Bigelle

Bigelle Capの日々の記録です。 Bigelleのホームページ: http://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/9542/ 

2014年12月

長崎にて大晦日。

大晦日を日本で迎えるのはホント久し振り。
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海が大荒れで五島のるりちゃんは明日来れなくなりましたが、誕生パーティー用のシャンペン、ワインと食材だけは今日の便で持たせてくれました。ザァ~マ感謝。。。
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流石長崎港!!!外は大荒れのようですが波はこんなに穏やかです。
But風は稲佐山を抜けて吹き荒れています。
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おせちを受け取りに蕎家にきました。
蕎麦屋そば
ついでに蕎麦をいただきました。
ここの蕎麦は美味しい。
ちゃんぽん文化のど真ん中でやっと蕎麦の地位を築きつつあります。

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グッチがどうしても行きたいというので付き合って有名店「思案橋ラーメン」に行きました。福山雅治が通ったことで有名になった店です。30分も待ちました。
普段は絶対にしないことです。
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夕食のイタリアンまで時間待ちでカフェでダラダラしました。
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マァよう食べますわ。。。これで今年の外食喰いおさめです。
後は、船で・・・
まだ食べるつもり・・・

長崎で新年を迎えるのは勿論初めてです。
でもないか。ハウステンボスでカウントダウンしたことがあったなァ・・・

もとい、長崎市内では、初めてです。
夕方になると人通りも流石に少ないです。蕎家のシュン君は友達たちと集まって飲み会だそうです。


それではみなさんよいお年を・・・

長崎3日目。

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昨日ぶんさんが態々船まで持ってきてくれた天然鰤。
朝から捌いて食べました。
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昼過ぎまでダラダラしたあと、やっと行動開始。
YOUMEサイトの紀伊国屋で暫し愉しんだ後、思案橋へ。
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西浜商店街にあった「本だらけ」

『本は心のご飯です』

久し振りに心に染みた言葉だなァ~~~

少し疲れて、
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コーヒーショップで休憩。

フッカ~~つ。。
寺町通りを抜けて諏訪神社へ向かって歩いた。

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古本屋があったので覗いた。
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流石に長崎関連本がびっしりとあった。店主と暫し話し込んだが、矢張り今日店頭では中々売れないようである。売り上げの半分以上はネット販売によるとのことであった。

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シーボルト通りもすっかり慌ただしい年末の様相であった。

さて今夜の夕食のお店は、七輪亭。
塩ホルモンの看板に惹かれた。
新鮮な肉でないと、塩味では食べられない。
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炭で焼いて、新鮮な肉に大満足。
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後何軒か行くつもりで腹を残して店を出て思案橋まで歩いた。
今日も移動は全て歩きである。
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「裏町人生」。
メチャクチャユニークな店である。今度みんなんで来よう。

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長崎の歓楽街はこんな狭い道でもTAXIが通る。TAXIも歩行者も慣れたもので上手く譲り合ってとてもイイ感じ。
千鳥足の酔っ払いのお兄ちゃんもTAXIが来たらちゃんと道の脇に止まる、TAXI運転手もそんなお兄ちゃんがよけるまでじっと待っている。日本人ってイイナァと思う瞬間であった。

三軒目の「裏町人生」は、流石に疲れてNEXTとなったが、今日も一日愉しかった。YOUMEサイトの紀伊国屋に買い置きしてあった本を取りに行って船に帰ってもう一杯。
明日は大晦日である。
20141230出島~七輪亭
今日もよく歩いた。

日本史「その後」の謎。三浦綾子「塩狩峠」

今回の旅行は、いつもの綿密に立てる日程とは、まったく違って無計画である。
ザァ~マひたすらのんびりという趣向である。
そんなことで
ハーバーの近くのYOUMEサイトに紀伊国屋があるのでそこでも仕入れようとは思っていたがとりあえず5冊の本を帯同した。
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スタンドも買ってきてすっかり所帯じみてきた。手の届くところに何でも揃え、
最高の読書コーナー出来上がりである。

一冊目は「日本史『その後』の謎」。
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往きの飛行機から読み始めたら初日で読んでしまった。5冊で足るかいな?

色々知らないことを教えてもらったが、噂話のたぐいも多く、歴史書というより、こんな話もあったんだ程度の内容である。

二冊目は「塩狩峠」。
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知り合いの本好きな女の子が勧めてくれた小説。
受験勉強真っただ中というのに、ちらちら小説を読んでいるらしい・・・
ワカルなァ・・・

実際に北海道で起こった事件をもとに書かれた小説。
内容はものすごく暗かった。
小説なんて所詮は娯楽作品である。読む人を愉しませて、喜ばせて、励ませてなんぼものである。
読後気分がめいりそうになる作品は、ごめんである。
作者が自分の筆に酔っているような作品は勘弁してほしい。

人それぞれなので、買う時の目安にするので、そんな小説はこれだけは、帯にはっきり書いておいてほしい、「この作品はハッピィエンドで終わっていません」と。。。

大体先入観を避けるため本を読むときにはあらすじを読まないが、この作品は、最後まで何について書きたいのか全く分からないままであった。一人のキリスト教を嫌っていた男が、身の周りにおこる色々の出来事の中で、キリスト教に入信し、その後全国でも有名な牧師になり最後は・・・という話。それだけである。
実は、自分も先祖代々の天台宗徒でありながら何年か教会に通ったことがある。
讃美歌を歌って、牧師の説教を聞いて、それは結構面白い経験であった。
小学校の頃のことである。
出会った牧師さんたちも、信者さんたちもみんなとてもいい人たちだった。

ただキリスト教自体はともかく、キリスト教の布教が西洋諸国帝国主義の先兵となって有色人種の数々の文化を徹底的に破壊してきた歴史がある。

ダイビングに夢中になりパンパシフィック諸島を巡り潜っているころ、村々に教会があり讃美歌の透き通る歌声が海岸のから見える緑の森を通して聞こえてきたことも稀ではない。それ自体は否定するものではないが、まずいと思うのは、キリスト教以外を邪教としてその土地土地の宗教を否定し、引いてはその文化を否定し破壊してきたことである。
パンパシフィックでキリスト教にあとかたもなく文化を破壊された島の数ははかりしれない。


まっそんなことで今日からは何を読もうかなぁ~~~

長崎2日目。伊王島の温泉へ。

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いい天気。

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長崎駅前まで歩いて、シャトルバスに乗った。

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海はべた凪。予定では、小浜温泉に行こうとの予定だったが、人数が少ないという理由で却下されてしまった。
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ペーロンが、「白龍(パイロン)」由来であることを知った。
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予約客で満杯であった。
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北側は、強い風が吹き。マァ船を出さなくて良かったかな・・・
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ほっこりして、水の森公園でシャトルバスを降り、ワーフまで歩いた。
長崎に来たらよく歩く。
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夜は、ワーフ前のレッドランタン出島店にて。
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火鍋。とても美味しかった。辛くて、熱くて汗びっしょりになった。
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ロンドン帰りのHがお土産を持って訪ねて来てくれた。
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丁度大村で物産展の為市内に居た文さんも土産を持って訪ねてきてくれた。
このブリ無茶苦茶美味かった。

