Bigelle

Bigelle Capの日々の記録です。 Bigelleのホームページ: http://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/9542/ 

2017年07月

日本史探訪「難波大社 生國玉(なにわおおやしろ いくくにたま)神社。

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おじさんバンド。

おじさんバンド7月例会。
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Gucciさんが欠席なので叩ける曲がないがもうすぐ夏休み、ご機嫌である。


日本史探訪「聖徳太子御廟」。

井沢元彦の「逆説の日本史」はホント面白い。得意の戦国時代、この本でいうと9巻からは読みきってしまったがまだ山ほどの付箋がついて読後感想文が未完成である。
最初はあまり興味がな古代からの日本史は読むつもりはなかったが、この際飛ばしながらでも読もうと1.2巻を読み始めた。そんな中で、聖徳太子の御廟のことを知った。太子について最小限の知識はあったつもりだが御廟すなわちお墓がこんな近くにあるなんて全く知らなかった。
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叡福寺。大阪府南河内郡太子町太子2146。車で行くと羽曳野東インターから5分もかからない。
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南大門。仁王様が迎えてくれる。
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宝塔。重要文化財。
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正面が御廟。
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御廟所。
太子は、推古30年(622)旧暦2/22(太陽暦4/11ごろ)49歳で薨去された。
その前日亡くなった妃と2カ月前に亡くなった母と共に埋葬されている。

その死については、多くの謎がある。井沢元彦氏は、二人は自死、すなわち心中したのでないかとの説をとる。
この詳細については、「逆説の日本史2巻」読後文で検証したいのでまた読んでください。

天正2年の織田信長の兵火により堂塔のすべてを焼失したが慶長8年(1603)秀頼により聖霊殿が再建され江戸中期にわたって、宝塔、金堂などが再建されていった。


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金堂。
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念仏堂。
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聖霊殿。(重文)。
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聖霊殿の前には「和」の碑石があった。

叡福寺を後に小野妹子のお墓にお参りした。
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小高い丘の上にあった。
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これが日本史で遣隋使としても有名な「小野妹子」の墓とは思われようのない荒れ方であった。
外国人生活保護者や、感謝もされない外国への無償援助する金の一部でもつぎ込めばこんなに荒れ放題にもならないことだろうと思う。


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歩いて回れる範囲に数えきれないほどの遺跡がある。

この日はものすごい暑さでとても全部は回れず代表して推古天皇陵を訪れた。
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日本史上初の女性天皇である。
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宮内庁管轄で立ち入り禁止である。
防犯上もちろんのことであるが井沢氏は、調査発掘までまったく禁止していることに疑問を呈している。

つづいて源氏三代の墓を訪れた。
河内源氏のルーツである。
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大僧正隆光の墓。綱吉に学僧として仕え「生類憐みの令」を公布した男である。
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源義家の墓。
清和源氏の直系であり八幡太郎義家として有名である。
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源頼信の墓。河内源氏のルーツである。
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通法寺跡。
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源頼義の墓。
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壷井八幡宮。
頼義が戦勝を感謝し勧請した。
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樹齢千年といわれる楠。

これだけを半日かけて巡った。
なんかこのごろ急に日本史づいてきた。

逆説の日本史11戦国乱世編。

  ホントのこのシリーズはどの巻もそれぞれにとても面白い。知らなかったこと、知っていたつもり、うわべだけしか知らなかったことばかりである。この作者井沢氏の物事を、歴史を一歩も二歩も踏みこんで総合的に俯瞰する眼力には全く敬服するものである。こんな風に日本史を教えてくれる先生がいたら高校時代あんなに日本史が嫌いになっていないことだと思う。大学入試で世界史を選択することなく日本史で高得点をとっていたならもっといい大学に行けたのにと思う。

Anyway今巻は、秀吉と家康までを検証する。
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 ・秀吉の右手は6本指であった。

・入会山:その土地の村落共同体の住民の権利として予材をとることが許されていた山。一部の特殊な山(伊勢神宮御材木林など)を除けば当時ほとんどが入会山だった。

 

  二宮尊徳が薪を背負っている像は日本人なら誰でも知っているがその薪は盗んできたのだというアホな説を唱えるのは、当時のしきたりを知らないからである。

 

西洋でも昔は畑の落ち穂は寡婦の取り分とする、という規定があった。

・秀吉が長浜で側室を持ったときにおねが信長に相談に来た。

信長はおねに、「秀吉はお前のような気立てのいい嫁をもって果報者だ。お前も嫉妬せずに大きくかまえていなさい」と諭したという。

・それもあってか、秀吉に請われて信長は四男於次丸を秀吉の養子にさせた。秀吉は自分の係累をこの時点では跡継ぎにしなかったのである。

・清須会議は、6/27に開かれた。当事者の信雄、信孝は出席していない。出席者は、秀吉、勝家、池田恒興、丹羽長秀であった。

・結果三法師が後を継ぐことになったが、その後見人は信孝ときまり、同時に信孝は信長の遺領美濃国をもらいその主城岐阜城に三法師と共に入った。

・勝家は、北近江の秀吉の居城長浜を取った。秀吉は、アッサリと初めて城持ちとなった長浜を捨て山城(京都南部)、河内、丹波(京都北部)を取った。

・会議が終わって間もなく勝家は信孝のあっせんでお市を後妻とした。そして越前国北の庄へ戻った。しかし折角秀吉から奪った長浜に居城を移さなかったのは最悪の選択だった。

・秀吉は居城の姫路城は部下に任せ山崎の天王山に新しく城を築いて本拠とした。

10/15(旧暦である)秀吉は、京都大徳寺で豪華絢爛ど派手な信長の葬儀を行った。遺体がないので棺の中には香木で刻んだ仏像を入れた。そして名目的な喪主に信長の4男於次丸秀勝を仕立てた。秀吉はわざわざ少年の秀勝に棺を載せた蓮台を担がせたその相方には池田恒興の息子輝政を当てた。信雄、信孝には秀吉は招待状を出さなかった。

・勝家はそこで初めて焦った。勝家は11月に入って信頼できる配下で秀吉と仲のいい前田利家を山崎城へ送って「和」を結んだ。秀吉を油断させるため、時間を稼ぐためである。

