2017年06月
小宝島が見えて来た。とても小さい島だ。妊婦が横たわっているように見えるのでこう呼ばれる。
今まで何度か訪問の予定だったがなぜかいつも天候、海象に恵まれず抜港していた。
今回も小宝島までは波も穏やかだったのに島に近づくにつれ波が高くなってきた。
長いことヨットに乗っているが今までで一番ひやりとした入港だった。
追い波で舵が効かず咄嗟にフルスロットルにし艇にスピードをつけ波を掻ききって入港した。
ナックがそんな緊張の中撮ってくれたのがこの動画。
緊迫感が伝わる・・・
初めての港、「城の前漁港」。BigElleで訪れるいくつ目の港になるのだろう。
途中諏訪之瀬島と悪石島のあいだで強風にあおられジブのリーチのサンシェードはボロボロになってしまった。
小宝島には二つの港があり、城の前漁港は島の北側に位置する。
日本で最後となったはしけの碑。
トシマ丸の船長Nさんが事前連絡していてくれていたMさんが車で迎えに来てくれて島の中を一周案内してくれた。
最後の艀(はしけ)となる一代前の艀。
湯泊温泉。
入浴の段取りは、「おとこ」「おんな」「かぞく」「いない」の四つに分かれていてこれを回して目印にする。
「いない」に笑った。
昔、この源泉で島の女性たちは料理をしたらしい。
湯泊温泉の横にあるこの入り江に艀が着いた。
島の南側にあるトシマ丸が入港する小宝港。
波が岸壁にあたってくだけ散っていた。
海水淡水化施設。この装置で島中の生活水が賄える。
BigElleも水を満タンに分けていただいた。
この島もそうだが隆起サンゴ礁からなる南の島で船への給水は、絶対してないけない。タンク内がカルシウム分で酸化してボロボロになってしまう。
またその水を常時飲む島民には風土病として各臓器の結石発症がある。
しかし隆起サンゴ礁島民の飲料水と結石の因果関係が解明されたのはそんなに昔のことではない。
なんとか無事にここまでたどり着いた。あとは最終レグの古仁屋までである。
民宿「湯泊荘」。
今夜はこのクルージング唯一の民泊の一夜であった。
例によって長文ですが、勉強になりますよ。お友達の皆さん是非読んでくださいね。
・北条早雲は、88歳の長命をえたが、息子の幻庵は97歳まで生きたという。
・毛利元就は、本拠の吉田郡山城を改築するにあたって、人柱の悪習を廃止した。
・光秀は長年のストレスでノイローゼ状態となり、信長殺しを決意した。その時は信長にとって最悪のタイミングだった。
この説に賛成である。浅野内匠頭も一種のノイローゼだったのだと思う。光秀も、内匠頭も狂気でもない限りこんな一族が破滅する暴挙を行うはずがない。これに付き合わされた、またこんな主人を持った家来たちが哀れである。
・斉藤利三の娘は、お福のちの春日局である。
利三は信長を討った主君光秀の重臣である。その大罪人の娘を家康が平気で家光の乳母に任ずるとは不可思議なことだといえる。
・「その時代の人間の気分で考える」
この井沢氏の「逆説の日本史」が面白いは、この一点が最大の要点である。
・「唐入り」に家康は参加しなかった。秀吉が参加させなかったのである。秀吉はあくまで勝つと思っていた。この戦いは勝利に終われば家康は「何人もいる百万石の大名の一人」となる。
秀吉は、逆にこの戦を勝つことでその後の家康の力を薄めようとしたのである。この見方も今までの歴史学者とは全く違った見方であり大いに納得するものである。
・小山評定では、家康は西軍挙兵の報を聞くと、直ちに行軍を止め下野の国(栃木県)で軍議を開いた。「上杉征伐」に従軍している大名の中から「家康殿、あなたについていけない」という人々が出ても不思議ではないが、誰一人として出なかった。