ダラダラベッドで本を読んで、温泉に入って、友が訪ねて来てくれて、のんびりした一日だった。

長崎~~

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長崎着。何をおいても酒の調達。勝手知ったる長崎である、意向を知らせて配達してもらった。

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「出島アサ」。
魚の新鮮さ、雰囲気、店員さんの質全て居酒屋では今までで長崎一番。

司馬遼太郎「関ヶ原」(下)

「関ヶ原」を読み終えた。
いい作品だった。
どうもこの関ヶ原の彼我の構図が自分の中ではっきりせずにいたが、この作品を読んで100%ではないが、ある程度この関ヶ原の相関が理解できたような気がする。
しかしそれはあくまである程度であり、その関ヶ原を通じて秀吉から家康に時代の覇権者が移り変わる中で、裏切りがあり、忠心があり、義がありで、真髄はその時代に、その時代の大名に生きたものしか理解できないような気がする。
そしてその家臣たちは、その大将である大名がいったん下した決定に絶対服従するしかなく、それがどんなに理に合わないもであっても、仕える主人の意向に逆らうことは反逆であり、不忠であった。多くのすぐれた武将たちが、全く私怨のない者同士が忠心の下に互いに打ち合い戦い死んでいったのである。阿呆な主人に仕えたばかりに無念に死んでいった武将の数はこの戦でもはかり知れない。

この作品を読んで改めて不愉快極まりないのは、秀吉政権の成り立ちの胡散臭さ、その政権基盤が利で集まった故の脆弱さ醜さ、その晩年の秀吉の狂気じみた振る舞いおよび仕業、それを仕切った三成の傲慢、不遜、峻烈さである。
民心も豊臣の世がこれ以上続くのは、望まなかった故の消去法で選ばれたのが家康であったろう。

関ヶ原でいかんなく発揮された家康の狡猾さは、この後もますます陰湿さを増し大坂の陣を経て、豊臣滅亡という形で完成を見るどころか、その後も代を変えて連綿と続く。
現に、この関ヶ原で家康の手足となって功をあげた豊臣恩顧の大名たちのほとんどが後に滅ぼされることになる。
そして二百数十年後にそれは怨念の因果応報の魂となって徳川政権をぶっ潰すことになる。

秀吉、家康の二人は全くザァ~マ嫌な二人だが、この「関ヶ原」前後の中でも尊敬に値する素晴らしい人物が登場する。
大谷吉継とその家臣、三成を身の危険を顧みずその恩に報いて助けた農民である。後述したい。

三成もそれなりに嫌な奴だが、秀吉に最後まで忠義を尽くしたという点では野心はあったろうにせよまだ理解できるところはある。ただ惜しむらくは、彼にもう少し人をまとめる器量があれば関ヶ原は絶対勝てた戦いであったろう。
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・桑名城主に、氏家行広という小大名がいた。秀吉から桑名の海津(かいしん)の守りを命ぜられていた男である。家康に少なからず疑いを持っていた男であるが、三成にも同じく疑心を持っていた。信念は豊臣への忠心だけであった。結局どちらにもつかずに関ヶ原終戦を迎えた。その為終戦後、開城させられ、領地は没収された。自身は高野山に入り、入道した。後日談として関ヶ原から15年後の大坂の陣に際し、家康の秀頼に対する仕打ちを見て「あの時にはいずれか正か邪かわからなかったが、今やっと納得したわ。家康は邪である」と夏の陣に加わり存分な働きをした後、城内で秀頼に殉じて自刃した。享年70歳であった。
・柵(しがらみ)。
川の中に仕掛けて、魚をとるための仕掛け。転じてまといつくもの。「浮世のしがらみ」。
よく使う言葉だがこんな字を書くんだ。知らなかった。この文中では、城の防御装置の柵(さく)の意で使っている。
・家康が、関ヶ原に向かう西上中、金川(神奈川)でのこと、僧侶数人が訪ねてきた。名を訊くと「教如」と名乗った。あの信長が大坂本願寺攻めで追放した顕如の嫡子である。
顕如の後妻が世にきこえた美人であったため秀吉は、これを召し上げこれを愛した。この後妻の実子を准如といい、ゆえに秀吉は教如を排してこの准如を本願寺13世法主にしてしまった。当然教如は秀吉、豊臣に恨みを抱いており、家康にこの戦で加担することを申し出てきた。流石に坊主の手は借りぬと家康は辞退したが、狡猾な家康は戦国以来、信長をはじめ諸大名が持て余してきた本願寺の勢力をこの教如をつかって二つに裂こうと考えた。
やがて戦後、本願寺の東側に今一つの本願寺を建てることを許し、この教如を法主にしてやった。これが東本願寺で、これにより家康の思惑通りに全国の本願寺末寺は、西本願寺派は、12000寺、東本願寺派は、9千数百寺の真っ二つに割れた。家康おそるべしである。
それにつけても秀吉の色狂いは病気を越して狂気である。
宿の裏に出ると、手があかく匂うほどの残照が、籾干庭(もみほしにわ)に満ちていた。
文学的表現に欠けるといわれる司馬作品だが、この描写は情景が映像のように目の前に浮かぶようである。
この物語での架空の人物、三成の今でいう恋人の「初芽」が戦中の三成に会いに行く途中琵琶湖を丘から眺める場面である。

余談だが、先日終了したNHK大河ドラマ「軍師勘兵衛」最終回でこの関ヶ原の戦いの場面が出てきていた。
雨の中三成が決戦前夜まで大将でありながら西軍の大名陣地を必死でかけずり回る場面。
小早川秀秋がどうしようもないザァ~マボンクラだった様子。
捕らわれ大津城に引き連れてこられ門前の畳一畳に座らされた光秀に黒田長政が自分の羽織をかけてやる場面。
などなどがこの司馬作品を踏襲して描かれていた。どれが史実でどれが司馬さんの創作かは知らないが、多くの歴史小説が、時代ドラマが司馬さんの作品を下地にしていることは確かだ。

