Bigelle

Bigelle Capの日々の記録です。 Bigelleのホームページ: http://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/9542/ 

2016年06月

津本陽「夢のまた夢」(四)。

 小田原城は落ち北条家は滅んだ。落ちたは、正確には開城であるが、先の「信長の旅」の中井講師によれば城が落城炎上したケースは極めてまれであるとのことだった。大坂城の炎上落城が何度もTVドラマなどで描かれているので落城イコール炎上とのイメージが強いが炎上したケースは戦国時代においてさえそれは少ないとのことだった。
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 さて秀吉の天下平定は北条氏の滅亡でほぼなったが事後処理が残っていた。東北の雄伊達正宗の処分である。正宗は最後まで北条に同盟したが最後は秀吉の軍門に下った。その弁明のために上洛することになった。その仲介をしたのが家康である。家康は正宗を殺したくなかった。勿論のちのちの自分自身の保身のためであった。家康は正宗の上洛前に秀長に相談した。家康が、秀長に大きな信頼を寄せていたことがこのことでもわかるが、秀長は正宗上洛直前に所領大和郡山で51歳を一期として世を去った。豊臣家のゆるやかな滅亡が秀長の死をもってはじまったという歴史家も多い。
  

正宗が白装束の死に衣装で秀吉の前に謁見した。実は秀吉はその正式謁見の前に家康の労で事前に正宗に会っていたといわれる。秀吉は、正宗を北条父子のような凡庸な武将とは見ていなかった。事前に会っていわば打ち合わせをして場合によっては手前上切腹の沙汰をも申し渡すところを温情処置としたのである。秀吉の人物を使う巧みさが見えるエピソードである。


一方そんな秀吉だが自分に歯向かうものには容赦がなかった。このあたりは信長と大きな共通点である。

こんな話がある。小田原を攻めているとき利休の弟子で宗二という茶人がいた。彼は気骨ある男で秀吉といえとも茶道においては秀吉にゆずることがなかった。陣中で秀吉と大喧嘩し秀吉を茶の道のわからない田舎者だと陰口をたたいた。それを聞いた秀吉は、直ちに彼を陣中で磔刑にした。マァ口げんかしただけで相手を殺してしまったのである。またこんな話もある。朝鮮出兵前、対馬の藩主宗義調の家来を朝鮮国王に事前交渉に向かわせた。宗はそれまで朝鮮王朝と海外貿易を行い緊密、良好な関係を築いていた。そんなこともあり宗の家来は秀吉の朝鮮国王が秀吉に朝貢せよとの申し出を一蹴されてしまった。それを聞いた秀吉は、家来が日ごろ親密な朝鮮国王に強硬な態度を示さなかったとしてその家来を誅殺してしまった。もうこうなると頭のイカレタ独裁者である。


千利休が秀吉に切腹させられたのは中学生でも知っている有名な史実だが、利休には寡婦の娘がいた。相当な美人だったというが、あるとき彼女を見初めた秀吉は側室に上がれと命じた。利休は娘はまだ幼子をかかえている故と再三断ったが秀吉は三度までもひつこく迫ったという。色に狂う変態秀吉もついにはあきらめたが利休への強い不満が残ったことであろう。利休の切腹申しわたしには諸説あるが、それも大きな要因になったのではないかと愚考する。また利休にしても秀吉へのおおきなわだかまりがというか憤怒、軽蔑がそれまでよりも強く残ったことと思う。利休は、もともと信長に仕えたのであり降ってわいたようにその政権を継いだ秀吉には腹に一物を持っていたのではないかと思う。またさかりのついた犬のようにあたりかまわず目についた見目麗しい女性を手当たり次第に閨に呼び込むぶさいくな小男に日ごろから大きな嫌悪感を抱いていたと思う。

遂に利休は切腹しこの世を去るが、利休の悲劇はまだ続く。その切腹のあと「兼見卿記」にある天正1938日のくだりには、利休の妻女、娘が石田三成の拷問によって二人が絶命したとのうわさがあるとの記述がある。

秀長は同正月12日に死んでいるが、秀長が存命なら利休は死なずにすんだといわれる。


愈々文禄の役がはじまる。

秀吉は天正20年正月5日諸将に唐入り渡海の陣触れを発した。秀吉の人生の大功績をすすべて帳消しにしてなおその名を貶める悪行へと突き進んでいく。


15万人余の大群が海を渡った。文治乱れていた朝鮮人民は当初日本軍をその解放者として歓迎し協力もした。だが徐々にその兵站の拙さから、また統率の乱れから日本軍は人民を搾取し侵略軍とかわっていった。当初協力した朝鮮人民は義軍へと変貌し、その兵站線をずたずたに寸断した。いよいよ日本軍は窮地に陥っていく。平壌まで進んだ日本軍の相手は朝鮮義勇軍のほかに大きな敵をかかえることになった。飢えである。そして疲労した日本軍に追い打ちをかけることが起こった。明軍の参戦である。それまでも海上では李瞬君の率いる海軍にコテンパンにやられていた日本海軍であったが陸、海から攻めたてられることとなった。日本軍の船は木造でいわば輸送船というものであり軍艦としてつくられた朝鮮船には全く歯が立たなかった。


平壌まで兵站線が伸びた日本軍はいったん漢城(今のソウル)まで撤退し体勢を立てなおすことにした。それでも秀吉はなぜか戦況を全く楽観していた。そのころ秀吉は日本統一したころの軍事天才の秀吉とはまったく別人の秀吉となっていた。


そして愈々朝鮮王の要請をうけた明の大軍が平壌をおそう。漢城から続く支城の一部の日本軍はほぼ全滅したものもあり漢城まで敗走したときにはその戦力はいちじるしく消耗していた。この文禄の役で命を落としたものは日本人のみならず、朝鮮軍、朝鮮人民の被害は甚大であった。そして明軍にも多くの戦死者を出した。たった一人の人間耄碌じじい秀吉のために・・・


秀吉は、日本軍が進めば、朝鮮軍は殲滅され、人民は道を案内し、明に攻め込めば簡単に全土を征服できると考えていた。さて秀吉は何をもってそのように考えていたのか?それを諫めるものはいなかったのか?いなかったであろう。狂気に満ちた独裁者に諫言することは家康とてできるものではなかったであろう。いや家康は西日本の大名たちに大きな経済的、軍事的負担のかかるこの戦を心の底ではひそかに歓迎していたかもしれない。


この4巻のほとんどが文禄の役についやされている。ほとんど知らなかった秀吉の朝鮮出兵を学ぶことができたが、ますますもって秀吉という男が大嫌いになった。

このときの秀吉の兵站の拙さはその後日本海軍上層部という愚かな集団で3百数十年後に悪夢のように再現されることになる。この秀吉の軍事の失敗をのちの日本軍が学んでいたらこの愚か極まりないこの暴挙も一縷の功績を遺したかもしれないものを・・・


・文禄の役がはじまったころ朝鮮では宮廷では両班(りゃんぱん)間の抗争があり綱紀は乱れ社会は混乱して民心は王朝から離れていた。両班とは、文官を東班、武官を西班と称し彼らを総称するものだが、官位のうえで常に東班は、西班の上位に立っていた。


・朝鮮在陣の司令官である加藤清正と、小西行長はことごとにいがみあっていた。二人の方針が全く違っていたために朝鮮人民への統治方針が一致せず朝鮮人民は日本軍に協力せずまたできず霧散し野は荒れていった。


・秀吉の養子羽柴秀勝(秀次の弟)は医師の手当ても受けずに朝鮮で死んだ。朝鮮在陣隊に配属された医師は極めて少なかった。ある隊の記録では700人に2人という少なさであった。天下をとるまでは兵站の天才といわれた秀吉であったが朝鮮出兵では、場当たり的な状況を全く見えない愚将そのものであった。



八条の宮。

昨日の「真田丸」も愈々秀吉が徐々に正気を失い常軌を逸していく。面白かった。秀吉役の小日向文世も中々のはまり役のように思える。会ったことはないが(当たり前だが)秀吉の軽さをよく演じていると思う。シランケド・・・

「結城秀康」とともに司馬遼太郎「豊臣家の人々」からの引用、感想文。

八条宮

ただしくは、八条宮智仁親王といい同腹の兄はのちの後陽成天皇である。

その八条宮を秀吉は畏れおおくも養子にくれという。仲立ちをしたのは今出川晴季。彼は秀吉の接待で腑抜けに調略させられていた。にしても当時の秀吉が絶大ね権力者だったことがうかがい知れる話である。
  八条宮は当時の今生天皇の次男、皇位継承順位第3番目であった。もし兄に何かあれば天皇になる身分である。だが多くの反対がある中八条宮は秀吉の猶子となった。猶子と養子とは大きく違わないが、養子は多くはその家に住むことが多いが猶子は居を異にして住むといったぐらいの差であろう。

