抜粋すべて終了しました。今一度読みかえして改めてとんでもない無能無知な阿保な日本人で構成された軍部をいただいて戦争に突入したことだと思う。。。



「なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたか」、「ゼロ戦と日本刀」、「日本人の誇り」とこの本。
この4作品を、読むまでも大戦のもろもろのことに関してある程度は知っているつもりであったがそれらはほんのごく一部であることを、どころかほとんど知らなかったとさえいえる。
日露戦争後、いかにして日本が隆盛し、世界の列強に比肩するまでとなりそしてアメリカに仕掛けられたとはいえ戦いを挑みそして敗れ、屈辱的な裁判を経て贖罪意識を植えつけられ今も尚その後遺症におかされているかを知るにつけ暗澹たる気持ちである。

このブログを読んでくれているのはほとんどが親しい友人たちであるが、この4冊は是非とも読んで共有して欲しいものである。
P1070229
見苦しいほどの付箋が付いている。未だ既読本の付箋も整理しきれていないがボチボチ書きとめよう。。。

・南太平洋戦線で、50万人近い将兵が死没しているが、大半は、餓死である。これだけで太平洋戦略が、日本軍の戦略がいかに無計画で泥縄式だったかを示している。

・日本軍は、アメリカとオーストラリアの海路を妨害しようと、日本とは遠すぎるガダルカナル島に進出した。日本海軍がそんなところに出で行ったのも愚かだが、これほど遠方まで足をのばしてまともに戦えるわけがいない。

・「北進論」を捨てて支那戦線に深入りした東条陸軍
近衛内閣が倒れた後、天皇から組閣を下命されたのが東条英機である。石原莞爾はその東条をこう批判した。「東条が南進をきめたのは、石油が欲しいからで、北支に手をつけたのは、経済的利点があるからと思い込んだからである。だが、北支には、何もない。南方で石油を手に入れても、アメリカと開戦したあとでは、タンカーの九割が撃沈されて、南洋が油まみれになるだけだ。石油がなくて戦争が出来ないなら、支那事変など、はじめから手をつけぬがよろしい。連中のやることはみなこれだ。そして、国民には、聖戦だの皇道宣布だのと宣伝する。聖戦と泥棒の区別がつかぬようでは、皇道が、侵略と誤解されることになる」
その石原がやったのが、満州国建国だった。
満州はソ連の脅威を断ち、朝鮮半島をまもり、支那ににらみをきかせる地政学上の絶好の地で、日本が世界覇権をにぎるには、満州建国が、南方進出と並んで、欠かすことのできない大戦略だった。

・日本が戦争に負けた理由は、さむらいにとって代わった、心ない、偏差値エリートが指揮をとって、世界一強かった日本兵を粗末にあつかったこと、その一言に尽きるだろう。

・毛沢東や周恩来は、かつて田中角栄に「日本軍が蒋介石をやっつけてくれたので、われわれの中国が生まれた」と謝辞を述べた。

・ソ連が消滅したあと、国家社会主義的な官僚制度をとっているのは、中国や北朝鮮を除くと、日本だけである。

・第一次近衛内閣で、日支戦争がはじまり、第二次内閣で、仏印進駐と日独伊三国同盟の締結、および、大政翼賛会の結成、第三次内閣で、日米開戦の決定と、近衛が首相になるたび日本は戦争へ近付いていった。

・開戦前夜の御前会議では、みんな押し黙ったままで言っていることも支離滅裂な状態であった。陸軍と海軍は張り合っていたため、どちらからも非戦論は出てこなかった。それを言えば予算を削られる可能性があったためである。

・一部の意見では、戦争に負けても戦勝国に取り込まれてそれも日本の生きる道だという考えもあったという。
これらの敗北主義が、敗戦革命の伏線となった。
米内光政は、アメリカの原爆投下とソ連の参戦を天佑といった。海軍大臣や総理大臣をやった男がこのような言葉を吐くこと自体、当時の軍部上層部が敗北主義に毒されていた。
信じられないことである。

・東京裁判で、東条は「海軍が反対していたら、日米開戦はなかった」と証言した。

・海軍の戦い方は、戦略的に誤っているだけでなく、戦術的にも欠陥だらけであった。
海軍には、太平洋の防衛計画というものがなかった。防衛計画のないまま攻撃を仕掛けたのである。