前述したこの作品中感動した逸話二つである。司馬さんの創作でなく史実であろうと思う。
・西軍で戦った中に、大谷吉継がいる。
数少ない三成の親友である。この戦いがいかに勝ち目のないものかひいては豊臣家を滅ぼすことにつながるかを諄々と三成に説いた一人である。だが三成が挙兵すると決めた後は、命をかけて三成を助けた男である。彼は、らい病を患っており、この戦いの時点では、視力も失っていた。
逸話がある、諸侯を集めた茶会でその当時でさえその病状は進んでおり、居合わせた諸侯が吉継の後の茶碗に口をつけるのを憚ったという。ただ三成は一切構わずその茶碗に口をつけ茶を飲み干したという。吉継はその朋を思いやるやさしさに、涙したという。ただしこれは司馬さんの創作だそうだが、色々な小説、ドラマに使われているという。
話を元に戻すと、この吉継は、関ヶ原で腹をきって果てているが、その際部下には落ち延びることを命じ持参していた金子を均等に与えたという。そして自分の首は敵に渡すなと腹心の部下湯浅五助に厳命した。五助は、介錯の後その首を陣羽織でつつみ、戦場を抜けると谷川のほとりで槍で穴を掘りそれを埋めた。その首を埋めおわったころ旧知の藤堂仁右衛門と出くわした。彼らは、秀吉傘下で旧知であったが、戦わざるを得ず五助は打たれてしまった。いまわの際に五助は、「主君の頼みである、主君の首の一件は秘匿してくれ」と頼み果てた。
五助は、名の知れた勇士であったために、その首は陣中の家康の前に差し出され家康はいたく喜んだという。戦後家康が大谷吉継の死体をさがさせたとき、家康は「五助ほどの者が、主人刑部少輔の先途(せんど)も見届けずに死ぬはずがない。藤堂仁右衛門に、五助の最期の様子を語らせればめどがつくはずである」といった。呼び出された仁右衛門は知っているが、いまわのきわの約束だから、どんな咎を受けようともいえぬと答えた。家康は、感心しそれ以上は追及せず、かえってその功を賞し備前忠好の刀を与えたという。
・三成は、ひとり大坂を目指して落ちていった。途中三成の旧領に差し掛かった時には、身も心も崩落寸前であった。その旧領は近江の北部にあり、古橋村といった。三成は琵琶湖を大迂回し丹波に抜け、そこから摂津に入り大坂城を目指そうと考えていたのである。
三成がこの地域を治めているときこの古橋村が、飢饉の為年貢を納めるどころか村自体の食料がなく村全滅の危機にひんしたことがあった。三成はこのとき、年貢を免除するばかりか、百石の米を村民に与えた。村民は驚き、村の歴史始まって以来こういう領主を持ったことはなかったと言い合ったという。
司馬氏は書く-三成ほど、大名として後世にいたるまで民治熱心だった男もまれであろう-
三成は、夜陰にまぎれて村のはずれにある寺に入った。その僧は、三成と知りつつも粥を与えかくまったがどういう訳か村の中に落ち武者がかくまわれているという噂が立った。この折三成への追討は非情極まるものであった。かくまえば村一村処刑するというふれがすでに出されていた。ここに与次郎大夫というものがいた。土地の大百姓であったこの男は、寺でかくまわれている落ち武者が三成であることを知り、まず妻を離縁し、子供ともども実家に帰らせた。連座の罪から免れるためであった。寺でかくまえば寺が、家でかくまえば村が咎を受ける。彼は三成を背負いこの村から二山ばかり奥に入ったこの百姓の持ち山の洞窟に移した。与次郎大夫は、懸命に三成を看病した。この行為は、自身のみならず一家の滅亡を賭けてのものであった。
この男は三成がなした村全体を救った行為にただただ恩義を感じこの危険極まりない行動で時を経て報いようとしているのである。利だけで動き、豊臣の恩を忘れ西軍を裏切った諸侯と比べると叫びたいほどの衝動を感じた。岩窟の中で体が癒えた三成を見て、与次郎大夫は村に帰り情報を集めて帰ってきた。三成らしき落ち武者が村に入ったことは隣村まで噂となっているという。
与次郎大夫は三成に逃げろといったが三成は「義には義で返したい」ともし逃げればこの与次郎大夫は間違いなく処刑されるであろうこと思い彼を説得し彼の手柄とし訴えださせた。
家康から追捕(ついぶ)を命ぜられてこの隣村まで来ていたのは、三成と同国出身というだけでなく三成には不遇時代に助けてもらった恩義のある田中吉政であった。吉政は、三成に縄をかけずに輿で丁重に賓客のように扱い家康のもとに送った。三成は別れ際、吉政に脇差を抜いて礼に渡した。その脇差は秀吉から拝領したもので切刃貞宗の名刀であったという。
長々と書いたがこの一連の話は実話であろうと信じたい。三成の人柄を知るのにいい逸話だし、この与次郎大夫のとった行動は、胸を打つものである。

おわり。
改めて読み応えのある司馬作品であった。さて次の司馬小説の読書候補は、「坂の上の雲」である。すでに第一巻を買っているが、いつ読みだそうかナァ・・・

BigElle忘年会。

これで今年の忘年会のしめくくりである。
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今年の会場は、飲みほ~だい、食べほ~だいの焼き肉屋を選んだのだが、みんな食べるのに集中していまい、今一会話がすすまず設定としては失敗だったかも・・・
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まっしかし、気のおけない親しい仲間で食べるのは何でもおいしい。腹いっぱいでカラオケに行った。
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三次会はスペインバルでもう一杯。。。
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みんな今年も愉しかった。有難う。。。来年も一緒に遊びましょう。。。

ん~~はらたつぅ~~

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この人生第二期のMY読書ブームで、遂に読み切れなかった本がでた。2冊。
特に、「うれしい悲鳴をあげてくれ」は、ひどい。
こんなアホな内容の本をよく出したものだ。またそれをこんな帯を付けて売ったものだ。余りにもむかついたので破って捨ててやろうと思ったが・・・やめた。

忘年会。

昨日に続いての忘年会。
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淀屋橋から土佐堀川を望む。
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中央公会堂で3Dマッピングが行われていた。
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今夜の忘年会会場は、川沿いのレストラン。
堂島川を隔ててライトアップされた中央公会堂が見えた。
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食事前に、リバークルーズを愉しんだ。
寒かったが、イルミネーションに縁取られた中之島、難波橋、天神橋、天満橋三橋をくぐって暫し大阪夜景を堪能した。
エリーの企画だが、おっさんでは思いつかない趣向である。
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体にいいのかどうかは知らないが、兎に角リッチな感じのする金箔入りスープ。
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ヘレステーキ、ホアグラ乗せ。
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居酒屋もいいが、たまにはこんなレストランもいい。どれも美味しかった。

食事の後みんなで淀屋橋から本町まで歩いた。

御堂筋の銀杏並木もイルミネーションでデコレイトされていた。
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修正
このデコレーションは、民間からの寄付で運営されている。
寄付者のネームプレートが木々それぞれに架けてあった。
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石畳には銀杏の葉が落ち、なんともイイ感じ。自然の造る芸術は矢張り風情がある。

少し御堂筋からそれたところに芝川ビルがあった。
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幻想的なイルミネーションを愉しんで、美味しい料理を堪能して、ほろ酔い気分で御堂筋をブラついてイイ忘年会だった。
とてもいい気分で家路についた。

夕方待ち合わせまで時間があったのでまた紀伊国屋で、何冊か面白そうな本を見つけて買っていた。明日は、久し振りに全く予定をとらずに空けてあるオフディである。
夜更かしして読もう。
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司馬遼太郎「関ヶ原」(中)

ポツポツ時間をかけて他の本の合間に読み進めたので、全体がはっきりと思い出せないことである。
三成が佐和山に蟄居させられ、家康がますます増長し西の丸からあたかも大坂城主のようにふるまいだしていく。
全国大名の中で、太閤晩年の三成の虎の威をかる態度に対する怨念と、家康の横暴に対する嫌悪のぶつかりという構図で時代は進行していく。
この中なぜか淀君については一切触れられていない。

三成の権高の物言いは、諸侯の間で非常に評判の悪いものだったようだ。一方家康のやり方も太閤の遺言を全く無視したもので、露骨に権力を振りかざしえげつなく品がない。
作者の司馬氏は、どちらにもつかずという書き方をしているが、この時代の諸大名もどちらにつくか、家の存続がかかっているので人生最大の岐路に立っていたことであろう。
秀吉も、晩年の整理が全くできておらずこの混乱を招いたのはひとえに秀吉の器量のなさである。兎に角秀吉の晩年の行った所業の数々は、正気の沙汰ではない。