天正18年、宮は元服し智仁となった。14歳であった。その年の前年秀吉に実子鶴松が生まれた。このとき天皇となっていた後陽成天皇は実子がなく、宮を宮廷にもどすべきとの意見が出てそのようになった。秀吉は、宮を戻すにあたって領地3千石と屋敷独立の宮を創設し宮を送り出した。それが八条宮である。

天正19年秀吉に不幸が続いた。正月秀長が死に、8月に鶴松が死んだ。11月に甥の秀次を養子として、その翌月関白職をこの養子にゆずった。この後朝鮮の役がはじまったが秀吉はこのころから急激に耄碌していった。

秀吉が死に、家康の天下となった。秀吉びいきであった後陽成天皇は、秀吉の死後わずか3年でおこったこの政変を嘆き、その地位を八条宮にゆずろうとした。当然徳川からすると元秀吉の猶子であった宮が天皇になるということは絶対受け入れられないことであった。その後10年、後陽成天皇は帝位をたもちやがて位を皇嗣にゆずった。後水尾天皇である。

家康はその後大坂の陣で秀頼を殺しその係累までもすべて抹殺し豊臣家を滅ぼし、そして阿弥陀ヶ峰にあった秀吉の廟所までもことごとく破壊しその神号「豊臣大明神」も消し去った。
 さらに家康は宮廷に対しては公家御法度を定めその活動を御所内にとじこめた


 八条宮は、そんな徳川の世に嫌気がさし京をはなれ桂川のほとりに隠棲した。のちの桂離宮である。その建築には宮自身が携わったといわれ、その建築に対する造形の深さには建築好きの秀吉の大きな影響があったといわれる。

宮は、3代将軍家光の代まで生きたが家光によって造営されつつあった日光東照宮の徳川の美意識と桂御所における美意識が対極のようにのちの人々に語られることになった。

藤沢周平「漆の実のみのる国」(上)。(下)。

漆の実のみのる国

若いころはといってもまだ若いつもりだが、日曜日、休日にひねもす家にいることは耐えられない苦痛だった。だが最近は、ここ一年くらいであろうか、何もない休日が待ち遠しくてしかたがない。そんな日はどの本を読もうかと前の日からワクワクする。その日は夜が明ける前から読みだす。読むのはもっぱら寝床の中でそこからごそごそはい出すのはトイレ以外は食事のときのみである。

今日もカーテンの外が暗いうちから読み始めた。読もうと思って買った本が書斎に山積みだが手にとったのは先日買ったばかりのこの上下巻。

10時間くらいかな、で一気に読んでしまった。流石に夕方飽きて腹も減ったのでみんなをよび出して焼肉を食べに行った。つき合ってくれた友に感謝。


藤沢作品は新潮文庫のそれはすべて読みきったのであとは文春文庫の作品10冊と集英社の数冊を残すのみである。

藤沢作品には、武家もの、町人を描く市井もの、そして歴史上実在の人間を描く歴史ものがある。武家ものがやはり自然描写が美しく自分としては好みである。歴史ものは、藤沢氏独特の自然描写がなぜかとても少ない。なんでなんだろうといつも思う。
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 さてこの作品は、東北の藤沢氏出身地の庄内地方のお話。
 藩家は、名家上杉である。藩祖は上杉謙信。謙信から景勝にうけつがれ(この辺りは「密謀」にくわしい)領地は秀吉の命で越後から会津へ移されるが、豊臣政権では五大老の一角を担い中枢を占める。だが秀吉亡きあと家康と事をかまえ関ケ原では西軍につきそして負け、150万石から30万石へと激減俸されるが景勝は家臣を一切解雇せず6000人余りを引き連れて米沢に移封する。しかもさらにそのあと跡目相続をめぐるいざこざでさらに半額の15万石に減俸される。領地米沢はそれなりに肥沃なとしてあったが海にも面しておらず他の主だった産業もなく、それだけの武士階級をやしなうのはとうてい無理な話であった。年貢は三公七民であったのが、のちには七公三民にまで引き上げられという。

この米沢地方はもと直江兼続の領地だったものを兼続が景次にゆずったものである。

そんなことで上杉の貧乏所帯は全国でも有名だったそうである。蛇足だが、そのあとの4代目(この作品では5代目となっているが)の藩主はあの吉良上野介の嫡男を迎えている。その男がまた阿保で、また実家の吉良家へ少ない藩のやりくりから毎年6000石もの思いやり手当を出していたそうで、討ち入りが起こったときにはひそかに藩では喝采を送ったという。シランケド・・・

話を元に戻すと9代目の放蕩家だったボンクラ藩主重家(この作品では10代目)のときには、幕府の普請役も賄いきれずに家老たちから藩主は藩領返上の願いを出せとまでのこととなったという。そのあと藩主お気に入りの家老が誅殺されるという事件や、七家騒動とよばれるお家騒動が起こるが何とか次代の藩主治憲の徹底した改革で持ちなおす。治憲は有名なのちの上杉鷹山である。鷹山が、漢詩から起こした「為せば成る、為さぬは人の為さぬなりけり」の有名な訓示を残すのはその改革が終わったあとである。

題名の「漆の実の・・・」は、時の敏腕家老竹俣当綱の改革により国で漆をつくろうとしたことの顛末に由来したものである。この漆造りも結局最後には実をみのらせずに終わるのだが、貧乏藩の小さな盆地でおこる大小さまざまな事件は息もつかせないほど文字が躍るように展開しものすごく面白く、10時間ほどで一気に読んでしまった。


藤沢周平は199712669歳を一期としてこの作品を最後に長逝の途についた。


・諂諛(てんゆ):おもねりへつらうこと。「色部が諂諛の家老だとの評価があった」

・諸葛孔明:「賢臣に親しみ小人を遠ざくる、これ前漢の興隆する所以なり、小人に親しみ賢臣を遠ざくる、これ後漢の傾頽する所以なり」

・扶持米侍:藩から家禄ではなくて扶持米そのものをうけとる侍のこと。米を直接給与としてもらうのでコメの値によってその価値は変動し不安定なもので、家禄侍からはさげすんで見られた。

何もない日曜日。

 なにも予定を入れてない日曜日。
 6月は、最近では記憶にない一つの旅行の予定もない月となった。来月におじさんバンドの発表会があるのでそれの練習日にと空けておいたためもあるだが、結局それなりにいろいろと予定が入ってそれなりにいそがしい月となった。

 朝から本を読むのを楽しみにしていた一日で、未明から読み始めた。藤沢周平氏の「漆の実のみのる国」(上)(下)巻を一気に読んだ。面白い作品だった。またその感想は別項にするとして。。
 早朝に、ルーさんからいただいた五島うどんを釜揚げにして食べた。五島では地獄炊きというがこれがまたうまい。
 その一時以外は、ベッドでむさぼるように読んで上下一気に読んでしまった。時間を気にせずこころおきなく本が読める一日は至福のときだ。。
 夕方無性に肉が食べたくなって仲間につきあってもらって焼き肉店にいった。
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フランス料理。

エリーのお誕生日ということでフランス料理を予約した。
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ミシュランの一つ星を得ているレストラン。
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 まずは乾杯。
 料理ひとつづつにソムリエが選んだワインが合わせてサーブされる。外国ではよくあるコースだがなんせ時間がかかる。だいたいお昼で3時間。夕食ともなると5時間ほどもかかるのでせっかちの日本人には向かないと思うが最近では日本人の食事に対する意識もかわりこういったシステムがふえてくるのだろう。
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50種類の食材で構成されているとのこと。
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 エリーにせがまれていったが、流石においしゅうございました。

おじさんバンド。

 もうすぐおじさんバンド発表会。猛練習にはげんでいますが、しあがりはいまいちという程度。
 今日は、3人で数曲に特化して練習しました。3時間の練習は持て余すかと思いましたが、けっこう熱が入って楽しかったです。
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練習後に軽くいっぱい。
エリーとのおフランス料理があるのでお先に失礼しました。

華の金曜日「ひでぞう」。

やっぱりひでぞうは、最高に美味い。
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造り盛り合わせ。
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炙りまぐろ。
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さば細巻き。
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大好物鉄火巻き。

佐伯泰英「居眠り磐音江戸双紙2・寒雷ノ坂」。

佐伯泰英「居眠り磐音江戸双紙2・寒雷ノ坂」
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 国を逃げるようにして江戸に舞い戻った磐音。日雇いで鰻の捌きの仕事をしながら、危ない用心棒もたまには引きうけ糊口をしのいでいた。藤沢周平の用心棒シリーズに似ているがその内容は藤沢氏の総天然色映画の時代劇を見るのごとくとはまったく違う。改めて藤沢氏は偉大だと思う。

