Bigelle

Bigelle Capの日々の記録です。 Bigelleのホームページ: http://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/9542/ 

2015年01月

石川達三「青春の蹉跌」。

えらいこっちゃ。
この頃、紀伊国屋に何かめぼしい本はないかとぶらついていても平積みしている本の中で読みたくなるような本はほとんどなくなってきた。目につくのは読んだ本ばかりである。つい以前は、これもどれも読みたい本が目につき行くたびに何冊か買って帰り書斎の机の上に積んである山が大きくなる一方だったが最近は随分とその嵩が減ってきた。

そんなことで書棚に並べてある本の中で昔読んだ本でも読んでみようかと不図思って手に取った本である。
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もうなんと50年近くも前に読んだ本である。
初めて自分の小遣いで買った本だ。
裏表紙には、¥470の文字がある。今の物価の1/4から1/5である。
今でも当時の物価で覚えているのは、珉珉の餃子が一人前¥70、白菜スープが¥50であった。学生で持っている金がしれたので、外食する時には手持ちの金と相談しながら注文したものである。そんな中で買った本である。
それでも本は友人にせよ、図書館にでもせよ借りて読む気にはなれなかった。
読んだ本は手元に置いておきたいタイプである。

友人に勧められて読んだ作品であるが、みんなで熱く読後感を語り合った作品でもある。

よくもこんな小難しい文章を読んだものである。この作品の後石川達三の大ファンになって彼の作品はほとんど網羅して読んだが、当時はこんな筆致も平気であったのだろう。
しかし今読みなおすとマァ読みづらい。事象も今の時勢とそれこそ隔世の感がある。

主人公は、法科の苦学生である。親戚の伯父から学費の援助を受けながら司法試験合格を目指して勉学に励んでいるが、以前家庭教師で教えた女性に誘われるがままスキー旅行に行き、後日彼女から妊娠を告げられる。当時肉体関係がある場合結婚しなければという風潮があった。まして子供が出来ればその女の主張はかなり強いものがあった。そんな中で主人公は司法試験に合格する。するとそれを待っていたかのように伯父から娘との縁談話を持ちかけられた。強く結婚を迫る女性を持て余した主人公は、思いあまって手にかけてしまう。その手口は稚拙極まりないものですぐに足がつき逮捕されてしまう。そこで刑事から聞いたのは、身ごもっていた子供の血液型が主人公が父親ではありえないというものであった・・・
まぁ血液型とか、妊娠を理由に結婚を迫るとか、現代からは違和感いっぱいだが当時は、主人公とほぼ年代が同じということもあって、身に置き換えて友人たちと議論したものである。

三浦しをん「あやつられ文学観賞」。高木秀樹「文楽手帖」。

三浦しをんの「仏果を得ず」を読んで以来文楽も中々面白いものだなァと興味を持って、その副読本に読んでいた本。
知り合いに文楽関係の人がいるのでどうせ行くのなら彼女に紹介してもらって行こうと思っていたのだが、彼女も中々忙しくてまだ残念ながら国立文楽劇場には足を運べないままでいる。
そうこうしているうちに1月の定期公演も終わってしまい次回のチャンスは4月である。その時には是非ともと楽しみにしている。
8月の内子座の公演にも是非とも行きたいものだ。
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三浦しをんの文楽に対する愛情がたっぷり感じさせられる本である。
彼女なりの文楽の楽しみ方を滔々と語っているだけの本だが、とても面白い。
百田氏が小説なんて「所詮面白くてなんぼのもんや」と語っていたが、この作品は三浦氏の自分が楽しくて仕方ないことを笑いながら書いているようで読んでいてこっちも一緒に楽しくなってくる。
こんな本がいいなァ・・・
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一緒に読んでいた本。とっつきにくい文楽の題材もこうして解説してもらえればなんとも是非見たくなってくる紹介本である。

神立尚紀、大島隆之「零戦」。

昼休みにパラパラと読んでいた本。
読み終えるのに一年くらいかかったかな?
2013年12月に刊行された本である。
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零戦の初出撃「向かうところ敵なし」から、終戦前にはその性能もことごとくアメリカ機に凌駕され、さらにその為に設計されていない最悪の作戦遂行の為に、性能も無視され若者たちと共に急降下し太平洋に散っていった零戦のいわば生涯を描いた作品である。
読むにつれ、あの当時の軍部の余りにも愚かな連中に改めて憤怒の念を覚える。

