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左:関行男海軍大尉 右:中津留達雄海軍大尉

胸が熱くなる二人の雄姿である。

関行男海軍大尉。享年23歳。
昭和19
10月フィリピン戦線で第一次特攻敷島隊の指揮官として、大西瀧治郎中将、猪口力平参謀、玉井浅一副長、指宿正信大尉、横山岳夫大尉の命令を受け最初の特攻を指揮した。

中津留達雄海軍大尉。享年23歳。
昭和20年815日午後ポツダム宣言受諾の玉音放送後、沖縄に、宇垣纏(まとめ)の命令でこの男と共に最後の特攻に飛び立った。

先の大戦で、最初と最後に行った特攻指揮官の二人の話である。

(最初の特攻は、軍部の脚色もあってこういうことになっているが、それ以前にも坂井三郎に下された「突っ込んでこい。帰ってくるな」の命令他、実際にはいくつかの現場の指揮官による特攻命令があったといわれている。)


本書の中に国を思い特攻に命を捧げた多くの男達が出てくる。国を思い、家族を思い、散華していった彼等に心からの感謝と深い哀悼を捧げたい。

一方では、「祖父たちの零戦」「真珠湾攻撃隊長淵田美津雄の生涯」に書かれているのと同じく当時の軍上層部のへどが出そうなくらい外道な連中も無数に出てくる。


国の為、残された者の為と理不尽な命令を諾とし凛と、散って行った若者達、そして感情のまま若者の命なんぞ歯牙にもかけず、そのくせ自分の命は何よりも大切、そして終戦後も自分の命令で多くの若者たちが特攻に向かった、そのことに一切頬かむりをして天寿を全うした下衆な男達。

ここで描かれているこの対極をなす男達は全て実在の人物である。
著者が、文献を調べ、また自ら証人たちに聞き取り書きあげた一冊である。

こんな外道の作戦とはいえない作戦を命令した連中、そしてそれらの命令を受け出撃して行った男達、同じ日本人であるとは思えない。こんな下衆な屑のような男達が何故日本軍の中枢にいたのかを思うと怒髪天を突く思いである。さらに疑問に思うのは何故そんな男たちが軍の中枢に上り詰めることが出来たのか、またそんな男たちを正す者達がいなかったのか、自浄作用がなかったのか旧日本軍の組織自体に疑問を抱かずにはいられない。これらのことについては、戦争末期に軍に志願した経験を持つ本書の執筆者も文中随所に非難している。

本書では、海軍での話が中心であるがその同族、身内意識は、凄まじいものがある。

その中で行われる、かばい合い、隠蔽、なれ合いは常軌を逸しているとしかいいようがない。そして始末が悪いことにその範囲外には、これほどまでに非情、残酷になれるのかとの仕打ちを平気でする。

日本は、先の大戦を、こんな暗愚の軍上層部を持って戦ったのである。



著者がハワイ北端の太平洋艦隊向けの通信基地のあるカフク岬を訪れるところからこの本は始まる。

そこには戦後になって分解された鉄塔が一部残っており、世界最大級の通信設備であったという当時の様子が見てとれた。これにより日本側の電波は筒抜けで傍受され、暗号もほとんど解読されており、この大戦前に情報戦での勝負はついていたという。
一方アメリカ側ではナホバ・インディアン語をベースにした暗号を用いるなどして日本側を徹底的に混乱させた。


案内のTAXIの運転手はアメリカの策略で日本は、はめられるように真珠湾に誘い込まれたのだと言った。
こんなことはハワイでは常識で、さらにその運転手は言った。

以降(-・・・-)は、本文から引用。

-お客から(ハワイ在住のアメリカ人)から当時の話を聞いたのだが、
日本軍の空襲は正確で軍事施設だけに集中しお陰で市民はバルコニーに出たり屋上に上がってりして見物できたそうです。ところがおかしなことに当時のニュースではハイウェイをドライブしていた車が日本機に打たれてカップルが死に、海に出ていた漁師30人ほどが矢張り銃撃されて殺されたとか、要するに関係のない市民まで殺したということで日本への憎しみを書きたてようとしたらしい。-


また山本五十六は、この戦争の勝敗は、空母=航空機が決すると明言していたが、真珠湾攻撃時のには湾内に一隻の空母もいなかった事実がある。偶然なのか、意図を持ってい事前に攻撃を知っていて回避したのかは、未だ明らかにされていないが、これだけ情報戦に長けているアメリカ側が、「攻撃を知らなかった」「空母が一隻もいなかった」のは偶然というのは出来過ぎている気がする。