ただその筋立ては、面白く時には日をまたいで読んでしまった。

50数巻あるのでボチボチ暇なときに読み進めて行こう。

・櫛比:櫛の歯のようにほとんど隙間なく並んでいること。「そこには掘っ建て小屋が櫛比して・・・」

結城秀康。

 大河ドラマ「真田丸」が面白い。
 秀吉が嫌いで故にその忠に殉じた通称真田幸村、今後は真田信繁とよばれることになろう武将も全く関心もなく、昨年に上田を訪れたときにもそれほどその地の歴史にも興味のなかったことで今にしてとても後悔しているが、その生涯を描いたこのドラマもハナから見る気はしなかったが、横浜のSさんが面白そうだというので第一話から見ているが、小説などで見る名場面が忠実にそれも時にはコミカルに描かれていて 毎回日曜放映が楽しみなことだ。そしてもう一回ビデオで二度見もしている。

 ドラマは小田原攻めが終わり北条が滅亡し、愈々秀吉の天下もなり、そしてこれからは秀吉自らの生涯のとてつもない功績をすべて台無しにしていく痴呆秀吉へところがるように転落していく晩年を描いていくことになろう。

 気になる武将がいた。「結城秀康」である。その生涯はあまり知らなかったがなんとなくその一生は数奇なものであったと程度のことは知っていた。

 今後ドラマに登場するのであろうか?もしそうだとすれば誰が演じるのか?とても興味のあることだ。

 余談だが、北条氏政の高島政伸の演技がいい。湯漬けのさいの二度かけの逸話は歴史に記された事実らしいがそれも加えてその凡庸さは全国に鳴り響いていたとのことでそんな主君の下で小田原城で命を落とした男たちこそ哀れである。

 

「結城秀康」
 家康の次男。長男は信長によって切腹させられているので世が世なら家康のあとを継いで将軍になっていた男である。だが歴史は秀康にそうはさせずにず数奇な運命をたどらせる。


生母は、家康が気まぐれに手を付けた身分の低い女だった。名をおまんといい岡崎城下の田舎神主の娘だった。おまんは一度の家康の気まぐれで子を孕んでしまった。おまんは誰にもいえずひた隠しにしていたがその腹が目立つようになったころまだ健在だった築山殿に知れてしまった。そのころ家康にはたった一人の男子しかいなかった。嫡男信康である。その腹の子の存在を恐れた築山殿はおまんを折檻し庭につるした。ただそのことが時をおかずして家康の家臣に知れた。そしておまんは助けられ男子を生んだ。天正2年のことであった。実は生まれた子は双子で一人は死産だった、殺された、他家に養子に出されたの説がある。こうして後の秀康は何とかこの世に生を受けたが、その父家康はその子に一片の愛情も示さなかったという。家臣が見かねて名前だけでもと家康に乞うたがしぶしぶ付けた幼名は、徳川家伝来の「竹千代」ではなくて「於義伊」(顔が醜く、魚のギギに似ていたためといわれる)であった。だがその子にもその母おまんにも一目も会おうとしなかった。家康の人格の一片を垣間見ることができる史実である。そして於義伊、於義丸ともよばれたこの子が3歳になったころ初めて家康と対面することとなった。その段取りをつけたのは、嫡男の信康であった。家康はそのころ浜松城を居城としていて、於義丸はその城主である信康とともに岡崎城にいた。その対面で初めて徳川家の次男としての地位を得たが、よくかわいがってくれた信康はわずかその数年後生母築山殿とともに自害させられた。天正7915日信康21歳であったという。


私見だがこの信康が、信長の命によって切腹させられたという史実には大いに疑問を持っている。寵愛したという嫡男をいくら家の存続にかかわるからといって、家の存続のために自害せしめるであろうか?またその後も信長の同盟者としてその生涯、本能寺の変まで律儀に誠実にその天下取りに忠犬のように貢献している。


余談だがその律義さは大名の間でもだれも疑うことなく称賛されていた。だからこそ秀吉もその亡きあと家康を第一に頼り、秀頼の行く末をまた豊臣政権の後見を託したのである。まさかその律義な家康が秀頼を殺し、豊臣家を滅ぼすことになろうとは夢にも思っていなかったことであろう。家康の信長に対する誠実さ、律義さに比べで、秀吉に対する執拗なまでもの憎しみ、残酷さの(大坂城は埋め尽くし、秀吉の廟まで徹底的に破壊しこの世から消し去った)はどう見ても異常であると思う。


余談の余談だが、この戦国時代で同様に自分のなかで理解しがたい事件が3点ある。というかあった。

一つはこの家康が、本当に信長の命だけで嫡男信康の切腹を命じたのか?

二つ目は、秀頼が本当に秀吉の子か?秀吉は150㎝そこそこの小男であったにもかかわらず秀頼は59寸の180㎝近い大男だったということ、20数人いたという色きちがい秀吉の側室がだれも懐妊しないのに淀殿だけが二度も懐妊したことは大いに不思議である。ただ淀殿の父すなわち浅井長政は、巨漢であったといい、一部納得できることでもあるが。


3っつ目は、細かいことだが三成が伏見城で清正、正則、長政に襲撃を受けたとき家康の館に逃げ込んだというのだが、ホントに自分ならそうするであろうかと疑問に思っていた。だがこれはごく最近三成は家康に助けを求めたのではなくて自分の懇意の屋敷に逃げ込んだことが判明した。

これで大小3の疑問のうち二つが自分の中で解決したが、さてあとの二つは史実として確定されるのであろうか?



話を元に戻そう、家康はこのころ稚(おさな)い寡婦を愛していた。お愛はまだ18歳であったが信康が死ぬ1カ月前の8月に男子を生んでいた。家康はこの子に徳川家代々の幼名である竹千代と名づけた。5歳年上の於義丸は完全に無視されることになったのである。そして翌年お愛はまた男子を生んだ。その子は於次丸(おつぎまる)と名づけられた。於義丸は徳川家の本線から完全に外されたのである。

時は経ち、於義丸の運命が変わる事件が起こった。本能寺の変である。これを境に家康と秀吉の衝突が起こりそして和議がなった。その時に家康に人質として秀吉に出されたのが於義丸であった。於義丸は11歳になっていた。於義丸の数奇な人生が始まる。秀吉は、於義丸を秀康と名づけ養子にした。この時代の両雄の諱(いみな)一字ずつ合わせたこれほど大きな名前はないことだった。

秀康は、そのあと秀吉の庇護のもと大坂城ですくすくと育った。秀康は秀吉の他の養子、秀秋、秀次の愚昧さにくらべ一段器量がいいように思えた。そんなおり秀吉に鶴松が生まれた。秀吉は継嗣ができたために多くの養子が必要でなくなり秀秋は小早川へ、秀康は北関東の名門結城家へ養子に出した。ただ秀康は養子に出されたあと上方に帰り伏見を離れなかった。そして秀頼が生まれると秀康は秀頼を実の弟のように可愛がった。数年のち秀吉が死んだ。慶長3818日、秀康28歳のときであった。

秀吉の死によりまた日本全体が戦乱の世にもどろうとしていた。そしてその死からわずか2年後、慶長59月関ケ原の天下分け目の大戦(おおいくさ)が始まった。

家康は、秀忠に徳川第二の軍勢を任せて中仙道を進軍させたが、秀康には上杉の対抗として江戸の(正確には宇都宮城)の留守居を任せた。そして家康はこの戦に勝ち天下をとったが、留守居の秀康には当然何の戦功もなかった。そして家康は、関ケ原に遅参した秀忠をそれほど咎めるでもなくさっさと引退し秀忠に将軍職を譲り、秀康には北国越前北の庄を与えた。秀康は石高は75万石の大身となったが、冬季は雪で京には出られない地であった。そして京との間の長浜には譜代の内藤氏を置きまもらせた。もし秀頼がことを起こせば義兄の秀康が連携するのを恐れたためである。それほど家康は、秀康を恐れていた。だが大坂の陣が勃発する前、慶長12年秀康はその地で死んだ。よわい34歳であった。信康亡き後、徳川家の第一長子でありながらただただなかったもののように扱われ、生涯華々しい表に出ることがなかった秀康。最後彼は息をひきとるととき、俺の一生は何やんやったんやろなぁ・・・とつぶやいたという・・・シランケド・・・

6月お誕生パーティー。

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 ルーさんが持ってきてくれた五島アワビ。これを食べたらすし屋なんかではもう食べられません。
 二枚くらい平気で食べてしまいます。
 実は、みんなが来る前にガンガンに冷やした日本酒でこっそり2枚食べてしましました。
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ウィンディ君とイセエビ君。イセエビ少し小さく見えますがバカでかいです。一番左端で中納言サイズです。
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いつもは私の仕事ですが。今日はルーさんが裁いてくれました。
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なんとソテーと、パスタに合わせましたが、私と、ナックは寝ていて食べていません。残念至極。。。。
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Captain特製。お好み焼き。2枚瞬く間になくなりました。
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今日もよく飲みまっした。10時間の成果!!!

