲を作ることに成功する。そして、当時最先端技術を駆使した「アームストロング砲」の国産化も実現する。この作品内ではこの調達資金について描かれていないのは残念だが、それの資金は密貿易であったといわれている。信長もそうだが、軍事大国を目指すにはまず経済の基盤を整えることが何よりも大事なことである。

そうそう直正の業績で忘れてはならないのが「天然痘」の撲滅である。当時日本では天然痘は不治の病で、多くの子供たちそして大人たちもこの病原菌で死んでいった。幕末の天皇孝明天皇もこの病で死んだといわれている。この天然痘を、外国の貿易を通じて知った直正は直臣の反対を押し切って実子直大(なおひろ)に種痘し、これの治療法を惜しげもなく全国に伝え日本から天然痘の撲滅を行った。

他にも直正に尊敬を感じるところは数多いが、家臣にたいして寛容であったということだ。家臣の過失はもとより自分に敵対した人間も有能であれが許しその後重用した。これは家康にも通じることで、信長にこの器量があれば本能寺の変はなかったであろう。

 

・フェートン号事件:直正が外国の侵略に、大きく危惧を抱くことになった事件。ナポレオン戦争の結果、オランダはフランスに負けて国を失い、植民地だったジャワもフランスに奪われた、世界中で出島だけがオランダ国旗を揚げていた。当時フランスと敵対していたイギリスが、長崎にフランスの船が来ていないかフェートン号を送ってきた。そしてそのフェートン号はオランダ国旗を掲げオランダ船に偽装し長崎に侵入して狼藉の限りを尽くした。この事件でもわかるようにイギリスという国はアジア人を同じ人種とは決してみなしていない。野蛮な醜い下等な人種と見なして、いや人間と見なしていなかったのだろう。清国に仕掛けた「アヘン戦争」しかりイギリスという国のえげつなさを残す事件は、日本史ならずともアジアの各地で反吐が出るほどあふれている。

直正は背に腹は代えられず、妻のお盛の実家、すなわち将軍家から借用金(借金)を借りることにした。知らなかったが幕府からのそれには利子がつかなかったのである。

 

・直正と気ごころを通じていた江川坦庵という旗本は、鎌倉時代からの伊豆の名家で、戦国の頃の面白い話がある。

 

秀吉の時代、家康が小田原城の先鋒を務め伊豆を通った時のこと、当時の江川の当主英長(ひでなが)が徳川家に味方するに際して、お万という女性を家康に近づけた、家康が彼女を気に入ったので、彼女を江川家の養女にして改めて側室として差し出した。お万は家康の寵愛を受け、二人の男子を産んだ。10男紀州家の始祖頼宜(よりのぶ)、11男水戸家の始祖頼房である。そう御三家の内、尾張は別として、水戸、紀州の始祖は同母の兄弟であったのである。そんなことで家康は英長に5000石もの禄を与えたが、なんぼなんでも女を与えただけで加増とはどないやねんと批判が出て、結局500石に戻してしまった。その代わり幕府の代官として、伊豆半島を中心に大名並みの広大な土地を治めるようになった。そして普通、代官は数年で交代するが特例として伊豆から移動なしとなった。ただ禄は、家康が決めたことなのでそのままだった。面白いエピソードである。

 

・現当主の江川坦庵は非常に開明的であった。そして直正は一度会ってみたいと思った。

 

・毎年オランダは、欧米で起きた大きな事件を、風説書と呼ぶ報告書にまとめて、長崎奉行に提出していた。

 

・信長が三千の鉄砲隊を使って、武田の騎馬武者を撃破したが、そのとき大勢で火縄銃を撃つには、撃ち手と撃ち手の間をかなり空ける必要があった。近づきすぎると火縄の先の火種が隣の銃の火薬に引火する危険があったからである。

 

・直正の側近穀堂は直正に教えた。「西洋と同等の武力を持ってこそ、対等に交渉ができる。交渉で戦いを避けるために、武器を持つのであり、武器を使うこと自体が目的ではない。

 

・砂鉄の採れる出雲国は、神話の国でもある。

 

・直正は、子供の頃、父の側室たちが江戸の藩邸の奥で、壮絶ないがみ合いをしているのを目の当たりにしていた。

 

そんなこともあり、直正は側室を置かなかった。

 

・大名家の姫は、江戸の上屋敷から嫁げば正室の子扱いとなり、国元から嫁げば側室の子とみなされ格が違った。

 

・直正は最初の国入りの四年後21歳の時医学校を藩内城下町の真ん中に開いた。

 

身分を問わず、能力のあるものは受け入れたのである。

 

・日本ではあらゆる技術が家伝であり、外部には秘匿される。だが西洋では公開されることで、広く切磋琢磨し、技術が向上する。直正は反射炉も西洋式造船も惜しみなく公開した。

 

・長崎警備は、福岡藩と佐賀藩が受け持っていた。ただ湾口に飛び地を持っているのは佐賀藩だけだった。そのために幕府からその整備という名目で10万両借りた。

 

・たたらという炉の中で砂鉄はかんかんに熾した炭火と混ぜてとかし、固まってからさらに砕く。砕いたものは二つに分けられ、選ばれた一つは刀の材料になり、選ばれなかった一つは鋳物用にされた。

 

・反射炉は二つ並べて一基とし、二基四炉が完成形だ。

 

・直正は、炉が完成した火入れのとき直正が差し出したたいまつを工事責任者の本島藤太夫にわたし返した。職人たちは手を打って歓声を上げた。本島はしきりに恐縮したが、直正としては、それほど本島が職人たちに慕われているのだと知って満足だった。

 

この事例だけでも直正の英傑さがしのばれることだ。

 

・炉に入れる炭の分量を決める場面。直正は石炭を使わないのかと聞きかけて、言葉を呑み込んだ。藩主がそんなことを言えば、家臣は何が何でも石炭を使わないわけにはいかなくなる。

 

・「葉隠」の『武士道とは死ぬことと見つけたり』の締めは「毎朝毎夕、常に死を覚悟していれば、武士道をわがものにでき、一生、落ち度なく役目を全うできる」

 

・松平春嶽は、直正の継室のお筆の実兄。

 

・昌平黌(しょうへいこう)は漢学中心の幕府の学問所だったが佐賀出身者が圧倒的に多かった。

 

・島津斉彬は養女篤姫を家定の継室として送り込んだ、次期将軍の決定権は大奥にあった。

 

・井伊直弼は直正より一歳年下で血縁はないものの系図上は再従弟(はとこ)になる。

 

・天草は幕府の天領だった。

 

・佐賀出身の明治の英傑として副島種臣、江藤新平、大隈重信、島義勇(よしたけ)がいる。

 

・インドのムガル帝国が滅亡した。原因は内乱で、敵味方がそれぞれ外国に応援を頼んだ結果、徐々に国を侵されついにはイギリスの属国になった。

 

国内で内乱が起きた時、絶対にやってはいけないことはそれぞれが外国の勢力と組むことである。

 

・皇女和宮が江戸に降嫁する際中山道を通ったが、これに鉢合わせすると、追い抜くことができず、通り過ぎるまで延々と待つことになる。そのため多くの旅人が中山道を避けて、東海道に集中し東海道は大混乱となったという。

 

・直正は生前の直弼にロシアが蝦夷地に領土的な野心を抱いているとの懸念をつたえ、彼の地の備えを固くするように進言し、直弼も前向きになっていたが桜田門外の変で立ち消えになった。

 

・家茂の上洛は家光以来229年ぶりのことだった。

 

・久光は大軍を率いて幕政改革を迫り、御三家や御親藩、外様などの大大名にも表舞台に立たせろと訴えた。そのため幕府は大老という名称を政事総裁に改め、親藩の春嶽が初代に就いた。

 

・家茂は、紀州徳川家の出身だが、江戸藩邸の生まれ育ちで江戸から一歩も出たことがなかった。

 

・薩英戦争で、薩摩は台場が破壊され、城下も広範囲が焼けた。だが悪天候で海が荒れて、イギリス側にも相応の被害が出て、艦隊は錦江湾から撤退し横浜に戻った。

 

・直正は、アームストロング砲(最大の特徴は手元込めができる。そのため砲身が熱くなりにくく連発できる。そのため照準を合わせなおす必要がない。これには説明が必要だが、熱くなった砲身を冷やすには水を入れて冷ましたのである。そしてその水を出すのに砲身を下げて吐き出させた。要するに一度撃つごとに砲身の中を水洗いしたのである。そして次に撃つ時には、また照準を合わせなおしたのである)を輸入できないものかと長崎で打診してきたがイギリスは製造技術を秘匿するため輸出を禁止してきた。ししかし突然解禁された。理由は意外な理由だった。それは薩英戦争の折、不具合が生じて発射できないことが何度かあり、また砲身爆発も起こったため、イギリス海軍が使用を禁止し、急に輸出が解禁されたという。

 

この辺がイギリスのあくどさである。要するに役に立たないものだから外国に「高く売り飛ばしてしまえ!」である。

 

・江藤新平は脱藩し京で公武合体派尊王攘夷派と両派から動向を探り文書にまとめて直正に提出した。重臣たちは脱藩を咎め厳罰に処すべきだと言い立てたが。直正は、新平の器量を認め死罪を叫ぶ重臣たちの声を退け自宅の謹慎を命じた。

 

・元治2年(1865)が慶応元年に改まった。そもそも元治は天皇中心の「元の治世」に戻すという意味にもとらえられ幕府としては気に入らない元号だった。

 