・秀吉が生前最も頼りにしていた前田利家の息子利長は関ケ原に参加しなかった。家康の謀略だった。
・勝頼は、氏政の妹を後妻にしていた。
・大坂夏の陣で、突撃をした真田軍によって家康本陣の馬印が倒されたという。家康の馬印が倒されたのは、三方が原以来のことだった。
・幸村が討ち取られてことを聞いたこの戦いには参加していなかった島津忠恒(ただつね)は、「真田日本一の兵(つわもの)、古(いにしえ)よりの物語にもこれなき由」と激賞した。江戸時代においても家康に逆らった敵のはずの幸村は、多くの物語で取り上げられ、幕府もそれを禁ずることはなかった。
これも不思議なことである。
・日本が江戸時代という「大平のねむり」を貪っている間に、海の向こうでは産業革命が起こり、蒸気船という、風力で動く帆船とは比べものにならない船が造られ、巨大な大砲や、大量の兵士を運ぶことが可能になっていた。
・清河八郎は庄内藩の郷士で本名は斎藤正明だったが、変名を名のり伝手を辿って幕府に浪士を集めて将軍警護を申し出た。
・薩摩は第一次長州征伐には参加したが第二次には参加しなかった。
・慶喜の母親は、皇族の有栖川宮吉子(よしこ)女王であり、慶喜は子供のころから父斉昭に「我々の主人は天皇家だぞ」と教えられていた。
・肝胆相照らす仲。
・島津篤子(篤姫)は、家定の継室(後妻)となった。
・江藤新平:佐賀の乱の首謀者。
・佐賀藩を大改革した鍋島閑叟(かんそう)。
フェートン事件は、幕府に外国との交易に多大な負の影響を及ぼした。この事件のあと幕府はおろかにも、外航船打ち払いの方針を打ち出し、この事件の担当藩だった佐賀は、外国の武力に打ち勝つために近代化への改革を行った。司馬遼太郎氏は、維新を真っ先に行ったのは佐賀藩であると述べた。
・上野の彰義隊はたった一日しか保(も)たなかった。軍事の天才大村益次郎の手腕によるといわれるが佐賀藩のアームストロン砲撃に威力によるところも大きい。
・フェートン号事件:イギリス船(蒸気船)がオランダの国旗を偽り掲げて長崎沖ではたらいた狼藉事件。これ以降アホの幕府は、イギリスも、アメリカもロシアも全部白人の国であって一緒だと考えて「もう一切付き合わない」と殻に閉じこもることにした。ホンマ、アホまるだしである。この結果、利害関係で対立していた諸外国が敵の敵は味方で日本に対しては連合してしまった。
・「歴史にifはない」という「バカな」考え方する人々が歴史学者のなかに多々いる。
「歴史if」を考えないから歴史の真の姿が見えないのだ。
この意見にも大賛成である。ifを考えることによって、実際に起こった事件の功罪がみえてくることはよくある。
・日本の城は戦国時代の柿渋を塗った「黒い城」から、漆喰で固めた「白い城」になったとき、格段に燃えにくくなった。
・白虎隊は総勢305人(将校含まず。人数に異説あり)のうち切腹したのは19人に過ぎない。
彼ら切腹した少年たちは「事実誤認」すなわち城(鶴ヶ城)が落城し、城主も切腹したと考えて腹を切ったのである。
・榎本武揚(たてあき)の「蝦夷島共和国」構想が実現していたらフランス他外国の干渉を招き北海道が日本でなくなっていた可能性すらある。
榎本は負けてよかったのである。
榎本は、このあと新政府で活躍する。特に彼が尽力したロシアとの外交交渉術は、今の政治家に詰めの垢でも煎じて飲んでもらいたいものである。
・日本が日清戦争に勝つことによって中国の政治力を排除させ初めて朝鮮は中国からの独立国として認められた。(下関講和条約の第一条冒頭に明記されている)
・聖徳太子は物部軍の勢いに押され危うく負けそうになって「四天王」に祈り、後に四天王寺を建立したという。
・「源氏」は水軍を持っていなかった。対する平家は、海の民であった。瀬戸内海は彼らの庭のようなものであった。