3人のお誕生会でしたが、ルーさんよく五島から遠路はるばるきていただきました。それも10人でも食べきれないほどの豪華食材をもって・・・感謝。。。感謝。。。集ってくれた仲間にも感謝。感謝。。。。続きを読む

五島からルーさん来阪。

五島からルーさんがはるばると来阪してくれました。
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まずは前夜祭でルーさん、エリーのBP。
明日は本番のお誕生パーティーです。
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相生橋にて。
この日も道頓堀は中国人たちで異常な熱気につつまれていました。

華の金曜日。

最近お気に入りの心斎橋「和っか」。
どれも新鮮で美味い!!!
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わさびが本わさびなのもイイ。
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獺祭磨き三割九分。この酒はホント美味し。
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炊き大根の天ぷら。
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もずくの天ぷら。
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わさび巻き。
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だし巻き卵。
どれもこれもうすあじでこのみにピッタリ。。。

有川浩「県庁おもてなし課」。

高知県庁に実在する「おもてなし課」と作者が実際にかかわった経験をもとに書かれた作品。久しぶりに読む現代ものであった。この作者の作品は「阪急電車」を読んだことがあり軽妙なタッチが好きでまた買ったものである。

訪れたことのある高知県の観光名所が何度か出てきて楽しく思い出しながら読み終えた。

あとがきを読んでいるとこの作者は、やはり高知県出身であったが、その中でまさか娘が作家になるとは・・・との一行が出てきてあれっつと改めて作者紹介を見てみると有川浩(ありかわひろし)とばっかり思っていたら(ありかわひろ)で女流作家だった。「阪急電車」はまったく知らずに読んでいた。マァ書き手が、男性であろうと女性であろうと読み方に違いがあるわけでもないが、読むときにはそれは意識して読んでいることも確かである。

ライトノベルの出身であるとこのだが面白く、さらりと読めた。また高知に遊びに行きたくなってきたなぁ・・・
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津本陽「夢のまた夢」(三)。

今や秀吉は信長がその志半ばで夢ついえた天下統一も目前に迫っていた。あと秀吉の前に立ちはだかるのは九州の島津、そして東の北条(厳密には奥羽の伊達など数大名もいた)のみであった。

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 愈々秀吉が九州征伐にかかる。ただ九州の制圧を前に恭順の意を示しているが臣従していない家康の存在が不気味であった。九州遠征中に家康が寝がえり北条と手を組まれては一大事である。時の北条氏政は、愚将であったがその子氏直は、家康の養女を娶っており北条家と徳川家は姻戚関係にあった。

九州征伐で後顧の憂いを除くため秀吉は、家康にしきりに上洛を促すが、家康は仕物にされるのを恐れて中々上洛しない。一計を案じた秀吉は、実妹旭を夫と離縁させ家康の正室に差し出すがそれでも家康は上洛しない。余談だが無理やり旭と離縁させられた男は、武士の恥だと腹を切ったともいわれる。

秀吉は最終手段として実母大政所を家臣らの猛反対を押し切って駿府に差し出す。さすがの家康もこれ以上上洛を拒めば秀吉と干戈を交えるのは必至とみて上洛し、秀吉の臣下となる。この辺りで繰り広げられる陣羽織の件等々茶番劇はあまりにも有名なくだりである。


  東からの脅威を打ち消した秀吉は愈々九州島津を襲う。この秀吉の進撃は今の熊本県から九州西海岸を通り、阿久根、出水と南下したルートでGWでなじんだ地名が出てきて懐かしい思いだった。そしてこの作品を読んでおけばもっと先のクルージングがより楽しかったのにと残念至極。

秀吉嫌いはこの作品を読んでもいまだ変わらないが、秀吉という男は、一介の百姓の身から天下関白まで上り詰めただけあって一芸に秀でるものは十芸に秀でるというがその軍事才能はもとより政治、しいては茶道にいたるまでの器量はなみなみざる尋常のものではなかったことにはホント驚嘆する。

九州平定後、最後の仕上げ北条征伐に向かうが、この北条父子、氏政と氏直の底知れないほどの阿保の深さ加減には、こんな城主をもった家来たちこそ哀れである。今放映されている氏政は高島政伸が好演しているが、その氏政の愚昧さはその父の氏康が見抜いていて北条も自分の代で終わろうかと家臣に嘆いたという。こんな逸話がある、氏康がその氏政の湯漬け(お茶漬けのこと)を食べるさまを見て、湯を二回に分けて食べるのを見て何度も食べている湯漬けなのになぜ一度の湯の量がわからないと嘆き北条家もわれ一代と嘆いたという。まぁこれは眉唾ものだが、自分もめったにお茶漬けは食べないが湯を足すことはままある。

また氏政は、馬で城下をかけたおり麦を刈っているのをみてあれを麦飯にしてすぐ持ってこいと命じたという。

 まぁこの辺りは、どうかと思うが阿保というわけでもないが、それなりに普段から阿保の片りんを見せていたのであろう。



こうして難攻不落の小田原城は、2カ月余りの籠城後、支城のほとんどが落とされまたは寝返られ最後は孤立無援となり戦いきれなくなって降伏し、氏政、氏照兄弟は、切腹させられ、その弟で賢明を謳われ、氏政と入れ替わっていれば北条家も滅ぶこともなかったいわれる氏規は許され、氏直は家康の姻戚ということで高野山に流居させられた。



・秀吉には南殿とよばれる側室がいた。秀吉がまた藤吉郎と名のっていた1569年ごろである。南殿は、男女二人の子を産んだが二人とも夭折した。南殿もそのあと間もなく世を去ったといわれる。

・天正15619日秀吉は伴天連追放令を発した。

・天正18年正月14日旭姫が聚楽第で亡くなった。48歳であった。

旭姫は、秀吉の妹というだけで波乱万丈の一生を送るとなった。美人ではなかったが醜女というわけでもなかったようで、「真田丸」で描かれているあのぶさいくさは、三谷氏の演出であろうがちょっとかわいそうである。

・のぼうの城でも描かれていたが、秀吉の小田原攻めに迎え撃つ北条勢支城の城主はすべて小田原城に召集されていた。

・秀吉は旭姫が没すると家康との同盟関係が弱化するのを懸念し、長丸を元服させ秀忠と命名し信雄の娘を自分の養女として正月21日聚楽第で挙式させた。

・怯懦(きょうだ)の念をいだく:恐れおののくこと。

・椿事(ちんじ):思いがけない大事件≒珍事。

・小田原城攻めは、秀吉の三月朔日の出立をもって始まったといえる。秀吉は難攻不落といわれる小田原城を我攻めすれば味方にも甚大な被害が出ることを恐れ支城から攻めた。それもできるだけ調略によって戦わず落とすことを第一とした。

 余談だが、嫌いな秀吉だが高く評価するのはその軍事的才能、兵站手腕、調略による敵の落としかたである。双方互いに人的被害を最小にして戦を収めようという信念は自らが足軽として戦いの捨て駒として戦場の最前線で生死のはざまを何度も味わったから、また譜代の家臣を持たなかったので降伏させることによってそれを取りこもうとしたのであろうと思う。その辺は秀吉の本当に偉いところである。

6月に入り双方膠着状態となったときに黒田如水が城中へ数カ月の籠城ををねぎらうとして酒一樽、糠漬けの魚10尾を贈った。

城からは返礼として「寄せ手のおのおのがたも長陣にてお疲れもひとしおと拝察いたす」と鉛10貫目、硝薬10貫目が送られたという。

いい話だ。

藤沢周平「春秋山伏記」。

 遂に新潮文庫藤沢周平全作品を読み終えてしまった。もう一篇藤沢氏のエッセイ集があるが小説はこれで終了である。あとは文春文庫と、集英社文庫に何冊か藤沢氏の作品がある。ボチボチ読んでいこう。それにしても藤沢氏の作品は筋立てもいいが文中のあちこちで描写される自然の風景は、心癒されるものである。

 


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 この作品は、庄内地方に昔から伝わる山伏伝説をもとに藤沢氏がアレンジを加え作品にしたものである。5編からなるがどれも山間奥深くの村の日常に起こる出来事を藤沢氏独特のタッチで描いたもので都会から遠く離れた山里の村に自分が紛れ込んだような温かい気持ちにさせてくれる。一度この鶴岡市の東の山奥深くにある庄内地方を訪ねてみたいものだ。

 


「験試し」

昔、村で手のつけられない暴れん坊だった鷲蔵が大鷲坊と名のる山伏になって村に帰ってきた。

その大鷲坊が村の、事件、もめ事を片付けて行く。

 