12月越前が雪ので閉ざされ勝家が動けないことを認めた秀吉は一気に岐阜城の信孝を責めた。もちろん信雄の了解を得てからのことである。

こうして一気に岐阜城を落とした秀吉は「切り札」三法師を奪い取ることに成功した。

秀吉がやっと後継者争いで勝家を逆転したのである。

 

秀吉は必死だったと思う。

・ここで秀吉に屈した信孝は、秀吉に人質として母と、娘を差し出した。秀吉にとっては主君の妻と孫であった。

・年が明けて勝家は、雪解けを待つのももどかしく出陣した。それに呼応して滝川一益も立ち、信孝も大きな決断をした。もう一度反秀吉の兵を岐阜城で挙げた。信孝は、まさか秀吉が人質とはいえ信長の妻と、孫を殺しはしないと思ったことであろうが、秀吉は古恩二人を磔にしてしまった。この秀吉の非道、残虐は秀吉の天下となったあとほとんどの資料から抹殺された。
 

現存する歴史資料とはこんなものである。勝者に都合の悪い事実は消されるのである。

 

・賤ヶ岳の決戦の史実とされる佐久間盛政の突出。都合よく書かれた「太閤記」の作者小瀬甫庵は前田家で禄を得ていた。

・北の庄落城のとき、信孝は、信雄軍に居城岐阜城を包囲されていた。柴田の自刃を知った信孝はこれまでと城を枕にという行動に出ずに降伏した。まさか異母兄弟とはいえ信雄が自分を殺すとまでは思わなかったのであろう。が、信孝は、城を出て尾張野間の大御堂寺に追い討ちをかけるように信雄は切腹を命じた。もちろん黒幕は秀吉であった。

信孝は、

「昔より主をうつみの野間なれば

報いを待てや羽柴筑前」

の壮絶な辞世の句を残して自刃した。

この大御堂寺という寺は、源頼朝の父義朝が家来に謀殺された寺で有名であった。この地は今でも内海といい主人殺しとかけているのである。深い恨みのこもった句であるが信孝の教養を偲ばせる辞世の句である。

・池田恒興は信長と乳兄弟の関係にあった。清須会議の出席者は、勝家、秀吉、恒興、丹羽長秀であった。

・同士討ちの可能性があるので当時夜襲は難しかった。

・信雄と秀吉の講和にはらわたの煮えかえる思いだった家康は「このたびの講和、天下のために誠にめでたい」と祝報を送った。

家康のすごいところである。

・信雄との講和が1584年(天正12年)11月。その一月後12月に於次丸秀勝と輝元の娘の婚儀が大坂城内で執り行われた。

・秀吉は、そのあと将軍義昭に養子にしてくれと頼んだが断られた。秀吉は征夷大将軍の座を狙ったのであるがこれは義昭に断られた。そこで秀吉は関白を狙った。

・「成政のさらさら越え」秀吉と家康の講和のあと危機感をつのらせた成政は家康の翻意を促すため北アルプスを越えて浜松の家康を訪ねたが家康はこれには応じることができなかった。失望した成政はまた来た道を帰ったがついに秀吉の軍門に下った。

・秀吉は、関白を退き養子秀次にその座をゆずり自分は太閤となった。関白職をそれまでの五摂家の持ち回りではなくて豊臣家の世襲にしたのである。

1587年(天正15)秀吉は九州征伐の薩摩攻めのとき、攻めあぐねて秀吉軍は八代から川内川まで軍勢をすすめたが兵站線が途絶え撤退寸前であった。がそれを知らない薩摩は秀吉に講和を申し入れた。秀吉の強運を物語る出来事である。

関ケ原のあと家康が薩摩に追い討ちをかけなかったのはこのことがあったかと作者は考えている。

・戦国時代宗教戦争が起きなかったのは信長がそれを徹底的に排除したからである。

・真言宗の総本山高野山から分派した覚鑁(かくばん)が山を降りて新しく根来寺を建てた。

・よって金剛峰寺と根来寺は敵対関係にあった。

・延暦寺のことがあり高野山は、木食(もくじき)上人を使者に立て秀吉に降伏した。

1599年(慶長4)関ケ原の戦いの前年、家康は大坂城において日蓮宗同士の宗論を行わせ不受不施派の僧日奥(にちおう)を対馬に流罪にした。

不受不施派というのは日蓮宗の信者以外からは布施を受けてはいけないし、与えてもいけない。もう一方受不施派は相手が王侯であれば(日蓮宗の信者じゃなくても)その不施は受けてもやむを得ないという一派である。

秀吉の時代に不受不施派が反抗した歴史があった。秀吉が自ら建立した大仏のための千僧供養に不受不施派はただ一派だけ欠席した。この大仏の建立責任者は木食上人であった。家康はこのことを知っていたのである。

・ところがこの大仏は数年後(1596年(慶長元)に近畿地方を襲った大地震で横倒しになってしまった。

・そこで秀吉は、ピンチヒッターとして選んだのが善光寺の阿弥陀如来像だった。

・大仏建立は、国家権力による宗教統一を目指したものである。そして不受不施派以外の仏教各派は、秀吉の前に膝を屈したのである。ところがこれが数年後に倒れたのでピンチヒッターに善光寺の阿弥陀如来像であった。倒れたのが不吉というより倒れるべく力が働いて倒れたという民衆の恐れを払拭するために急遽打立てる必要があったのである。阿弥陀如来像は日本でわが国初伝の仏像とされていてそのピンチヒッターに相応しかったのである

・本山末寺(まつじ)制度。家康は檀家制度と共に、この末寺制度により、すべての寺はその宗派の本山の支配下に置かれた。

・善光寺の阿弥陀如来に最初に目を付けたのは武田信玄である。信玄は戦火が善光寺におよび万一のことがあったら大変だという無茶苦茶な屁理屈で(戦争を始めたのは信玄である)如来像を掠奪することに成功し、甲府善光寺を建てそれを遷座させた。そして武田が滅ぶと如来は信長によって岐阜に遷された。だが今度は信長が殺されると今度は信雄によって尾張へと遷された。そして本能寺の変のどさくさに紛れて織田の領地となっていた甲斐国を掠め(かすめ)取った家康は信雄に対して甲府善光寺に如来を「返却」するように申し入れた。この時、家康と信雄は同盟関係にあったので如来はまた甲府入りした。要するに家康の「所有」となったということである。だが秀吉の家康への移封によって甲斐に相婿(あいむこ)の浅野長政を封じた時点で、秀吉の「所有」となった。秀吉は大仏崩壊後に「夢に如来が現れ京へ還りたいと言った」と六尺三尺(約19メートル)の代わりに一尺五寸(0.45メートル)の善光寺如来が入洛した。慶長二年のことであった。ところが翌慶長三年何を思ったか秀吉は本当の故郷である善光寺に如来を送り返した。信玄が奪って以来実に42年の歳月が流れていた。