愈々家康は、種々の布石を広く打った後最後の仕上げに出る。上杉征伐の名目で大坂を出て三成の挙兵を誘う。三成はここぞ千載一遇の機会とばかりに挙兵するが、三成の人望のなさから西軍を完璧にまとめることが出来ない。一方家康は有名な『小山評定(慶長5年7月25日)』で東軍をまとめ上げる。このあたりは今放映されている「軍師官兵衛」の進行とも一致しとても面白かった。

・毛利の家臣で僧侶でありながら大名になった不思議な男に、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)がいる。
関ヶ原の戦いで三成の参謀として働いた男である。
彼は、まだ三十路にもなる前、信長全盛時代にこんな信じがたい予言をしている。
「信長の天下は、五年三年はもつ」
「ただ彼は、高ころびにあをのけにころばれ候ずると見え申し候」

ともう一つ、
藤吉郎が全く無名に近い頃に、
「藤吉郎、さりとはの者にて候」
と予言したという。
作者司馬さんは、「恵瓊の洞察眼は、神に近い」と書いている。
・東軍についた山内一豊は、それほどの人物ではなかったものの山内家は移封先の土佐24万石藩主として生きながらえ明治維新までつづいた。一方西軍に付き、やぶれた長宗我部の遺臣たちは郷士となり、蔑まされた。
だが郷士たちは、
-幕末、徳川の勢威がおとろえるや、藩と幕府に抗して倒幕運動をおこした。関ヶ原は土佐の場合、三百年続いたといえよう。-
この辺りの話は、たぶん「竜馬がいく」でも書かれていたのかもしれないが、初めて知ったことである。
薩摩でも西郷他は郷士の出身で、上士とは身分の差は月とすっぽんほどにも違う。
このあたりの上士と郷士おける上下関係の厳しさは現代において感覚的に理解しようがないが、かなり厳しい身分差別制度であったろうと推察できる。時代小説にはこのトラブルがたびたび出てくる。道で行きかうときには、郷士は土下座して上士に平伏しなければならなかったという。この話で、娘が買ってもらったばかりの着物が汚れるのをためらってひざの下に一枚の布切れをしいて土下座したのを上士が咎め娘を足蹴にしたためにその父親と口論になり挙句に刃傷沙汰になりという話があったがこの小説なんだったかなぁ・・・
兎に角、その当時上士と郷士の間には、大きな差別があり、郷士には上士に対して深い怨念を持っていたであろう。
余談だが、山内一豊は小山評定の折、家康に所領である遠江掛川城を明け渡すと宣言し家康をいたく感激させている。これは後の新井白石の書に基づいた事項だが、司馬氏もこれを踏襲してこの中に書いている。だが事実かどうかは疑わしい。。。どちらにせよ司馬さんは、一豊をこの中であまり良くは書いていない。
一豊はもともと信長の家臣で、その後秀吉に請われその傘下に入ったが秀吉に対する忠誠心は非常に薄かったと考えられる。あるいは、打算だけで動く男だったのかもしれない。この大いくさでもすかさず家康につき家康を感動させたという。この掛川城というのは東海の要所で、秀吉が最も信頼した一豊他の家臣に家康が西上する折の防御ラインとして数珠のように置いた城の一つである。それを簡単に家康に献上したので一挙にその防衛ラインが崩れることになった。秀吉もこのまさかの一豊の裏切りに泉下で歯ぎしりをしていたことであろう。一豊とはそういう男であり、秀吉もそんな男を信頼した見る目のない男であったということである。
・当時の市民の間には、太閤の無謀を極めた政策には辟易としていた。すなわち、朝鮮に無用の戦をしかけて民を疲弊させ、さらにいたるところに巨城を築き、豪華な建物を建て、民力を底の底まで使い果たしていた。
・直政は家康にいった「上様。天の与うるところを受けざればかえってその咎を受くという本分がございりまする」
司馬さんはさらに直政にこう語らせている「彼らは利欲で豊臣家の傘下についた連中である。義心などない」
秀吉にとって豊臣にとって致命的欠陥は、成り上がりゆえに信長、家康と違って譜代の家臣を持たなかったことである。秀吉が見込んで家臣にしたものばかりで、秀吉には少しは恩義を感じていたろうが、その子秀頼には恩義を感じなかったとしても不思議ではない。また秀吉の晩年は酷いもので、もし自分が家臣であったなら、朝鮮役などは、全く理解できないもので、またその異常な女癖には強い憤りと軽蔑を感じたことであろう。
・司馬さんは直政にさらに語らせる。
「いまの大名のほとんどは織田家の家来衆であった。細川、前田、池田、山内など、みなしかりで、かつては故太閤といわば同僚であった。それが山崎の合戦でいっきに天下取りの階段を駆け上りことどとく故太閤の家来同然になりやがて家来となって今の豊臣家がある。諸侯のほとんどは、故太閤の譜代の家来ではない。故太閤に付き従っているほうが得、ということでつき従った。かれらに、豊臣家への義心、忠節の性根があろうはずがない」
これは司馬さんの考えであろうが、当時の豊臣家臣たちの心情を言い得て妙なるところであろう。
・一方秀吉にも譜代家臣ともいえる大名が少ないながらもいた。
宇喜多秀家、小西行長、石田三成、福島正則、加藤清正らである。
中でも福島正則は、別格に太閤にちかい家臣であった。尾張清州で桶大工の息子として生まれた正則は、秀吉の遠い縁戚にあたり、秀吉の寵愛を受け羽柴の姓をもらった。勇猛果敢な武将としても知られこの上杉征伐にも6千という兵数を擁して参上していた。
関ヶ原の戦いでも正則の働きは傑出していたという。
余談だが、家康天下をとった後、彼はまた大出世をとげるが、家康の謀略により後に取りつぶしにあうことになる。この関ヶ原で家康側に付いた太閤家臣たちのほとんどが、徳川の世になってとりつぶされている。
・さらに正則について、彼は市松といった14歳のころ足軽とけんかしてその男を殺してしまっている。彼はその場から、山陽路を歩いて姫路城下まで逃げた。そこで秀吉をたより部下になったという経歴の持ち主である。戦国の世とはいえ殺人者が大名にまでなった稀有な男である。秀吉の縁者ということで出世も早く、他の武将等清正あたりからはずいぶんと妬まれたという。

終わり。
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朋友と忘年会。

朋友との忘年会。
この三人でいるとホント愉しい。
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ふと考えてみたらもう40年以上の付き合いとなるナァ・・・
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帰り道市役所玄関がイルミネーションでデコレイトされていた。

角田光代「紙の月」

バンドの帰り、なんば心斎橋を歩いていた時に買った本。
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余りにもたくさん平積みにしてあったので買ってしまったが、結構面白い小説であった。
一人の女性が暇つぶしに銀行勤めのアルバイトをして、ある時買い物で持ち合わせが足りなかったので客から預かった金の中から3万円を借りて使ったのが転落の始まりであった。徐々に借用金は増えていき返せない金額へと膨れ上がっていくのは時間の問題であった。このあたりの描写は非常に巧妙に描かれていて実際の横領事件を下地に書かれているのではないかと思う。