「狐の足あと」

村のはずれにある家の主は、いつも村から遠く離れ仕事をして家をほとんど空けていた。その嫁は村でも評判の別嬪さんだった。その嫁にある夜、夜這いをかけた村の男がいた。その亭主にばれたらただごとでは済まない。大鷲坊は、その夜這いの相手が狐だったとの仕掛けをつくる。

 


「火の家」

村の上手を流れる川に水車小屋があった。その水車小屋はむかし火事を出した家のものだった。だがその火をつけたのは村の者たちだった。

 


「安蔵の嫁」

安蔵は、力持ちで人柄もいい男だった。ただぶさいくだった。そんな安蔵が大鷲坊と狐につかれた娘を救う。

 


「人攫い」

祭りの夜におとしの娘たみえが何者かに攫(さら)われる。そして杳としてその行方は分からなかった。村のみなが絶望の中、村中が集まって寄り合いが持たれた。大鷲坊の「なんでもいいから当日前後で思い出すことがあれば言ってくれ」の問いかけに、一人の女がおそるおそる手を挙げた。それは当日まで「箕のつくり」の夫婦ものがいてその夜に村を出たという。

そこからこの事件は大きく解決に向かって動き出す。

 「箕のつくり」なんて言葉も初めて聞いたがそれからその夫婦者を追って大鷲坊たちの大追跡がはじまる。庄内地方から大きく南に広がる険しい山脈を超えて村から選ばれた者たちの追跡者の壮絶な山越えは迫力満点。。。

歩いてはごめんだが車でいつかそのあとをたどってみたいものである。

いい作品だった。

 


・おとしは、あねさまというひと言に誘われて、思わず若い身ぶりになっていた。

 


・生きものが寝静まる深夜には、月の光が殊に冴えてくる。月はあらまし穂が落ちた芒の原を白じろと照らし、幅一間ほどの小流れを照らして中央にかかっていた。浅い流れは、村の中でそこだけ眼ざめているように、軽い水音を立て、きらきらと月の光を照り返している。

 


・蓬髪:ぼさぼさ頭

 


・よく晴れた日だった。真青に晴れた空に、秋めいた薄い雲が浮かんでいるだけで、日は山麓の村と、村につづく黄熱した田の上に、祝福するようなに降りそそいでいた。まだ暑いが、すでに真夏の暑さではない。日射しは乾いて、秋のいろを含んでいた。

 


・湯殿山、月山、羽黒山の出羽三山神社では毎年三月、三山例祭が行われる。

藤沢周平「天保悪党伝」。

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天保悪党伝

 あと新潮文庫藤沢作品は、あと二冊。


 幕末の天保3年(1832)御家人崩れの片岡直次郎が悪事の果てに処刑された。実際の話である。これに題材をえてある講談師が仲間5人を加えて「天保六花撰」として講談に仕立てた。これは大人気を博し歌舞伎にも仕立てられた。これをもとに藤沢がこの悪党らをもとに描いた作品。それぞれにみんな悪党連中だが、そこに何かしら憎めないいいところがある連中ばかりである。特に森田屋はいい奴である。


・江戸の町は、いたるところで町木戸で遮られているが、新道、小路(こうじ)をたどれば木戸を通らなくても町は抜けられた。

・暑い夏がいつの間にか過ぎて、残りの蝉の声も間遠になった。時には夏のしっぽとも思える暑い日がおとずれて、草も木も甦るように見えるときもあるが、そんな日でさえ、夕方になれば衿をあわせるほどのつめたい風が吹いた。

藤沢周平「驟り雨(はしりあめ)」。

 藤沢周平新潮本これを入れてあと3冊。いよいよ少なくなってきた。

 10篇からなる短編集。みんなそれぞれ面白い作品たちだった。昭和55年ごろに発表されたものを集めた短編集。
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「贈り物」

 作十は若いころからまともに生きたのないどうしようもない男だった。散々好きなことをしてきていつ死んでもいいと思ってその日暮らしをしている。ただこの頃は日雇い仕事の最中に立ち上がれないほどの腹の痛みにおそ われることがある。今日も仕事帰りにそんな痛みに道にうづくまってしまった。いかにも人相の悪い作十にだれも助ける人はいなかった。這うようになんとか歩くと一人の女が声をかけ助け起こして家まで連れて帰ってくれた。同じ長屋に住むおうめだった。そんなことがあって長屋の連中だれもが避けていた作十をおうめは何かと世話をやいていた。

おうめは亭主に逃げられた三十女だった。そしてその亭主は大きな借金を残して姿を消していた。ある日いかにもそれとわかる男数人がその借金の取り立てにやってきた。おうめにはとうてい返せる金額ではなかった。男たちは返せないなら女郎に売りとばすと脅かした。聞きつけた作十はその場をなんとか収めたが、おうめは絶望の底に沈んでしまった。おうめを助けるため作十は、昔の仲間を誘って旗本屋敷に盗みにはいった。なんとか金は手に入れたものの仲間はその場で斬り殺され作十も深手を負った。そしておうめに金を渡すと今後一切かかわるなと死んでいく。



「うしろ姿」

 長屋で貧しいながらも一所懸命生きていた夫婦の家に乞食同然の老婆が転がり込んできた。めいわくながらもその老婆を世話してやるやさしい夫婦。だが実は老婆は大きな屋敷の婆さんだった。



「ちきしょう!」

 夜鷹をしているおしゅん。三つになる子を抱えてこの商売をしている。ある日乗り逃げされてしまった男にばったり会った。おしゅんは簪(かんざし)を抜いてその男におそいかかった。



「驟り雨」

 表題の作品だが、なんのこっちゃ分からん話。

「人殺し」

 貧しいが平和にみんな暮らしていた長屋に、一人の男が移り住んできた。とんでもない男だった。長屋の男連中にはちょっと気に食わないと言ってはなぐり、娘には乱暴をした。そんな中でも長屋の住人はひそむように生活していた。家賃が他の半分ほどだったから移りたくとも移れなかったのである。だがどうしてもがまんできなくなった若者は、匕首の扱いを人を伝って覚えついにはその男を殺してしまう。長屋の連中には大いに褒められると思ったが・・・

「人殺し」となんてことをしてくれたんだとどなられた。



「朝焼け」

 しょうもない男の話。



「遅いしあわせ」

 極道な弟に悩まされるおもん。弟のために嫁ぎ先を出て、今は飯屋で働いている。少ない稼ぎから弟は金をせびっていく。弟はおもんの不幸の根源だった。そしてまた弟はとんでもない借金を作ってきた。それはおもんのとても返せない金額であった。女郎に売りとばされそうになったおもんを救ったのは飯屋の客でおもんがひそかにおもいを寄せていた重吉であった。借金の肩代わりを約束し、弟には今後一切のかかわりを断つことをどつき倒して約束させた。おもんに遅いしあわせがおとずれようとしていた。



「運の尽き」

 ろくに仕事もしないで遊びほうけていた参次郎。女にはもてた。あるとき遊びで抱いた女が腹ぼてになってしまう。その親父が怖かった。米屋のその親父は参次郎と娘を無理やり結婚させ、奴隷のように働かせた。いつか逃げ出してやろうと思っていた参次郎だがそのうちに仕事の楽しさをおぼえいっぱしの米屋に成長していった。この親になる日も近い日参次郎は仕事のついでに昔の仲間がたむろしている酒場をのぞきに行った。参次郎は俺はこんな阿保なことをやっていたんだなぁ・・・と思った。



「捨てた女」

 矢場ではたらくふき。ふきは少し知恵遅れのところがありその動作ものろく、矢場にくる男たちから尻に矢をうたれて遊ばれてもだまって矢を拾うばかりだった。そんなふきと信助はひょんなことから一緒に住むようになったがすぐに飽きてしまった。


 当時の矢場という遊び場の様子が興味深かった。

「泣かない女」
 不幸な境遇で育ち、足にも障害を持っていた。そんなお才を半ば同情もあわせて嫁にした道蔵だったが何事にもとろいお才に飽き飽きとしてきていた。そんなときいい女ができた。別れてくれてという道蔵にお才は、文句の一つも言わずに出て行った。

藤沢周平「橋ものがたり」。

 土曜日は同窓会だった。数年前還暦で何十年ぶりかで同窓会をして以来毎年恒例になっている。会場は天王寺だったのでその前にステーションビルの旭屋をのぞいた。最近梅田の紀伊国屋では面白い本に出会わなくなった。平積みする係がかわったのかと思う。