いずれにせよ経済力おいて日本と比べ桁外れに大きなアメリカが情報網も含め準備万端整と待ち受けているところ日本側がまんまとその手に乗り飛びこんで行ったといえよう。おまけに望外にも日本外務省の不手際で(これも深読みすれば何らかの仕掛けがなされたのかもしれない)宣戦布告前の攻撃となりだまし討ちの汚名を着せることが出来、堂々と復讐の正義を持って日本との戦争に突入出来たことは、アメリカ政府を大いに喜ばせたことであろう。
そしてドイツの攻撃に欧州戦線で苦戦を強いられ、何とかアメリカをこの第二次世界大戦に巻き込もうとしていたチャーチルは、この真珠湾攻撃を知ってこの戦争は勝てたと上機嫌であったという。


また先日NHKの番組でやっていたが、最後通牒となった「ハルノート」の内容は、ある一人の諜報部員による恣意的な報告が、ルーズベルト大統領を激怒させ日本側が絶対に飲めない内容となったとの指摘がなされていた。その諜報員がチャーチルの意向を受けていたとの指摘もあるが、この諜報部員の報告が違ったものであれば、ハルノートの内容ももう少し日本側に有利なものとなり、日本もそれを飲め、戦争は避けられたかもしれない。

世界の歴史は、往々にしてたった一人の人間によって大きく変わるのものである。


後半は、この書の感想から大きくそれてしまったが、日を改めて書こう。


続きである。

●関は内地の教官生活から、ルソン島マバラカット基地に転属となった。そして転属も間もない日の深夜、出頭命令があった。
そこで副長玉井浅一と参謀猪口力平から打診というより命令をされた。
-250キロ爆弾を装着した零戦の編隊を指揮し、レイテ方面のアメリカ機動部隊めがけて初めての体当たり攻撃を決行せよ。
当然関はとっさには応えられず。しばらくして
「一晩考えさせてください」
と答え、ひとまず粗末な寝室へと戻った-

というのが後になってわかった真相のようである。
ところが、当の幕僚たちの書いた本によると、まるで違うのである。
-<関大尉は何秒か考えた後「私にやらせてください」と明瞭な口調であった>(猪口力平・中島正著「神風特別攻撃隊」)
そしてそのあとは文学的な表現で、
<急に重苦しい雰囲気が消えた。雲が散って月がかがやき出たような感じであった。それから三人は今後のことを語り合った>-
-<しかし玉井副長は、彼の身の上に関しては深くたずねようとしなかった>
関は、親一人、子一人でおまけに妻ありだったのだが、後世の非難をかわすためでもあったろうが、それにしても「死んでくれ」と命令するにあたって、肝心のことを訊ねない上官とはいったい何者であろうと。-
この著者は書いている。

何という奴らであろう。
さらに、
猪口は、その士官(関)に向かって、
「関大尉はまだチョンガーだっけ―」
「いや」
「そうかチョンガーじゃなかったのか―」
と言ったという。

この猪口という男、何という軽さ、何という酷い、無慈悲な男であろう。

関はそのあと、後ろの机に向かって遺書を書いたという。

●昭和20年2月第5航空艦隊が新設された。
―この時、残存していた航空機を結集した日本に残された最後の決戦兵力であった。
司令部を鹿屋に置き、司令長官には宇垣纏(マトメ)中将であった。―

この宇垣こそ、日本軍最悪の人物である。こんな男が、最後の司令となること自体が日本軍がいかに愚かだったことを示す象徴である。

山本五十六を補佐して連合艦隊参謀長を務めたこともあるいわゆる山本の腰ぎんちゃくであるこの男は、部下がお辞儀をしてもそりかえって受けるといわれた尊大な男であった。
ついた仇名が「黄金仮面」であった。

宇垣は、宇佐に着任早々「挙隊特攻」つまり「特命のない限り、攻撃は特攻とする」と宣言した。
特攻が原則となり、通常爆撃が例外となったのである。
こんな男が、日本海軍のトップになったのである。