・海戦の三大原則は、海路防衛、輸送機能、上陸援護であるが、日本の海軍は海路を設営せず、輸送船をまもらず、兵站線の確保を怠って、鎌倉時代の戦の武将の一騎打ちのように、艦隊決戦を求めて赤道の向こうまで出かけていった。

先年、QEでラバウルを訪問したときに、乗客の誰かから日本は何故こんな遠いところまで攻めてきたのかと訊かれたことがある。ラバウルまでオーストラリアから船で1日、鹿児島からは5日間かかった。戦国時代の信玄でさえ京までは兵站線が延びる過ぎるのを知って上洛しなかったというのに。秀吉は、兵站の天才であったからこそ天下をとれたのに。。。

・海軍は、高速の補給船をほとんど持っていなかった。

・ミッドウェー海戦で日本艦隊は壊滅的な被害を受けるが、その後の南太平洋の戦いではミッドウェーの三倍の損失を受け、戦力のほとんどを失い日本の守りは完全に破綻した。海軍がなぜ、ニューギニア、ソロモン、ガダルカナルで不急の作戦を強行して本土防衛をおろそかにしたのか謎である。真珠湾攻撃や、ミッドウェー海戦自体、大東亜戦争の戦略から多くく外れている。

・東京裁判で、戦犯として裁かれた海軍の将官は、三人で刑死者はいない。海軍大臣となった米内は、親独派の岡敬純を罷免し後釜に大のヒットラー嫌いだった井上をすえた。米内と井上にとって、ドイツもドイツと同盟を結んだ陸軍も米英以上の敵だったのである。
介錯を断って切腹した阿南惟幾は、「米内を斬れ」という言葉を残した。敗戦の原因がすべて海軍にあったにもかかわらず、米内はそれを棚に上げて終戦工作をしたからだといわれるが、それだけではないだろう。近衛と同じく見えない力に操られていたのを米内にも見ていたのである。

・ヒトラーとむすんだ陸軍が滅び、敗戦を通して日本はアメリカの属国のような国になった。戦時中、英米派として憲兵に捕えられ、戦後首相になった吉田茂はそれを勝利と呼び憲法改正や国防に一切関心を示さなかった。

・日本が戦争に負けた原因=戦争指導者が愚かだった理由は、彼らがあまりにも官僚的・官僚主義だったからである。

・戦争指導者の愚かさは、現在の霞が関に通じている。日本が戦争に負けた原因をいまなお、国家の中枢に抱えている理由は戦後、GHQが温存した官僚制度を温存しているのに加え官僚システムがそれ自体自己保全性を持っているからである。
官僚制度の最大の弊害はその強烈な自己保全性にある。

・官僚の自己保全性とは、畢竟、予算の分捕りである。

・インパール作戦には数万の兵が戦闘や飢え、病気で倒れたガダルカナルの敗残兵が多く含まれていた。その生き残った兵士がインパール作戦に振り向けられてそのうち半数以上が餓死したのである。
当時大本営ではガダルカナルから撤退か転進でもめて殴り合いまでしている。撤退なら責任問題が生じる。そこで大本営は撤退といわずに転進という言葉をつかうことにした。彼らは転進という言葉の辻褄合わせのためにガダルカナルで疲弊した兵をインパールに送りこんだのである。これが官僚の思考方法、行動様式である。

・日本の軍隊には陸・海軍を統一する作戦本部はなく、海軍の軍司令部と陸軍参謀本部はいがみ合っていた。
タテ割りとなる官僚組織の弊害そのものである。

・レーダーはもともと東北大学の八木秀次教授が発明して実用化したものである。
だが軍部は採用しなかった。特許庁と商工省が「電探(レーダー)は発明特許として認めがたい」と、特許の申請を取り消したからである。レーダーはアメリカの原爆に匹敵する発明だった。
だが軍部は「敵に居場所を知らせるようなもの」とレーダーの導入をはねつけたのは、特許庁や商工省が特許申請を抹消したものを採用すると、担当者の責任が問われるからで、官僚化が進んでいた当時の軍部にはレーダーを導入する柔軟性さえ失われていた。
一方アメリカは、八木教授の論文を入手してレーダーを完成させてミッドウエィ以降の海戦にすべて勝利をおさめた。
レーダーを与えられなかった日本海軍は、目隠しをしたまま戦わされたようなものだが、陸軍も兵士に軽機関銃を与えなかった、陸軍は明治時代の三八銃でアメリカの機関銃に立ち向かい、海軍は敵のレーダーにつかまって遂に神風特攻に切り替えた。