・第二次長州征伐に薩摩藩は幕府の出兵命令に従わなかった。これはえらいことだった。これで長州を囲んでいた各藩にも大きな動揺が走った。

 

・そんな中九州の幕府先鋒は熊本藩だったが緒戦で負傷者を出すと、そのまま兵を引いてしまった。薩摩藩の離反が大きく影響したのである。

 

・フランスは、幕府に蝦夷地の物産開発権を担保に、幕府に協力を申し出た。

 

石炭の採掘権を受ける代わりに幕府に味方するということであった。

 

・幕末の四賢侯。島津斉彬、松平春嶽、山内容堂、宇和島の伊達宗城(むねなり)

 

・文久年間に参勤交代が緩和された時、諸大名の家族が国元に帰ることが許された。

 

だがこれは一次長州征伐が成功すると、幕府は調子に乗ってまたこれを再開しようとした。外国勢力が迫る中、日本で無駄な出費を出来るだけ避けなければいけないのに、幕府はまだそんなバカげたことを諸藩に命じようとしたのである。これには、諸藩も幕府のあほさ加減にあきれ、こんな時代遅れのことをする幕府は・・・と、見限る端緒となったのである。

 

・蝦夷地で榎本武揚の率いるオランダで造った世界最大級の開陽丸が沈没した。座礁であった。

 

・慶喜は、王政復古の後、大坂城に英米仏蘭伊の五か国の公使たちを集め、中立を約束させた。

 

慶喜はあまり好きな人物ではないが、この一件は慶喜の英邁さを評価したい。

 

・五稜郭が開城された時脱走艦隊側は、すべての軍艦を失っていた。

 

・サッポロは、アイヌ語の「乾いて大きい」という意味である。海岸線から離れていることから蝦夷地の中心とされた。蝦夷地はこの時北海道と改められた。

 

・直正は、「先憂後楽(せんゆうこうらく)」を座右の銘とした。

 

・江藤新平も、大隈重信も脱藩の経験があったが直正はすべて厳罰にすることをしなかった。

 

南原幹雄「銭五の海 下巻」。

事実として銭屋五兵衛の悲惨な顛末は知っていたので、終章が近づくにつれて読むのがおっくうだった。最後の方は飛ばすようにして読み切った。事実銭五が抜け荷と呼ばれる違法である「密貿易」を手掛けていたのは事実であるし、商売をするうえで人の恨みも買ったこともあるだろうと思う。だが銭五の獄死、使用人の斬首をふくめ、家族の所払い、銭五商店の一切の取り潰しなどは過酷に過ぎる。加賀藩はこの財産没収で十年近くの藩財政が安定したという。えげつないことだ。その没収金額は今の金にして約三兆円にのぼったという。    

ペリーが浦賀に来航し、開国を迫り、五兵衛が待ち望んだ海外貿易への道が開かれたのは、五兵衛が獄死してからわずか半年のことだったという。

 

また別の作者でこの五兵衛の話は、読み返したい。そして次回金沢訪問の折には、銭五記念館をじっくり見学しなおしたい。

 

・五兵衛と薩摩藩の切れ者調所笑左衛門とは面識があった。幕末第一の名君とうたわれた島津斉彬の懐刀である調所も薩摩藩の政争の中で刑死させられた。当時金儲けは、士農工商でもわかるように江戸時代は朱子学により商売は悪とされていたのである。朱子学の最大の欠点である。
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大阪を古地図で歩く本。

今年のGWは、与那原マリーナから粟国島~渡名喜島~座間味島と離島クルージングを愉しんできた。めったに本土の人も、座間味島のさえも訪れない離島であったが、最近はダイバーのメッカとなって結構な人数の来島者でにぎわっている。
3月のメルボルン渡豪からのブログがUPできないままに、イベントが消化されていっているがまた時間を見つけてUPしますのでご覧ください。


さて本の話。
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半世紀以上も大阪の町の中心部に住んでいるが、知らないこともほんと多い。勉強になった。

 

・難波宮は、延暦13年(794)、都が平安京に遷ると、難波が平城京としての外港としての機能を低下させたため廃された。その後秀吉の大坂城築城の際に難波宮の一切が埋められた。

 

・天正8年(1580)信長に石山を明け渡した本願寺は京都に拠点を移した。

・御堂筋は、もともと幅6メートルの小道だった。昭和12年に拡張された。

 

・秀吉の時代東本願寺の御堂である南御堂と、西本願寺の北御堂を結ぶ道として誕生したのが御堂筋である。

 

・昭和9年から始まった拡張工事は、電柱の完全地中化に加え、地下鉄御堂筋線を同時に掘り7年後に完成した。

 

・江戸で物資を運ぶ車として重宝されたのは大八車である。一人で八人分の物資を運べると意味で名づけられたようで、代八車が、大八車となった。

大坂では、ベカ車がそれに代わり使われる。

 

・旧大和川沿いに生まれた新田は、砂地のために米作りには適さなかったが、水はけが良いことで綿栽培が行われた。これが世界的紡績企業である東洋坊が育つ背景となった。

 

・道頓堀を開削したのは慶長17年(1612)のことだった。その後道頓は夏の陣で戦死したので従弟の道卜(どうぼく)が引き継ぎ、元和元年(1615)完成した。

 

・宝くじの発祥は箕面の龍安寺の箕面富で、札を突いて当てるものでもともとは大当たりが「大福守」という霊験あらたかなお守りであった。龍安寺はこの箕面富の売り上げを寺の修復などに充てていた。江戸時代になると多くの寺社でこれをまねた「富くじ」が行われるようになった。幕府はこれをばくちの一種とみなして再三禁止令を出したがこれがなくなることはなかった。明治新政府は賭博として全面禁止した。富くじが宝くじとして復活したのは第二次世界大戦末期のことであった。

 

・関東には赤松の林が少なかったので松茸を食べる習慣はなかった。

 

・大坂の表記が史料で確認できるのは室町時代の本願寺の僧・蓮如の「蓮如上人御文」である。

 

・大阪の表記が使われだしたのは天保10年の大阪新町細見図であるがそれ以降も坂と阪は混同して使われていた。明治になると「大阪」の字を使うことが決められたが、きちんと統一されたのは明治10年前後である。

 

・「南北に延びる道=筋」、「東西に延びる道=通り」のルールを決めたのは秀吉である。もともと通りは商店も並び寺や家々が正面を向けて軒を連ねて多くの人々が行きかっていた。筋は南北に抜ける裏道だった。

 

・筋には、心斎橋筋、淀屋橋筋、難波橋筋など、橋が名がつくものが多いがこれも裏道だった名残といわれる、筋にはこれといって目印がなかったため、筋の先にある橋の名前を付けて「○○橋の方へ抜ける道」といった意味を持たせた。

 

・家康は、慶長五年2月から3月頃から藤堂高虎に命じて、西の丸に新たな天守閣を建設させた。この家康の暴挙が、関ヶ原の戦いの原因の一つになったといわれる。

 

・米相場は旗振り通信が使われた。堂島で決められた米相場の価格は、天気が良ければ大坂から京都まで4分、神戸まで7分で米の価格を伝達できた。

 

・大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと家康は真っ先に豊国神社を破壊し、秀吉の神号も剥奪した、その後豊国神社は明治12年に中ノ島に再建された。

「歴史ミステリークラブ」地図で読む戦国時代。

大体内容はほとんど知っているものばかりだが、やはり忘れているのものや、初めて知る知識もあって買った。それなりに面白かったがこの本の売りものである地図はあまり役にたたなかったかな・・・

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・室町幕府四代将軍足利義持(よしもち)は実子を五代将軍とするが早世されてしまった。気落ちした義持は悲しみの中で、後継者を立てずに死んでしまった。そこで次期将軍は、なんと義持の兄弟の四人の中から(みんな出家していた)くじ引きで選ばれた。そこで六代将軍となったのが義教(よしのり)である。

 

・このくじで選ばれた義教が、頑張るのだから歴史は面白い。室町幕府は、関東支配のため鎌倉府という出先機関を置き、その鎌倉公方として尊氏の三男を初代として世襲でつがせていた。だが義教が将軍となるとそれまで結構好き放題していたがあからさまに勝手に出兵したりと独立機関のごとく無茶をしだした。鎌倉府のそれまでもの勝手振る舞いを快く思っていなかった義教はこれぞ好機と、大軍を投じてこれを討った。

それからの義教は、権力強化に努め、自分に反対する者は容赦なくつぶした。そのやりかたは元僧侶とも思えぬ苛烈を極めたものだった。家臣にもきびしく、些細なことで領地を取り上げたりした。そんななかで、自分の領地を召し上げられると危機感を強めた赤松満祐(みつすけ)は、義教を自邸に招き宴席で殺害した。義教はのこのこと出掛けて行って討たれたのである。これをその起こった年、嘉吉元年(1441)にちなんで「嘉吉の乱」という。この辺は、井沢氏の「逆説の日本史」で詳しく学んだことだ。

 

・今川義元は、次男坊で出家していたが兄が24歳で死んだため、後継者として示された。それを推したのが臨済宗の僧太源雪斎(たいげんせっさい)である。今川を仕切っていた実母寿桂尼の後押しもあり決まりかけていたがこれに異を唱えたのが側室腹の異母兄であった。この内乱は国を二分する争いとなったが相模の北条氏綱が承芳(しょうほう)について、異母兄を滅ぼした。承芳は還俗し家督を継ぎ今川義元と名乗った。この乱を異母兄が決起した城の名を取って「花倉の乱」という。

 