・秀吉の見地は、中間搾取層を排除してその土地を耕している人間に与えた。これを「一地一作人の原則」といい小作人を自作農に替えた。この農地改革は、戦後の農地改革以前では最大のものだった。

・幕臣勝海舟は当時日本と唯一国交のあった阿蘭陀の海軍士官に長崎の伝習所で海軍術を学んだ。その先生であったカッテンディーケは「日本人の最大の欠点は町民など武士以外の人間に、国を守るという意識がないことだ」と日記に書いていた。

・一反=360坪=一人の人間が一年に食べる米がとれる田。一石=十斗=百升=千合=一人の人間が一年に食べる米の量(=一反=360坪)

よって一坪=一人の人間が一日に食べる米がとれる田。

・秀吉は、一反を360坪に改めた。

また田の基準を設け、上田「一石五斗」中田「一石三斗」下田「一石一斗」を生産できるものとした。

 

また「村切」を行った。村と村との境界を定めたものである。

・秀吉の亡くなった1598年(慶長3)の資料によると日本66か国の総石高は1850万石、一人一石で換算すると当時の総人口は約1850万人ということになる。

・戦国時代で軍役人数は、総人口の2%、第二次世界大戦で約5%であった。

・清正は、正則と共に賤ヶ岳の七本槍の一人として活躍し、九州平定にも大功があり27歳にして肥後半石(北半分、南は小西行長)195000石の大名に抜粋された。

・当時日本の総兵力は40万人であった。

・当時流通していた銭は永楽通宝(通称永楽銭)で、これは明の永楽年間に鋳造されたものでそれが日本に輸入され江戸幕府が独自の銅銭(寛永通宝)を作るまで日本の基準貨幣であった。

・永楽銭重さは今の五円玉と同じ3.75gである。というより昔の銅銭の重さに合わせて3.75gに作られたのである。そして3.75gは一匁(もんめ)であり1000匁=一貫である。

・銅銭一枚=一文。この銅銭の穴に紐を通して千枚まとめたものを一貫文と言う。

・この永楽銭を真似てつくった粗悪な銭を鐚銭(びたせん)といった。「びた一文負けられん」の語源である。

・秀吉は、後藤家に依頼し当時世界最大の金貨を作らせた。天正大判である。重さ44匁(約165g金の純度約70%であった。

・秀吉以前は、秤で重さを測定し流通させるものだった=秤量貨幣(しょうりょうかへい)手間がかかり流通を阻害するものだった。

これに対して一定の重さの単位で金塊(板金)を製造しそれを発行元が保証するのが計数貨幣である。

秀吉までは、銅銭はあったが金・銀の計数貨幣はなかったが秀吉はそれを初めて作った。

・この前段階があり家康は、小判を流通させることを成功させた。

この小判鋳造を担ったのも後藤家であった。

・歴史学者朝尾直弘は、16世紀末から17世紀初頭にかけての世界の産銀量は年間60万キログラムそのうち1/320万キログラムを日本の輸出銀が占めていたと言う。

・能舞台の奥には必ず「松」が描かれている。その板ことを鏡板という。あれは鏡でそこにある松は実体ではなくて鏡に映った鏡像なのである。松は神の象徴で客席に感がいるという意である。

・イギリス首相チェンバレンはドイツヒットラーが1938年ベルサイユ条約を破ってオーストリアに侵攻した時イギリスは兵を出さす、「狼は空腹だから乱暴するのであって、エサを与えておけば悪さはしない」と言った。これを宥和政策という。

・「平和の絶対化」はかえって戦争を招く。昔の中国人の賢者は「治(平和)にいて乱を忘れず」との警告を残した。

・フビライ:ジンギス汗の孫。金を滅ぼし、宗を併合し都を大都(北京)に移し、1271年国号を元と定めた。日本にも二度遠征軍を出したが失敗した。

・イエズス会は東洋へのキリスト教布教を目的に設立されたものだ。フロイスもイエズス会である。彼らの目的は世界はすべてカソリック国になるべくという考えであり、その布教は多分に軍事的征服の先兵の意味を帯びていた。

・フィリピンという国名は、この辺りをスペインが征服した時、スペイン国王フィリーペ二世の王子時代の「フィリーペ」にちなんで命名されたものである。

・秀吉の「唐入り」が愚か者であればもっと愚か者がいる。言うまでもなく、当時のイエズス会の宣教師たちで、その代表は日本巡察師であるアレッサンドロ・パリニャーノだろう。彼はスペイン国王フィリーペ二世に対する次のような進言の中にこんな文句がある。

「シナに於いて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるであろう。それ故日本の地をきわめて重視する必要がある」

 

また当時フィリピンのマニラ司教であったフライ・ドミンゴ・デ・サラサールも国王に次のように進言している。

「中国が野蛮人の集まりで簡単に征服できその王をキリスト教を認めさせそれを拒否すれば追放できる。そしてそれらのことを行うには日本人を利用するのが有効である。日本人はシナ人の仇敵であって在日のイエズス会修道士に彼らの指示に従って行動を起こさせるようにすることである。彼等はシナ人に対しては非常に効果的である」

 

つまり日本を利用して明を討てということである。

・秀吉は。耄碌して「唐入り」を行ったとのは秀吉を矮小化させる歴史家たちの誤りである。秀吉はそれなりの成算があってもしくは確信があって朝鮮へ出兵を命じたのである。その情報を与えたのはだれか、答えはイエズス会の宣教師たちである。

 

では歴史は、「日本・スペイン連合軍による唐入り」とならなかったのか?この流れを変えたのはイエズス会日本準管区長のバスパル・コエリョである。

・コエリョは日本を日本人キリスト教徒の手を借りれば簡単に征服できると考えていた。コエリョは1585年(天正13)に明より先に日本を征服するようフィリピン提督に意見書を送っている。秀吉が関白になった年である。