宇垣は、山本五十六のカバン持ちであったわけであるが、山本がラバウルから視察に飛び立った時にお伴をしている。
軍の規則として長官、副長官とは別の機に乗り飛び立ったわけであるが、分単位の視察スケジュール(馬鹿げていることである。アメリカ軍もあきれたという。そんな重要人物のスケジュールをそんな精密に発表するなんてことは戦時ならず今でも考えられないことである。しかもこの時には正確にその暗号電報は解析されていたのである)で飛び立った2機を精鋭のアメリカ軍戦闘機が待ち構えていた。6機の零戦が護衛に付いた編隊に襲いかかったアメリカ軍機は1機を撃墜し、もう1機も撃墜したがその機は海上不時着した。落とされたのは不運にも山本機であった。そしてもう一機の不時着機に乗っていた宇垣は、その乗員が何名か死んだにも拘わらず悪運強く生還したのである。当時日本軍では、アメリカ戦闘機が2機の内の山本長官機を正確に狙って、撃墜したたと思われていたが後のアメリカの情報公開によって、どちらの機に山本長官が乗っていたかは不明であったことが分かった。歴史にイフはないが、もしこの時に宇垣が死んで、山本が生き残っていれば、この後の悲惨な特攻が行われたのであろうか・・・

生き伸びた宇垣は、その後特攻を気がふれたのであろうが如く乱発命令したのである。

まだある、宇垣は、ロケット特攻「桜花」の実戦配備に置いても、その成果が多いに疑問視され、他の軍上層部の連中の反対を押し切って主張し、強行した。その結果は、悲惨極まりない。
昭和20年3月21日鹿屋から野中五郎少佐の率いる第一神撃特攻隊が出撃する。
一式陸攻に吊り下げられた桜花は、30機の零戦に護衛されて飛び立った。

実は、この発進前にひと悶着あった、一式陸攻は、防御を考えられずに作られた爆撃機で一発の被弾でも簡単に火を噴いた、搭乗員からは「一式ライター」と揶揄されるほど燃えやすかったのである。その為野中は、少なくとも護衛の零戦は70機以上の護衛が必要であると主張したが実際に配備されたのは55機。しかも当日のエンジン不調によりその数は30機に減っていた。それでもこの作戦ともいえない作戦は強行された。
宇垣は、軍帽を振り見送り、そそくさと塹壕に入りその結果を待った。しかし発進からたった10分後にもたらされた報告は、陸攻は全機「桜花」もろとも撃墜の報であった。護衛の零戦も10機未帰還となった。
この10分で
「桜花」隊員15名、一式陸攻隊員135名、零戦隊員10名が一瞬にして散ったのである。
この彼等の最後は、アメリカ軍によってカラーフィルムで記録として残っている。
http://www.youtube.com/watch?v=MONSFUS5iwI&index=4&list=PLD965CDD0C921A5FF
見るに胸が痛くなる映像である。

出撃前夜、野中は親しい部下に「戦闘機の十分な掩護があってのことなのに。こんな作戦はなっとらん。こんなの戦争ではない。どうか特攻をやめさせてくれ」といったという。

余談だが、野中は、2・26事件の首謀者の一人野中四郎の実弟である。
野中は、男気のある男で部下にも慕われ彼の部隊は「野中一家」と呼ばれたという。彼は部下を前の訓示の折「自分は、国賊の弟である」と笑わせたという。
最後の攻撃の時も、「桜花」を切り落とした後は帰還するように命じられたが「部下を殺して、自分だけ還れるか」といったという。

●「陣地変更」
-軍艦が沈む時、総員を退去させ、艦長はみを艦橋に縛り付け、艦と運命を共にするのが、帝国海軍の伝統の筈であった。
いや、米英の軍艦でも、その例は珍しくなかった。
ところが、その点で凡人が首をかしげたくなるのが、大西瀧治郎、宇垣纏という二人の航空艦隊司令長官の「陣地変更」という名の脱出である。
フィリピンでは、昭和二十年一月十日、包囲する形で迫ってくるアメリカ軍の中から大西中将が幕僚を引き連れ飛行機に乗って、「陣地変更」することに。
それを報された基地司令の佐多直大(なおひろ)大佐が大西のところにやってくる。
そして、短く言葉を交わしただけで、佐多司令は長官を見送ろうともせず、引き返して行った。
大西は門司親徳(ちかのり)副官に命じて、佐多を呼び戻させ、佐多が来ると、いきなり、
<「そんなことで戦ができるか!」
と、低い声でいうと同時に、長官の右の拳が司令の頬に飛んだ。バシッという音がして、司令が一歩よろめいた>(『回想の大西瀧治郎』)-