・真珠湾攻撃に参加した搭乗員は、各機種合わせて777名。そのうち約8割に当たる620名余りがその後、3年9カ月に及ぶ激戦のなかで戦死、あるいは殉職し、生きて終戦を迎えたのは約150名に過ぎない。戦後68年が経ったいま、存命が確認できるのは数名のみである。
・昭和19年10月25日にフィリピンで始まり、翌昭和20年の終戦の日まで続けられた体当たり攻撃、特攻。このさきがけとなったのは、甲種飛行予科練習生10期生、通称「甲飛10期」の若者たちだった。10期の入隊者1099人のうち、戦死したのは777人。全体の7割以上に及ぶ。甲飛10期の入隊時の平均年齢、16.7歳、終戦時の平均年齢は19.2歳という数字が残っている。太平洋線の最終盤、この平均年齢20歳にも満たない甲飛10期生が海軍航空隊の中心戦力のひとつとならざるを得なかったことを考えると、搭乗員の消耗に対してその養成が全く追いついていなかったことがよくわかる。

機体より人命の方を軽んじたバカな上層部の連中の愚かさがボデイブローのように、戦争末期に効いてきたのである。新入兵たちに向かって「お前らの代わりなんぞ赤紙一枚でいくらでも補充できるんだ」とほざいた上官がいたというが、こんな連中があの時に日本人にいたのであるそして今もいるだろう。

・戦争が終わり、米軍が進駐してきたとき、日本海軍には、零戦1166機をはじめとする計1789機の戦闘機が残存じてた。

これらはどうなったのだろう。こんなにも多くの零戦が生き残っていたと初めて知った。

恒例カキオコパーティー

今年も恒例となったカキオコパーティーを長野からエリチャンとミズホちゃんを迎えて行った。
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鴻島のカキ養殖業者から直である。
今年のカキはなぜか小粒だそうで、業者のおやっさんがいうにはこれはあとひと月まっても変わらないとのことであった。
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まずは、当然カキ酢からスタートである。
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アヒージョ。
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エスカルゴ風。
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定番カキフライ。
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今日も酒飲みばかりで、この他に、白、赤ワインであった。
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中華風。
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いつもこのカキオコは最高に旨い!!!
今年もみんなで楽しいカキオコパーティーであった。。。。
例によって先に寝たので何本のワインが空になったかは知らない。。。
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夜中に目が覚めて並んでいるワインを見つけて写真を撮った。
マァ先々週に比べたら少なかったようだ。。。続きを読む

朝井まかて「花競べ」

お気に入りの作家朝井まかてのデビュー作である。
彼女の一番得意とする花木ものである。
江戸時代は、武家の間で造園が盛んになり多くの花木がその庭に植えられた。それに伴いその文化が町人にも広がり多くの花木の改良が行われ、新種も多く産出された。
この本によれば、桜のソメイヨシノもこの時代の新種だそうだ。
マァマァ面白い作品で最後は少しほのぼのとしたが、もう少し人情の機微を描いてほろりとさせる仕掛けがあればなおよかったなァ・・・
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・交配を重ねて生み出された花は性質が弱くなるきらいがあり、病害虫に弱く、その時限りの徒花(あだばな)も多かった。
・この時代(この作品の時代設定は江戸中期と思われるが)「ニ夫にまみえず」は武家のしかも跡継ぎの長男を儲けた妻にだけ架せられたもので、他は、武家も、町人も結婚、離婚を気儘に繰り返していた。
・花火見物の屋形船での台詞である。
「上方は水がよろしいのでしょうな。江戸で呑んでこんなに旨いのだから、灘の蔵元で呑んだらいかばかりでしょう」
江戸の水事情は悪かったというのは時代小説を読むと何度も出てくるが、酒もそういったところで旨い酒は上方ものというのが定番だったのであろう。

池井戸潤「ルーズヴェルト・ゲーム」

大好きな作家であるが、この作品は最後まで読み切ることが出来なかった。
これまでこの作家の作品は、「空飛ぶタイヤ」「「下町ロケット」等々読みだしたら止まらなくなる魅力があったがこれは何とか半分くらいまでつなぎながら読んだが、遂に断念した。今までならそれでも最後まで読んだであろうが、先日2冊ほど「えいっ!ヤメヨ!」と決心して以来、無理してまで読むのはやめようと方針転換である。
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加藤廣「信長の血脈」