ただ結末は、その主人公がチェンマイに逃亡したところで終わり、フラストレーションがたまることであった。所詮小説なんてのは娯楽作品なのできちんと落とし前をつけて綺麗に終わるべきである。こういったもったいぶって尻切れトンボに終わる作者の作品は読みたくない。

ただ映画は、宮沢りえの演技が秀逸で素晴らしい作品に仕上がっているとのことで時間を見つけて見に行きたい。

大阪見物。

横須賀の友人夫妻が、遊びに来てくれた。
一日任せるので案内してくれというので、まずは普通の観光では、行かないところを選んだ。

まずは「大阪くらしの今昔館」。
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特別展で、ここも「大坂の陣」を開催していた。
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店の入り口は、工夫が凝らされていて滑車で上下に開閉する仕組みである。
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ボランティアガイドさんに案内してもらった。
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ろうそくを使った照明器具。これも滑車を使い天井に高くつるして部屋を明るくする仕組みだ。中々良くできていている。
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赤い素材を使って塗りこんである壁。
高価なもので商家でもステータスのしるしであった。

こちらは一般の民家。
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小唄のおっしょはんの一人住まいという設定だそうだ。
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関東は、木葺き、関西は瓦葺きが当時一般的であったらしい。
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厠も関東では、上部が開いていたそうた。

日本一長いといわれる天満商店街を抜けて、今日のお昼は「奴寿司」を選んだ。
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お昼真っただ中で20分ほど待った。
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次は歴史博物館へ。
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いつも見てもここからの大阪城は絶景である。
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昭和初期の夜の大阪の街並み。


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暮れなずむ大阪城。
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極楽橋にて。
秀吉大坂城のお披露目にはこの橋を通って諸大名を接待したそうだ。
秀吉人生最大喜ばしいときであったろう。

夕食には、てっちりを選んだ。
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関東ではあまりなじみのないてっちりに、友人夫妻たちも大満足そうで、接待しがいがあった。
長く愉しい一日であった。

有川浩「阪急電車」

地元の題材なのになぜか長崎紀伊国屋で買った本。
最近少しまずいことに、梅田の紀伊国屋で平積みしてあるお勧めの本はあらかた読んでしまい、読みたい、読みたくなるような本がなくなってきた。この頃は、ふっと立ち寄った本屋で面白そうな本を見つけることが多い。

阪急電車それも今津線沿線駅を舞台にした物語である。
今津線は、ひとつひとつの駅に深い思い出がある。
特に小林駅などは、その情景が主人公たちの目線で目の前に見えるようであった。
作者の筆致も素晴らしいものであった。
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今津線。
宝塚から西宮北口まで、正確には今津駅までだが、宝塚から南口、逆瀬川、小林、仁川、甲東園、門戸厄神、西宮北口への往復の電車内で起こる小さな出来事をつなげて一つの物語を作っている。それぞれの区間での主人公たちが絶妙に絡んで話は進んでいく。素晴らしいテクニックだと思う。かかわりあい方がほのぼのとしていて読後感が非常によかった。作者の力を感じる作品であった。

・人数分の物語を乗せて、電車はどこまでもは続かない線路を走っていく。

伊勢志摩サイクリングフェスティバル。当日。

天候も晴れて、絶好のバイクライド日和。
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第一回の催しであったが物凄い参加者であった。
主催者発表によると東は山梨から西は徳島まで1000人のライダーが全国から集まった。P1060193
愈々スタート。我々はBチーム0817の出発である。
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スタートしてからいきなり絶景ポイントである。
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的矢湾大橋が朝日に照らされて伊雑の浦に影を描きとても美しかった。
しばし見とれるほどの雄大な景色であった。
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スタートから10数キロで第一AIDステーションである。
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ここでは、的矢ガキがふるまわれたが、スタッフもなんせ初回のことでてんやわんや。
長蛇の列でとてもじゃないが並ぶ気がせずあきらめたが、ゴール後、主催者はこのサーブを用意しており、「申し訳ありませんでした」の言葉とともにこのカキがふるまわれた。

途中で記念撮影をした。
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伊雑の浦を背景に。
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第2AIDステーション。
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伊勢湾を背景に、パチリ。
遠くに何艘かの本船が少し弧を描いた水平線の上に一直線に並んで見えた。
海からは冬とは思えない穏やかな風が頬に吹き、久しぶりの大海原の雄大な景色にしばらく見とれた。
尚もぼ~~っと眺めてまったりとしていたかったが、風情を解さない無粋なみんなはさっさと行ってしまい。慌てて追いかけた。。。。モゥ~~

程よい疲労感と共に完走。
後は、ホテル横の「ひまわりの湯」にみんなで行ってほっこり。ほっこり。
ホント愉しかった。愉しかった。。。
気の置けない仲間と飲んで食べてしゃべって笑って、そして走ってホント愉しい二日間であった。
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今日の全行程図。
42kmほどである。途中AIDステーションで休憩したりしたので4時間かかったが、この距離、この高低差、この速度で自分には苦しくもなく、また物足らなくもなく素晴らしいサイクリングであった。
また来年も参加しようとみんなで約束した。
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Kennyたちとはここでお別れ。いい二人である。

伊勢志摩サイクリングフェスティバル。前夜。

これも前から楽しみにしていたイベントである。
久しぶりのバイクライドである。
前日から、Kenny、Andyと伊勢に乗り込んだ。
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泊まりは、何かと便利かと志摩スペイン村内のホテルにした。
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気の置けない仲間との食事ほど愉しいものはない。

この後も部屋に帰って明日は早いというのに、ワインを飲みながら話の尽きないことであった。

秋月達郎「海の翼」。

読み終えてなお胸いっぱいに湧き上がる感動の高まりがおさまらない。
序章が終わりエルトゥールル号の遭難の編からは読みながら涙があふれ鼻水をたらしつつ頁をめくった。こんなに涙で活字が読みづらかったのは「永遠の0」以来である。しかも「永遠の0」の嗚咽混ざったさめざめとした涙と違ってこの涙は熱く頬に何条にも流れた。こんなにも心に沁み入った作品は今まで何百も読んできた小説のなかでも記憶にない。

日本には地球の裏側にこんなにも素晴らしい友人たちがいる。

エルトゥールル号の座礁の話、イラン・イラク戦争時にトルコが邦人救援機を出してくれた話、両方の話は大体知っていた。この二つの話がつながっていることも知っていたがこんなにも密接且つ感動的に結びついていたことは知らなかった。

3年ほど前トルコを二日間ではあるが旅した時も、出会ったトルコの人たちはホントみんな親切で親日家であった。クサダシのジュース屋のおやじはミカンの前に掲げてある日本語表記が正しいか訊いてきて、「OKだよ」というとお礼にとそのオレンジ何個かをエリーに持たせてくれた。そして日本人の素晴らしさは、学校の教科書に載っているからみんな知っているよとたどたどしい英語で教えてくれた。ツアーバスの現地ガイドもこちらが日本人だとわかるとニコニコと態々あいさつに来てくれた。

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よく見かける帯の「感涙必至!」の文言には何度も裏切られたが、これは本物。。。
絶対!!お勧めの本である。