・この奇怪な硬直した官僚軍部集団を支えていたものは何であったか?それは学歴主義であった。

・戦争が下手だった連合艦隊参謀長の宇垣纏は、海軍兵学校や海軍大学の卒業順次が自分より下のものには敬礼も返さなかったという。

・陸大を優秀な成績卒業した東条英機は丸暗記で有名な勉強家だった。座右の銘が「努力即権威」だった東条は、学業成績が良いものばかり重用して天才肌を毛嫌いした。東条は、士官学校、陸大、兵学校の成績順位で順番に身分を決めていった。要するにペーパーテスト順に重用していった。だがその学力はしょせん記憶力である。

・日本の軍隊が学歴主義になったのは、武士階級が消えエリートという西洋の物まね上手が、武士にとって代わったからである。

・日本が戦争に負けたのは、官僚化された軍隊に、学力主義が持ち込まれて日本の戦争指導者が、戦争下手の不適任者ばかりになったからである。

・日米開戦の永野修身と山本五十六、ミッドウェイ海戦の後に指揮を執った南雲忠一と参謀長の草鹿龍之介、ノモンハン事件の服部卓四郎と辻政信、珊瑚海海戦の井上成美。盧溝橋事件とインパール作戦で二度失敗を繰り返した川辺正三と牟田口廉也―みな、適性を問われることがなかった秀才コンビである。

・真珠湾攻撃や、ミッドウエイ海戦の指揮官が飛行機に素人で無能極まりない南雲忠一になったのは、ハンモックナンバーのせいだった。

・日本が戦争に負けたのは総合的な戦力が劣っていたからではない。陸・海軍とも装備は米英と互角で、兵力はむしろまさっていた。

・作戦はそれほど深い思考力を必要としない。・・・・攻めに回った時の果断さ、勝利への執念、そして兵力の消耗を避ける臆病さであろう。彼らにはそのすべてが欠けており、エリートにありがちな自惚れと、独善、自己顕示欲だけがあった。

・戦後、石原莞爾は、GHQ の訊問に「最大の戦犯は、原爆を投下したトルーマンで、日米戦争の元凶は、軍艦四艘を率いて、嘉永6年浦賀にやってきたペリー提督」と答え、東条英機も、東京裁判で「今大戦の審判は、アヘン戦争にまで遡らなければ、不可能」といった。

・日本の軍隊は、陸軍(参謀本部)と海軍(軍令部)の他に、統制派と皇道派という目に見えない部隊(軍閥)があり、その構造は複雑怪奇なものとなっていた。
陸・海軍がいがみあい、陸軍内部では内ゲバが深刻化して戦争に勝てるわけがなかった。

・陸軍では桜会が結成されその派閥抗争に激しさを増していった。桜会はクーデターによる軍事政権樹立を目指したグループで、中心人物は橋本欣五郎中佐で、中には日本を敗戦に導いた牟田田廉也、富永恭次、辻政信らがおりこれが東条英機の軍国官僚主義へと進んでいく。
桜会はクーデター未遂事件(三月事件・十月事件)を起こしたのち解散させられるが、メンバーの多くは統制派の実力者としてそのまま軍部に残り、対立する皇道派が2.26事件を起こし失敗し軍部から一掃されると陸軍の中枢を占めるようになっていった。
解せないのは、諸外国では極刑に処せられるべきこれらの国家転覆罪・反乱罪の首謀者らが軽い処分ですまされ追及が軍上層部に及ぶことはなかった。こうして甘い処分に味をしめた軍部は規律やモラルが徐々に確実に崩壊していった。統制派や海軍は、天皇陛下を「天ちゃん」とよんではばからなかったがその一方彼らは天皇を利用して好き勝手をやりだした。そしてその野放図の果てにできたのが桜会をのみこみ、革新官僚をとりこんだ独善的エリート軍閥、東条英機・統制派の「国家総動員」と「統制経済」だった。国家総動員法はヒトラーの、統制経済はスターリンのまねであった。

・武士的な情緒や行動倫理を持つ皇道派と、合理的な統制派が合体すれば日本の軍隊は世界最強となったかもしれない。だがそれをできたと思われる永田鉄山はテロに斃れ、石原莞爾も、表舞台から去っていく。