信長の文字につられて買ったが、なんともの内容の本。
「帯の真実を・・・」もしらじらしすぎる。
4部構成になっているが、しょっぱなの平手政秀の話の中で信長が次男の設定になっている。
これはありえない。信長公記他でも書かれていることで、こういう奇をてらった説を書くならそれなりの十分な裏付け検証をするべきである。
このことだけでこの作者はダメである。
他の部項も一応読んだが、精読する気にはなれなかった。
「平手政秀」は、父親信秀から信長の教育係としてつけられられたいわゆるじいである。
信長が20歳ごろにその信長の素行を戒めるために自刃したといわれるがその詳細は不明である。
この作者は、信長公記の作者太田牛一がそれを執筆したのが信長17回忌、牛一が70歳を過ぎた時のものなので伝聞によるものが多く信用できないとしているが信長公記に書かれていることは、他の資料たとえば京の公家が書き残した「言継卿記」他各藩に残された資料でもその信憑性は裏付けされている。それが信用できないというなら自身で十分に資料を示して反論すべきである。ただ自分勝手な解釈の憶測だけでそれがあたかも真実のように自作品に盛り込むのは許せないことだ。

3部の「山三郎の死」の中で書かれている秀頼が秀吉の子でないというのは、これも歴史家の間では通説のようなものである。
他の何十人といる側室が誰も懐妊しなかった中、淀の2度にわたる懐妊、秀頼の秀吉とはとても似つかぬ風貌から大きな疑念が湧くのは当然である。この説には、おおいに賛同であるが、この作者はいわゆる歴史小説家というより、講談師のたぐいの作家である。
歴史を面白おかしく作ってはいけない。
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五島列島のブンさんが来阪。

五島列島日の島のブンさんが、長崎物産展で来阪していると連絡があったのでみんなで接待することにした。
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見慣れた商品が並んでいた。
写真はブンさんである。

食事に行く前に、千日前の道具屋筋が近いと案内すると包丁を買いたいというので連れて行った。
日ごろ使いの出刃包丁を3本買ってとても満足そうだった。
また時間をかけて是非来たいとのことで、道具好きは、男子共通項のようだ。

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大阪城の3Dマッピングに連れて行った。
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暮れなずむ千貫櫓。
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3Dマッピング。壮観だった。
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ぶんさんは愉しかったようでいつもみんな世話になっているので少しながらお返し出来てこちらもとてもいい日だった。

バンド新年会。

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バンド仲間と新年会。
今年もみんな頑張って練習してまたライブをしようとなった。

「真説歴史の道」バックナンバーが届いた。

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長崎の古本屋でたまたま見つけた「真説歴史の道」。
書かれてある内容はマァそんなものだがそれぞれの出来事の背景を示した地図、写真がとても興味深く他のバックナンバーを注文した。

とても面白い。

歴史小説を読む折、困るのがその地域図である。また城の配置図であったり、とにかく地に明るくない場所での合戦はその彼我の陣営、相関がとてもわかりにくい。なぜその地域の地図を参考図として添付しないのかと思う。その為に地理に明るくない場面での合戦はグーグルアースをいちいちチェックしながらの読書となる。
まぁそれも面白いのだが・・・

このシリーズ以外にもう一つ探しているこの手の雑誌がある。「絵で知る日本史」というシリーズだが、これは残念ながらバックナンバーがない。ネットで売られているようだが定価の何倍もの値がつけられているし、どれくらいの程度ものなのか全く分からない。手に入れてボロボロだったとしても文句は言えない。

一度図書館にいって探してみようと思っているが、最近は古本屋もちょこちょこ覗いている。
年をとると趣味も変わるものである。昔は他人の手あかのついた古本など絶対に買わなかったのに・・・

152回直木賞。

昨日152回直木賞の発表があった。
残念!!予想はものの見事に外れてしまった。
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受賞作は、西加奈子『サラバ!』。
悔しさと言いわけでいえばこの作品も、かなり面白い。
イランのテヘランで生まれた主人公が破天荒な姉とかかわりながら生きていくストーリだが、軽妙な筆致で読んでいてクスリとさせるシャレも含んでいる。
ただ買おうかなと手にまで取ったが、単行本2冊にわたる長編で、計4000円くらいになるので「マァ慌てて買う必要もないか。受賞したら買おうか」とやめた次第。

今頃本屋では、大きな面積を占めてど派手に陳列しているのだろうと目に浮かぶ。

その売り上げも他の候補作の倍になるだろうから、その辺でも選ばれたのかと思うのは、深読みしすぎカシラン・・・

桐野作人「織田信長」

信長の伝記ものは、何度読んでも面白い。
「信長公記」、「下天は夢か」他信長関連の本を読むにつれその一生は波乱万丈痛快無比である。
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この作品は、「信長公記」を中心に、「言継卿記」他の資料を絡ませ、さらに最新の資料に基づき、且つ不確かな講談ものは排除し、史実にできるだけ忠実に信長の生涯を時系列に追ったものである。