物語は、イ・イ戦争が激しくなり、遂にはサダム・フセインの48時間以内にイラン上空の航空機はすべてイラクの撃墜対象となるといういくら戦争事態中とはいえ国際常識から全くかけ離れた宣言がなされ、各国は大混乱しつつも自国民をイラン国外退出させるために軍、民間機を総動員して救援機を派遣した。それにひきかえ日本は、自衛隊機の派遣は今後の海外派遣につながると時の社会党が反対した。
一方以前定期航路を持っていた日本航空は、チャーター機の派遣を決定し、パイロット他を志願者で募りクルーをそろえ準備したが直前になって、労組組合長が「安全が確保できない自社の航空機の飛行は許せない!!」と強硬な主張をしその運航を取りやめさせた。
この時点で日本は、軍、民間機とも自国民の救出するすべは、全く途絶えた。
日本という国は何たる国家であろうかと思う。

一方救援機派遣を決定した国々もサダムの恫喝があまりにも急すぎたので、充分な機数を用意出来ず自国民を最優先して搭乗させた。それでもわずかに空いた席を確保するのに日本大使館員は奔走したが、ロシアなぞは、定期便の予約座席を持っている者であっても自国民以外は絶対に乗せないという強硬姿勢を取った。
こういったときにこそ、国柄は明確に表れるものである。人間関係も同じである。

日本のすがるような要請に100年の時を経て応えたのが、トルコである。
文中は仮名になっているが、全て実在の人物である。
一介の民間人でしかない七星商事のイスタンブール支店長堀内真治のトルコ機救援要請に、首相オザルは、待っていたかのように当然のように、「救援機を出しましょう」応えた。あまりの簡単な返事に堀内は、何が起こったのかわからなかった。
なぜですかと聞くと、「エルトゥールル号と、日露戦争の恩を、返す時が来たのです」と彼は応えた。
またある高官は、「危険があろうともトルコ機は日本人を救うためにテヘランに突っ込んできます」
ある航空機整備士は、「日本が助けを求めることがもしあれば、そのとき立ち上がるのはわがトルコだ」と両親にいわれていたといった
そしてトルコから救援機を出すときが来た。
トルコ航空の総裁がパイロットを集めて救援機を出すいきさつについて説明をした後、志願者を募った。
「危険な任務ゆえに人選はできない。志願者は出てほしい」と述べた。
するとその場にいた全員のパイロットが一人残らず手を挙げたという。
こうして2機のトルコ航空機がテヘランに飛ぶことになった。しかしまだ問題は残されていた。
それまでに大使館員の懸命の働きにより座席の確保が増し積みされたがなおも残る在留邦人は215人(大使館員はこの中に含まれていない)いた。それとトルコのイラン在住者が600名もいたのである。

・トルコから飛んでくる機材はDC-10-30で座席数は276席、二機合わせても乗れる数は552名である。
二機のトルコ機では、自国民でさえ全員救出できない勘定であった。
・一方、トルコアタルチュルク空港。トルコ航空総裁オラルは二機の救援機乗員を前にこう述べた。
「諸君。いま、この瞬間ほど、私はトルコ国民であることに誇りをもったことはない。われわれの手で、日本人を救出しよう百年前のエルトゥールル号と日露戦争の恩を、いまこそ返すときだ」
・イスタンブール~テヘラン間はイラク上空を通過するのが最短距離であったが、それはできない。機長が選んだのは、アララト山上空通過であった。
アララト山の写真を見て驚いた、富士山そっくりであった。トルコでもこのアララト山は聖なる山とされ信仰の対象となっているという。
・やがてサダムの攻撃開始時間まで数時間となった頃、二機のトルコ航空機が空襲警報の鳴りやまぬ中メハラバード空港に突入していきた。途中イランの軍用機と間違われないため時間のない中ジグザクに飛びながら来たという。
・空港では、待合室ですし詰めになって救援機を待つトルコ人へトルコ大使ビルセルが説明を行っていた。
「救援機は二機来る。ただし一機は日本人のためのものだ。あなたたちを救出できる航空機は一機しかない」
かさねてビルセルはいった。
「エルトゥールル号の事件、日露戦争とわれわれは日本に二度も助けられている。その恩を知らないトルコ人はいないはずだ」「最後の救援機はテヘランに残留している日本人を救出するという、それだけのために突入するのではない。日本という国に対して、百年の恩返しをするために、オスマンの誇りをかけて突入するのだ。どうか二機のうちの一機をここにいる日本人の為に使用させてほしい」
このとき、トルコ人の間からはこの説明に誰一人として反対する者はいなかったという。それどころか日本人全員を優先的に乗せろという声が上がったという。
この場にいた日本人のだれもが信じられないという面持ちで涙が止まらなかったという。
こうして全ての日本人含む乗客を乗せたトルコ機二機は、一路アララト山を目指した。
・一方空港に残されたトルコ人300人たちは、大使館の用意したトラックバスに分乗してトルコ国境を目指した。残った日本人大使館員はそろってトルコ大使館員たちと共にこの出発を深々と頭を下げて見送った。日本人大使館人たちは頭を下げたまま嗚咽した。涙が止まらなかった。
日本人大使はトルコ大使館員にいった。
「わたしは、人生の中で、今日ほど感激したことはない。トルコの人々の恩をわたしたちは決して忘れてはならない。たとえわたしたちの子の代になっても、孫の代になっても、このたびのトルコのひとびとから与えれた恩を、決して忘れてはならない」
・午後8時30分両機は国境を越えた。
機長のアナウンスが流れた。「ただいまアララト山の上空を通過しました。日本のみなさんようこそトルコへ」
客室に、大きなどよめきににた歓声が上がった。乗務員たちによってシャンペンがふるまわれた。
そして午後8時40分アタチュルク空港に到着した。
このとき、機内の酒は一本も残っていいなかったという。
・余談だがこの富士山にとてもよく似た「アララト山」は旧約聖書に出てくるのアの箱舟が流れ着いた山とされている。アララト山は大小二つの山からなり富士山に似ているのは小アララト山である。標高も3896mととてもよく似ている。
・平成11年(1999)8月17日トルコ北西部に大地震が発生した。死者は、17000人を超える大惨事となった。その際直ちに、日本政府は、百万ドル(約一億一千万)の緊急救助を行ったが、テヘランで救出された日本人たちも義捐金を募りトルコへ贈った。
政府は、その10日後さらに二百万ドルの追加支援を決めた。こうした無償の行為に対し救援機を飛ばしてくれたアリ・オズミデルはこういった。
「われわれトルコ人は、日本人が好きです。頼まれればよろこんで、再びこの任務を遂行しようと、仲間の機長たちと心に決めています」

そして9月23日。
海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」掃海母艦「ぶんご」補給艦「ときわ」は、神戸から運んだ仮設住宅500戸を載せて横須賀をトルコに向けて出航した。
「おおすみ」の艦長は居並んだ乗組員にこう訓示した。
「トルコ共和国は、イ・イ戦争のおり、危険もかえりみずに二機の航空機を派遣し、テヘランに在留していた邦人215名を救出してくれた。日本は、今こそトルコの恩に報いなければならない。トルコの人々の友情に、こたえなければならない。われわれは仮設住宅をトルコに届けるとともに、震災からの復旧を支援する。われわれが、トルコに恩返しをすることによって、こののち百年、日本とトルコとは友愛によって結ばれてゆける。日本が苦しいときは、トルコが、トルコが苦しいときには日本がどのような困難が待ち受けていても、先達が遺してくれた日本とトルコの絆を断ち切るようなことがあってはならない。さぁ速やかにトルコへ向けて出発しよう。トルコには日本の支援を待ち焦がれている人々がいるのだ」