・義経は、兄頼朝と対立し、支持者と財宝を積んで大物浦(尼崎市)から大船で船出したが嵐にあってあっさりと沈んでしまった。
・遊牧民であるモンゴル人は乗り換え用の馬を何頭も持っていた。
元寇の役で、元、朝鮮の連合軍に日本が勝てたのは、台風のおかげもあるが、元の機動力である騎馬が使えなかったことが日本の最大の勝因である。
・外様大名は、老中、若年寄りには絶対になれなかった。
・家康が大御所として君臨した駿府城は、1607(慶長12)年に出火で全焼した。
そのために豊臣への攻撃が一年延びたといわれる。
筋立てには少し甘いところもあるが、さらさらと面白く一気に読ませるは作者のおおきな才能だと思う。
作者は、本業を持っていて作家稼業一本ということではないらしいがこぎみよく進む物語は読んでいて愉しいものだった。
今は「逆説の日本史」と中心に何冊(数えたら十数冊あった)が並行して読んでいて、その中に、高田郁さんの「あきない世伝・・・」「蓮華のちぎり」があるがどうにもサクサクと読み進めない。物語のながれがひっかかるのである。玉岡かおるさんの「ひこばえ・・・」もなんか彼女の今までの作品とは何が全然違って言葉をこねくり回しているようでホント読みにくい。二人とも大好きな作家なのでまたボチボチと読んでみよう。
さて物語の大きな流れの主人公の両親を殺めた下手人がなんか他人事のようにあっけなく終わってしまい。主人公の律と亮太の恋のゆくえもまだ先のままである。「完」とは結んでないないのでまだこのシリーズは続編が出るのだろう。
本業の傍ら書いているので次作はまだしばらく先のことだろうが、出るのを楽しみにしている。
「逆説の日本史」である。戦国時代の歴史は流石に何冊もいろんな作家の作品を読んでいるので少しは詳しいと自負しているがそれでも知らないことを山ほどこのシリーズで学んでいる。
だが幕末のペリー来航以来維新までの流れについてはホントまったく知らなかったと言える。
時間を見つけてはこれだけ読んでしまったが、付箋の山、山である。感想文がとても追いつかないことである。
ボチボチ復習しながら書いていこうと思っている。
日本史がこんなに面白いとは・・・改めて深く思うこのごろである。
休日前、安もんの立ち飲みなんぞの居酒屋で二三杯ひっかけてちょっといい気持で本屋にふらりと立ち寄るは私の大きな楽しみのひとつである。平積みされた本たちに私を買ってと帯に巻かれているテンプティブな文句に時にはにんまりとながめながらうろついていると一時間くらいあっという間に過ぎてしまう。この平積みにする本たちを選ぶのはそこの店長の裁量らしいがそのために各店、同じ書店でもその並べられている本の顔ぶれは大きく違う。そんなことで市内の本屋さんをはしごするのは勿論だが旅先で見つけた本屋さんをうろつくのも旅の大きな楽しみのひとつである。
さてこの作品、最近は「逆説の日本史」にザァ~マに凝っていて十数冊その作品ばかり並行読みしている中で気分転換にちょっと読んでみた本である。
作者は全然知らない女流作家で1972年生まれ、現在はバンクーバー在住の、銀行の内部監査員でバリバリの現役らしい。たいしたもんだ。
内容は、高田郁調の時代小説だが、女流作家特有のその辺でおばちゃんが世間話をしている具合の口語調の流れが時々あり一気に続けて読まないと何の話をしているのかわからなくなること場面がままあった。一気に読めば理解できるのだが文として読んでいると話がポンと前に戻ったりさっきの話の続きだったりと訳が分からなくなる。