流石に最近信長関連の本は読み漁っているだけに、事項についてはほとんど知っているものばかりであったが、ひとつひとつ出典を比較検討し、時にはそれを基に大胆な予想も加えて信長の行動を分析している。文章が変わるだけで、少し視点を変えただけでそれはそれでまた大変面白く読み進めることが出来た。

読み終えて改めて感じ入ったのは、よくぞ信長は本能寺まで生き延びたということである。
よくぞこれだけ、無鉄砲な戦をして命を落とさなかったものである。信長公記にもあるが信長には「天運があった」のであろうが、遂に本能寺でその運も尽き果てる。

それとこれは本書には描かれていないが、信長が尾張の極小大名からなぜこれだけのことがなし得たかであるがそれは本書では、信長の「軍事カリスマ」性のみに焦点を当てているが、私が信長に強く感じるのはその商才である。それに加え信長の領地が割と肥沃で得られる石高大きかったというだけでなくもうひとつ「津島」という大きな商業港をかかえて現金収入を産む裕福な地域であったことが大きい。

付箋をはがしながら、もう一度この作品を振り返ろう。

それにしても長編であった。
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744頁あり普通の文庫本3冊ほどに相当する。めちゃめちゃ分厚い。。。

・弘治2年(1556)4月、信長の大きな後ろ盾であった斉藤道三が嫡男義龍(よしたつ)に討たれる。これに乗じて信長の筆頭家老林秀貞は柴田勝家と謀り、弟信勝を擁立しようとした。

・庶兄信広の話。信長の兄であるが、生母は不明。天文18年(1549)3月三河との最前線の城安祥城の城主であった信広は、落城し不覚にも捕らわれの身となってしまう。並みの将なら即殺されていたであろうが、庶子とはいえ織田家の長男ということで利用価値がありと生かされたのであろう。丁度織田家に拉致されていた松平竹千代と交換され尾張に戻った。ハナから竹千代と交換するために捕らわれたのかもしれない。ただいずれにせよ織田家にとっては手痛いことであったろうが、信広はその恩も忘れ信長に反旗を翻す。あろうことか弘治2年(1556)4月義龍と内通して信長を打とうとしたのである。しかしすんでのところでその謀略を見抜き信長は窮地を脱する。
このようにこの頃信長の周りは、敵だらけであった。それも同族ほとんどであった。だが軍勢の数では圧倒的に劣勢であった信長がそれをはね返して打ち勝ったのは、信長の時に見せる用心深さと7~8百といわれる精鋭軍を擁していたからであった。
信長はこの後寛大にも信広を許し、信広は悔い改め信長の為に働くが、その後天正2年(1574)伊勢長島一向衆との戦いで討ち死にした。

・信勝(信長公記では、「信行」)は、弘治3年(1557)11月2日清州城で信長により謀殺された。これには柴田勝家の密告が功を奏したといわれる。柴田はこれにより後に越前の大国を信長から拝領することになる。

・桶狭間の戦いについて。
これまでは今川義元が明確な上洛の意思を持って駿府を発ち、立ちはだかる城を悠々と落城ししつつ進軍し。。。というのが通説であった。いわゆる軍記物とよばれる江戸時代に面白おかしく書かれた戦記ものであるが、その説は今日の研究ではほぼ否定されている。他に義元の西上理由については、三河領有説、尾張侵攻説、国境紛争説がある。この上洛説が否定されていることはこの本で初めて知った。とても興味あるところである。
そしてこれにより、桶狭間の戦いも今までいわれてきた奇襲説以外にも多くの可能性が研究されつつある。
とても面白いことだ。。。

・藤本正行氏の1993年の発表によると、両軍は手越川沿いで正面衝突し、前軍が崩れた今川軍を信長が追撃し遂に捕捉し義元を討ちとった。
藤本説は信長公記を丁寧に分析したもので他の研究者の支持も多く、信長が正面から攻撃したというのは現時点での到達点といわれる。

・信長が家康嫡男信康に切腹を命じたというのは、現在の研究では否定されつつある。
「三河物語」によれば、信康問題については「是非に及ばず、家康存分次第」としたという。

・信長は、天下統一が進むにつれ「一国指出(いっこくさしだし)の提出を、支配下の大名、国衆武士のみならず寺社、荘園などのあらゆる領主に対して求めた。
この差出は、いわゆる検知で、その領国の広さ、収穫高の正確な数値の提出を求めたものである。
これはその領地の知行把握による石高の確保よりも重きは軍役賦課にあったといわれる。信長はこれにより動員兵の確保を確実にしていった。太閤検地が評価されがちだが、信長はそれより以前に知行を正確に知ることにより軍役を正確公平に課すことにより、その軍事力を確立することに全力を注いだのである。
尚その単位は、貫高表記で提出されたものも全て銭一貫=二石で換算され全て石高で把握された。信長の税、軍事力対する考え方がうかがい知れる一事項である。軍事力は即ち経済力である。