・関白就任後の秀吉は大坂城にコエリョを招き外航用の大型帆船二隻を船員つきで売却をたのんだ。交換条件として秀吉が示したのは、明でのカソリック布教の自由だった。外航用の大型帆船を建造する技術が当時の日本になかったのである。もしこの時にコエリョが

これを受けていたら日本とスペイン・ポルトガルの同盟が成立し歴史は相当にちがった展開をしていただろう。だがコエリョの意図はあくまで日本の支配にあった。彼は二年後に渡海には何の役にも立たない平底のフスタ船に乗って博多にいた秀吉のまえに現れ、その火砲の威力を誇示した。軍事力によって、彼は秀吉を威嚇したのである。日本のカソリックの運命がこのときに決定された。
 

これはまったく逆効果だった。当然秀吉は激怒した。そして秀吉は「伴天連追放令」を出すに至った。注意すべきはこれは宣教師追放令であり、これ以上の布教は禁止するものの江戸幕府のように信者の追放や処刑までを規定したものではない。あくまで貿易の道は残しておきたかったのである。

・これによって秀吉は「唐入り」に際しての海上ルートを放棄せざるを得なかった。こうして「唐入り」に陸路をえらび朝鮮出兵となったわけである。

・「唐入り=朝鮮侵略」の矮小化によって「中国征服」の野望が見落とされる。

・倭寇(明国人艤装)の大ボス王直(おうちょく)は日本から明へ攻め入るにあたって朝鮮半島は通らなかった。彼は艦隊を持っていたからだ。

・秀吉と李王朝の間に立った対馬の宗氏は二枚舌外交を行った。

秀吉には、朝鮮は朝貢使がくると言い、朝鮮にはとりあえず天下平定のお祝いに秀吉に会いに来てくださいと言ったのである。

・明は民間の海外貿易を禁じていたが、結局はそれが倭寇の跳梁を招いた。

1592年(天正206/14日本軍は平壌までをも占領した。この地の奪還を目指した明の祖承訓は中華思想の凝り固まったような思い上がった軍人で大雨の中、馬が滑りやすい危険な状況で攻撃を強行し、日本軍の鉄砲の餌食となり平壌奪回は失敗した。承訓は更迭され李如松(りじょしょう)を送り込み和議を結ぶことになった。日本側の交渉人は小西行長が担当した。こうして50日間の停戦がなった。しかし日本側はとても甘かったのである。この50日間で日本群が貴重な時間を空費している間に明軍は態勢をととのえ正月7日平城を急襲した。火力に勝る明軍は大砲で城門を打ち破り攻撃した。油断していた日本軍は撤退を余儀なくされた。日本軍の初めての本格的な敗走となった。

・文禄の役(唐入り)は、こうして劣勢に追い込まれ日本軍の兵糧保管場所竜山を焼打ちされ、すでに海戦では朝鮮水軍に補給路を断たれていた日本軍は万事休した。

進退窮まった小西行長は、明側と停戦協議の末講和した。明側の代表者は沈惟敬であった。双方とも「和平派」であった二人は何としてもこれをまとめるためにウソの「和平工作」をした。

・明と日本軍は、秀吉が詫び、明に臣下の礼をとることでまとめようとしたのである。

明から来た使者を秀吉は「冊封使」だとは夢にも思わなかった上機嫌で迎え入れた。だが漢文はまったく読めない秀吉も「汝を封じて日本国王と為す」と聞いて、初めて事の真相を知った。秀吉は当然激怒した。秀吉は「講和七条件」にあった南朝鮮四道の日本支配を行うために再び挑戦に出兵を命じた。これが第二次朝鮮出兵「慶長の役」である。

 

この第一次朝鮮出兵「文禄の役」は「唐入り」であり、対明戦争であった。一方慶長の役は「朝鮮侵略」であり性質がまったく違うものである。

・この二枚舌外交の主役、沈惟敬は後に明で処刑され、行長は、秀吉に必死の弁護をしたのであろう、また耄碌していた秀吉をうまくだましたのであろう大きな咎をうけることなく許された。秀吉は慶長の役のあと1年後に死んだ。

・どんな民族にも欠点はあるが、著者は朝鮮民族の欠点は団結すべき時に内部抗争をやることだと喝破する。

・敵国の激しい内部抗争があり、しかも民衆が政権を支持していない―実はこのような時「世界の法則」では、「勝てる」はずなのである。

こうした観点から見れば、秀吉最大の失敗は全羅道を敵に回したことである。

全羅道は、かつての百済地域であるが、百済が滅んでからというもの、常に新羅地域(慶尚道)から差別される地域であった。

 つまりやり方次第は、全羅道は日本の味方にすることも十二分に可能だったのだ。

ところがその本来なら味方についても不思議でない地域の住民を最大の敵として虐殺した。

秀吉が、あるいは現場の人間が朝鮮の内情をまったく知らなかったということだ。

しかも日本軍の犠牲者についても、戦死者よりも、餓死者、病死者の方がはるかに多かった。これは大東亜戦争と重ね合わせると「計画性のなさ」という点で不気味なほど似ている。

・戦争はその民族の最大の弱点が露呈する。日本民族の最大の欠点は「情報を軽視する」ことである。

・「五輪塔は供養碑である」。「戦勝碑ではない」。

スペインレストラン。

エリーの月遅れのBPを祝うためスペインレストランを予約した。
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本町のビル街ポツンと佇む。
中々予約が取れず今日となった。
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高田郁さんのみをつくしシリーズ、ガウディがあった。趣味がかぶる。
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センスのいい空間があった。
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写真は一部だが、どれもこれも大満足の一品たちであった。
季節で料理内容が変わるということなのでまた来よう。

BigElleのメンテナンスで古仁屋に。

7/16から四日間の日程で奄美大島の古仁屋までBigElleのメンテナンスに行ってきた。

7/16(日)
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もうすぐ奄美空港だ。喜界島がすぐ近くに見えた。
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過日プロ障害者がにじり上ったタラップを降りた。

古仁屋到着後、燃料タンクの澱のチェック等々をして夕方海上TAXIで古仁屋に向かった。
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大島海峡。久しぶりの海である。気分は最高。
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リッキーで楽しい夕食の後、また海上TAXIでBigElleの待つ阿鉄まで帰った。
闇に浮かぶBigElle。

7/17(月)