ここの旭屋は、めずらしいしいことに藤沢作品新潮本を発行順にすべてきちんと並べてあった。こんなに整理してある書店は初めてである。

藤沢作品新潮本で手元に欠けていたこれともう一冊「天保悪党伝」を買った。これで新潮本ではあと5冊で藤沢作品は終わりである。


下町の橋を巡って起こる男女の人間模様を藤沢氏独特の筆致で描く。江戸が舞台だけにその自然描写の美しい場面は他作品にくらべて多くはないが随所で目の前にその光景が浮かんでくるような表現を楽しませてくれた。
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「約束」
 幼なじみのふたりが大きくなったら一緒になろうと約束した。5年後橋のたもとで会おうと約束した。だが女はその時刻に現れなかった。5年の月日が彼女を女郎の身に落としていた。

「小ぬか雨」
 一人暮らしのおすみ。ある夜おとこが逃げ込んできた。一晩かくまった男は、人を殺めてきていた。女に貢いだあげく捨てられすべてを失った男はその女をはずみで殺したのだという。だがその男は、実は誠実な優しい男だった。かくまっているうちに情が移りいっしょにつれて逃げてくれと頼むが男は
「もっと早く、あんたのような人に会っていればよかった。そうじゃなかったからこんな馬鹿なことになってしまった。そう言ってもらっただけで十分です。あんたを忘れません」
 橋に消えて行く男を見送ったおすみのうえにこぬか雨が降りそそいだ。

「思い違い」
 両国橋で日に朝早くと日暮れ時、二度会う女。こぎれいなその女どこかのお嬢さんらしかった。源作は彼女と会うだけで楽しかった。あるとき、橋のたもとで絡まれているその女を助けたことがあったが名前も、住んでいるところも聞きそびれた。何か月か経ったころ源作は仲間に連れられて行った岡場所で出てきた女はその女だった。

「赤い夕日」
 孤児として育ったおもんは、天涯孤独の身だったが大店の男にみそめられて嫁に入りしあわせな日々を送っていた。だがある日やくざ者たちにさらわれてしまう。実はおもんには育ての親がいたその男は男手ひとつでおもんを育ててくれたが自分がいればおもんのためにならないとおもんが年ごろになると店に奉公に出し自分は姿を消した。
やくざ者たちはその男に金を貸してその男が死んだのでおもんに払えと迫った。

「小さな橋で」
 親父が勤め先の店の金を使い込んでいなくなった。広次は小さいながらも残された母と、姉とで何とか生きていた。あるとき姉は、妻子持ちの男と逃げてしまい、母は、新しい父親だと男を連れてきた。

「氷雨降る」
 吉兵衛はある晩橋の欄干にたたずんでいる若い女を見つけた。夜目にその美貌がはっきりとわかる若い女だった。その女は死のうとしていたようだった。事情も聞かないまま吉兵衛は馴染みの飲み屋にその女を連れて行った。なにか深い事情があるようだったがその女は一言もしゃべらなかった。吉兵衛はそんな女のために裏店に住むところを与えてやり面倒を見た。ただ手は出さなかった。ある日明らかにその筋のものと思われる男たちがその女の居場所を尋ねてきたが、吉兵衛は殴られながらその女のことは一言もしゃべらなかった。その翌日、その女は裏店で知り合った男と江戸を落ちて行った。吉兵衛は、一度くらいしとけばよかったなぁ・・・と思った。

「殺すな」
 船頭の男は、その雇い主の女将さんとできて駆け落ちをする。他人に隠れての生活も最初は楽しかったが月日が経つにつれて殺伐したものに変わっていた。女はそんな生活にうんざりしていたそんな時旦那に見つかってしまって女を連れ去られようとする。出刃包丁を手にした男は逆上して追いかけるがその後ろから、長屋の知り合いの浪人が叫んだ。

「殺すな!!」


「まぼろしの橋」

この物語の主人公はおこう。おこうという名は好きだ。「海鳴り」に登場するおこうは藤沢作品の中で用心棒シリーズで出てくる佐知とともに大好きな女性だ。

ここでのおこうも美人だが一つ陰がある。おこうは拾われた子で大店ので養われて見目麗しい女性に育つ。そんなおこうに縁談が持ち上がる。それはその店の若旦那、兄として育った信次郎だった。とまどいながらもその幸せをかみしめるおこう。そんなとき自分がお前を捨てたという男があらわれる。


「吹く風は秋」

 博打打ちでいかさま師弥平。自分の親分までだまして江戸から逃げていた。だがそんな弥平も逃亡生活から親分にわびを入れて戻ろうと帰ってきた。そんなとき一人の女郎と知り合う。その女を助けるために一肌脱いでやる。


「川霧」

 蒔絵師の新蔵は、腕のいい職人で朝早くから橋を渡って仕事場に出ていた。朝早い橋にはいつも先に女が一人ただずんでいた。ひょんなことからその女と懇意になった。その女はよく働いて新蔵によく尽くしてくれた。だがそんな日は長く続かなかった。ある日その女はふっと姿を消した。必死で探したがその行方は杳として知れなかった。おさとが姿を消して3年目新蔵はその日もおさとと初めて会った橋を川霧をぼんやりと眺めながら渡った。その人影が見えたのは橋の半ばまで来たときだった。おさとだった。

同窓会。

高校同窓会。
ベビーブームの終焉時代だがまだ一学年550人もいた。その中で38名が集まった。
ほぼ半世紀前のつながりでよく集まったと思う。ただ毎年参加するメンバーは、ほぼ固定化されてきた。
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1800から3時間ワイワイやって、それからまた仲のいいのが集まって流れて行った。

数人で珉珉でまた飲んで食べて帰った。

華の金曜日。

 先週バンド仲間と練習のあとに、ぶらり立ち寄った「和っか」。素材を活かした料理で久しぶりに美味い店を見つけた。早速また今日エリーをつれて再訪した。
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 こんな路地裏に、ひっそりと隠れるようにたたずんでいる。バンドの仲間に日本酒の好きな奴がいて。この日本酒のちょうちんが前から気になっていたとのことだった。
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 みんなとだと割り勘なので注文は遠慮していた「獺祭磨き三割九分」。値は張るがものすごく美味い酒で今や長年一番のお気に入りだった「越の寒梅」より好きになってしまった。
 なによりその店の姿勢がわかる生ビールの注ぎ方も合格である。
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 お通し。
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 お刺身も美味い。カンパチ、イカ、タイ、金目。わさびも本わさびである。
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 ベビートウモロコシ焼き
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 「渓」。これも美味かった。右はチェイサーの冷水。これがまた美味い。
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 イワシの煮つけ。
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 「秋鹿」。大阪の酒である。大好きな日本酒。
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 アスパラの天ぷら。
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 大根の煮揚げ。ここの名物である。美味い。。。
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 だし巻き。出汁に浸かって出てくる。これも美味い。
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 地鶏焼き。
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 大将とスタッフの方々。みんなナイスガイである。

津本陽「夢のまた夢」(二)。

 秀吉は小牧長久手で信雄、家康連合軍に戦いでは敗れたものの政略では勝ち、天下人への階段をかけ上がっていく。やがてその権勢は朝廷にまで及ぶが、その出自を自身卑下する秀吉は、なりふり構わぬ任官策動に邁進する。そしてついに人民の最高権威関白にまで上りつめる。蛇足だが関白とは、天皇を補佐する人民の執政官という意味合いの官位である。
余談だが、秀吉はまず源氏を名のり征夷大将軍になろうとして失敗し、信長をならって平氏を名のり藤原姓をえて藤原秀吉として関白になった。そして藤原姓をすてて(すてさせられて)豊臣秀吉と名のった。

一方政略面では家康に旭姫を嫁がせ一応の家康からの脅威を除いた秀吉は、九州平定にかかる。までを描いた第二巻。

秀吉のことは多くを知らないがその政治能力、戦闘能力は流石に同時代の他の武将をはるか凌駕している。


  信長、秀吉、家康と三人の能力をそれぞれの分野にくらべるとどうかとなるがそれはいかにもむつかしい。これを書き出すと一冊の小説ができるだろう。ざっくりといえば軍事才能順で、信長、秀吉、家康。経済面で、秀吉、信長、家康。政治面では、家康、秀吉、信長と現時点での自分の評価だが、いかがだろうか?