・天正10年3月11日遂に武田勝頼は田子(東山梨郡)で討たれた。14日にはその首は信長の下に届けられたが、信長は罵声を浴びせかけたうえ、飛びかかり蹴とばしたという。

・猶子(ゆうし):養子に似ているが養父と同居しない養子のこと。

さていよいよ「本能寺の変」である。

・本能寺の変の直前信長が光秀を足蹴にした事件は、二つの資料イエズス会フロイスの残した資料と「稲葉系譜」からほぼ事実であったと考えられている。その足蹴の理由は、判明していないが信長の四国攻めに対する意見の食い違いであったろうと作者は推察している。
この密室で起こった事件がなぜ外に漏れたかは、三男信孝の口から洩れたのではないかと作者は推測する。
信長初め子たちもイエズス会を保護したが、特に信孝は熱心な支持者であった。フロイスは、信孝のことを「常にわれらの大いなる友人であり、デウスに好意を寄せていた」と書いている。

・「ときは今 雨が下しる 五月哉」
光秀が決起に及び愛宕山で詠んだとされる余りにも有名な句であるが、この当日知人に宛てて書状を送っている。そこには、これからの光秀の行軍予定が書かれているが、本能寺の変のわずか三日ばかり前に書かれているのもかかわらず謀反をにおわすようなことは一切書かれていない。至って普通の内容であった。このことからこの時点でも光秀は謀反の決断をしておらず、中国に出陣のつもりだったのではないかと作者はいう。

・信忠は、家康、梅雪の警護で上京しそのまま堺まで同行するつもりだったが、信長が上京してくると知り堺行きをやめて京都で出迎えることにし、本能寺から数百メートルさきの妙覚寺を宿舎とすることにした。
ここにいたって光秀にとって千載一遇のチャンスが生まれたのである。

・光秀が信長に強い恨みを抱いたのはこの足蹴事件がきっかけであったろうと作者は分析している。大いに同意したい。そして5月28日の愛宕百韻でも決断しかねていたが、5月29日信長がわずか数十人の供廻りだけで上洛したばかりか、嫡男の信忠まで同時に討ちとれる状況が目の前に現れ遂に決断したのであろう。

・6月2日未明卯の刻(0600)、明智軍は本能寺になだれ込んだ。信長はここで有名な言葉を吐く「是非に及ばず」(信長公記)
これは信長の口癖であろう。信長公記で重要場面で何度か出てくる。「しょうがない」という意だと思う。
他に「三河物語」によると「上の助がべつしんか」とも叫んだという。
上の助とは、信忠のことである。目と鼻の先に宿舎をかまえていた長男信忠が謀反を起こしたと思ったのである。
またイスパニア商人アビラ・ヒロンの「日本王国記」によると信長は光秀が自分を包囲していると知ると「自ら死を招いたな」とつぶやいたという。
この意は不明である。これには、色々な歴史家が種々の解釈を加えている。

これらの事項が多く残っているのは、信長が女たちを「女はくるしからず、急ぎ罷り出よ」と命じて逃したからである。彼女らの証言によって信長の最期は正確に後世に残ることとなった。信長公記の作者太田牛一も彼女らに綿密に取材したという。

・信忠は異変を知ると妙覚寺から近接する二条御所に移った。より防御しやすかったためである。ここでの選択はここで戦うか、逃げ出すかであったが、信長なら一目散に逃げたであろうが、信忠は逃げても光秀ならば周到な包囲網を敷いていると思い雑兵の手にかかるくらいなら潔く一戦して果てようと思ったのだという。だが実際には光秀もそこまで準備できておらず逃げようと思えば十分に逃げられたという。信長の弟有楽斎は現に悠々と逃げおおせている。

・本能寺の変後も、織田家の体制は2年ばかり続くが、二男信雄、三男信孝、嫡孫三法師と健在であったがそれぞれの理由で織田体制を継ぐことはできなかった。歴史に若しがあれば、信忠が生きていれば秀吉の天下、家康の天下はどうなっていたか分からない。たぶん秀吉の思いのままにはならなかったと思うが・・・