-こうして飛行機の無い航空隊員一万五千四百人が取り残され、その結果、生存者は僅か四百五十余人になってしまった。-

さらに宇垣は、この後も戦火厳しくなった鹿屋基地から大分に「陣地変更」している。

鹿屋の飛行場は元々地元の篤志家が「飛行機の時代が来る」と地域振興の為と寄付をし建設し海軍航空隊を誘致したものである。
鹿屋の町と航空隊はいわばお互いが育てあう形で成長していったのである。
その航空隊が一方的に俄かに町を棄て後退するとは町としては思ってもみなかったことであり陳情や抗議を繰り返したが全く相手にされなかったという。

宇垣の日記。
<大分に陣地変更を決し参謀長及幕僚の一部夕刻鹿屋発大分安堵>

宇垣は、鹿屋を去るにあたって晩餐会を開いた。しかし招待した鹿屋市長、助役、警察署長、憲兵隊長ら市側は誰一人として参加しなかったという。

市側の怒りが聞こえてきそうである。

そして終戦間際まで逃げまくった宇垣は、最後まで徹底抗戦を叫び、特攻命令を出し続けた。そして「まだ2000万人の男子が残っている」とわめいた。周りからはその様は頭に血が上った火の玉の様であったといわれている。

8月9日ソ連参戦。
8月10日深夜。御前会議でポツダム宣言の正式受諾が決まった。
8月11日宇垣にその報が伝えられたが、とことん戦うとわめき、「徹底に戦えば敵は戦争の苦渋を思い知りついには戦うことを諦めるであろう」と言ったという。
8月11日特攻はまだ続き、喜界島から特攻5機が出撃。突入電を打つ。
8月13日情報錯綜していた中、特攻出撃準備していた機に中止命令が出る。この時、隊員は機に乗りこんで待機していた。

そして
8月15日朝から正午に天皇のお言葉の放送がある旨、ラジオは朝から予告を繰り返していた。またサンフランシスコ放送は、日本がポツダム宣言を正式に受諾し戦争が終わったことを報じておりそれらは刻々と宇垣に伝えられていた。

しかし・・・・・


宇垣は、その朝、中津留大尉を呼び付けた。
「艦爆五機をもって沖縄敵艦隊を攻撃すべし。本職これを親率す。第五航空艦隊司令長官
中将宇垣纏」
この命令書を参謀に書かせたが、中津留には命令書を渡さず口頭で伝えた。

-情報を絶たれていた中津留は、おかしな表現だが、ふつうの特攻だと受け取った。-
しかしその攻撃目標は二転三転とした。

-その待つ間に隊員達は土手の上で赤飯の缶詰を食べることにした。遠くに整備員の一団が整列し何かを聞いている姿が見え、やがてその整備員に接触した一人が「戦争は終わったようだ」と伝えたがまさかと相手にしなかった-

中津留は、5機の命令であったが、11機の出撃機を準備した。
前夜、出撃機を発表した際、隊員達が全員での出撃を強く望んだためである。中津留は、自身も戦力の小出しは、兵法に反すると考えていたので、全機での出撃を決したものであった。

こうして午後4時前に出撃となった。
宇垣は、11機が準備されているのを見て
「そうか。みんな、俺と一緒に行ってくれるのか」といい、短刀を持った右手で宙を突いたという。この短刀は山本五十六から貰ったものだった。

こうして22名の隊員と宇垣は、沖縄に向けて戦争最後の特攻に向かった。
(機は、連日猛訓練に明け暮れ準備していた「彗星」(二人乗り)であった。)

死出の旅路に就いた隊員の中の一人は言う
「阿蘇のがとてもよく見えて、日本はきれいな国なんだァ・・・と」

そうなのである。この最後の特攻隊には生存者がいたのである。
この二村(まだ10代であった)の機はエンジントラブルの為に不時着し他にももう一機エンジントラブルで不時着したのである。

そして、中津留が宇垣と乗った一番機も出撃直前に、中津留はエンジン音に首をかしげ他機に乗り換えたのであった。
この交換した機は、実際にエンジントラブルを起こし不時着している。
(この頃には、部品も品質が落ち、燃料も粗悪でまともに飛べることができない状態であった。)


「永遠の0」の、題材となったと思われる出来事である。
もし中津留が機を交換しなかったら中津留と宇垣は生還したのである。

そして午後8時25分、中津留機ともう一機は、伊平屋島沖と、米軍キャンプ地の脇に突入した。爆弾は途中で投下したらしく積んでいなった。
夕方飛び立ってこの突入に至る詳細については、不明である。