そのご仮設住宅は民間商船にもよって運ばれ、日本の仮設住宅は最終的に2000戸を超えた。その立ち並んだアドリエ村は、別名「日本トルコ村」とよばれピーク時には5000人の避難民が住み、通りには「東京通り」「神戸通り」と名付けられドアには日の丸が揚げられた。

・大島の墓地公園にある大理石で作られたエルトゥールル号遭難の弔魂碑は、今も太平洋を見おろし日本とトルコの友情を眺めている。その世話は大島小学校の学校行事として清掃を行っている。


・日航(文中では太平洋航空)経営陣は、政府の要請を受けイランに救援機を飛ばすことになった。
機長もすでにすでに人選された。その機長は志願したらしい。航空自衛隊出身とのことであった。
機長の名は、「高橋正美(まさしげ)」といった。(実際の名は、今のところ不明です。)
しかし、この英断はこの後前述のように暗転する。
・明治23年(1890)9月16日エルツゥールル号は大島で座礁沈没した。
・明治24年和歌山県知事のほか、内外の有志により義捐金が集められ、遭難追悼碑が建てられ追悼祭がおこなわれた。こうした大島村の人々の情け深い弔いにオスマン帝国のアブデュルハミト二世は大感激し3000円(現在でいう6000万円相当)を贈った。島ではこの金を分配せず銀行に預け、利息が貯まるたびに村の整備費用などに利用したという。
・さてエルトルゥールルの乗組員をトルコに送り届けることになったが、さて当時の日本にはそんな船を用意する余裕は全くなかった。だが明治天皇は親善のためになるがる軍艦で来てくれたトルコ国王に礼を尽くすべきだと軍艦での送還を命じた。それも万難排して二隻の派遣を命じた。慌てたのは樺山海軍大臣であったが、時の総理山形有朋の許しを得て先代、先先代の海軍大臣西郷従道、大山巌に相談に行った。この3人とも旧薩摩藩士で気心も知れていたが、二人は「よかよか」の一言で派遣を即断したという。西郷は、隆盛の弟で、大山は、二人の従兄弟に当たる。
このことからもわかるように二人には豪快なエピソードが多々残されているがこれは割愛。
大山は、軍艦派遣は天皇が希望されただけで自分が決めたことで、全ての責任は自分にあると言った。
「万が一、事故でも起こったらどげんして責任ばとるのか」との樺山の問いに、
「こん太か腹ば、掻っ切るだけのこっでごわす」と大山は応え。西郷も横から力強く頷いた。
「そのとおり。そいが、トルコのひとびとの真心にこたえるこっつになっとが。おいどんらは日本人じゃっじ、恩義ば忘れるるごつ恥ずかしか真似ば、世界に対して絶対にでけもはん。軍艦がトルコに派遣し、生き残った乗組員ば立派に送り届けてみせようではねか」
といった。

薩摩気風よかよかばい!!!である。当時の日本の国力からして軍艦の派遣は、相当の経費のかかるそれも2艘を遥かトルコまでというのは、大きな負担であった。だが明治天皇の意をくみ、即断した当時の明治政府の中枢にいた人物たちの懐の深さがわかるというものである。

これにまた応えたのがトルコ帝国である。
スエズ運河を抜け無事トルコに到着した2隻の軍艦「金剛」と「比叡」は、思わぬ状況に出会った。
それは当時トルコがヨーロッパ諸国、ロシアと締結していた「ロンドン条約」(1840)である。
この条約は外国軍用艦のボスポラス海峡の通過が禁止したものであり、これにより日本の軍艦である両船も通過できずイスタンブールへの入港が出来ないことになった。

・ロンドン条約により、イスタンブールへの入港が出来なくなった両船はイズミールで乗員たちを降ろすことになった。迎えに来たトルコの軍艦への移乗は、最初極めて淡々と行われた。
ところが徐々に変わってきた。3か月に及ぶ交流の別れにトルコ、日本の乗員たちもみんな泣いた。それを見ていたトルコの軍艦の乗員はもとよりそれを岸から見ていた民衆おも巻き込んで大きな感動となった。それにつれてはるばるエルトゥールル号の乗員を運んできてくれた日本軍艦をイスタンブールに迎え入れろという声が湧きあがった。この熱い声を皇帝(スルタン)アブデュルハミト二世は無視しなかった。なんと国際条約を破って日本の軍艦の海峡通過を許可したのである。スルタンは、日本でエ号に対して日本の国民がなした数々の誠意ある行為を全て聞き及んでいたのである。
スルタンは宣言した「海峡を開放せよ。日本の軍艦を我が都に招き入れよ」
・イズミールを抜錨した2隻の軍艦は、一路イスタンブールを目指し、ついに明治24年(1891)1月2日ドルマバフチェ宮殿の正面の海に投錨した。日本を出てから延々3か月に及ぶ航海であった。
・それから二艦の乗員たちは一か月にわたり歓迎行事でもてなされた。日本からは現在の価値にしてキャンペーンで集められた約8000万円の義捐金が手渡された。
・「パリ条約」(1856)。余談だがこのボスポラス海峡通過に関する条約は、この後も続く露土戦争毎にめまぐるしく変更締結されている。だがクリミア戦争でヨーロッパ・トルコ連合軍とロシアが戦いロシアが敗北の後締結されたこの条約では、明確に外国戦艦不通過を決めている。これはロシアが、イギリスをはじめとするヨーロッパと締結した条約の為に、その後の露土戦争の結果によって変わるという性格のものではなかった。その為に日露戦争時においてもロシアは黒海から軍艦を地中海に出すことが出来なかったのである。(これには裏があるが、本書と関係なく長くなるので割愛)
・田中寅次郎、一民間人でありながらエ号の義捐金を今の金額にして約一億円集め自ら腹に巻いてトルコまで届けた人物。国交がない両国の橋渡しとなった人物。日露戦争時には、ボスポラス海峡の監視を自ら行い、商船に偽装したロシア軍艦の通過を日本に打電した。これは日本海軍の対ロシア艦隊についての重要な情報となった。
・この寅次郎働きもあり(この情報は戦局に大きな影響を与えたと思われる)日本海軍はバルチック艦隊を日本海で撃破し日露戦争に勝利した。これは同時にロシアのトルコ南下を防いだことになりこの勝利にトルコ国中が湧いた。寅次郎の周りにいたムスタファ・ケマル他トルコ高官たちも涙ながらに寅次郎に感謝の言葉をのべたという。
司馬さんの「坂の上の雲」を実は読んでいないが、ザァ~マ読みたくなってきた。
余談だが、このケマルは、後にトルコ共和国の初代大統領となる男である。ケマルは、その演説の中で、エ号が日本で受けた恩を語り、日露戦争で日本が勝利したことで今日のトルコがあるのだとも語り、「日本に学べ」と語り続けた。彼の寝室には明治天皇の真影が飾られていたという。