ジブセールの受け取りがあるので車で取りに行こうかと思ったがテンダーで運ぶには無理があると判断してBigElleを古仁屋まで回した。
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油井の沖では子供たちがシーカヤックでどこに行くのだろう、遊んでいた。みんないっせいに手を振ってくれた。
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瀬戸岬の灯台の下に、観光グラスボートがいた。
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かわいいテンダー。昨日これにGucciと二人乗って転覆しそうになった。
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古仁屋が見えて来た。
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お盆クルージングのこともあり漁協に氷を仕入れに行った。
帰りに海保の臨検を受けた。もちろんすべての手続きは終えて書類はそろえてあったので和気あいあいとの検査となったが・・・
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クーラーボックス満タンで300円也。
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留めなれた公園横に舫った。いい光景である。
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ウインチを二つ分解掃除した。
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通いなれた嶽ノ湯で汗を流した。
今宵の夕食はKさん通いの「松竹」。
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町中から少し離れたところにある。
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天気予報が旅にいることを感じさせてくれる。
ちなみにこれは最低気温である。
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手長海老のから揚げ。カリッとして美味かった。
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ここの大将は屋号からもわかるようにすし職人出身であろう。

7/18(火)
今日はGucciが楽しみにしていた釣りの一日である。
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油井のマグロの養殖場の近くで糸を垂れることにした。魚探もBigElleにはあるがセットが面倒なので使わなかった。
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ウミガメがきらきらするおもりの鉛に誘われて現れた。この直前にはイルカが二頭現れていつもなら大歓迎だがこの時ばかりは声をそろえてみんなで「チガウダロ~~~」と叫んでしまった。
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そんなことで釣果は散々でアジが10尾ほどだけだった。
だがのんびりととてもいい時間だった。
公園に戻ってローリーを呼んで給油した。
100円/Lだった。やはり島の油は高い。

7/19(水)
漁港で同じく臨検を受けたカタマランを阿鉄まで曳航した。
カタマランは、検査切れだった。海保から自力走行はままならないときつくお達しを受けていた。
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船の片づけをして阿鉄を後にした。次回来奄美はお盆のクルージングである。

この翌日海保から思わぬ電話を受けた・・・・
嫌な予感がした。こんな風に海保からの連絡はろくなことがないものと相場は決まっている。
案の定・・・
顛末は長くなるのでまた後日・・・

竹宮ゆゆこ「おまえのすべてが燃え上がる」

 最近は日本史の本ばかり読んでいる。その合間にチラと紀伊国屋で見つけて買ったもの。女流作家特有の話が飛びまくる展開なので一気に読まないと何のことか訳が分からなくなる。まずまず面白い作品だったかな。でも最後は、いかがなものか?以前にもこんな終わり方の「ひだまりの少女」があったが、これはもの作りとしては卑怯な手法だと思う。これが許されるなら目いっぱい話を広げておいて、これは夢でしたで終わればどんな荒唐無稽な話でも作ることができる。

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ハチャメチャなひとりの女の子、名は信濃という。そんな子でも良き理解者がいる二人の男性が絡み合って物語は進む。一人は学生時代からの腐れ縁の醍醐。もう一人はやさしい弟の睦月だ。ネーミングが前時代的だがこれは作者の趣味だろう。

物語はいきなり信濃が不倫相手の奥さんに包丁を持って追いかけられる壮絶な場面から始まる。複雑な家庭環境に育ちながら影のように護ってくれる弟に支えながら何とか生きていく信濃。酔っぱらうと酒乱そのものの信濃だが、こんなえげつない描写は女性しか書けない場面であろう。

 

先日の奄美大島の旅行に持参した。異常な暑さだったので船の中でクーラーがガンガンに効いた中で読んだ。この本を書棚でまた取ったときにはこの時のことを思い出すだろう。

 

もう一冊加計呂麻の島尾敏雄の作品も持って行ったがこれはちらりとも読む時間がなかった。

ビアガーデン。

何十年ぶりかでビアガーデンに行った。
なんとなく大空の下でビールを飲みたくなって・・・
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サントリーの直営店だけあってビールは流石に美味かった。料理もビアガーデンとしては大合格。ただ生バンドとして入っていた姉弟デュォはバカうるさいだけでこちらの会話も何もあったものじゃない。ボリューム下げてとホールの女の子に厳命したが明らかに不愉快そうな態度。馬〇というバカそうな女だったが、いきなりスピーカーからの音が小さくなるどころかぱたりと消えた。後ろの若い男たちのグループが文句を言ったらしい。

そんなことで折角楽しみにしていたのに残念な結果に。また験なおしに今季だれか誘って行こう。

長居は無用と河岸を変えた。
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今月オープンしたばかりのコンラッドホテルのスカイラウンジへ。
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入口で風神雷神が出迎えてくれた。
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黒人のテナーサックスの生演奏が雰囲気を造った空間で、しっかり冷えたお気に入りのソービニオンブランで、やっと機嫌が直ってザァマにハッピー。

大物主神社へ。

大阪にも名所旧跡は、数えきれないほどある。
日本史の本を読んでいたら、鎌倉時代の初め、義経が頼朝から逃れて九州へと船出した港が大物にあると知った。
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阪神電車大物駅で下車した。大阪に半世紀以上も住んでいるがここに降りたのは初めてである。
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前もって連絡してあったので宮司さんから義経とこの神社のかかわりを拝聴できた。
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このすぐ前が、海だったらしい。港というより浦というものだったようだ。
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義経と家来たちが船出を待った七軒長屋が、当時のまま七つのガレージとして残っていた。

義経は、船出のあとすぐ大嵐に遭って多くの家来たちと財宝を失い、生き残った弁慶たちと北への明日のない逃避行が始まったのである。

今宵は西田辺の小料理屋でチョイといっぱい。

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この地に開業以来十数年とのことですがもともとシャープさんのお客さんは少なかったらしく影響はないとのことでした。今日も予約の方で満席でした。

美味しゅうございました。 続きを読む

生玉神社に行くつもりが・・・

大阪に半世紀以上も住みながら生玉神社に⛩参拝したことがない。今日は、思いたって行こうと思ったが、
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まずは腹ごしらえと先週に引き続き、今日もいきなりステーキに来てしまった。ちょうど昼時で、20分ほど並んで入店。以前は絶対に並んで待ってまでってことはなかったが、今は30分ぐらいは余裕で平気である。好きな本を読んでいたらあっという間だ。

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定番通りに「焼き方は?」と聞かれたので「ブルーで」と応えたら「はっ?」と聞きなおされた。

今日もマァマァの旨さ。初めてこの店に来たルシアス店で食べたのが一番旨かったナァ。肉の質にバラツキがあるのがこの店の欠点だ。

続きまして「奴すし」。天満界隈だけで数十軒のすし屋が覇を競っているが、最近は中国人、朝鮮人の客が爆発的に増えている。
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すっかり今日も昼からいい気持ち。

そんなことで生玉神社に行くのはまたにして、イケヤに、
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玄関脇に置く、荷物置き用のスツールを探しに行ったがいいのがなくて無駄足となった。この店に来るとなんか余計なものを買ったものだが久しぶりに来たがろくなものがなかった。イケヤ大丈夫かしらん?