翌朝、伊平屋の海岸に3人の遺体が流れ着き米兵が処理しているのを見た人間がいる。

●戦後軍神とあがめられた特攻隊員やその遺族を見る世間の目は一変した。
生き残りの隊員には「特攻崩れ」と揶揄し、子供らは彼等に石を投げたという。
関の残された母もにも容赦ない非難の眼が向けられ「石もて追われる」言葉通りに自宅を追われ、親戚の家等を転々とすることになった。その度に家に石を投げ込まれ大家からは「即刻立退き」を迫られた。

手のひらを変えしたようなマスコミによる扇動であった。淵田美津雄じゃないが日本人であることが嫌になるこれら出来事である。

●この他にも、まだ情けなくなる出来事が書かれている。
-終戦のその夜、筆者である海軍特別幹部練習生でる私たちを驚かせたのは、犬の悲鳴であった。
下士官や士官がせっかく刀を買っておいたのにと、捕えさせた犬めがけて、試し切りをはじめたのだ-
-特攻隊員達が、柱相手に刀を振ったのとはちがい、野卑というか低劣。その程度の男たちが、上官であり、教官であったわけである。-
この他にも、戦争が終わったのにもかかわらず上官による少年兵への陰湿ないじめが執拗に行われたという。

●宇垣は、出撃にあたりその終戦を知りながらそれを隊員達に知らせないまま22名を道連れに特攻に出た。詳細は、判明しないが著者は直前に中津留がキャンプ地への特攻を回避し海岸に突入したのであろうと戦後の取材を経て書いている。
そして宇垣の一人で自決せずに、22名もの隊員を無駄死にさせたことに強い憤りを以て
書いている。

●この著者は、戦後中津留大尉の遺児鈴子を訪ねている。
鈴子は、3歳の時に母が再婚した為に、祖父母に引き取られた。鈴子は祖父母の蜜柑畠の農作業中、畠の中で一人遊びしていたという。
中津留大尉の父は、執念のように100歳まで生き「宇垣さんがひとりで責任をとってくれていたらナァ」と呟いていたという。
(終戦直後、宇垣を非難したらしいが、周りからは反対に猛烈な批判の声があがりそれ以来一切口を閉ざしたという)

母は、老いてからも月夜の浜辺に立ちつくし泳ぎ上手の息子が帰りつくのを待っていたという。

●大西は、終戦後割腹自殺した。猪口力平は、戦後改名し(何故?)80歳まで生きた。その間中島正と共著「神風特別攻撃隊の記録」を出しているが大岡昇平らから上述のように特攻を美化し嘘を書いていると批判を浴びた。
この男は、改名後何と海上自衛隊の幹部学校で講師となり統帥学の講義をしていたという。

信じられない。。。。

●この本では書かれていないがこの中島正という人物も、許せない人物である。
戦争末期に、特攻を平然と命令しまくり、周りからは敬遠されていた。その無神経さ、無慈悲さは際立っており、ある時には特攻の戦果報告を受けた時に、余りにも無神経な言葉を吐いたので報告した直掩隊長は、中島の足元に5発、拳銃で撃ち込んだという。(ウィキペディアより)
この男は、直掩機にも非常な命令(敵から攻撃を受けても反撃するな。特攻機の盾になって全身に弾を受けろ等)を出しているが、自分は「俺は死なない。神風特攻隊の記録を残す為内地に帰る」と言っていたという。何と言う男だ。。そしてその言葉通りに首尾よく生き伸び書いたのが前述の猪口と共書した「神風特別攻撃隊の記録」である。そしてこの中で自分達に都合よく脚色し、嘘を書いているのは何としても許し難いことである。
この男も、戦後、航空自衛隊に入隊し、86歳まで生きた。

どうしてこんな男が戦中戦後重宝されたのであろうか?

●玉井浅一、実際の特攻の立案者であったともいわれている。この男も生き伸び、日蓮宗の僧侶となった。62歳没。

この本で描かれているのは全て海軍での話であるが、陸軍の特攻となるとさらにえげつなく、人間の屑のような上官たちがうようよ出てくる。

いずれにしても、この生き残った男達は、戦後恩給を貰い嫌味なほど長生きしたのである。

この本を読んで強い怒りと、旧日本軍のえげつなさに暗澹とした気持になる。

この本の行間からは彼等に尻をけられ、頬を殴られ20歳前後の若さで南の海に散っていった男たちの慟哭が聞こえてくるようだ。