・甲駿相三国同盟:今川芳夫人は、信玄の姉、義元の娘と信玄の嫡子・義信は夫婦、信玄の娘は北条氏康の嫡子・氏政と夫婦、義元の嫡子・氏真と氏康の娘は夫婦。

 

・信長は、松永久秀を家康に紹介するときに、「こいつは、主の三好家を乗っ取り、将軍義輝を殺害し、奈良の大仏を焼き払った、三つの悪行を働いた極悪人」と紹介した。

 

・お江は、秀忠との間に家光のほかに、後水尾天皇の女御(にょうご)となる東福門院を産んだ。

 

要するに浅井長政の子孫は、徳川幕府に、そして天皇家にも受け継がれたのである。今生天皇にも長政の血が流れているということだ。

 

・謙信は、生涯独身で実子がなく二人の養子がいた。一人は謙信の妹の子景勝、もう一人は越相同盟で越後に送られてきていた氏康の第七子景虎である。二人の間で謙信の死後家督を争ったのが「御館の乱(おたてのらん)」である。景勝が勝頼の妹と結婚し「甲越同盟」を成立させたことで優に立ち、景虎のこもる御館を襲撃し、自刃させ景虎が勝った。

 

・秀吉の九州平定緒戦で豊臣軍の先鋒を担った四国勢は島津軍の反撃をくらい大惨敗した(戸次川の戦い天正134月)。この戦いで長宗我部信親が討たれた。

 

・小田原城攻め:天正1875日に籠城していた北条氏直は二か月半で降伏した。前城主氏政は、切腹し、当主氏直は高野山へ追放された。

 

先の大河ドラマで、氏政役を高島兄弟の弟が好演としていた。氏康がその食べる姿を見て嘆いたという茶を二度かける場面が何度か出ていた。うまい演技だった。

 

・秀吉の刀狩は、検地と異なって全国規模では実施されず、不徹底に終わったといわれる。

 

・関ヶ原の戦いののち家康は東南アジアとの朱印船貿易を推進した。日本からの輸出品は金・銀。銅であり輸入品は生糸や絹織物だった。

 

 

「歴史ミステリー」倶楽部「地図で読む日本の歴史」。

2月の台湾旅行以来、いろいろな出来事があったが忙しくて(愚者の言い訳だが)そのブログが書けないでいる。何とかUPしたいのだがいつになることやらとりあえずたまっている読書感想文から書いていこう。
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逆説の日本史の備忘録・感想文は、備忘録部分が膨大なのでなかなか感想文が書けないでいる。簡単に書ける感想文からボチボチ書いていこうと思う。

 

以下例によって備忘録。

 

・日本人のルーツ:現在の日本人の遺伝子の65%が弥生人のものである。南米の先住民と日本人が同じ遺伝子を持つことが最近の調査で判明した。

・大宝律令:「律」は刑法、「令」は行政法のこと。

・桓武天皇は東北征伐に本格的に取り組み797年(延暦16)坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した。

・桓武は、804(延暦23)年、遣唐船で二人の僧を送った。朝廷が派遣した最澄と、留学僧だった空海である。

・「承久の乱」1221年、後鳥羽は、頼朝の息子三代将軍・実朝が暗殺されると執権の北条を討つため院宣・宣旨を出して挙兵したが、頼朝の未亡人北条政子が檄を飛ばし、御家人を結束させあっという間に朝廷が集めた軍勢を破った。後鳥羽は捕らえられて隠岐に配流された。これに懲りて幕府は京に六波羅探題をおいて朝廷と西国武士の管理を強めた。

・加賀の一向一揆:守護の富樫家の家督争いで門徒宗の力を借りて戦ったのをきっかけに門徒宗は年貢減免を要求した。これをのめなかった富樫と農民とが争いになり富樫は自刃し、これから100年本願寺と門徒が自前の守護を担いで自治を行った。

・応仁の乱で疲弊していった守護が支配力を失うなか北条早雲は、妹が今川家で側室となっていたのを頼って今川家の客分になっていたが、伊豆の鎌倉公方の跡目争いに付け入り伊豆に攻め入り韮山、小田原、新井、岡崎を落とし伊豆の支配者になった。その後四代にわたり伊豆に君臨した。戦国大名の第一号といえる。

・桜田門外の変:1860年(安政7年)33日桃の節句の賀詞に為井伊が登城する日であった。

・廃藩置県:県名は、維新の際に政府に貢献したか否かで決められた。忠勤藩の名は残され、朝廷藩、日和見藩の藩名はなくされた。明治4年日本は372県に分けられた。

 

井沢元彦「逆説の日本史4⃣」中世鳴動編。

この作品も一年ほど前に読んだもの。感想文というより備忘録が書けないまま何冊もたまったままになっているうちのひとつである。何度も書いているように最近はものすごく読書時間が減っているがそれでも気が向けば何時間も読むのと、歴史ものが多いので付箋の山となるのでなかなか感想文が書けないでいる。写真は、感想文を待っている本の山である。
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以下暇な方は読んでください。思い切りざっくりまとめると、平安時代はとんでもない天皇が皇位についたということである。それによって人心が離れ武家政治の端緒となってしまったということである。

・「更衣」天皇の妻の身分の一つ。

・紫式部は結婚して娘がいた。

・乳母は、通常家臣の妻の中から選ばれた。

・「古今集」の原本は存在しないが、古い写本はいくつか現存している。

・「万葉集」から「古今和歌集(古今集)」は天皇で10代、年数で100年が経過している。

・桓武の息子安殿(あて)親王(後の平城天皇)は病弱で、自分よりずっと年上の藤原薬子(くすこ)という女性に溺れていく。長岡京の道営長官だった藤原種継の娘である。薬子は夫がいて三男二女をもうけていた。その内の長女は平城の後宮に入っていた。つまり母子とも女として愛してたことになる。

・父桓武はそれを知って激怒し、薬子を朝廷から追い出した。だが桓武が亡くなるとすぐに薬子を呼び戻して在位わずか三年で皇位をおっぽり出し弟の嵯峨に譲り自分は上皇となって薬子と共に旧都の平城京に引っ込んでしまった。薬子は平城をそそのかして「平城京遷都令」を出した。怒った嵯峨は薬子の兄を逮捕し翌日処刑した。平安時代の死刑はこれ以降源平争乱の時代まで約50年後まで一切行われなくなった。一方平城の方は薬子と共に身柄を都に移されたが平城は頭を丸めて許してもらい。薬子は毒を仰いで自殺した。

・「刀伊の入寇」平安時代の中頃101916日間だけ異民族の侵略を受けた。刀伊とは部族の名前で正式には女真族といい、後に中国本土に金という国を建国する。刀伊は対馬を襲い残虐の限りを尽くした、それに立ち向かった大宰府の藤原隆家ほかの武将たちに十分な恩賞を与えなかった。超法規的に対応し撃退した事前報告の手続きが不完全だという理由だった。今の日本と変わりないバカげた政府である。平安時代もバカだったのである。

・そもそもこの時代には桓武が軍隊を廃止していたのである。

・この時代の摂関政治というものが政治の名に値しないことは多くの学者も指摘している。

・嵯峨天皇は多数の妻妾をめとり50人もの子供を作った。「血縁の壁」で天皇家を守ろうとした。そして母親の身分が低い者たちを一まとめに臣籍降下させて、姓を与えた。「源」姓である。これが源氏の起こりである。

これを賜姓皇族という。

・嵯峨の次の淳和(じゅんな)天皇の時代に桓武天皇の孫に与えたのが桓武平氏である。

・日本語を書き表すためにカナが発明された。

・源氏物語は藤原道長の時代に、道長の娘付きの女官である紫式部が書いたものである。

・「竹取物語」で嘲笑された五人の貴公子、それはすべて物語が書かれる200年前に実在した貴族たちであった。

・神田明神は平将門を祭っている。

・武士の別名「もののふ」物部氏にちなんだもの、「さむらい」は侍(さぶらう)者、「つわもの」は兵器(うつわ)を扱う者の意である。

・平安末期の日本はまさに末世という状態だった。国は少ない領地からできる限り搾り取ろうとする。その一方で予算がないので行政サービスはまったくできない。そんな最悪の状態だった。

・統治力を失った王は新しい王に代わられて当然とした理論。これを「湯武放伐論(とうぶほうばつ)」論というが日本ではこれは認められない。天皇家があるからである。

・藤原家は、天皇家にやった娘が皇子を産むという方法の寄生虫主義もついに途絶えた。

・ついに藤原氏の外孫でない天皇が誕生した、後三条天皇である。後三条は荘園問題に手をつけ不正な手続きによって作られた荘園を没収した。そしてこれを天皇家の私領にこれを加えた。これはおかしなことでもともと公領=天皇家領のはずだったから。だが実はこれが院政の経済力基盤となっていくのである。そして後三条天皇の子の白河天皇からいよいよ院政が始まるのである。

・荘園は藤原摂関体制の基盤であると同時に律令体制をゆるがす癌でもある。後三条天皇はこれを廃止せずに整理という手段でこれを打開した

・白河上皇はめちゃくちゃワンマンだった。そして人格的にまた能力的に問題があった、こういった人物が院政の執行者となると日本はとんでもないことになるはずだ。そして実際そうなった。

「批判のない独裁体制は必ず非人道的な行為に走る」これはあとの日本の歴史でも証明される。秀吉が典型だが、信長の晩年もどこかおかしいし、綱吉の晩年もとてもおかしい。

・彼らに共通するのは、「人命軽視」ちょっとしたことで簡単に人の命を奪う。些細な失敗ですぐに処刑する。次によくあるのは「性の放縦(ほうしょう)」つまりスケベになり片っ端から女に手を出す。この白河上皇の「性の放縦」こそ、朝廷が権力を失い、武家に奪われる最大の原因となる。