家康の最大の幸運は信長、秀吉という大きな反面教師を学んだことだったと思う。


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 ・小牧長久手の戦いで秀吉は、信長以来の旧臣、池田恒興親子、森長可等をはじめ多くの重臣を失う。その失策の影に秀次の愚采配が遠因している。ホンマ秀次は愚鈍だ。


・おねは秀吉と11歳違いで、14歳の時に藤吉郎と結婚した。


 ・利家の娘に麻阿がいた。勝家に人質として出し北の庄にいた。落城の際にも城中にいたが侍女阿茶子の機転で城から逃れた。阿茶子はその後長命して金沢城下に阿茶子茶屋敷とよばれる広大な住居を設けた。


 ・麻阿はその後天正14年秀吉の側室となった。


 ・ほかに秀吉の側室は、姫路城の姫路殿は信長の弟信包の娘。三条の局は蒲生氏郷の妹らがいた。

よくぞみんな黙って秀吉に従っていたなと思う。

 
・前田玄以。秀吉の行政の要を務めた男である。出自については不明な点も多いが尾張に住んでいてのちに叡山の僧となった。さらに還俗して信忠に仕えた。本能寺の変に際し、信忠から三法師(秀信)を預けられた。

 

・天正13年末秀吉の養子信長の第4子於次丸秀勝が病死した。18歳であった。

 ・秀吉の行政機関は、中央部(中村一氏、生駒正勝、福島正則、石田三成、大谷吉継ら12名)が貴族政治の形式をとり、政務執行機関(浅野長政、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家の5人)は、武家幕府の奉行制度をとった。

 ・浅野長政は妻のややがおねの妹で、秀吉は浅野家へ入婿しておねと婚姻した 


・この作品では、一文は今の150円に相当するとある。江戸時代にこれをあてはめるとかけそばが20文ほどらしかったのでちょっと計算が合わない。時代小説を読むときには一文約30円に読み替えているがこの現代と戦国時代、江戸時代の貨幣換算は悩ましいことである。

・一疋は銭10文。

 ・天正141015日吉川元治は小倉の陣中で島津義久との戦いのなか病死した。

スーパーマーズ。

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 今夜もスーパーマーズが見えた。左下には土星とアンタレスも見ることができた。でももう少しはっきり見たいなァ~~~
 天体望遠鏡買おうかなァ~~~

藤沢周平「時雨みち」。

藤沢作品は、新潮文庫で未読は愈々あと5作品となってきた。あとひと月ほどで読みきってしまうなぁ・・・
これも休みの日を利用して日がな読みふけった一冊。
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「帰還せず」

ある藩に潜入した公儀隠密が帰国しない。調べてみると身代わりの男を殺して他人に成りすまして藩の片隅で生きていた。公儀の討ち手が迫る。


「飛べ、佐五郎」

佐五郎は、あることで人を斬り国を出た。国から仇討の追手が来るのは必定で江戸、大坂、京と点々と逃げたが、気の休まることはなかった。あるとき、その斬った事情に同情を寄せる藩士とばったり出会う。彼はその討ち手が明日をもしれない重い病に伏せっているという。そしてその討ち手が死ぬ。佐五郎は今までのうっ積から解放されそれまで世話になった女に、別れを告げる。その女は、冗談じゃないと寝ている佐五郎に出刃包丁で斬りかかった。

佐五郎は薄れいく意識の中で叫んだ

「なんでやねん」


「山桜」

最近読んだ藤沢氏の短編で一番強く心にしみる一篇だった。

読みおわったとき不覚にも落涙してしまった。

 


亭主に先立たれ若く後家になった浦井野江(この名前もイイなぁ)は人の世話で再嫁した。だがその嫁ぎ先は、舅姑が裏でで金貸しをしているような家でその舅の借金の取り立てをかいま見た野江はそのえげつなさに恐怖と強い嫌悪をおぼえた。それに加えて家族のみならず亭主までからも出戻りとさげすまれつらい日々を送っていた。そんなおり、叔母の墓参りに行った帰りにそのまままっすぐ家に帰るのもつらく遠回りすると思いがけず大きな桜の木に出会った。ひと枝欲しくなった野江は手をさしのべたがわずかに手がとどかなかった。野江はそうして桜に心をうばわれている間にこのまま帰らなくて済んだらと思った。そのとき不意に男の声がした。


「手折って進ぜよう」

その男は長身の武士だった。渡された花を胸に抱いたとき、その武士は言った。

「野江どのですね。お忘れだろうが手塚弥一郎でござる」

手塚は野江が突然寡婦になったとき再婚相手として名のあがったことのある男であった。一刀流の剣の使い手でもあったが母一人子一人という境遇がきらわれ再婚候補から除かれたいきさつがあった。ただ弥一郎は、野江のことをよく知っていた。道場の前を通っていた野江をよく見ておりあこがれの人であった。

そんなことがあってしばらくして城中で弥一郎が上司を刺殺する事件がおこった。その上司というのは藩政上の大きな癌であり藩内のだれもが弥一郎のやったことに陰ながら称賛をおくったが上司刺殺は大罪であった。そんな弥一郎を野江の亭主は小ばかにしたようなことを野江に言った。野江は今までこころの中に澱のようにたまっていたものが爆発した。野江は、その家を去った。

弥一郎には当然切腹の沙汰がくだされると思われたが、藩内に大きな同情があり藩主の帰国を待って裁断を仰ぐこととなった。

季節は変わり、また桜のころとなり野江は弥一郎と出会った桜の下にたたずんでいた。そして去年の今頃はと野江は胸がしめつけられるようであった。そしてふと思いついたとき野江の足は弥一郎の家に向かっていた。出迎えたのは40半ばの柔和な顔をした女だった。

 


―「お聞きおよびではないかとも思いますが、浦井の娘で、野江と申します」

「浦井さまの、野江さん?」

女はじっと野江を見つめたが、その顔にゆっくりと微笑がうかんだ。

「あなたがそうですか。野江さん、あなたのことは弥一郎から、しじゅう聞いておりました。弥一郎は、あなたがあのような家に再嫁されたのを、たいそう怒っていましたよ。あなたに対しても、あなたのご両親に対しても・・・」

「・・・」

「でも私は、いつかあなたが、こうしてこの家を訪ねてみえるのではないかと、心待ちにしておりました。さあ、どうぞお上がりください」

履物を脱ぎかけて、野江は不意に式台に手をかけると土間にうずくまった。ほとばしるように、眼から涙があふれ落ちるのを感じる。とり返しのつかない回り道をしたことが、はっきりとわかっていた。ここが私の来る家だったのだ。

野江さん、どうぞこちらへ、と奥で弥一郎の母が言っていた。

「あのことがあってから、たずねて来るひとが一人もいなくなりました。さびしゅうございました。ひとがたずねて来たのは、野江さん、あなたがはじめてですよ」―

 


「盗み喰い」

職人仲間で労咳もちの助次郎をなにかと面倒を見てやる優しい男征太。あるとき仕事で手が離せずに付き合っていた女を助次郎の世話に行かせる。だがその女は助次郎とできてしまった。

助次郎は叫んだ。

「なんでやねん」

 


「滴る汗」

城下で手堅く商売をしている宇兵衛は、実は代々の公儀隠密であった。ある日仕事のことで城に上がった宇兵衛は、公儀隠密の正体がわかったと告げられた。てっきり自分のことだと思った宇兵衛はそのことを知るやめた使用人を殺してしまう。だが正体がばれたのは宇兵衛ではなかった。

 


「幼い声」 

幼なじみの女が人を傷つけて牢屋に入れられた。何かと牢にも差し入れをして面倒を見てやったが、出牢したその幼なじみの女は礼も言わずに立ち去った。

 


「夜の道」

おすぎはもらいっ子だった。というより記憶にないが迷い子で実の両親のことは何も知らない。3歳の時に道で拾われた子だった。

 ある日母親だと名乗る女があらわれる。が、おすぎには全く記憶がなかった。上品で大店の奥さんだというその女はおすぎの顔立ちから確信しているようだがおすぎの記憶が何かもどるまで気長に待つという。

何年かが過ぎおすぎは、職人と結婚し子供をもうけるがあるときその亭主と大喧嘩して家を飛び出してしまう。そのとき追いかけてきた娘をふり返ったときおすぎは目の前がはじけるようにそのときのことが浮かんだ。自分も泣きながら母を追いかけたときのことを・・・

 


最後で何かつじつまが合わないところがあるが面白い作品だった。

 


「おばさん」

亭主を亡くしてさびしい日々を送っていた女がある夜、一人の若者を救う。世話をしてやるうちに親子ほども違うその男と深い中になる。幸せが戻ってきたその女は昔のように生き生きと楽しい日々が戻ってきた。だがそれは長くは続かなかった。長屋に出戻りの娘が帰ってきた。その娘は、その女に比べようもないほどの若いからだと美貌を持っていた。おばさんは捨てられた。

おばさんは叫んだ。

「なんでやねん」

 


「亭主の仲間」

読後感のものすごく悪い作品。

亭主が気のいい仲間だと男を連れてくる。亭主の言うとおりさわやかないい青年だったが次に来た時に「金を貸してくれ」といわれる。少したくわえがあって貸したのが運のつき。一分という大金だったが、その男は返すどころか何度も無心に来るようになる。それにましてその男は凶暴な内面を秘めていた。

 