井沢元彦「逆説の日本史別巻5」。

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・勝海舟の先祖は旗本の身分を金で買った町人だった。

 

・モンゴルの騎兵軍団は、常時予備の馬を三頭から四頭そなえていた。

 

・光秀は居城の丹波亀山城を出撃したのは1582年(天正106/1の夜だった。即ち朔日だった。

 

・家康は箱根に関所を設けた。家康は信長に学び関銭は一切取らなかった。

 

・秀吉は、肥後の国に最初佐々成政を領主に選んだ、後に成政の一揆への対応を咎め切腹させ清正を入府させた。

 

・謙信は周囲に敵をかかえながらも二度上洛した。

 

・穴山梅雪は武田家の一族で、母は信玄の姉で妻は信玄の次女であった。つまり信玄とは従兄弟であり女婿でもあった。

 

梅雪は、伊賀越えの途中で死ぬが、この真相はいまだに謎である。一つヒントは家康がその遺児と未亡人を極めて優遇していることである。

 

梅雪の死は筆者に言わせると「カルネアデスの舟板」であったと主張する。

 

この梅雪の伊賀越え途中での死には、とても興味がある。私は、家康の身代わりに(要するに家康に成り代わって)討たれたのだと思う。今判明している歴史では、家康が梅雪に切腹を命じたのではないかという説と、家康を見限って逃亡したとの説がある。

 

・米沢藩は江戸中期家の相続者が途絶えたとき、吉良上野介の息子(母が上杉の姫)を迎えて存続した。だが30万石から15万石に減封された。

 

・バルトの学園で有名な坂東俘虜収容所の所長松江豊寿(とよひさ)は会津人であった。

 

・会津藩は明治新政府によって青森県斗南に移封された。

 

・長州嫌い幕府好きの孝明天皇に対しまだ少年だった明治帝は、討幕派の公家を祖父に持ちその強い影響下にあった。

 

・「京を守ってくれ」と容保に懇願した慶喜は将軍になった途端会津を煙たがるようになった。

 

・孝明天皇の妹和宮は東海道をさけ中仙道を通って江戸入りした。公武合体派の襲撃を恐れたためである。

 

・明治政府で、身分制度を墨守しようとする幕府と朝廷とが連立するのはありえないことだった。

 

・幕府が旗本の子弟に武術を教える公式道場を造ったのは。ペリーの黒船が来航した一年後、1854年であった。

 

・太平のねむりから覚めた幕府は、あわてて講武所を造った。その剣術指南に任命されたのが、旗本佐々木只三郎である。佐々木は元々会津藩士の家に生まれ、そこから江戸に養子に来た人物で、剣術においては腕自慢の男だった。

 

・佐々木は、清河を斬った。そして見回り組を結成した。

 

・著者は言う。高杉晋作と桂小五郎この長州二人の名コンビがいなければ維新は成功しなかっただろうと。

 

・高杉の面目躍如なのは何といっても長州が四か国連合艦隊と戦って惨敗した馬関戦争における「講和全権大使」としての活躍である。

勝った勢いでイギリスは関門海峡の入り口にある彦島を租借しようと企んでいた。心から香港を奪ったようにである。

無茶な馬関戦争に批判的で牢屋に入れられていた高杉は、「こんな時に頼れるのは高杉しかいない」と「家老」の身分を与えられ「講和全権大使」に任命された。

 

・交渉に出た高杉は、敗者にもかかわらず「魔王の如く威張っていた」(アーネスト・サトウの証言)。イギリスは大勝を振りかざし、長州に全面的な譲歩を迫るが、高杉は神代からの日本の歴史を説き起こし、じれたイギリス側が何度も本題に戻そうとするのを制し、激しい気迫でしゃべりまくった。

この気迫に世界各地でアジア人を恫喝しまくり領土を奪い続けたイギリス人が、高杉の気迫に遂に彦島租借を断念したことだ。

 

幕末でわたしが一番好きなのは、坂本龍馬をおいてこの高杉晋作である。この男がいなければ幕末の日本はもしかしたらイギリスにこれを機に清のように国中を蹂躙されていたかもしれない。

 

・その場にも通訳として立ち会っていた弟分の伊藤俊輔は、高杉のことを「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評した。

 

・ある時、高杉は藩の公金数千両を一晩で「飲んで」しまったことがあった。

 

・真田昌幸:真田家の三男として生まれたため養子に出されていたが、兄二人が長篠の戦(天正3年)で信長の鉄砲隊に討たれたため本家の家督を継いだ。信玄亡き後、勝頼に仕えたが勝頼が討たれ武田家への義理は捨て織田家に仕えた。信長が本能寺で横死すると関東管領となっていた滝川一益に味方するが一益が北条氏直に破れると今度は北条に乗り換え、さらに家康に味方するが家康に裏切られると秀吉に組した。

 

典型的なバルカン政治家である。バルカン政治家とは巧みに馬を乗り換え生き残っていく政治家のことである。

・伊達政宗の家来支倉常長が太平洋を渡った洋式帆船(三本マスト)のサン・ファン・バウティスタ号は日本製だった。

 

・アヘン戦争18401842年。

 

・シーボルトは、ペリーに書簡を送り「なんとか穏やかに行動してくれ」と嘆願した。

 

シーボルトはあまり好きな男ではないが、日本のために外国からの侵略を阻止するために大きな働きをしてくれたことには、大きく感謝する。

 

・地方にはなぜこんなところまで人が住んでいるのかという集落が必ずある。この謎を解くキーワードは「落人」と「隠し田」である。

 