・秀吉は大地震で倒壊してしまった方広寺大仏殿へ馬を飛ばし、「人を救う身でありながらこのざまはなんだ」と大仏の眉間に矢を打ち込んだ。

・平安末期の朝廷の様相を一言で言うと、まさに「背徳のハレム」であった。

・保元の乱:それぞれの階層が二手に分かれて戦った。

天皇家 崇徳上皇(兄)      後白河天皇(弟)

摂政家 左大臣・藤原頼長(弟)  関白・藤原忠道(兄)

武士団 平 忠正(叔父)     平 清盛(甥)

    源 為義(父)      源 為朝(子)

 

という図式だが、この決着は一夜にして片が付いた。為朝らが必勝の作戦として夜討ちを提案したのに、軍事には素人の頼長が「もっと兵を集めてから」と反対した。ところが敵の後白河川側は夜明けと共に崇徳側の本拠白河北殿を急襲したのである。崇徳側は敗北し崇徳は仁和寺に逃れて髪を切り頼長は乱戦の中で死んだ。後白河は「戦犯」に対して実に過酷な処分を行った。忠正の処刑を甥の清盛に、そして為義の処刑に実の息子の為朝に命じたのである。

・この時代の天皇家は「朝廷の反道徳行為」と後に批判されている。こんな不道徳なことをやっている朝廷に武士たちは忠義心など失せていったことだろう。

・鳥羽は、崇徳に皇位を譲った後、どうしても次の皇位は息子の近衛に譲りたかった。近衛は最愛の女性の子だったから。だが近衛は17歳で死んでしまった。どうしても叔父っ子の崇徳系列には継がせたくなかった鳥羽は、近衛の兄の雅仁に皇位を継がせた。これが後白河天皇である。

 

余りにもややこしいのでここで整理してみよう。この白河という天皇は、この後の日本のあり方を大きく転換させたターニングポイントとなる人間である。

白河は、後三条の「藤原からの娘を娶るな」のいいつけを守らず。藤原の娘を妻にし、弟に皇位を継がせず、実子に皇位を譲り(堀河天皇)自分はその血統が継承されるように院政を開始した。だが堀河天皇は若死にしわずか五歳の孫が皇位を継いだ(鳥羽天皇)。白河は藤原の女、璋子(しょうし)を養女にしていた。ただこの璋子は素行にとかくの噂があった女性だがこれを鳥羽天皇の中宮として入内(じゅだい)させた。待賢門院(たいけんもんいん)という。この時天皇は16歳、璋子は18歳であった。白河は出家し法皇となった。だが白河は出家したからといって決して女色を断ったりしなかった。それどころか白河は自分の孫の嫁になったこの璋子に手をつけたのである。その子は無事生まれ顕仁(あきひと)と名づけられた。だが鳥羽は叔父子の事実を知りながらも待賢門院とのあいだに四皇子二皇女をもうけた。璋子は絶世の美女だったのである。そして一方白河はおのれの胤子である顕仁を鳥羽に退位させ天皇の座につけた。崇徳天皇である。鳥羽は口惜しかったが相手が祖父ではどうしようもなかった。鳥羽は上皇となったが何の権限もなかった。白河法皇に力は絶大だった。院政の主であり最大の権力者であり白河は「治天の君」であった。ところが崇徳天皇即位後6年、11歳の時に白河は死んだ。鳥羽上皇は、ここで待望久しい治天の君になることができた。ここから鳥羽の復讐が始まる。鳥羽は、自分の愛する女が産んだ真の実子を位につけようとした。この女性を美福門院という。この美福門院が躰仁(なりひと)親王を産むと鳥羽は直ちに崇徳の皇太子としそして崇徳から皇位を移した。崇徳の治世は19年に及んでいたがこれは鳥羽が待賢門院でない皇子の誕生を待ったいためである。崇徳は、自分の息子を次期天皇につかせるとの約束で皇位を譲ったのであるが、これは鳥羽に完全に裏切られた。躰仁は即位し近衛天皇となるが近衛は17歳の若さで子なくして死んだ。当然崇徳は自分が重祚するか、自分の子が即位すると考えたが、鳥羽は自分の息子であり躰仁の兄を即位させた。後白河である。なぜこんな弟から兄へなどという変則なことが行われたか、それは後白河は「待賢門院腹」だったからである。叔父子よりましだとのことだった。実子だからである。

これに当然崇徳は激怒した。崇徳が起こしたのがクーデター「保元の乱」である。

 

マァこの白河という男は、無茶苦茶である。こんな天皇に人心は離れ武士の世の中へと時代は激変していくのである。歴史はたった一人の人間で大きく変わるものである。

・革命とクーデターの違いは、武力によって政権を奪おうとするのは同じだが、体制の変革までを伴う場合を革命という。

・鳥羽の息子、後白河がまた酷い。この保元の乱の敗者、為義の処刑を実の息子の義朝(頼朝、義経の父)に命じたのである。

 

「父を処刑せよ」こんな残虐な命令を下した王は、世界中探しても後白河の他にはいない。

・ユダヤ人の日本史家シャピロ氏は井沢に「イスラエルの歴史でも日本の歴史でも大変なことが多々起こっているが、日本史にあってイスラエル史にないもの、それは「義朝」です。子が父を処刑したという例です」と語った。

後白河は、忠正の処刑も甥の清盛に命じている。

・後白河は道徳の根本を踏みにじるような命令を出した天皇だが、それ以前にも白河天皇以来天皇家は不道徳行為を重ねている。不倫の末崇徳をこの世に誕生させたのも、それを憎んだ鳥羽が弟から兄へと目茶苦茶な相続をさせたのも、さらにそれを恨んだ崇徳が反乱を起こしたのも、すべて道徳の基本を踏みにじる行為である。

・当然武士たちも「天皇に対する忠義」という日本人にとって最も大切な「道徳」を踏みにじるようになり、その結果朝廷を押しのけて武家が政権を握るようになった。

・反乱に敗れた崇徳は、讃岐に送られ反省の意を込め五部大乗経を写経して京へ送る。だが後白河は「呪詛が込められている」とこれを送り返した。崇徳は激怒し舌を噛み切ってその血で呪いの言葉を書き付けた。

「日本国の大魔縁となり、皇(おう)を取って民となし、民を皇となさん」

(日本の大魔王となって、天皇家を没落させ平民をこの国の王にしてやる)

・崇徳は配流後八年にして讃岐で憤死する。1164年のことだ。そしてその死後わずか三年にして武士の平清盛が太政大臣となり清盛の娘の徳子が高倉天皇の中宮となる。されにその徳子が産んだ子が天皇の位に就く。これが安徳天皇である。清盛はクーデターを起こして当時院政を敷いていた後白河法皇を幽閉し、幼少の安徳を天皇に立てその父高倉を上皇とし、実権は自分が握った。

・平家はやがて没落したがそれでも政権は戻って来ず、源氏が握った。その源氏も三代で滅んだ。そこで後鳥羽上皇は今こそ政権を取り戻す好機と兵をあげたがあっさりと敗れた。承久の変である。敗れた後鳥羽はあろうことか隠岐に島流しにされた。初めて武士の手によって天皇が処罰されたのである。

・崇徳天皇の出現によって時代が大きく転換したことは事実である。特に保元の乱によって、嵯峨天皇の以来810年(弘仁元)以来途絶えていた「死刑」が346年ぶりに復活したことは重大なことだ。保元の乱以降、死刑が復活し「軍隊が統治する国」になった。

・日本人は普通自宅には専用の橋と茶碗を持っている。例えば父が長年使った箸だがお前にやろうと娘に言ったとする。娘はどうするか「ありがとう使わせていただきます」とは絶対に言わないであろう。

・もっとも日本人のいい加減なところは箸にはそれほど拘るがこれが洋食器になるともう平気なことだろう。

・持統天皇は日本で初めて火葬された天皇である。

・この現代の国家で「軍隊もない」「死刑もない」といったベラボーな国は存在しない。

平和とはまことにはかない概念である。

 単に戦争の対話にすぎず、戦争のない状態をさすだけのことで、天国や浄土のように高度な次元ではない。あくまでも人間に属する。平和を維持するためには、人脂(ひとあぶら)のべとつくような手練手管が要る

・有史以来ほぼ二千年の日本史の中で、そのおよそ八分の一の時代を平和にする基礎を築いた家康のことは、もっと高く評価されていいはずである。

・近代以前の社会では、「野党」は存在しない。存在するとすれば、墓の下か牢獄の中である。しかもうっかり牢獄から出せば今度は「自分」の方がそこへ行かされるかもしれない。

・家康が大大名の伊達や毛利は滅ぼさずに、豊臣家だけを徹底的に滅ぼしたのは、豊臣家が徳川の家来になることを拒否し、対等の関係を求めたから、つまり「野党」になろうとしたからなのだ。

・個人的に大嫌いなチャーチルは回顧録において「この戦争(第二次世界大戦)は必要のない戦争だった」と言っている。

この意味は、「早いうちに戦争を起こしてヒトラー政権を打倒しておけばあれだけ多くの人間が死ぬようなバカな戦争は避けられたに違いない」

どんな戦争も悪と決めつける「平和主義者」がチャーチルの意見に徹底的に反対したからである。

・日本は700年間朝幕併存体制であった。

・検非違使:令外の官。京都の警察・裁判をつかさどった。

・令外の官には、他に関白、内大臣、中納言、征夷大将軍がある。

・いかに優秀な与力でも出世して町奉行になるなどということは絶対にない。

・平家物語の冒頭の一節

 祇園精舎の鐘のこゑ

 諸行無常のひびきあり

 沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色 

 盛者必衰(じょうしゃひっすい)のことわりをあらはす

 おごれる者もひさしからず

 ただ春の夜の夢のごとし

 たけき者もつひにはほろびぬ

 ひとへに風の前のちりに同じ

 