終わり。。。

木下昌輝「宇喜多の捨て嫁」

かなりインパクトの強い外題である。
宇喜多の名は、その謀略、陰謀、陰湿さの極まりからそれらがまかり通った戦国時代でさえ忌み嫌われたという。

これがまた分からないのだが、関ヶ原では宇喜多秀家は西軍につき日和見が目立つ軍勢の中、果敢に東軍に攻め入り縦横無尽の奮戦をしている。
結果壊滅的な敗北を受け、領地は奪われ家臣たちも霧散してしまいあれほどまで苦労して築いてきた一族は滅びる。ただ秀家は島津を頼りに生き延び、なんとか死罪を免れ八丈島に遠島となり生涯を終える。だが一族は島で生きながら家を繋ぎようやく明治維新で島津家が徳川を滅ぼすと救出された。
このあたりを描いた小説があればまた探して読みたい。

凄まじい一族である。群雄割拠の中国地方での争いであるが、やらなければやられるという下剋上、戦国の世の中で生き延びただけにその手段、謀略は陰湿そのものである。
最後は主家浦上家を滅ぼして毛利に次ぐ大大名にまで登り詰める。

作品内容は、表題の
「宇喜多の捨て嫁」(宇喜多直家の4人の娘の四女「於葉(およう)」が嫁ぎ、その嫁ぎ先が親によって滅ぼされる。)
他、オムニバス形式で5つの話によって構成されている。それぞれが独立した話になっているが、またそれぞれがの話の一部が微妙に繋がっている。とても面白い作品だった。作者の力量がうかがい知れる作品であった。
明日発表される直木賞の候補作品でもある。
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余談だが、
今回の直木賞受賞候補作品も5作品に絞られ、他の候補作品は
・青山文平『鬼はもとより』(徳間書店)
・大島真寿美『あなたの本当の人生は』(文藝春秋)
・木下昌輝『宇喜多の捨て嫁』(文藝春秋)
・西加奈子『サラバ!』(小学館)
・万城目学『悟浄出立』(新潮社)

である。
今回の候補作品もどれも抄録を読んだが『悟浄出立』以外はみんな面白い。
その中でも、この「宇喜多の捨て嫁」は、頭一つ面白い。
自分の中で次点は、「鬼はもとより」である。
たぶんこれで決まりであろう。シランケド・・・
抄録を読んだだけであるが、他の作品も全てボチボチ読みたい。
さて明日の発表が楽しみである。
ただ一旦受賞作が決定すると他の作品は、書店でも探すのが苦労するくらいにすみに陳列が追いやられる。もったいないことだ。

それと余談をもう一つ。
学生時代暇にまかせて本を読みあさっていた頃は、この直木賞は、テンで馬鹿にしていた。一方芥川賞には重きを置いていて発表ごとに必ず読んでいたがついぞ直木賞作品は読んだことがなかった。

自分ではいきがって大衆文学なんぞ読めるかと思っていたのだが、その大衆文学と芥川賞でいう純文学の違いさえも分かっていなかった。
分かっていなかったと過去形でいうのもなんだが、今でも自問するとこの芥川賞と直木賞の違い、純文学と大衆文学との違いは未だにはっきりと分からない。
ネットで調べてみても

―「芥川賞」は純文学が選考基準の新人作家が対象の文学賞。「直木賞」は大衆文学が選考基準の新人及び中堅作家が対象の文学賞。
「純文学」とは大衆文学と比べて、芸術性や形式について重きをおいた小説の総称。この場合、一つのテーマに基づいて書かれることが多い。
「大衆文学」とは、純文学と比べて、娯楽性や商業性を重んじる小説の総称。
この場合、ストーリーや話の展開を意識して書かれることが多い。―

との卓越であるが、益々分からないのでこれ以上深入りはやめよう。
兎に角、読みやすいのが大衆文学で、読みにくいのが純文学であろうと理解しよう。
そんなことで最近は、川上未映子「乳と卵」以降芥川受賞作品は読んでいない。

その点直木賞作品は面白い。
学生時代とは180度転換である。

それと芥川賞選考委員を石原慎太郎氏が辞退したことも自分の中では芥川賞を見切った大きな理由である。所詮小説は娯楽作品である。読み手に受け入れられてなんぼのもんである。それを出版社の力関係で、読み手を不在にして商業の理屈で選んだ賞なんて欺瞞、手前みそ以外の何物でもない。レコード大賞が、そうであったようにそうした賞は大衆のしらけを生んで権威も何もないものへと堕落していく。
何年だったか誰もが受賞と思っていた加山雄三の「君といつまでも」が選ばれずに、全く聞いたことのない橋幸夫の「霧氷」が選ばれたときに、この賞は大衆にそっぽを向けられるなと思った。そしてその通りになった。

