小田原城は落ち北条家は滅んだ。落ちたは、正確には開城であるが、先の「信長の旅」の中井講師によれば城が落城炎上したケースは極めてまれであるとのことだった。大坂城の炎上落城が何度もTVドラマなどで描かれているので落城イコール炎上とのイメージが強いが炎上したケースは戦国時代においてさえそれは少ないとのことだった。
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 さて秀吉の天下平定は北条氏の滅亡でほぼなったが事後処理が残っていた。東北の雄伊達正宗の処分である。正宗は最後まで北条に同盟したが最後は秀吉の軍門に下った。その弁明のために上洛することになった。その仲介をしたのが家康である。家康は正宗を殺したくなかった。勿論のちのちの自分自身の保身のためであった。家康は正宗の上洛前に秀長に相談した。家康が、秀長に大きな信頼を寄せていたことがこのことでもわかるが、秀長は正宗上洛直前に所領大和郡山で51歳を一期として世を去った。豊臣家のゆるやかな滅亡が秀長の死をもってはじまったという歴史家も多い。
  

正宗が白装束の死に衣装で秀吉の前に謁見した。実は秀吉はその正式謁見の前に家康の労で事前に正宗に会っていたといわれる。秀吉は、正宗を北条父子のような凡庸な武将とは見ていなかった。事前に会っていわば打ち合わせをして場合によっては手前上切腹の沙汰をも申し渡すところを温情処置としたのである。秀吉の人物を使う巧みさが見えるエピソードである。


一方そんな秀吉だが自分に歯向かうものには容赦がなかった。このあたりは信長と大きな共通点である。

こんな話がある。小田原を攻めているとき利休の弟子で宗二という茶人がいた。彼は気骨ある男で秀吉といえとも茶道においては秀吉にゆずることがなかった。陣中で秀吉と大喧嘩し秀吉を茶の道のわからない田舎者だと陰口をたたいた。それを聞いた秀吉は、直ちに彼を陣中で磔刑にした。マァ口げんかしただけで相手を殺してしまったのである。またこんな話もある。朝鮮出兵前、対馬の藩主宗義調の家来を朝鮮国王に事前交渉に向かわせた。宗はそれまで朝鮮王朝と海外貿易を行い緊密、良好な関係を築いていた。そんなこともあり宗の家来は秀吉の朝鮮国王が秀吉に朝貢せよとの申し出を一蹴されてしまった。それを聞いた秀吉は、家来が日ごろ親密な朝鮮国王に強硬な態度を示さなかったとしてその家来を誅殺してしまった。もうこうなると頭のイカレタ独裁者である。


千利休が秀吉に切腹させられたのは中学生でも知っている有名な史実だが、利休には寡婦の娘がいた。相当な美人だったというが、あるとき彼女を見初めた秀吉は側室に上がれと命じた。利休は娘はまだ幼子をかかえている故と再三断ったが秀吉は三度までもひつこく迫ったという。色に狂う変態秀吉もついにはあきらめたが利休への強い不満が残ったことであろう。利休の切腹申しわたしには諸説あるが、それも大きな要因になったのではないかと愚考する。また利休にしても秀吉へのおおきなわだかまりがというか憤怒、軽蔑がそれまでよりも強く残ったことと思う。利休は、もともと信長に仕えたのであり降ってわいたようにその政権を継いだ秀吉には腹に一物を持っていたのではないかと思う。またさかりのついた犬のようにあたりかまわず目についた見目麗しい女性を手当たり次第に閨に呼び込むぶさいくな小男に日ごろから大きな嫌悪感を抱いていたと思う。

遂に利休は切腹しこの世を去るが、利休の悲劇はまだ続く。その切腹のあと「兼見卿記」にある天正1938日のくだりには、利休の妻女、娘が石田三成の拷問によって二人が絶命したとのうわさがあるとの記述がある。

秀長は同正月12日に死んでいるが、秀長が存命なら利休は死なずにすんだといわれる。


愈々文禄の役がはじまる。

秀吉は天正20年正月5日諸将に唐入り渡海の陣触れを発した。秀吉の人生の大功績をすすべて帳消しにしてなおその名を貶める悪行へと突き進んでいく。


15万人余の大群が海を渡った。文治乱れていた朝鮮人民は当初日本軍をその解放者として歓迎し協力もした。だが徐々にその兵站の拙さから、また統率の乱れから日本軍は人民を搾取し侵略軍とかわっていった。当初協力した朝鮮人民は義軍へと変貌し、その兵站線をずたずたに寸断した。いよいよ日本軍は窮地に陥っていく。平壌まで進んだ日本軍の相手は朝鮮義勇軍のほかに大きな敵をかかえることになった。飢えである。そして疲労した日本軍に追い打ちをかけることが起こった。明軍の参戦である。それまでも海上では李瞬君の率いる海軍にコテンパンにやられていた日本海軍であったが陸、海から攻めたてられることとなった。日本軍の船は木造でいわば輸送船というものであり軍艦としてつくられた朝鮮船には全く歯が立たなかった。


平壌まで兵站線が伸びた日本軍はいったん漢城(今のソウル)まで撤退し体勢を立てなおすことにした。それでも秀吉はなぜか戦況を全く楽観していた。そのころ秀吉は日本統一したころの軍事天才の秀吉とはまったく別人の秀吉となっていた。


そして愈々朝鮮王の要請をうけた明の大軍が平壌をおそう。漢城から続く支城の一部の日本軍はほぼ全滅したものもあり漢城まで敗走したときにはその戦力はいちじるしく消耗していた。この文禄の役で命を落としたものは日本人のみならず、朝鮮軍、朝鮮人民の被害は甚大であった。そして明軍にも多くの戦死者を出した。たった一人の人間耄碌じじい秀吉のために・・・


秀吉は、日本軍が進めば、朝鮮軍は殲滅され、人民は道を案内し、明に攻め込めば簡単に全土を征服できると考えていた。さて秀吉は何をもってそのように考えていたのか?それを諫めるものはいなかったのか?いなかったであろう。狂気に満ちた独裁者に諫言することは家康とてできるものではなかったであろう。いや家康は西日本の大名たちに大きな経済的、軍事的負担のかかるこの戦を心の底ではひそかに歓迎していたかもしれない。


この4巻のほとんどが文禄の役についやされている。ほとんど知らなかった秀吉の朝鮮出兵を学ぶことができたが、ますますもって秀吉という男が大嫌いになった。

このときの秀吉の兵站の拙さはその後日本海軍上層部という愚かな集団で3百数十年後に悪夢のように再現されることになる。この秀吉の軍事の失敗をのちの日本軍が学んでいたらこの愚か極まりないこの暴挙も一縷の功績を遺したかもしれないものを・・・


・文禄の役がはじまったころ朝鮮では宮廷では両班(りゃんぱん)間の抗争があり綱紀は乱れ社会は混乱して民心は王朝から離れていた。両班とは、文官を東班、武官を西班と称し彼らを総称するものだが、官位のうえで常に東班は、西班の上位に立っていた。


・朝鮮在陣の司令官である加藤清正と、小西行長はことごとにいがみあっていた。二人の方針が全く違っていたために朝鮮人民への統治方針が一致せず朝鮮人民は日本軍に協力せずまたできず霧散し野は荒れていった。


・秀吉の養子羽柴秀勝(秀次の弟)は医師の手当ても受けずに朝鮮で死んだ。朝鮮在陣隊に配属された医師は極めて少なかった。ある隊の記録では700人に2人という少なさであった。天下をとるまでは兵站の天才といわれた秀吉であったが朝鮮出兵では、場当たり的な状況を全く見えない愚将そのものであった。