・清盛は、後に日宋貿易を大々的に行ったことでもわかるように、海上交通や水軍の発展に熱心な男だった。厳島神社は平家の氏神である。1995年に創建1400年を迎えた。氏神となったのは清盛が安芸守に任ぜられて以来であるが現在の壮大な規模となったのは清盛によるという。

・平家物語は清盛の父忠盛が受領として貯えた財力で、鳥羽上皇に三十三間堂など大寺をいくつも寄進し、その見返りに武家として初めて殿上人に列せられたところから始まる。

平氏はそもそも桓武天皇の孫にあたる高見の王の子孫である。

・平安時代に入ってから嵯峨天皇の時代より保元の乱まで、死刑の執行例が一度もなかった。

・白河法皇が寵愛して後に忠盛に与えた祇園女御(にょうご)というじょせいが白河天皇の胤をはらんだまま忠盛のところへ行き、産み落としたのが清盛だと平家物語には書いてある。

・歴史の記述方法は二通りある。編年体と紀伝体である。

編年体とは教科書のように年代順に記述するもの。紀伝体はつまり「人物の一代の事績を記録した書物」を中心に編んでいく歴史叙述法である。

・日本人は現状から未来を予測し、それに対応した「計画」を立てるということが、極めて困難な民族であるということだ。目前の発明・工夫は得意だが、根本的な発想の転換をするということは大の苦手である。

 

司馬遼太郎「覇王の家」下巻

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司馬さんのファンを自任するわりには、その読んだ作品の数は、それほど多くない。大体気に入ればその作家のほとんど全部を読まなければ気がすまない質(たち)なのだが、どういうわけか司馬作品の追っかけはしていない。

 

以下例によって備忘録です。

 

・家康は、吝嗇家(ケチ)で、高給で有能の士を厚遇するということはしなかった。

 

徳川内部ではそれに対する不満もかなり多かったらしい。

大久保彦左衛門として知られる大久保忠教(ただたか)はその門外不出の書「三河物語」で家康のことをぼろんちょに書いている。この本は明治になって開帳され戦国から江戸初期の徳川内部を知る一級資料として歴史家から高い評価を受けた。

 

・柴田勝家は織田家内では不人気であった。それに付け込んだのが秀吉である。

 

・信勝は72歳まで生きた。

 

暗愚を絵にかいたような男である。信長の次男坊である。同い年の弟に、信孝がいる、この男の方がよほどましだったらしい。勝家が信孝を推したのは有名である。

 

・その当時信雄は百七万石という領地をもっていた。

 

・徳川幕府は、進歩と独創を最大の罪悪とした。

 

要するに人民は賢いと政府転覆をはかるものだという家康の信念によるものである

この考え方は、徳川施政の基本となり幕末まで続く。

 

・信長は、桶狭間の戦い以降「切り捨て命令」を出さなかった。

 

戦国時代においては武士の戦いというよりその指揮下にある武装農民の戦いでもあった。彼らはその戦場での働きは、その上げた敵の首によって評価された。首の数と、その首の武将の価値によって彼らの武功は報われたのである。その恩賞は、野良仕事に比べようもなく極端にいえば一生分の稼ぎを一戦で稼げることもままあった。

 

・戦国時代といえども戦死者が部隊の一割にもなることはなかった。

 

・井伊直政は、その美貌は婦人にもまれなほどだった。

 

・長久手の戦いで討たれた池田勝入斎の子池田輝政は豊臣政権下で優遇され三河吉田十五万石になったが秀吉の媒酌で家康の次女篤姫をもらった。

 

このあたりの輝政と秀吉臣下になっていた当時の家康との間のエピソードはなかなか面白いが長くなるので割愛。

私事になるが、池田輝政公はわが先祖の主君である。

 

・武田の遺臣たちは、井伊万千代(直孝)に預けられた。

 

井伊の赤備えは、武田伝来である。

 

・本多平八郎忠勝は慶長1562歳で病死した。彼は軽装にもかかわらず幾多の戦場でかすり傷一つ負わなかった。それに引きかえ井伊直孝は重い具足を着用し、具足の下には着込みに鎖を入れるほど厚着をしていたが合戦のあるごとに怪我をしていた。

 

この二人の違いを後々まで家康は面白そうに語ったという。

 

・「一代手負わず」の平八郎は、晩年十万石の主となったが。彫刻がすきでひまさえあれば小刀細工をしていたが、小指を切った。病没の年であった。そのとき「自分は今年あたり死ぬだろう」と言ったが果たしてそうであった。

 

秀吉が、平八郎をいたく気に入っていて、家臣に高禄で迎えようとしたが、平八郎は丁重に辞した。腹の中では秀吉を、「おまえはあほか」とあざ笑っていただろう・・・と思う。

 

・北条をおこした早雲は伊勢で生まれ室町末期の世の乱れに受け行って関東における大勢力の基礎を作った。

 

秀吉の出自を、北条を筆頭に家康ら戦国大名たちは腹の中では見下していたというが何のことはない彼らの「出」もそんな大したことない似たりよったりのもんである。

 

・かつて秀吉と交戦した滝川雄利(かつとし)は、秀吉に依頼され家康への元へと赴き講和をすすめた。雄利はかつての同僚を「殿下におかせられましては」というので酒井忠次が「でんかとはだっ誰のことやねん」とききとがめた。

 

雄利には矜持がないんかい!!

 

・雄利の子孫は徳川幕臣として幕末まで続き鳥羽伏見の戦いでは、徳川の先頭をすすんだが、薩摩の砲声をきくや、味方をけ倒して数キロ逃げた。鳥羽伏見の戦いでの徳川軍の最初の負傷者は彼らに馬で蹴られた連中であったという。

 

要するに雄利のDNAはその末裔まで残滓のように残ったというとであろう。

 

・信雄は家康に仕えて徳川家光の代まで長寿をたもった。

 

既述のように嫌味のように長生きしたのである。この男も戦国時代の大嫌いな一人である。

 

・犬馬の労を取る。

 

・吉良家の出身の吉良町では雲母(きらら)がよく産出した。きららが吉良になったのであろう。

 

あの上野介の先祖である。

 

・織田の先祖は、越後から尾張に流れてきた神主であった。徳川の始祖は当時の下層民である流浪の乞食僧であった。

 

・家康は58歳のときお亀という侍女に義直(尾張家の始祖)、60のときに於万に頼宣(よりのぶ)(紀伊徳川の祖)その翌年に頼房(水戸徳川の祖)を生ませた。

 

秀吉の女狂いは、戦国時代の醜聞としてよく描かれるが、確かにその女性選びは見苦しいの一言だが、家康の絶倫もたいがいである。

 

・家康は、外様には大きな領地をあたえ譜代にはそれほどの恩賞を与えなかった。その代わりに譜代にしか幕閣の政務にあたらせなかった。

 

既述のとおりである。

 

・藩風は藩祖の性格できまるといわれる。藤堂高虎はものすごいご機嫌とりだった。

「うまれ場所が違えば家康は高虎になっていたかもしれず高虎は家康になっていたかもしれない」

と司馬さんは評している。

 

・家康は天下をとってから宗旨を浄土宗から天台宗にかえた。

 

・福島正則は秀頼への忠誠心を最後まで持していた唯一の大名であった。家康はいつか福島家を些細ないちゃもんをつけてつぶせと遺言した。

 

遺言(いごん)というのは、時代小説によく登場する。これが始末の悪いのは、その出した本人が死ぬと取り消す人間がいなくなるということである。このために多くの悲劇がうまれた。それを題材にした小説も多い、ふと思い出すだけでも「蜩ノ記」「蝉時雨」などなどいくつかある。今なら出した人間が死ねば「取り消し」になると思うのだが・・・

 

司馬遼太郎「覇王の家」上巻。

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先日のMelbourne旅行でお供させた一冊。最近は旅先ではiPadが手から離せない。道案内、メールのやりとり、ニュースの一覧、ラインによる同行者同士の連絡等々がほとんどこれ一つですませられる。読書も電子版で簡単に便利に読めるがこれはいつぞやのQEⅡ以来したことがない。本として残らないからである。

そんなことで、今までは機内でもずっと本を読んでいたのがなんやかんやiPadをいじっていると以前の旅と比べて読書時間は半分くらい、いやもっと減っているかもしれない。

そんな中でこの旅では、このほかに陸軍参謀本部編集「関ケ原」、池井戸潤「七つの会議」を持参したが、読み切ったのはこの一冊だけで、あとは「関ケ原」の半分だけだった。往復の機内、トランジットでの長い待ち時間、BruceSue夫妻が招いてくれた四泊五日のクルーザーの旅での船中と余りあるほど時間はあったのに・・・

 

司馬さんとは、何度も書いているがちょっとした縁があって、二度ほどご自宅でお会いしたことがある。奥さんのみどりさんに仏間まで見せていただいたり、どこから送られてくるのか膨大な書籍を書斎にならべるお手伝いもしたことがある。司馬さんが徹夜で向かう机にも厚かましくも座らせてもらった。机上にはでかい原稿用紙、ぶっとい万年筆と辞書があるだけで、さすがにその万年筆を触る勇気はなかったが、今でもその天井まで届く図書館のような書斎はもうかれこれ40年にもなるが、鮮明に覚えている。