・昭和10年8月永田は、陸軍の相沢三郎中佐に惨殺された。

筆者は「日本史でこれほど重大で、罪の深い暗殺は例がない」と書いている。

・軍政の永田と軍事の石原がコンビを組んでいたら、鬼畜米英や生きて虜囚の辱めを受けず、と叫んだ東条の出番はなく、あの戦争は全く違ったものになっていたか、そもそも起きなかったであろう。

・東条は、敗戦間際独立運動家でインド国民軍を創設したチャンドラ・ボーズに頼みこまれて牟田田のインパール作戦に許可を出している。その時東条は反対する参謀本部に「あの愛国者に報いることは日本の使命」といったという。

・永田の「対支一激論」は石原の「支那撤退論」と通じるところがあり二人が生きていれば早い段階で支那から日本軍を撤退させていたであろう。
陸軍大臣であった東条は、支那戦線の縮小を求める近衛首相に「できない」と返答している。

・2・26事件が起きたために統制派が息を吹き返して日本を負けいくさに引きずりこんだという事実がある。
2・26事件が成功していれば、日本は皇道派の戦略によって対ソ戦と島嶼防衛、南方戦略に戦力を集中させ、海軍の太平洋戦略と統制派の支那消耗戦は、放棄されていただろう。
陸軍はおおむね決起舞台に同情的で、・・・統制派が討伐隊を出そうにも山下奉文らの皇道派が封じ込めていたであろう。要するに、天皇の命令がなければ2・26事件は成功していたであろう。

・皇道派に方法論がなかったように、統制派と海軍には、目的論が不在であった。何のために戦争するのかわからないが、予算を分捕って、陸軍は支那へ、海軍は真珠湾へ突っ込んでいき、あとは無責任に、和平調停を待った。
それが皇道派を壊滅させた統制派と海軍の戦争だった。

・こうすれば戦争に勝てる、戦争に勝ったらこんな世界を作り上げるという青写真のないまま、彼らは戦争に踏み切った。あったのは石油を断たれると日本は滅びる、ハルノートを受け入れると三等国になるという強迫観念だけで、戦争を始めるとどんな結末になるかという冷静な分析はなされなかった。

・日本の軍部で内ゲバが激しくなったのは上層部がエリートだったからである。英米も上層部はエリートだったが違うのは彼らは「ノーブレス・オブリージ(高い位置に伴う道徳的・精神的義務)」といういわば武士の魂のようなものを持っていた。ところが先の大戦を指導したエリート軍務官僚は、軍事テクノラートであって武士でも軍人でもなかった。

・戦後、天皇の官僚はそっくりGHQの官僚となって霞が関に引っ越してきた。2・26事件後の粛軍体制と「国家総動員法」の革新官僚群―日本を敗戦に追い込んだ官僚体制が、何食わぬ顔で、いまも霞が関に陣取っているのである。

・ヨーロッパ列強にズタズタにされたアジアの中で、日本とタイだけが侵略をはねつけることが出来たのは、両国に、天皇と王がいたからである。

・鹿鳴館文化は、葛飾北斎らの浮世絵版画を二束三文で外国に叩き売るような文化破壊を伴っていた。蔑亜(日)排王欧の風潮は、岩倉具視がパリの街角にガス灯が立っているのをみて衝撃を受けたような、もともと、根の浅い情緒的なものである。
伊藤博文、山県有朋、井上馨ら、足軽出身の政府要人に、それらが近代化の象徴に思えたのは、かれらに、精神文化の担い手だった武士の心が欠けていたらである。

・文化破壊が有害なのは、売国思想を伴うからである。

・毛沢東の戦略は、のちの文化大革命で明らかなように、徹底した文化破壊で、歴史や文化を失えば、人間はみな共産主義者になるというものだった。この恐ろしい戦略に手を貸したのが、外国勢力のGRU(ソ連参謀本部情報局)だった。

・民族や国家、歴史や文化の存亡がかかったヨーロッパ型の戦争は、すべてを奪った後、皆殺しである。日本は、太平洋へ悠々と一騎打ちにでかけたが、アメリカは原爆と都市空襲で、ソ連は国境を破って、非武装の日本人を大量虐殺した。内ゲバに明け暮れていた日本軍は、ゆるんだ精神のまま戦争を仕掛け、そしてボロボロになって終戦を迎える。