・頼朝と対立した義経は、仲間と共に九州で一旗上げようと大物浦から船出する。だがこのとき嵐に遭ってあえなく沈没。財宝と同志を失った義経は奥州平泉の藤原秀衡(ひでひら)のもとへと逃げ落ちることにした。

 

一度大物神社を訪ねて、宮司から話を聞こうと思っている。

 

・細川ガラシャ(明智玉、昔は夫婦別姓だった)は家臣に胸を突かせて自害したといわれる。

 

このガラシャの自害は、三成の人質作戦に大きな影響を与え、それ以降三成は人質をとることはせずまた人質に取って大坂城に幽閉していた女たちを解放した。

 

・徳川将軍家では公家から正室を迎えることが多くなった。

だが彼女らは後継ぎの子を産んでいない。

 

・正室で生母はお江しかいない。

正室から生まれた子で将軍になったのは。家康、家光、慶喜の三人だけである。(多分)

 

・伊能忠敬は苗字をもっとはいえ「町人」であった。忠敬が全国測量を始めたのは、黒船来航の50年ほど前のことだった。

 

作者は、この忠敬がいずれNHKの大河ドラマの主人公に描かれるだろうと予想している。

 

七月お誕生会。

今日は、7月生まれの、Gucci、Tom、タケのBP。
パーティーがはじまる前に、7/4に亡くなった宮古のUさんを偲んでみんなで黙とうをささげた。
大きな友を失ったことはとても悲しいことだ。残った宮古の友たちもとても寂しいと嘆いていた。
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前菜。
メインは鉄板焼き。
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ルーさんからの差し入れワインでいい気持。プレゼント進呈。バースデーケーキを別腹にまたたらふく食べ、
夏のクルージング、10月の沖縄回航へと話題は尽きず2000散会となった。
素晴らしき仲間たち。

Big elle バンド。

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第2回目Big elleバンド練習日です。

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ボチボチとやっています。
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さて、練習のあとはみんなでいっぱいです。

井沢元彦 「逆説の日本史別巻3ニッポン[三大]紀行」。

本題では書ききれなかった事柄をまとめた別巻。15まで刊行されているがこれもどれもホント面白い。

・あすなろの木:漢字で「明日檜」と書く。ヒノキ科。「明日はヒノキになろう(なりたい)」という木。

・平家の守り神は安芸の厳島神社である。海に浮かぶ大社殿も清盛が建てたものである。

・抱卵したボラはどこでも滅多にとれない。ボラは産卵に際しては外洋に移動するらしい。だが抱卵したボラが定期的に水揚げされる場所がある。それは肥前(長崎)野母崎である。

・都に近い江(湖)のある国で近江、遠いところに江がある国で遠江(とおとうみ)である。

・白浜温泉は、大正時代に開発された温泉である。

・港とは川が流れ込んでいる地点、すなわち河口のあるところを港といった。

・津は、河口のない水深の深く船がつけやすい地形をいう。

・肥前名護屋城は、徳川幕府によって完全に取り壊された。

・昔の建造物がそのまま残されている城は国宝に指定されていることも多いが、再建された城は名勝に指定されている。

・「後楽園」という名称は、中国の古典にある「先憂後楽」に基づいている。社会を治める君主は、庶民に先立って社会を憂え(先憂)、楽しむのは後でいい(後楽)という意である。

・「兼六園」の名は、「宏大、幽邃(ゆうすい)、人力、蒼古、水泉、眺望」の六つを兼ね備えているから。

・この世のことを「此岸(しがん)」あの世のことを、「彼岸(ひがん)」という。

・関ケ原で毛利一族の中でただ一人、東軍に味方した吉川広家は戦後独立した大名となったその城下町が岩国である。

・近畿の、「畿」は王の棲むところという意である。

663年中大兄皇子は百済に援軍を送り復興しようとした。そこで白村江で唐・新羅連合軍と日本・百済連合軍の一大決戦が起こった。日本はこの決戦に大敗し、百済は滅亡し朝鮮半島は新羅によって統一された。

・キリストはエルサレムで処刑された。

・延暦寺は、天台宗だがここで日蓮や親鸞が日蓮宗、浄土真宗を開いた。

・神社自体をそっくり移すことを遷座(せんざ)といい、本体は残しておいて分霊してもらうことを勧請(かんじょう)という。

・大分県に宇佐にある宇佐神社(宇佐八幡宮)が八幡神社の総本社である。7世紀ごろに八幡神=応神天皇となったというのが今の学説である。

・源氏はもともと嵯峨天皇の子孫であるが応神天皇が武神であることから源頼義が八幡神を氏神と定めた。そして頼朝が武家政権を樹立したとき、その本拠地に鎌倉に八幡神を勧請したのが鶴岡八幡宮である。

・祈りさえすればそれで願いが通じ、他に現実的な対応を取らなくていいと考えるのを言霊信仰という。

・イスラム寺院には肖像、神像の類は一切ない。イスラム教では神は形がなく無限の広がりを持つ偉大な存在だからだ。

・仏教では、その信仰の対象を最初仏舎利に求めたがそれに代わって崇めだしたのが仏像である。

・道真は、894年もはや唐は衰えて使者を送る意義はなくなったと建言し、遣唐使を廃止しに導いた。

・天満宮には梅の名所が多い。道真が梅を愛したからだ。

 

東風吹かば 匂ひ起こせよ 梅の花

主無しとて 春な忘れそ

 

この梅は、その後、主を慕って京都から大宰府の地まで飛んできたという。これを「飛梅」といい、今も太宰府天満宮の境内にある。

・日本人にリーダーシップがない、といわれる。リーダーシップというのは、あくまで一神教世界の話で、日本ではそれは「わがままを主張する」ことで、「和を乱す」悪いことになってしまう。日本人はそもそもリーダーシップ自体を好まないのである。

図解!戦国時代。

 マァマァ面白い本かな。この時代のことは、結構、色んな作品を多重に読んでいるので知識もあるせいかあまり目新しいことを知ることはなかった。読者層も高校生あたりまでを対象に書かれているのかもしれない。マァそんな内容でも、いくつか得られた知識もあるので読んでよかったかな。
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・桶狭間の戦い:永禄三年519日(西暦1560/6/12

 

ちょっと時期的に不思議だが、なぜ義元は西暦でいうと6月にあたる田植えの繁忙期に進軍したのだろう。調べてみなくては・・・

ただこの時期であるからしても近年まで歴史家の中で唱えられてきた義元の上洛という意図は全くなかったということがわかる。

 