 

 

以下筆者備忘録。暇な方は読んでください。結構お勉強になりますよ。

・家康は人質時代一度戸田氏によって織田方に売られた。信秀は、大いに喜んだ。戸田氏は領地が渥美半島にあったため大船を持っていた。

 

・家康は、結局織田方に二年間いた。

 

・その間に父広忠が24歳という若さで家臣に討たれたため人質の家康は本国不在のまま松平家の当主となった。

 

・今川義元を、教育した大原雪斎(だいげんせっさい)は、義元の叔父にあたる人物で、幼児に僧門に入ったが軍事と外交の天才であった。

 

・家康は、今川家でそれなりの教育を受けたとの学説があるが司馬氏は、まともな教育は受けなかったと主張する。のち家康が天下を取っても漢詩も作れず、古詩も訓(よ)むことができなかったという。

 

・駿河では、学ぶことを真似(まね)ぶという。

 

・家康は、織田方の今川との最前線にある安祥城が落ちた時、その城主信広と交換でまた今川に戻された。信広は信長の庶兄である。

 

・家康は今川家で、家臣の関口家の娘を娶らされた。年は24歳で当時の結婚適齢期は15.6歳であって大年増であった。家康とは十歳以上も年上であった。

 

・家康は最初の頃この女との閨房に惑溺した。しかしその権高さに次第に嫌になった。この若い時の正室との苦い思い出は後の家康の女性感に大きな影響を及ぼしたらしい、家康は側室に身分の低い女性をこのんで選び、夜のお勤めとともに日中は秘書の役目をさせた。

 

・家康の祖父清康、父広忠も家来によって殺された。

 

・織田衆は、家康らの三河衆を、律義であるが毛が何本か足りぬのではないかと揶揄した。家康の家来たちは怒ったが、家康は織田家臣たちとの摩擦を恐れぐっと我慢した。

 

・信玄は、新たに得た土地を家来に任せず自分の直接行政地とした。

 

・信玄は無神論者だった。秀吉も無信仰であった。家康は、なんでも信玄の真似をしたが浄土宗をちょっと信じた。

 

・信玄は、他国を攻めるにあたって地形、その地の人民のことなど入念な下調べをした。

 

・浜松は家康が命名したものである。それまでは引間だった。

 

・家康は、信玄の配下になれば安泰だったが、あえて信玄に与せず、謙信と連合した。信長は、信玄を恐れ同盟したが、家康のこの動きにより信長は信玄と手を切り、徳川・上杉連合に入った。

 

信玄を敬拝していた家康がなぜ信玄下につかなかったのか不思議である。

 

・家康は、日本の歴史において先覚的な事業を少しも遺さなかった珍しい存在である。

 

・家康の健康オタクは病的なほどで、遠征先の遊女などは梅毒を持っているとの恐れから絶対に接しなかった。

 

・三方ヶ原の敗戦の後徳川勢は犀ヶ崖の武田の陣営を夜襲した。これは穴山梅雪隊であった。

 

・この後信玄は遠州刑部(おきかべ)まで進み越年した。この頃信長は信玄の機嫌を取ろうと使者を送ったが信玄は三方ヶ原に信長が援軍を送ったため信長との外交を断った。

 

・築山殿の実家の父関口親永は婿の家康が織田側に走ったためこれを今川氏直に問われ腹を切らされた。

 

・築山殿は身籠ったおまんの方を木につるし上げた。夜中にそれに気づいた家来が木からおろして場外に助け出した。この時産まれたのが結城秀康である。おまんの方は後に小督(こごう)の局といわれた。

 

・信康は家康17歳の時の子であった。

 

・信長から信康を殺せと命じられた家康は三日間浜松城の奥に籠り決断を下さなかった。

 

・家康は、信康を誅殺することに決めたが、三度までもその身柄を移させた。逃げてくれとの思いだったであろう。

 

・勝頼は比類なき勇猛な大将であったが、その戦費が亡くなると容赦なく租税を重くして百姓から取り立てた。その辺の計算ができない男であった。故に領民からは嫌われていた。本拠地である甲州でさえ「早く織田・徳川の軍がやってきてくれないものか」とささやいている百姓がいたという。

 

・家康は、勝頼より四歳年上だった。

 

・穴山梅雪は信玄の姉の子である。

 

・家康は、本能寺の変の時、たまたまその前日京をはなれ堺にいた。そのまま京にいれば変に巻き込まれて主従もろとも死んでいた可能性はある。

 

・焦眉の急(しょうびのきゅう)

 

・本能寺の変の日の朝家康は大坂から淀川ぞいの京街道をとり京に向かっていた。本田平八郎はその旨を信長に知らせるために家康一行より先んじて京に馬を走らせていた。そこで下ってくる茶屋四郎次郎と出会った。

変を知ると家康は京に上って知恩院で腹を切るといった。

 

・知恩院は、浄土宗の総本山で、家康の宗旨であった。

 

・家康は、枚方(当時川港であった)から真東に田園を抜けて走った。

 

・家康は、無事に国に帰ってからわずか千人程度を集めて「復讐戦」のために京に向かうふりをした。その行軍はのろのろしたもので、臣下の者たちさえ何を考えとんのやろと思った。途中の鳴海で、秀吉からの飛脚を受けた。「十三日、山城の山崎において逆賊明智光秀を討滅し終えた」

 

・北条氏康はその子氏政の愚かさにほとんど絶望していたらしい。有名な一椀の飯に汁を二度かけて食ったという逸話である。

 

・家康の経済観念、ものを集めしわかった性格は地方の小さな農村領主の域から一歩も出ずこの家康の思想が徳川政権のつづくかぎりの財政体質となり財政の基礎を米穀に置きつづけるようになり、勃興してくる商業経済に対抗するのにひたすら節約主義をもってし、幕末までつづいた。

 

・一方信長、秀吉は商業主義を貫いた。

 

南原幹雄「銭後の海」(上巻)。

  「弥助」の親父に会いに、そして江戸時代の風情をそのままに残したその街並みを愛でながらそぞろ歩きを楽しみに、何度も訪れた金沢の町。

一度はクルーズ船で海から上陸したこともある。そのときにはめったに来ない市の西地区を探訪した。その中に「銭屋五兵衛記念館」があった。海関係のものならんでも好きな自分は何も予備知識なしに入館したが、江戸幕府末期に、「抜け荷」という密貿易でとてつもない財産を築いた男が加賀の町にいたことを知った。この男が淡路五色が浜の高田屋嘉兵衛の跡をついでロシア貿易を行ったこともこの時知った。当然この作品もその販売コーナーにあり、たいがいそんな時はその本を買うのだが、クルーズ途中だったのでやめた記憶がある。

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先日、ヨット仲間のYさんのブログで「おもしろかった」の感想があったので、これは読まなくてはとさっそく読んだ次第。ただこの作品は絶版になっており、ネットで中古品を見つけて買った。

 

銭屋家は朝倉氏の末裔の元武士の家系で金沢に移住して商人となった。両替、古着商などを手掛けて手堅く商いをしていたが五兵衛はそれでは飽き足らずその地、宮越が加賀唯一の港といっていい海に面した場所であったこともあり海運業に手を拡げた。五平衛はその商いを、いわゆる「抜け荷」と呼ばれる「密輸」にまで手を伸ばした。それはとてつもない財をもたらした。

だがそれはあくまで違法で、見つかれば死罪、よくて全財産没収、一家離散の危険をはらむもので、その末路は知っていただけに後半先に読むのがしんどかった。


・雪洞(ぼんぼり):♪♪明かりを点けましょぼんぼりに~~♫こんな字を書くだとは知らなかった。

「福翁自伝」福沢諭吉・斎藤孝編訳。

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藤原正彦氏のエッセイで紹介されていたこれを買った。諭吉といえばこのほかにもう一冊「学問のすすめ」があまりにも有名である。これも買った。実はこの二冊は学生時代にも読んだことがなかった。

この一冊はあまりにも現代語訳すぎ、簡略化されすぎで面白くない。もう一冊おなじ「福翁自伝」を別の訳者で買った。以下箇条書きにそれをまとめた。

 

・諭吉には兄がいた。

 

中々厳格な兄貴で諭吉は彼に頭が上がらなかったという。

 

・中津の頃稲荷さんの社の中に入っていた石ころを変えたことがある。13.4歳の頃

怪しげな祈祷師を追い払う。

 

迷信など怪しげなものはきっぱりと否定する性格だったようだ。

 

・『夜辺汀の捨小舟(よるべなぎさのすておぶね)』:頼るべき人もいない寂しい身の上のこと。

 

・天保五年(18341212日諭吉誕生の名は、父が「上諭条例」という中国の本を買った日に生まれたから

 

・藩を出るには藩に願書を出さなくてはいけなかった。「部屋住み」はいらなかった。

 

・諭吉は大酒飲みだった。

 

・緒方塾の頃、大阪で牛鍋を食べさせるところが二軒あった。難波橋(なにわ)の南詰、新町の廓の側。ガラの悪い連中と緒方の学生ばかりであったという。一人前150文。

 

この貨幣価値の「文」は、時代小説に頻繁に登場する。この文の価値は、今に当てはめると大体一文=3円で計算している。時代によって少し変わるが大体この計算でいいと思う。

 

・禁酒してたばこに手をつけた。酒はやめたがたばこは死ぬまでやめられなかった。煙草を最初もんの凄く毛嫌いしていた。

 