・ヤルタ会談で、短躯のスターリンは、ルーズベルトを見上げてこういってのけた。「北海道は、わがソ連邦の領土とする。本州はアメリカと中華民国が領有し、九州と四国は、イギリスとフランスに割譲されるべし」

・日ソ中立条約を破って満州・樺太・南樺太・朝鮮戦争に進撃し、おびただしい数の日本の民間人を撃破したうえ、60万人にものぼる日本兵をシベリアに強制連行したばかりか、スターリンは、蒋介石やチャーチルに拒絶された日本の<四か国割譲>を単独で実行に移すべく、択捉島と国後島に戦艦を接岸させてこれを占領すると、さらに道北をうかがった。

・ルーズベルトに代わって大統領に就任したトルーマンは、ソ連に対する軍事的優位をしめすため、広島と長崎に、予告なしに原爆を投下した。

・日本が目指した近代化=西洋化が行き着いたのは、さむらいの文化を捨てた、驚くほどの戦争下手と、共産主義と英米主義に引き裂かれた、脱亜入欧のなれのはての、かつて体験しことのない敗戦だった。

・先の大戦には、スターリンとルーズベルトという、二人の主役がいた。
前者は、悪玉で、後者は、愚者だった。愚者は、悪玉より始末がわるい。前者は、たぶらかすが、愚者はたぶらかされるからである。
ルーズベルトは、日米戦争にかかわりのないソ連に対日参戦をもとめ、一方、蒋介石にそそのかされるまま、日本にたいして敵対政策をとりつづけた。

・ルーズベルト大統領とハル国務長官のもとには、多くの共産主義者やスターリンのスパイが潜りこんでいた。
なかでも、ハリー・デクスター・ホワイトとロークリン・カリーはルーズベルトの政策決定に大きな力を持っていた。
後日、議会の承諾なしに、ハル長官が日本政府につきつけることになる対日最後通牒-ハルノートは、ハル自身が書いたものではない。ホワイトが、それよりも、はるかにきびしい内容にリライトして、ルーズベルトにのませたのである。

・小柄な支那の美人が、ニューヨークやハリウッドなどの支那支援集会に出席して達者な英語で、涙ながらに支那への対日制裁をうったえると、タイムやライフが、それを大々的にとりあげ、やがて宗美齢は、アメリカでもっとも有名で、人気のある東洋人になった。

・愚者はたいてい嘘つきである。1940年10月30日、ルーズベルトは、三選をかけた大統領選挙の一週間前ボストンで「・・・海外のいかなる戦争にも、けっして送りこまない」と演説した。
1939年9月におこなわれた世論調査では米国民の97%が欧州戦線の参戦に反対していた。参戦しないという公約を立てなければ選挙に勝てそうになかったルーズベルトは、自らに戦争をしないとこいうことを課したのである。宣戦布告なしに攻撃でもされない限り・・・

・しかし日本は、真珠湾攻撃に踏み切った。
ルーズベルトは、満面の笑みを隠して下院議会で対日宣戦の演説をおこなった。
つづいて演壇に立った共和党のハミルトン・フィッシュ議員は、党派を乗り越え、ルーズベルト大統領のもとに団結して、祖国の危機に立ちあがろうという演説にすべての議員が立ちあがって拍手を送った。
だがハルノートの内容を知ったフィッシュ議員はこの演説の内容を撤回した。
彼は「わたしは、ルーズベルトが日本に恥ずべき最後通牒を送って、日本の指導者に開戦を強要したことを知った。わたしは、わたしの演説を恥ずかしく思っている」といった。

・ロバート・スティネットの『真珠湾の真実』によると、ルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていたという。それを教えたのはチャーチルである。
当時アメリカは日本海軍の暗号は解読していなかった。解読したのは、ミッドウェー海戦の直前である。

・ルーズベルトは、さらに嘘をついていた。
「フライング・タイガース」である。
この時期アメリカは、フライングタイガースとよばれる空爆部隊を支那に派遣して、支那軍と合同で日本本土を爆撃する計画を立てていた。目標は、大阪、神戸、京都、東京、横浜で爆撃には木造住宅の多い日本家屋に合わせて焼夷弾を使用する計画だった。この計画に、陸海軍長官とルーズベルトが承認のサインをしている。
この情報を日本陸軍は中央特集情報部を通して知っていた。この情報をアメリカ議会に告発したらルーズベルトの公約違反がばれて辞任に追い込まれる可能性があった。またそうならなくても日米交渉が有利に進む可能性があった。またそれ以前に対日制裁が撤回されていたかもしれない。
だが日本政府は、沈黙した。
ハルノートの度外れた要求も、フライングタイガースの違法参戦も日本は公表すらしなかった。
理由は、外交の拙さだけではない。日本の官僚制度は、外務省、内閣、海軍・陸軍と縄張り意識が強く互いに情報遮断し合い、その結果日米交渉に限らずすべての外交交渉が、秘密交渉になっていたからであった。