・天台宗:平安期に発展、民衆への布教は行わず、専ら加持祈祷に終始した。

真言宗:平安期に発展、地方大名の支持を受けたが信長や秀吉と対立した。

浄土宗、浄土真宗、時宗:鎌倉時代に民衆救済を唱えて起こった。

浄土真宗本願寺派=一向宗:もともと天台宗の一派、8代法主蓮如のときに勢力を伸ばした。

法華宗(日蓮宗):法華経への帰依を説く、公家、武家、京都の裕福な町衆の支持を得る一方天台宗や浄土系諸宗に「宗論」を吹っかけた。

禅宗(臨済宗、曹洞宗):武家に浸透した。

 

・一向宗:浄土真宗本願寺派として同宗の最大の派となる。宗祖・親鸞の子孫が法統を受け継いでいるころは目立たない天台宗青蓮院門跡の末寺にすぎない宗派だったが、15世紀後半、本願寺八世の蓮如が平易な文章で教えを説く「御文(おふみ)」を用いて布教を活発化させ急激に勢力を伸ばしていった。各地で村落共同体を中心に「講(こう)」と呼ばれる組織で結束し、大名他の搾取勢力に対抗していった。

 

・八幡大菩薩:源氏の氏神。

 

・◎貫高制:農地への課税を金額で示すもの。動員できる兵力が把握しやすい反面、正確な税収を得ることができない。

田(一反あたり300500文)、畑(一反あたり100文程度)×土地の面積=年貢

 

◎石高制:土地の生産性に応じた徴収。

上田(一反あたり一石5升)、下田(一反あたり一石1斗)、中田(一反あたり一石3斗)

下々田(一反あたり9斗)×土地の面積=石高

石高×税の徴収率=年貢

 

・南蛮人=カソリック教国(スペイン、ポルトガル人)

 紅毛人=プロテスタント教国(オランダ、イギリス人)

 

・出陣のときがくると、それまで横に倒されていた旗が一斉に立てられる。これが「旗上げ」という儀式である。

 

・戦場食:雑兵には、一人一日当たり米六合、塩0.1合が支給された。

 

・戦国時代には、北半球が寒冷化し日本では冷夏、長雨が続いたという。このために凶作が頻繁に起こったがそれまでは日照りによる干魃(かんばつ)に起因することが多かったという。

 

・戦国時代の度量衡(どりょうこう)

■長さ:一寸(3.03㎝)×10=一尺(30.3㎝)×6=一間(1.81m)×60=一町(109.09m)×36=一里(3.92㎞)

■体積:一升(1.8039L)×10=一斗×10=一石

■面積:一坪・一歩(ぶ)(3.30532㎡)×300=一反(9.9174a)×10=一町(0.99174ha

■重さ:一匁(3.75g)×160=一斤(600g) ×1000=一貫(3.75㎏)

 

・戦国時代は、「一日二食」が基本だった。食事時間は、午前8時ごろと午後2時ごろで、献立は一汁二菜の簡素なものだった。

 

・苗字と氏名:苗字(名字)と、姓、氏は本来は別のものである。例えば、

織田(苗字)弾正(役職)平(氏)朝臣(姓:朝廷とのつながりを表す)信長(諱(いみな))

である。

 

・婚礼:婚の字の「昏(こん)」からもわかるように婚礼の出立は日没後に行われた。

日高恒太朗「名も知らぬ遠き島より」。

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何年も前に、トカラ方面にクルージング航くときに買った参考本。この手の本は中々書店では見つけることができない。これも通販で買ったものだ。


このGWに訪れた口永良部、小宝島について改めて調べた。

口永良部は、この小さな島に温泉施設が三つもあること、小宝島がウミヘビの宝庫であることを改めて知った。
小宝島は、小さい島だが切り立った海岸には海の幸があふれ何年かあとの上りのレグでもまた必ず寄ってみたい島である。

天満宮「天神祭り奉納ヨットレース安全祈願祭」。

 年に一度の「天満宮」参拝。
 北港ヨットクラブのメインイベントレースの安全祈願祭とヨットレースの奉納に行ってきた。
 このレースは私が会長時代、「大阪市」「大阪市港湾局」「姉妹clubであった徳島ヨットクラブ」「天満宮」「天満宮氏子総代」「スポンサ安治川鉄鋼他スポンサー獲得」と多方面にわたかけずり回って調整し築きあげたものである。
 もう20年以上も前のことである。
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いつもは集合直前に来るのだが今日は久しぶりにじっくりとお参りさせてもらおうと1時間前に参拝した。
望外にも本殿で行われていた「おお祓い」を拝聴させていただくことができた。
早く来てよかった。

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控室から中庭を望む。
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昇殿する。
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高齢もとい恒例の記念撮影。
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亀の池横で小宴。
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禰宜のKさん。彼とも25年の付き合いだ。当時レース奉納に尽力いただいた。
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仲間といっぱいやりに出かけた。
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天神橋5丁目の「奴すし」にて。

ほろ酔い機嫌でさてもう一軒居酒屋へ。

流石に真っ昼間からべろべろになってしまった。

みんなは、またもう一杯やって夕方にハワイアンフラダンスを見に行くというので付き合いきれんと天満橋で別れて・・・
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天王寺で〆にステーキ200ℊを食べて帰った。
どんだけ~~~

木津市場「だいどこ山中」~Jazzlive。

今日は、Gucciはん誘われて大国町のJazzliveへ。
近くまで来たので久しぶりに「だいどこ山中へ。
一時よく通ったお店だ。
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木津市場の食べ物屋街の敷地内の一画にあるのですぐ横にウィンディを連れて行けるのがいい。
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市場内にあるので素材はすべて魚、野菜どれもとても新鮮だ。
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おまけに酒屋さん直営で日本酒も美味い。
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えびと、トマト、キュウリのアヒージョ。
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普段はあまり食べない川魚、アユの香味揚げ。
どれも久しぶりに来たが大満足で、ズンやり舌鼓を打っていたらライブの開始時間を過ぎてしまった。
あわてて参上。

本日のメインイベントJazzlive。
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本場NYでもライブを開いているというタナカカツコさんと。

美味しい料理と素敵なJazz。愉しい夕べだった。
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