塾の悪友に酒をやめるならたばこをやれと進められたことから始めたことで、諭吉は生涯これを悔いていた。

 

・塾生は枕を持っていなかった。

まともに寝るということをしなかったためである。起きたら本を読むか、議論をして眠くなったらそのあたりの座布団などを枕代わりにして寝たという。

 

・緒方の講義には秀才ぞろいの塾生もその卓見に舌をまいたという。

 

・福沢らのアルバイトは写本であった。

 

・横文字を訳すと一枚16文になった。時には300枚の写本の依頼があった。

 

・当時、白米一石三分二朱、酒が一升64文から200文だった。

 

・江戸で大名が多く写本の金額は大坂よりずいぶんと良かった、だが修業するには大坂で勉強するのが質が高かった。

 

・諭吉たちは長崎にいるとき化学実験なんかもやった。錫メッキをしたりアンモニアを作ったりした。ただその道具に酒屋で酒を買った徳利を返さないでそれを使っていた。以後酒屋が怒って酒を売ってくれなくなった。

 

・緒方洪庵はもともと筑前の黒田藩のお抱え医者であった。

 

・そのつてで洪庵が殿さまから「ワンダーベルト」という原書を借りてきた。英語をオランダ語に訳したものだった。オランダ語しか知らなかった諭吉たちは、もうすでにオランダ語が時代遅れなことこれからは英語の時代だということを痛感していた。そんな彼らにとってオランダ語と英語を対比して学べるこの本は貴重なものだった。緒方塾のかれらは借りていられる二日間の間に、一人が読みそれを聞いて書きとるという方法で、全部写本してしまった。諭吉はこの本からヨーロッパのすすんだ化学、科学の多くの知識を得た。

 

・緒方塾の近所、中之島に華岡という漢医の大家があった、そこの学生はみんな裕福であった。緒方塾の学生は敵視していた。

 

・咸臨丸:幕府はオランダから蒸気船(といってもその馬力は100馬力で、出入港の時だけ蒸気で駆動させ、後は風を頼りの帆船だった)を買い入れた。

 

値段は25000両(今の金にしてざっと30億円、バッカ高い買い物だった。当時幕府に限らず日本の大名は値切らないことで外国商人になめられ切っていた。

 

・咸臨丸は、37日間掛かってSFに到着した。そして熱烈歓迎を受けた。

 

・途中ハワイによって給水しようという案も出たが水を節約しつつ行こうと、一気にサンフランシスコをめざした。

 

・総勢96名だった。その中にはアメリカ船で難破して助かり幕府に保護されてした船長以下石など10名足らずのアメリカ船員もいた。

 

日本人たち乗り組み員たちは、自分たちだけでこの航海を完遂させるとアメリカ船員たちには一切手出しをさせなかった。

 

・この快挙はペリーが浦賀に現れてからわずか7年目のことだった。

 

・麟太郎は船に辛きす弱く航海中はずっと部屋に閉じこもり廃人同様だったという。

 

SFに到着した咸臨丸はその航海中のダメージをアメリカ側が無償で修理してくれた。

 

・一行は大いに歓迎されて、歓迎の席ではいきなり酒が出て徳利の口を開けると恐ろしい音がして口から泡があふれた。シャンパンだった。

 

・帰り際に。通訳の中浜万次郎と私が英辞書を一冊ずつ買って帰った。

 

・咸臨丸の歓迎はアメリカ軍レベルでは態勢が整わず退役軍人たちが自前でやってくれた

 

・諭吉は、写真屋で自分の写真を撮るときにそこの娘に頼んで一緒に撮ってもらった帰路の船の中でみんなに自慢した。

 

・諭吉は出航するときに水戸藩と井伊直弼の間でひと悶着があると予想していた。

 

・帰国時に、留守中にとんでもない時間が怒ったと聞かされた時、水戸の藩士が井伊屋敷にでも押し入ったのかというとなぜそんなことを知っているのかとびっくりぽんされた。

 

・アメリカには自費で行ったが、その後のヨーロッパ訪問では、幕府から400両の金をもらった。

 

・文久元年(186212月諭吉たちはヨーロッパへ向けて出港した。イギリスからオーヂン号という軍艦が派遣されてきた。

 

・諭吉は、医者を目指しながら血をみるのが嫌いだった。嫌いどころかロシアでの膀胱結石の手術見学では、大量の出血を見て気絶した。

 

・諭吉は訳字の発明がうまく「コンペチション」を「競争」と訳した。

 

・明治改元の同じ年(1868)慶応4年に塾を移転させ慶応義塾と名づけた。

 

・慶応義塾は「生徒から毎月金を取る」という制度を取った。それまでは「束脩(そくしゅう)」という中国式の謝礼を納める方法だった。これは盆暮れに、生徒の

分に応じて先生にお金なり、品物を送る方法だった。

 

・人類のある限り、人間万事数と理の世界の外に出ることはできない。

 

・諭吉には九人の子供、内わけは四男五女の子福者だった。

 

・諭吉の子供たちへの教育方針は「まず獣心を成して後に人心を養う」主義だった。

 

今の小学生にあたるまで一切の読み書きは教えなかったという。

町井登志夫「爆撃聖徳太子」。

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先の年末のコスタクルーズに「蜜蜂と遠雷」とともに持参した本。蜜蜂に時間をとられてこの作品は1/3ほど読んだだけだった。その後二か月かかって読んだ次第。

 

日本史の偉人中の偉人と言われる「聖徳太子」その生涯は、不明な点も多いが、多くの歴史的な事業を成し遂げた人物である。近頃の若者は知らないようだが、一万円、千円札と言えばこの人物の代名詞みたいなものだった。今は福沢諭吉にとってかわられたが聖徳太子の肖像は、中高年ならだれでも思い浮かべることができるだろう。そうそう諭吉と言えば先日「福翁自伝」を読んだ。まだ感想文を書くにはいたっていないが、諭吉も実像はめちゃくちゃな男である。宴会をすればそこの什器を片っぱしから持って帰るし、酒屋の徳利もくすねてしまう。諭吉には盗癖の気があるようだ。諭吉ももうあと千年もすればもっと神格化されようが、この自伝がある限り駄目か・・・

 

この「爆撃聖徳太子」も太子を相当変人に描いている。見方によればほとんど狂人に近い。

物語の大きな流れは史実にのっとって進んでいくが、その細部はそれを全く離れた「小説」である。この時代の歴史も少なからず知っているので、「酒池肉林」の煬帝が出てきたり、高句麗城と隋軍との血みどろの攻防もさもありなんという描き方で面白かった。

 

・騎馬民族の隋は北方を制圧すると長江を突破し漢民族王朝陳をあっさりと滅ぼした。589年のことである。

・小野妹子は、母が高句麗の出身の渡来人と日本人の父との間に生まれた。

 

小野妹子のお墓には行ったことがある。飛鳥の丘の中にあり荒れ果てていた。

・後に「推古天皇」と呼ばれるこの時の天皇は、炊屋姫(かしきやひめ)といった。料理が得意だったんだろうか。

・小野妹子は隋から帰る道百済で、煬帝からの親書を紛失するという大失態を犯している。これは史実である。

・蟷螂の斧(とうろうのおの):何度も小説で見かけるが、いつも忘れる。自分の力量を顧みず強敵に立ち向かうこと。はかない抵抗のたとえ。

・もともと済州島は韓国の一部となっているが、琉球と同じく独立した王朝があった。

・サヴァン症候群:知的障害や発達障害などのある者のうち特定の分野に異常な才能を発揮する症状。

・小野妹子の末裔に、小野小町がいるとう説もあるが、ほんとかしらん。

 

東京を江戸の古地図で歩く本。

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ダラダラと他の本を読む間に一年ほどかかって読んだ本。2017年末にコスタクルーズで東京の一日があるので持参してやっと読み切った。

それにしても東京の正月の一日は愉しいものだった。

 

・駒込。この地には藤堂家の下屋敷があった。その地の名を「染井」と言った。幕末から明治にかけてオオシマザクラとエドヒガンザクラを交配させて「吉野桜」の名で売り出した。これが今日本の代表的な桜「ソメイヨシノ」である。ソメイヨシノは、交配で生み出されたたった一本の木から増やした品種だが、今では日本のさくらの8090%がソメイヨシノである。この地の植木屋がいかに影響力があったがわかる。

・国分寺:聖武天皇が奈良時代、地方統制・管理に日本各地に建てたもの。

・明暦の大火(明暦3年・1657)で江戸城の天守閣は焼け落ちた。再建計画が持ち上がったがこれに異を唱えたのが保科正之である。「天守閣は軍用には役に立たない、その金を市の復興にまわせ」というのが理由である。

・江戸の鬼門に祈願時として上野の東叡山寛永寺を建立し、裏鬼門(西南)に増上寺を移した。

・日光は、寛永寺が管理した。

・八代将軍吉宗は綱吉に目をかけられていたので「綱吉様といっしょに」と遺言し、寛永寺に葬られた。その後、914代の将軍の菩提寺は増上寺と寛永寺が交代になっている。

・天正18年(1590)家康は江戸入府に際して、信長に滅ぼされた武田の家臣250名を八王子に移住させ、農地を与えて、甲州口の警備をさせた。この甲州口警備の人員は、10年ほどの間に1000人に増員され「八王子千人同心」と呼ばれた。

・明暦三年(1657118日に起こった江戸最大の火事は、明暦の大火として記録され。死者は10万人を超えたともいわれる。この火事の別名は「振袖火事」といわれ、本妙寺で供養のため焼かれていた振袖が風であおられ寺の屋根に燃え移ったのが原因とされる。