・ルーズベルトは、戦争がはじまると、日系人を沙漠の金網の中にとじこめた。同じ敵国人でもドイツ系、イタリア系米国人が強制収容所にいれられることがなかったのは、彼らが東洋人でなかったからである。

・ルーズベルトはヒトラーを憎んだが、ドイツ人を憎むことはなかった。だが東条を憎む以上にルーズベルトは日本人を憎んだ。マンハッタン計画はもともと、ドイツの原爆開発に対抗するものだった。だがルーズベルトは、ドイツではなく、日本18都市への原爆投下命令所にサインをしている。ドイツ空爆は、工場施設に限定されていた。だが日本への都市爆撃は、民間人をターゲットにしたジェノサイトだった。

・日本の潜在能力に恐怖を感じたのは、ルーズベルトだけではなかった。列強のすべてが非白人による帝国の出現に怯えた。ヒトラーでさえ、シンガポール陥落の報を聞いて「うれしいような、かなしい気分だ」と述べている。人種差別主義者のヒトラーにはほろ苦かったのである。

・ヒトラーが、モスクワを落としても、スターリンがナチスを倒しても、英仏には、負けしか残されていなかった。英仏を救うことが出来るのは、眠れる大国ーアメリカの参戦だけだった。

・日本がアメリカに戦争をしかけなければ、イギリスは滅びていたかもしれない。

・ロバート、スティネットの『真珠湾の真実』はど多くの著書は、ルーズベルトが日本軍の真珠湾攻撃をあらかじめ知っていたとのべている。だが当時、アメリカには日本軍の極秘情報をさぐりあてる諜報機関も、海軍の暗号を解読する能力もなかった。

・イギリスは極東連合局FECBを通じて海軍の動きを全てつかんでいた。

・一度公開されたのち、ふたたび封印されたFECGの極秘資料には、択捉島単冠湾に集結した日本海軍機動部隊が、ハワイにむかった日時までがしるされていたという。

・イギリスが解読できたのは、日本の外交暗号「パープル」と海軍の作戦暗号で、陸軍の暗号は戦争が終わっても暗号スタッフが地下にもぐったためにいまだに解読されていない。

・日本の「パープル」と並んで解読が困難だった暗号がドイツの「エニグマ」であった。だがイギリスは遂にその解読に成功する。それによってドイツ軍の情報は筒抜けとなったが、チャーチルは、あえて爆撃目標となった街を見捨た。暗号を解読していることをドイツに知られないためであった。

・アメリカは、真珠湾攻撃等の情報をイギリスから得ていたが、独自に解読したのは珊瑚海海戦以降である。

・日本の海軍は陸軍と違って防諜センスが甘く、無線傍受や、暗号解読に対する警戒心がなかった。同一の乱数表をくり返しもちいて、同じ暗号を何度も送った。結果、ミッドウェイの「AF」や、ハワイの「K作戦」などの地点略語が、米軍内で隠語のようにあつかわれる始末だった。

・1,944年3月31日、戦死した山本五十六に代わって連合艦隊司令長官になった古賀峯一大将と参謀長福留繁中将、司令部要員全員が乗った既報気が遭難して、作戦上の極秘資料が行方不明になった。
このとき、福留以下9名がフィリピンのゲリラに捕えられたが、ゲリラとの交渉で解放された。だが極秘文書は返還されなかった。ところが、海軍は作戦の変更、暗号の更新も一切おこなわなかった。戦後、公開された米側の公文書によると作戦計画や暗号書などはすべてアメリカ軍に渡っていた。


マァ、アホを通り越した愚かさ、卑劣さである。上層部連中は、自分らの失態に関しては、責任追及を恐れてほほかむりをしてなかったことにしたのである。
一方不時着して敵捕虜となり、解放された陸攻搭乗員たちには非情過酷で、連日出撃させ全員戦死させてしまっている。