その点まだ直木賞は候補作品が、みんなそれぞれマァマァ面白いのが救いである。
それに比べると、本屋大賞の受賞作品はどれもみんなずっと面白い。特に最近何回かの大賞作品は、ザァ~ま面白い。いずれこの本屋大賞は、芥川賞、直木賞を上回る読者の信頼を得る賞となるのではないか。

それはさておき明日の直木賞は、どの作品が選ばれるかとても楽しみである。
「宇喜多の捨て嫁」が受賞、「悟浄出立」はありえないという予想だが・・・

・諱(いみな):本名のことで。武将間では本名を口にするのは不吉とされ、和泉の守、左衛門尉等の官名や通名で呼び合い名乗るのを常とした。
・「狡兎死して走狗烹らる」(こうとししてそうくにらる)
必要なときは重宝がられるが、用がなくなればあっさり捨てられることのたとえ。

決戦「関ヶ原」

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なんとも腑に落ちなかった天下分け目の「関ヶ原」の合戦が、司馬遼太郎「関ヶ原」とこの本を読んで何となくわかってきたような気がする。

関ヶ原の舞台にそれぞれの事情で立たざるをえなかった武将達をそれぞれの目線から作者を変えて描いた一冊である。

登場人物は、徳川家康。宇喜多秀家。可児才蔵。小早川秀秋。石田三成。島津義弘。織田有楽斎。の7名。それぞれに個性たっぷりの人物たちである。

BigElle新年会。

今年初めてのBigElle宴会である。
NZからブライン、ケイコ家族を交えての愉しい新年会となった。
今年もこのメンバーを核に楽しんでいきたい。
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本日のメインデイッシュは、手巻きすしである。
長崎のYさんに頂いた焼きのりが大活躍してくれた。

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1200に乾杯で始まった宴会は、延々と続き最後は例によって確認していない。
2200を超えていたそうだ。
飲みも飲んだりシャンペンから始まり、白ワイン、赤ワインとわたり計15本が空きビンとなり、プラスごみ袋一杯のビールの空き缶となった。続きを読む

石川梵「鯨人」

もう何年も前に買った本である。1/3ほど読んでほったらかしになっていたが、チラッと何の気なしに読みだしたら最後まで一気に読んでしまった。
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1990年代に7年にわたり、バリ島から1000kmも東端、絶海の島レバンダのラマレラで行われているクジラ漁を取材したものである。
その漁は、銛を持って鯨に飛びかかるという原始的もので、日本でいういわゆるつきん棒である。ただ少し違うのは銛を投げるのではなく、そのまま槍のごとく海に飛び込んで仕留めるというもので、危険極まりないものであった。事実何人ものラマファとよばれる銛打ち漁師が命を落としていた。

その鯨を追いかっける船も粗末なもので、動力は人力による櫂とヤシの実を編んだ簡単な帆で、速度も遅く、行動範囲もごく限られたものであった。そのため、潮を読み、風を読みすこしでも行動範囲を拡げる工夫をしながらの漁であった。年に捕れる鯨の数も数頭と限られていた。しかし一度捕れた鯨の恩恵は、凄まじく村全体が数カ月暮らせるものであった。捕れた鯨は、数日かかって解体され、女たちがそれを担いで歩いて山の幸と物々交換してくるのであった。驚いたことに、その鯨の肉はほとんどがその商いに回され村での消費はほとんどなかったという。

浜で解体された鯨は、骨を除いてすべてが消費され残った骨は、浜辺から海に返されたという。
捕獲法、消費の仕方と日本の伝統捕鯨漁と、多くの共通点があった。

だが近年、例によって捕鯨反対団体が村に押し寄せ、捕鯨漁からホエールウオッチングへの切り替えを迫っているという。
海に平和に暮らす鯨を追いまわして銛で仕留めるのはそれはもちろん残酷である。しかしその鯨一頭の犠牲でラマレラ村一村が数カ月暮らせることも事実である。
また鯨が増えすぎることによって失う海洋資源も膨大である。
TVで放映された鯨の捕食映像を見たことがあるが、それは壮大なもので何万匹もの魚の群れが鯨の集団による狩でほぼ一瞬で根こそぎ消滅していた。近年の太平洋における漁獲量の低下は鯨のふえすぎによる影響が大いに関係しているといえよう。
大型動物である人間と鯨は同じテリトリーでは共存できないのである。
オーストラリアでは増えすぎたカンガルーを間引きし、食用にもされている。その肉は決して美味いものではないが、そうして自分らは間引きしておいて、日本人が鯨を間引きすると、ヒステリック、声高に非難するというのは理屈に合わない。