司馬遼太郎「アームストロング砲」。

  新装版である。字が大きくて読みやすい。

学生時代に読んだ「竜馬がゆく」「国盗り物語」など、なけなしの金をはたいて買ったのは単行本だったが今手にとると、星霜幾年月、地はきばみ、活字は薄くなっているのは仕方がないが、何より読む気を失せさせるのはほんと字が小さい。よくこんな細かい字で読んでいたものだ。

 

当時は、学生運動はなやかなりし頃だったが、そんなことにまったく興味のないどころか角棒をもってヘルメットをかぶって革命家ぶっている奴らを軽蔑していたノンポリ学生の自分は本ばかり読んでいた。授業に出ようと思っても熱にうなされたような学生たちに閉鎖されて大学自体が機能していなかったのである。そんなことで毎日寝転がって本を読んでいると母親に「若いのにもったいない。他にすることないんかいな」としょっちゅうぼやかれていた。
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Anyway、この作品は司馬さんがあちこちの幕末の歴史の片隅にも残らず消えていった人物を描いた種本からひろって司馬さん独自の味付けをして描いたものである。

この本を買うきっかけとなったのは何かの本で(たぶん井沢氏の「逆説の・・」でだと思うが)「アームストロング砲」に興味がわいてのことである。

 

他には、沖田総司、幕末の志士気取りの狂気の男たちなど9編が収められている。幕末とはこんな時代だったんだと裏側からのぞける話である。ただ学生運動で革命だ何ぞと長髪で大騒ぎした連中が卒業後散髪し何食わぬ顔で企業に就職したようにと同じく、人を斬りまくった志士気取りの男たちも維新後は、社会の中の一市民として嫌味なほど長生きし天寿をまっとうしている。

 

・薩長同盟は、島津久光も知らなかったという。

 

そうだろうと思う。藩士は彼のことを信頼していなかったと思う。この男は、見栄と独りよがりが服を着て歩いているような人間で、大嫌いである。この男も薩摩藩の国父(藩主の父)というだけで維新後、明治新政府から公爵をもらっている。西郷が久光に面と向かって「田舎者!」と罵倒した有名な逸話がある。

 

・鳳輦(ほうれん):屋形の上に金銅の鳳凰をつけた輿。天皇の乗り物の美称。

・慶応四年正月大坂に集結していた幕軍は京都にのぼろうとし、鳥羽伏見で薩長土の連合軍と戦い大敗した。そして幕軍は大坂から撤退し、大坂城はもぬけの殻になった。

 

何もかもほとんど置き去りにして逃げたのである。この噂はまたたく間に市民にひろがり毎日数千人の人間が城に盗みに入った。しまいには女子供までが城に誘い合わせて出かけたという。このあと長州軍が進駐してきたが彼らは城にすぐには入らなかった。長州軍は城の中に地雷が埋められていることを知っていたのである。知っていたのに市民に知らせなかったのは入った町人たちに踏ませてから入城しようという腹だった。実際ある日、城内の二か所で爆発があり数人の犠牲者が出たという。長州軍はそのあともういいだろうということで入城した。

 

・沖田総司は、新選組のなかでは少数の武士の出であった。

 

実物の沖田総司は色が黒く、ヒラメのような顔をしていたというが、それを童顔の美少年に描いたのは司馬さんである。

 

・卒爾ながら:時代小説などによく登場する文句である。

突然で失礼ですが・・・という意味で、この言葉もカッコつけて一度使ってみたいものである。

 

・近藤勇は、新選組に入る前、正確には江戸で家茂の警護の武士を募集する清河八郎が集めた浪士隊に応募する前、開いていた近藤道場は門下生が減り閑古鳥が鳴きいつ閉めようかの状態だったという。

 

近藤勇は、養子で近藤家に入った男で、勇という名前も当時はやっていた「勇」を自分でつけたもので本名は。宮川勝太。「勇」はイサム、もしくはイサミと読む。

 

・仕舞屋(しもうたや):大阪では「シモタヤ」というが、もともとの意は、読んで字のごとしで商売をやめて「仕舞した」家である。玄関が格子戸になっている家を言ったがのちには普通の一軒家をこう呼んだ。

 

・井沢氏だったと思うが、幕末に登場する武士の中で一番の剣の使い手は桂小五郎だという。その小五郎に龍馬は、安政四年103日江戸土佐藩邸で催された諸流武術試合で勝ちあがった小五郎に勝ったという。龍馬は、千葉道場の塾頭であった。

 

・幕末佐賀藩主の鍋島閑叟(なべしまかんそう)は、私の好きな男である。

 

長崎でフェートン号事件が起こりその処理で、閑叟は日本の近代化の必要を痛切に感じた。彼はそれを実践し、維新では日和っていたが最後には薩長についた。薩長土肥同盟である。閑叟について書きだすと長くなるので割愛。

 

・南北戦争では、施条(砲身の内部に溝を入れたもの)砲が使われた。要するにライフル砲である。だがこの新式砲は、鋳物でつくられており、それに切り込みを入れたものだから強度が極端に弱くなり多くの砲が破裂し、多くの砲兵の犠牲者が出て使い物にならなかった。

 

しかし閑叟はこれを買おうと言った。とにかく手に入れて調べ、改良でもしようと思ったのであろう。大した男だと思う。

 

・咸臨丸が、サンフランシスコに入港した時米陸軍砲台が、22発の祝砲を鳴らして歓迎した。これに艦長の勝麟太郎は乗員砲術技術をあやぶんで止めたが、鍋島藩の秀島藤之助は、無言で砲側に歩み寄り艦載砲のことごとくを砂時計を見つつ順次撃ち続けて答礼をした。

 

・帰国後閑叟に「これからの世界は英語国民が主役になりましょう」と進言した。閑叟はその一言で蘭学をやめ、藩の洋学を英学にきりかえた。

 

・この藩の「葉隠」についても長くなるので割愛。

 

『武士道とは死ぬことと見つけたり』の一句が有名。独特の死生観に全編覆われている。賛同したくない・・・

 

・倨傲(きょごう):おごり高ぶること。傲慢。

 

・アームストロング砲は、カノン砲の十倍の発射能力があった。カノン砲が2800mを飛ばすのがやっとだったが、アームストロング砲は5000m飛ばすことができた。

 

十倍の意味がわからないが、兎に角すごい大砲だった。

 

・薩英戦争の際、艦隊が使ったのがこのアームストロング砲である。もんの凄い威力を発揮し鹿児島の町をメチャンコにした。弾は、着発信管でえげつない破壊力であった。

 

・しかし二十発ほど撃つと発射薬のガス圧で火門孔の付近にひびが入り始め砲術長はあわててアームストロング砲のすべてを使用禁止にした。これで攻撃力落ちた英艦隊は薩摩の要塞砲にやられはじめることになる。

 

・閑叟は、船を買った。三本マストの内輪船であった。総トン数は500トン。140馬力のエンジンの蒸気機関をもち8ノットのスピードが出た。12万ドルであった。

 

・「甲子夜話(かっしやわ)」:肥前平戸藩主松浦静山著書

 

時代小説を書く作家はこの一冊を必ず熟読している。

読みたいと思うが、文語文で書かれてありとてつもなく読みづらいので、ちょっと遠慮である。

 

・閑叟は幕末史上最大の開明家であり佐賀藩は三百諸侯の中でもその時代先取りは群を抜いていた。しかしその独裁的な手法はまた多くの悲劇も産んだ。藩内の秀才はすべて弘道館に集められ厳しい教育がおこなわれた。落伍者には家禄の八割を減ずるという目茶苦茶な罰も課した。それゆえ多くの発狂者が出たという。またさほど大きくない藩である。精錬方他、アームストロング砲、軍艦の購入と莫大な費用が掛かった、それをまかなうため佐賀藩の農民は重税に苦しんだ。

 

そんな悲劇の中でアームストロング砲の研究、自家製造という過酷な任務を課せられ発狂した秀島藤之助が、精錬方の同僚田中儀左衛門を惨殺した事件は大きな悲劇の一つである。この儀左衛門には儀右衛門という弟がいた。かれは明治になって、久重と名を改め、新橋で田中製作所を創業した。のちに、東京芝浦電気株式会社となった。のちの日本を代表する電機メーカー「東芝」である。

 

・「アームストロング砲」の名はこれを発明した男の名前であるが、この男の職業は弁護士であった。

「アームストロング砲」は、薩長が幕軍との戦いの中でその勝利を収めるのに多大な貢献をした新兵器である。

「幻坂」「大阪人の胸のうち」

どちらも「大阪ほんま本大賞」の栄誉に輝いた作品である。第一回は高田郁さんの「銀二貫」であったように思う。これが素晴らしい作品で、目を潤ませ活字をにじませながら何度か読み返した。これですっかり彼女のファンになり彼女の作品はすべて読んだ。そんなことでこの大阪ホンマ本・・の作品は書店で見つけると必ず手にとりすべて読んでいる。
  だが最近のこれの受賞作には、ペケポンが多い。この二冊もそうで、「大阪人の胸のうち」はまぁまぁ読んで面白かったが、大阪人にしか受けない内容かと思う。
  「幻坂」はとてもまともに読めない作品であった。何とかもったいないので他の本の間にダラダラ読んだがとても二回は読もうとは思わない。大阪の坂は好きなのでこの作品を案内人に尋ね行こうと思って買ったのだが、何のことは分からないグダグダした話ばかりである。

  こんなことをしてたら誰も「大阪ほんまもん・・・」受賞の本を手にとらなくなるんとちゃうかいな。
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