・日本の外務省と海軍の暗号が筒抜けで、陸軍のそれが無事だった理由は一つしかない。何らかの方法で外務省、海軍の暗号がイギリスに持ち出されたのである。


マァここまで日本の軍隊というのは、愚かというのか、どういう言葉で表現したらいいのだろう。チャーチルは日本人というのは下等な人種と思っていたという。

・日本は満州を建国して、南方から列強を追いだしたところで戦争の目的は達成されていた。後は本土・満州・南方・南洋諸島を守っていれば、米・英・ソは手が出せなかった。しかし日本軍は、何の利益もないのに支那大陸に攻め入り、ハワイ真珠湾に奇襲をかけ、アメリカの参戦を招いた。そればかりでなく、連合国軍に勝つために急所だった「西方戦略」を放棄して本土防衛を怠り、米豪分断という戦略的価値のない目的のため、南太平洋にでかけてゆき、世界一の海軍を全滅させてしまった。

・チャーチルは「今度の戦争ほど防止することが容易だった戦争はかつてなかった」といった。

・パールハーバーアタックを聞いたチャーチルは一日中部屋にひきこもり、部屋からでてきたとき一言「勝った」とつぶやいたという。

・原爆投下を勧告した「暫定委員会」に海軍代表として参加していたラルフ・バート海軍次官でさえ、何度もホワイトハウスを訪れ、日本にたいして、ヤルタ協定に従ってソ連が対日参戦すること、原爆を使用する用意があることを事前につたえて、降伏を勧告すべきであると説いたがトルーマンはとりあわなかった。チャーチルも、トルーマンに無警告の原爆投下を諫めている。トルーマンの返事は「日本は真珠湾を攻撃するとき、警告をしたか」だった。

・ドイツは日本と違って国家が消滅していたので、戦後処理の必要がなかった。ニュールンベルグ裁判で裁かれたのは、戦犯ではなく、ホロコーストという大量殺人の犯罪者たちだった。東京裁判でGHQが、ニュールンベルグ裁判でもちいた『平和にたいする罪』という事後法をもちだしてきたのは。主権国家には交戦権がみとめられているため、戦争行為を、戦争犯罪として、裁けなかったからである。

・ルーズベルトは、十数発の原爆で、数百万の日本人を殺戮する計画を立てていた。本土決戦が、実際に行われていたら、原爆の被害は、広島と長崎だけではすまなかった。

・ルーズベルトの急死後、トルーマンが大統領になったとき、ようやく、日本に対する降伏勧告書が作成された。元は、天皇の地位保全が明記されていた。これがそのまま日本側に提示されていたら、もっと早く戦争が終わっていたはずだった。
 日本側がこの勧告書を拒否したのは、バーンズが勝手に、<天皇の地位保全>の項を削除したからで、ポツダム宣言から、<立憲君主国>の文字をもぎとったのも、バーンズだった。
 理由は日本が早期に条件降伏すれば、原爆投下の機会が失われるからである。

・原爆の無警告投下に強く反対した者も米国政府にたくさんいた。それをはねつけたのもバーンズだった。

・トルーマン新大統領は、バーンズの提案を容れて、無警告という、非人道的な方法で、原爆の投下を命じた。

・戦後石橋莞爾は、GHQの諮問にたいして、原爆を投下したトルーマンが最大の戦犯と非難した。だが不思議なことに、東京裁判では、被告席に座らされた誰も原爆投下の抗議をおこなわなかった。

・パル判事が、原爆記念碑の碑文に『過ちはくり返しません』とあるのを見て怒ったのは有名な話である。あれほど勇猛で、誇り高かった日本人が、なぜ、こうも卑屈な民族になりはてたのかと、一人涙したといわれる。

・無理もない。戦争で真っ先に死んでいったのは、甲種合格の逞しい男たちや、優秀な学徒であった。戦後生き残り羽振りを得たのは、軍隊からはじき出されたひ弱な者たちや、戦争に行かなかった役人、学者たちだった。

・広島平和公園の碑文『過ちはくり返しません』をかいた広島大学の雑賀忠義教授は、世界市民として、原爆投下の責任を共有するといった。

・東京裁判開廷の日、戦争中、鬼畜米英、撃ちてし止まん、真の兵士はわらって死ねと煽った日本の新聞は、「GHQのみなさま、お役目ご苦労さま」と書いた。

・東京裁判は、アメリカが原爆と空襲で殺戮した民間人とほぼ同数の支那人を-日本兵が殺したという虚構をつくりあげるためのセレモニーで、「平和にたいする罪」は、そのための小道具だった。
 南京大虐殺は、ブレークニーとローガンが、アメリカの原爆投下を争点にあげると、とつぜんもちだされた。