「おさんが呼ぶ」

おさんは紙問屋の下働きである。幼いころ母が男を作って逃げ、父親もほどなく死んだ。そんな不幸があって以来おさんは物いわぬ子になった。

ある日紙漉き村から兼七という男が紙を売り込みに来た。何かとやさしくしてくれた兼七の持ってきた紙は上質であったにもかかわらず店で扱ってもらえなくなった。それには裏で手代と競争相手の男がグルになって兼七を陥れたためであった。傷心の兼七が去る朝おさんは叫んだ。

「兼七さん待ってください」

おさんはその彼らのたくらみを偶然に聞いていたのだ。おさんは自分が聞いたことをしゃべれば兼七を救ってやれると思った。

 


「時雨みち」

新右衛門は、丁稚から身を起こし今は大店の旦那におさまっている。先代に見込まれて婿養子に入りその才能を生かして店も一層大きくしていた。もうすぐ隠居の身となる新右衛門だったが彼には婿養子に入る前に捨てた女がいた。あるときその女が、岡場所で埋もれていると聞いた。尋ねあててその女に会った。その時のわびにと大金を渡そうとしたが女は投げ返した。女は新右衛門に捨てられたあと大きな辛酸をなめて生きてきていた。二度と来るなといわれたが翌日またたずねたが女はその日の朝、行方をくらませていた。

新右衛門は

「なんでやねん」とは思わなかった。

ビアガーデン。

 久しぶりに何も予定のない休日。夜中の2時ごろからごそごそ起きだして藤沢周平を一冊読みきって、朝ご飯を食べて何時間か寝てまた藤沢周平を読みはじめた。愈々もうそろそろ藤沢作品も残り少なくなってきた。

 そうそう今日はひとつせなきゃならんことがあった。9月のBarcelonaカタルーニャ劇場の予約開始日である。
絶対に観に行きたかったのでカレンダーに大きく丸を入れて絶対にミスらないようにしていた。甲斐あってなんとか首尾よく希望に近い座席を確保できたが、一番いい席はとれなかった。どうも年間パスポートのようなものがあるらしく多くのいい席は売りきれていたというよりPCからは取ることができなかった。でもマァ満足。
今からとても楽しみにしてる。来週はLiceuの「魔笛」の発売だ。これも是非いい席を取りたいものだ。
 チケットが確保できたので機嫌をよくしてまた藤沢周平を読みだした。

 流石に夕方になって読み飽きてきてネットサーフィンしていると。
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 これを見つけた。上六の近鉄百貨店屋上でやっているという。
 みんなに電話するとなんとみんな来れるというので(というよりよび出したという方が正しいか?)喜んで出かけた。ビアガーデンは何十年ぶりだろう。。。
 外に出るともう春はすっかり過ぎさったようで初夏を思わせるまばゆくつよい日射しが公園の木々の緑をきわだたせ子供たちの歓声が穹天につき抜けていた。(と藤沢周平風に書いたつもりだがわざとらしくなるなぁ・・・)

 Anyway、駅に着くと先行していたGucciから電話があった。なんと満員だという。なんでも団体客の予約で会場の2/3がうまっているという。その残りの席も5時の時点で満杯になったらしく長蛇の待ち客で1時間待ちだという。
 「んな、あほな・・・」流石抜け目のない近鉄商法というか、えげつなさである。予約できるなら、そうとまたこの日は混雑が予想できますとかなぜ書いておかないのか・・・みんなこの広告につられてくるだろうにと思うが・・・

 マァぼやいても仕方がないので、こんないい天気なのに、すっかりビアガーデンの気持ちにと他を探したが生憎休館だったり、まだやっていなかったりで結局室内のアサヒビアケラーに行くことにした。
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乾杯
 マァビールを飲もうという初期目的だけは達成。。。
 しかし急なよびだしにみんなよく集まってくれた。
 いい仲間である。
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ビールは飲めたがオープンテラスでというフラストレーションからは解放されず。二次会でてんしばでもう一杯やった。
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001
いい一日だった。。。。
みんなに感謝。感謝。。。。

藤沢周平「花のあと」。

夜中から読みだして明け方に読み終えた。

愈々残りの未読の藤沢作品も少なくなってきた。数えてみるとこの文春文庫であと12作ほどか。意外と思ったよりあった。まだまだ楽しめそうである。それにしても藤沢作品の自然描写ははてしなく美しい。そしてこれだけ何作読んでも同じ表現がふたつとして全くない。見事である。


「鬼ごっこ」

昔、盗賊をして金をためた吉兵衛は、今は足を洗い手堅く商売をしている。惚れた女も岡場所から見受けし囲ってやりそれなりに平和な暮らしをしていた。そんな時その女が殺される。執念で探したその犯人は、昔の顔見知りだった。その犯人を成敗する。


「雪間草」

尼僧松仙は、出家前おまつといいある男と婚約寸前に、殿様にみそめられてしまう。そのあとそのバカ殿は、正室をもらいおまつはお役御免となった。その際バカ殿の命で、ほかの男の伽を命ぜられた。出家したおまつにその婚約した男がバカ殿の勘気にふれ切腹の申し渡されると知らせがあった。おまつはその男の救済に江戸までそのバカ殿に直談判に出向く。


「寒い灯」

姑にいびられて家を出たおせんにその亭主がその姑が病にふせっているから世話をしにきてほしいと頼まれる。ばかばかしいと断るが、去り状をもらうために行くことにした。久しぶりに会う姑は、拝むばかりに感謝するが、もどる気はまったくなかった。そんな時おせんにいいよっていた男が、女衒だと知る。おせんは元の暮らしにもどるものマァいいかと思う。


「疑惑」

蝋燭屋に押し込み強盗が入る。だがその強盗は顔を見られており時をおかずに捕まる。下手人は勘当された養子の男だった。ただその男は、その家の女将によばれていったが殺しはしていないという。藤沢周平作品に時々見られる推理物だが、全く駄作である。その男は、殺しについては頑として口を割らないが、なぜか女将によばれたことは言わない。言えばすぐに解決するのにと思うが・・・


「旅の誘い」

これも時々登場する広重と北斎の話。全く面白くない駄作。


「冬の日」

冬の寒い日、清次郎は寒さにふるえて通りすがりの居酒屋に転がり込んだ。その店は、女二人でやっていて寒々としていたが旨い酒を飲ませた。その若い方の女がじろじろと清次郎を見ていた。清次郎には覚えのない顔であったが、何日かあとにふと思い出した。昔小さいころ遊んでいた大店の娘おいしだった。その家から清次郎の母は、仕事をもらって二人食いつないでいた。今は仕事もうまくいき近々店を出すまでになった清次郎はおいしのあまりの落ちぶれように少しでもたすけになればとおいしの家をさがしあてたがおいしはひものような男と住んでいた。そしてその男はおいしを目の前で殴った。清次郎は主筋にあたるおいしをなぐるその男が許せなかった。半殺しにして放り出した。何日かたったあとおいしが訪ねてきた。清次郎はおいしに一緒に店を手伝ってくれないかといった。


「悪癖」

三十五石扶持の男は、そろばんでは右に出るものがいなかったがそんな安給料にはわけがあった。彼には酔うと人のほっぺたをなめるという奇癖があった。

この話は、以前に絶対に読んだことあがる。本棚にある藤沢本を何度か調べたし、感想文も読み直したがいまだに出てこない。どこで読んだのだろう????

「花のあと」
 祖母以登が孫に昔を語る一人称と、三人称の組み合わせで構成されているユニークな作品。
 祖母には思い人がいた。その男江口は蕃下でも指折りの剣の使い手であった。以登も女剣士としてその名が蕃下にとどろいていたが立ち合うと江口には子ども扱いされた。江口はほどなく身分違いの家に婿に入ったが以登はその相手を聞いて驚いた。以登の仲間の身持ちの悪い女で倍ほど離れた妻子持ちの男と付き合っていた。数年後以登は、江口が自裁したと聞いた。江口は仕事上の失策で藩に迷惑をかけたことで腹を切ったのである。だがそれはある男の陰謀が絡んでいた。その男は江口の妻の例の浮気相手であった。以登は、その男をよびだし成敗する。

-水面にかぶさるようにのびているたっぷりした花に、傾いた日射しがさしかけている。その花を、水面に砕ける反射光が裏側からも照らしているので、花は光の渦にもまれるように、まぶしく照りかがやいていた。

-おだやかな早春の日射しが、左手につづく雑木の丘と麓の鳳光院の木立と屋根、右手遠くにのびる城下の家々を照らしている。雪は消えたばかりで、丘の中腹や、麓の湿地あたりには、まだ黒ずみよごれた残雪が見え、その雪どけの水をあつめてややにごっている川水が、音を立てて流れくだっていた。
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・知悉(ちしつ):よく知ること。
・たばさむ:小脇に抱えること。
・卒爾(そつじ)ながら:突然で失礼ですが。卒爾(にわかなさま、軽率なさま)
・烏滸(おこ):おろかなこと、ばか、たわけ。

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