秀吉は小牧長久手で信雄、家康連合軍に戦いでは敗れたものの政略では勝ち、天下人への階段をかけ上がっていく。やがてその権勢は朝廷にまで及ぶが、その出自を自身卑下する秀吉は、なりふり構わぬ任官策動に邁進する。そしてついに人民の最高権威関白にまで上りつめる。蛇足だが関白とは、天皇を補佐する人民の執政官という意味合いの官位である。
余談だが、秀吉はまず源氏を名のり征夷大将軍になろうとして失敗し、信長をならって平氏を名のり藤原姓をえて藤原秀吉として関白になった。そして藤原姓をすてて(すてさせられて)豊臣秀吉と名のった。

一方政略面では家康に旭姫を嫁がせ一応の家康からの脅威を除いた秀吉は、九州平定にかかる。までを描いた第二巻。

秀吉のことは多くを知らないがその政治能力、戦闘能力は流石に同時代の他の武将をはるか凌駕している。


  信長、秀吉、家康と三人の能力をそれぞれの分野にくらべるとどうかとなるがそれはいかにもむつかしい。これを書き出すと一冊の小説ができるだろう。ざっくりといえば軍事才能順で、信長、秀吉、家康。経済面で、秀吉、信長、家康。政治面では、家康、秀吉、信長と現時点での自分の評価だが、いかがだろうか?

家康の最大の幸運は信長、秀吉という大きな反面教師を学んだことだったと思う。


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 ・小牧長久手の戦いで秀吉は、信長以来の旧臣、池田恒興親子、森長可等をはじめ多くの重臣を失う。その失策の影に秀次の愚采配が遠因している。ホンマ秀次は愚鈍だ。


・おねは秀吉と11歳違いで、14歳の時に藤吉郎と結婚した。


 ・利家の娘に麻阿がいた。勝家に人質として出し北の庄にいた。落城の際にも城中にいたが侍女阿茶子の機転で城から逃れた。阿茶子はその後長命して金沢城下に阿茶子茶屋敷とよばれる広大な住居を設けた。


 ・麻阿はその後天正14年秀吉の側室となった。


 ・ほかに秀吉の側室は、姫路城の姫路殿は信長の弟信包の娘。三条の局は蒲生氏郷の妹らがいた。

よくぞみんな黙って秀吉に従っていたなと思う。

 
・前田玄以。秀吉の行政の要を務めた男である。出自については不明な点も多いが尾張に住んでいてのちに叡山の僧となった。さらに還俗して信忠に仕えた。本能寺の変に際し、信忠から三法師(秀信)を預けられた。

 

・天正13年末秀吉の養子信長の第4子於次丸秀勝が病死した。18歳であった。

 ・秀吉の行政機関は、中央部(中村一氏、生駒正勝、福島正則、石田三成、大谷吉継ら12名)が貴族政治の形式をとり、政務執行機関(浅野長政、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家の5人)は、武家幕府の奉行制度をとった。

 ・浅野長政は妻のややがおねの妹で、秀吉は浅野家へ入婿しておねと婚姻した 


・この作品では、一文は今の150円に相当するとある。江戸時代にこれをあてはめるとかけそばが20文ほどらしかったのでちょっと計算が合わない。時代小説を読むときには一文約30円に読み替えているがこの現代と戦国時代、江戸時代の貨幣換算は悩ましいことである。

・一疋は銭10文。

 ・天正141015日吉川元治は小倉の陣中で島津義久との戦いのなか病死した。