南京大虐殺を報じた外国人はベイツで実際に虐殺を見たわけではない。証言したのは支那人5人と3人のアメリカ人だった。
東京裁判が終わった、ベイツは用済みとなって消えた。

・それから33年後の1971年、朝日新聞の本多勝一が、日支戦争中に、日本軍から被害をうけたという中国人の証言をまとめた「中国の旅」がベストセラーになると、同書に引用されたベイツの寄書が、ふたたび注目を浴びることになった。

・南京陥落時に在南京日本国大使館に勤務していた福田篤康氏は「20万、30万はおろか、千単位の虐殺も絶対にない。外国人ジャーナリストの衆人環視のなかで、そんなことをしたら、大問題だ。絶対にウソである」と述べている。

・当時歩兵が持っていたオンボロ銃と2~3人斬れば使い物にならなくなる軍刀で、休むことなく50日間、一日、6000人を殺すことは物理的に無理である。
たとえ可能だったとしても、死体の処理は、とうてい、手に負えるものではない。
 中国政府は、日本軍が、遺体を隠したといっている。だが、30万もの遺体をどこかに埋めたのなら、これまでの発掘調査で人骨のかけらさえみつかっていないのは、どういうわけであろうか。



●日本大使館が「宣戦布告」を遅らせたことについて、非常に不可解な事実がある。

先の大戦では、信じがたいことが多々起きたがその中でも日本大使館が宣戦布告を遅らせたことほど異様な出来事はない。

真珠湾攻撃が宣戦布告の55分前にはじめられたのではない。日本大使館が、宣戦布告書の提出を1時間遅らせたため、結果としてだまし討ちになったのである。

・・・ハル長官に、覚書を届けなければならない翌日、大使館員は、全員遅刻した。

普段、夜遅くまで勤務しても、翌日、遅刻をする者など、一人もいなかったにもかかわらず、宣戦布告書を手交する前日と当日にかぎって、そんなことが起きた。

 126日の午前630分、外務省から、予告電報につづいて、午後3時までに、14通のうち、13通の電報が、大使館に届いた。・・・だが、かれらは翌朝までにすませておかなければならなった、13通の電報の解読とタイピングをサボって、送別会で飲み食いをして、翌朝、全員、揃って遅刻した。

 それだけではない。6日の夜にかぎって、外電を受信する電信課の担当をおかず、7日の朝は、だれも、電信課に足を運んでいない。7日の早朝に届くと知らされていた14通目をみつけたのは、大使館員ではなく、部外者の海軍武官だった。

 戦後、関係者は、処罰をうけるどころか、全員が外務省で異様な出世をしている。

・・・戦略的に失敗だった真珠湾攻撃と、その真珠湾攻撃を“だまし討ち”に仕立てた宣戦布告の遅滞には、吉田茂を筆頭とする英米派の影がうごめいている。


・ロバート・レッキーは「日本軍は、世界一強かった―日本の戦争指導者は、世界一、愚かだった」といった。


・基地や戦艦をまもるだけなら、飛行機も、レーダー網にひっかからずにすむ。

 アメリカの士官学校の教科書にも載っているという、石原莞爾の「島嶼防衛構想」を聞いた米海軍の関係者は、首筋をなでながら、石原が日本軍の総大将でなかった幸運を感謝したという。


・「努力即権威」を座右の銘にしていた東条は、勉強に努力を惜しまず、じぶんと同様、士官学校や陸大をトップで卒業した者たちをとりまきにして、かれらに戦場の指揮をとらせた。


・真珠湾攻撃や中国、南洋進出などやらず、サイパン島を要塞化して、アジアからヨーロッパ列強を追い出す当初の戦略にしたがっていれば、アメリカは、日本に手も足も出なかった。

・・・書こうとしたのは、そのことだけはなかった。日本の勝ち戦を負け戦にした、日本軍、とりわけ、日本海軍の謎にみちたふるまいだった。


・統制派の台頭と薩長閥を放逐した永田鉄山や東条英機らの「バーデン=バーデンの密約」によって、日本軍は、学閥エリート、欧米留学組の牙城と化した。


・武士にあって、エリートにないのが誇りである。