日本は調査捕鯨という詭弁で、捕鯨を細々と続けているが、姑息極まりないことである。堂々と捕鯨を宣言して捕獲量を決めて国としてとりくむべきである。

ただホエールウオッチングにも何度もいったが、海を泳ぐクジラは雄大で壮観である。
またイルカも人懐っこく、ヨットのバウの白波で遊ぶのを見るのはとても楽しい。

・マッコウクジラは、頭の前よりに鼻があるので、潮を前方に吐き、シロナガスクジラは、真上に二股に吹き上げるように吐く。
・漁に出た漁師たちが行方不明になると、女たち、老人たちは夜、浜に集まり暗闇の中、島の位置が分かるようにかがり火を焚く。そして遭難しているものたちに届くとの願いを込めてトウモロコシやタピオカ、米などを袋に包んで海に流す。
・そして祈りの儀式を行う。その時村人たちが祈るのは、日ごろ信仰しているイエス・キリストではなくて昔から村を守る神であった。
・鯨の油は、マイナス40度になっても凍らないので今でもロケットの潤滑油として使われているという。

長崎最終日。

S君に誘われて、鯱太鼓の叩き初めがあるというので歴史博物館に朝早く起床して行った。
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鯱太鼓は、長崎県剣道連盟の初稽古の前に披露されるとのことであった。
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昨年のおくんちの時にも見たが、若者たちが調子を揃えて叩く太鼓の演技は、勇壮かつダイナミックである。
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腹に響く太鼓を楽しんだ後、Yさんに誘われて諏訪神社まで歩いて境内横の茶屋でうどんを食べた。
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関西風で、それほど甘くなく美味しいうどんだった。
ここで世話になったY家族と、また来月の再会を約束して別れた。
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諏訪神社からまたワーフまで歩いて帰った。
途中中町教会があった。

ワーフでRさんと別れて、空港に向かった。

これで今回の長崎旅行は、無事終了である。
ゆっくりと、のんびりとした年末年始であった。こんな何もしなかった年末年始は、記憶にない。たぶん初めてのことである。

長崎6日目。早っ!!!もうラストナイトである。

昨日来る予定だったRさんが荒天で一日遅れで来てくれた。P1060694
上五島からは、高速船で1時間半である。
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低気圧も過ぎこんないい天気。
だがとても寒かった。
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午後からは。Yさん家族も合流して新年会となった。
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Rさんが送ってくれた伊勢エビ。バカでかかった。
小晦日に届いたのだがまだ生きていた。
3日間も船にいて、ギィギィと鳴いて少しかわいそうだった。
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プロであるYさんは、こんないい伊勢エビを刺身で食べるのはもったいないと、色々な料理にアレンジして出してくれた。
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1800から「堂山」で夕食の予約してあるのに、すっかり食べすぎてしまった。

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すっかりみんなご機嫌で記念撮影。

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今日の献立は、正月バージョンで絵で描かれてあった。大将自ら描いたそうで素晴らしい腕である。
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料理もそれ以上に素晴らしかった。
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大将と女将さんともすっかり仲良しになった。
長崎の人はみんな優しい。。。

千鳥足で、ワーフまで帰った。
なんの計画もなく、ダラダラと過ごすつもりだった今回の長崎旅行もあっという間にラストナイトであった。

長崎、元旦。

みなさん明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い致します。

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出島は、五島列島からわたってくる北西からの風を受けマストがヒューヒューと鳴っていますが、天気予報程の大荒れとまでの天候ではありません。
天然の良港長崎港は波一つありません。
かえって島々を結ぶ通船がすべて欠航になったので、引き波が一切なく、日ごろに比べて快適至極な船上生活です。
朝一番「ふくの湯」に初風呂に入りにいき、マッサージも受けてリフレッシュ。
ほっこりした後、
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諏訪神社に初詣に出かけました。
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大ぜいのひとたちでにぎわっていましたが、大阪住吉神社の歩けないほどの混雑にくらべたら、ガラガラといってもいいほどの人出でした。
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少し雪がちらついてきました。
今年一年もいい年でありますように・・・
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北東方面を望む。

船でゆっくりした後、Yさんが自宅に招いてくれ新年パーティーを開いてくれました。
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まぁ豪華なお刺身を用意してくれていました。
真ん中は長崎名物クジラ料理です。
日ごろクジラの刺身は食べませんがこれはホント最高に美味しかったです。
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シャンペンで乾杯。
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〆はYさん特製の、ちゃんぽん麺、皿うどんでした。ザァ~マ美味しかったです。
感謝。感謝。
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