主人公は上絵師という職人で着物や、小物の生地に直接絵柄を書く仕事である。母親を辻斬りに襲われ亡くし、同じく上絵師だった父親も利き腕を斬られて失意のうちに亡くなり、おさない弟をかかえて下町でたくましく生きていくというちょっと設定としてはきついお話である。この本では、その仇というべき下手人を見かりそうところでポンと話が終わってしまう。表紙にもどこにも(一)とか(上巻)と書いてないのでどないなってんのかとネットで調べてみたら続編がすでに刊行されているという。何やそれ、それならそれと書いといてよね。ネットでぶつぶつ文句を言いながら続編を注文した。
・信長の時代から茶の産地として有名だった宇治は、高い年貢と他の茶産地が増えたことによって一度衰退した。だが百年ほど前に、宇治茶製法―蒸した茶の芽を乾燥させながら手で揉むという新しい製法―によって煎茶の産地としてよみがえった。さらに十数年前に玉露が創製されてからは、歴史と発展の双方が評価されますます栄えている。
1700のみんなとの集合時間までルーさんを心斎橋を案内した。中国人だらけだった。
喫茶店がわりにちょいといっぱい。
吉本会館前で。
1700みんなと天王寺で集合。
岐阜からケニーもかけ馳せてお誕生会前夜祭。
この「炙り屋」は大人気店。
牛タンがないのが唯一欠点だが、食べ放題店にもかかわらず肉の美味さは大合格点だ。店員がみんなニコニコと愛想がいいのもお気に入り。
このあと家に帰って二次会で遅くまでみんなで飲んだ。
明けて日曜日。
朝から生野の「大昌」に買い物に行ってお魚、野菜類を買い足して、準備万端。
さてもうすぐ完成。。。
ケニーが山ほど枝豆を持ってきてくれた。
ものすごい量の食材だがこれが8人プラス子供二人ですっかりきれいにたいらげられた。
フルーツてんこ盛りのバースデーケーキ。
ケニーは揚げ係り。
〆は長野のエリちゃんから差し入れの信州そば、本わさび添え。毎年のことながらこれもホント美味い。
遅れて参加したタケのフラダンスにみんな大爆笑もとい大歓声だった。
昨日、今日と二日丸二日間エルの仲間たちと大いに飲んで騒いだ。素晴らしき仲間たちに乾杯!!!!
夜が明ける前からTomのスマホとテザリングして海上波予報とにらめっこ。
どうも午後まで高い波が残りそうだ。ついに今日の出港をあきらめる。
中之島荘の親父さんの好意で今日一日車を貸していただいて島内観光に出かけることにした。
島の南側に回ると諏訪瀬島が見えた。トカラ十島村の有人島で唯一BigElleで制覇していない島だ。
トシマ丸が着く岸壁。
東温泉。この島には西と東の二つの村にそれぞれ二つの温泉がある。
両温泉とも泉質は十島村で一番だと思う。
ザァマに気持ちよかぁ~~~
今日一日中之島に缶詰となったがマァそれはそれで愉しい一日だった。
この温泉施設は村のみんなの寄付でなりたっている。
今回もささやかながら寄付をさせていただいた。
夜明けとともに阿久根港出航。枕崎まで55M。
今日もうねりが残っていて船上BBQは出来ず。
野間崎を回る。
景勝地坊津を回航。
懐かしの開聞岳が見えて来た。
潮もよく9.0ノットをキープ。
枕崎。13年ぶりの寄港だ。みなとの沖に一文字ができていた。
早速予約していたレンタカーで今クルージングのhighlightのひとつ知覧訪問へ。
設立当初は、「知覧特攻記念館」であった。なぜ広島もそうだがことさら「平和」ってつけるんだろうと思う。
祖国を守るために若い命を捧げ沖縄の海に散華した若者たちに深い哀悼と感謝の気持ちを改めて捧げた。
港に帰り舫いロープを確認した。漁協のすぐ横に舫わせていただいた。感謝。
すし匠五条。ネット予約していたが楽しみにしていたすし屋だ。
生ビールも料理もすべて大満足。
今回の楽しきオーシャンセブン。
女将さんが撮ってくれた写真。おかみさんは何と大阪出身で、金岡育ちだった。
Cap