・寅次郎は、信じがたいことに一民間人にもかかわらずイスラム圏の代表者ともいえるアブデュルハミト二世と単独謁見している。彼はこの時に山田家伝来の鎧兜と陣太刀を献上した。これは今もトプカピ宮殿に展示されいて、実際に見たがその時には、そんな知識は全くなく、ろくに銘板の説明も読まずに「日本からの献上品もあるんだ」とくらいにしか思わなかった。イスタンブール、いやトルコは再訪したい土地の一つである。この宮殿での再見学もまた楽しみである。
・日本とトルコがここまで親善を深めたにはもう一つ理由がある。それはロシアの存在である。ロシアの南下政策に真っ向から立ち向かわなくなる地理的位置にトルコと日本は東西と遥かに距離を隔てて存在しているが共通の敵としてロシアがいたのである。

終わり。
今年読んだ本の中で一番感銘を受けた作品である。

華の金曜日。

今日もひでぞうである。
エリーにいつもいつも飽きないねと、あきられているが、ここの店は、早い、美味い、店の人がいいということない。
一つだけ不満をいえば、禁煙席はあるものの矢張り近くでたばこのにおいがすると料理が台無しである。
ただここの喫煙客はみんなどういう訳かマナーが良く、たばこを吸うときには随分と隣の客に気をつかってくれる。ただときどきとんでもなく横暴にたばこを吸うやつがいる。誠に残念ながらそんな輩はほとんどが女性である。
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この店がお気に入りの最大理由は、矢張りその魚の美味さである。
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特にマグロ好きの自分にとってここのマグロは絶品である。
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しょっちゅう来てもいつも何か新しいメニューを用意してくれている。
今日のお勧めは、ユリ根のから揚げ。
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メニューには載っていない、ハッカクの刺身。
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牛肉のたたき。
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いくらどんぶり。
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料理のお供はこの頃決まって生ビール、熱燗、冷酒の3点セットである。
今日も大満足。。。

トルコと日本。

昨晩から読みだした秋月達郎「海の翼」。並行して読んでいる本は一時全て休憩です。
トルコ航空機がイラン・イラク戦争時にイランに取り残された邦人救援機を出してくれた話。
また途中ですが、すでに胸が熱くなっています。

私がトルコを旅行した時に出会ったトルコの人たちはみんな親切で親日的でした。

http://matome.naver.jp/odai/2136219086880622801
それにつけてもこの中での一部日本人の対応。。。
考えさせられるなァ・・・

山田風太郎「魔軍の通過」

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天狗党の乱に関係する小説3作目である。これで今現在刊行されている天狗党西上に関する作品はすべてであると思う。
何度読んでも、どの作品を読み終えても無常を感じる話である。
この作品は、天狗党の中で生き残った耕雲斎の息子が独り語りとして書かれ、二人の女性を創作として登場させている。
息子と二人の女性は実在の人物かどうかはまだ精査していないが、この作品中描かれているこの3人がかかわる出来事は架空である。

それにしても何度読んでも水戸で起こったこの事件は、日本の戦国時代から現代にいたる中の争いの歴史の中でも最悪、最悲惨の出来事である。
登場する人物の品性が、悪すぎる。
一番は、市川三左衛門である。
これほど下劣で残虐な男は日本史上稀有である。
水戸藩佐幕派で、天狗党が敦賀で降伏、処刑された後、天狗党の係累の者たちをことごとく処刑した。それも残虐極まりない方法で。耕雲斎の妻女には、耕雲斎の首を持たせて斬首し、子供たちもことごとく3歳の子供まで突き殺した。その後敦賀から水戸送りとなった残党を再投獄し劣悪な環境の中でほとんどの者を獄死させた。
この中で生き残った者の一人に中島歌子がいる。
「恋歌」に出てくるがこの作品で天狗党のことを知るきっかけとなった。

第二は、田沼玄蕃頭意尊(げんばのかみおきたか)、悪名高い田沼意次の曾孫である。卑怯極まりない男である。
収賄で悪名高い意次の子孫である。
この男は、天狗党の西上の追討の幕命を受けながらその後をつかず離れず追い、戦闘はその前方にあたる藩にまかせ自分はあくまで戦わず、通過後の村々で威張り散らし、時には鉄扇で村長を殴ったという。そして天狗党が降伏した後は、無理やりに慶喜を半ば脅し武士として手厚く扱っていた加賀藩からひきはがし足枷を嵌め鰊小屋に押し込めた。その後加賀藩他からの助命運動がおこると、慌てふためき3日間で処刑してしまった。
卑怯極まりない男である。維新後もなぜか生き残るも(なぜ天狗残党が復讐惨殺しなかったのであろう)、4年後に病死した。

第三は、慶喜。保身を絵にかいたような男。自分さえよければいいというこの男が最後の将軍だったために大政奉還が円滑になされ、多くの官軍、幕軍の将兵および江戸の市民の命が救われたといえよう。この男にとって幕府なんかより自分の命のほうがよほど大事だったのだろう。

第四は、慶篤。最後の水戸藩主である。この男がもう少しましの器量であったらこの事件はこれほど大きな悲惨は騒動になはならなかったであろう。ふらふらして自分のない男である。平たくいえばザァ~マボンクラである。
賢藩主の誉れ高い水戸斉昭の嫡男である。慶喜はその七男でボンクラの弟になる。

慶篤、慶喜の阿呆な二人が水戸の殿様でなく、もう少しでもましな器量であれば、争いはあったにせよまさに血を血で洗うような小さな地域で3千人以上もの死者を出した日本史上最悪の内乱は随分と小さなものであったことだろう。

兎に角、この一連の事件は、これらの下種極まりない男たちによって複雑怪奇な流れをなしている。
一度読んだだけでは難解すぎて理解できないものである。
その中で日本の将来を担ったであろう多くの人物たちが憤死している。
何度読んでもはらわたが煮えかえるほどの憤りを感じる野郎どもである。

この三作を読んでの大あらすじついては、項を変えて一度別にまとめてみようと思う。

この難解な争乱の中でもとりわけ摩訶不思議な事件が松平大炊頭頼徳率いるいわゆる大発勢とよばれた一千の軍がたどった道である。
江戸にあった慶篤は天狗党、諸生派の争いを仲裁するために頼徳を派遣するがなんと行き違いから後から派遣された幕軍と戦うはめになり、頼徳は切腹させられ大発勢は幕軍に攻め落とされてしまうという訳のわからない事件である。この際、派遣した慶篤が単に明確に説明すれば済むことなのにみすみすこの一千の兵を見殺しにしてしまう。愚かを絵にかいたような馬鹿殿である。
結果的に頼徳は田沼に騙されたのだが、作者はこう書いている。

・-これに似た行為は、存外日本人にはおおいのでありますまいか。・・・日常の生活においても、相手側と約束したことを、その上司が「部下の手ちがい」といってそ知らぬ顔をする。・・・古来、契約ということに日本人は甚だ鈍感で、・・・外国相手にもしばしばこれに類した行為をやっていて、どれだけ日本の信用を失ったか知れませぬ。しかし、それにしてもこの田沼玄蕃頭の「背信」はあまりにもひどすぎる、として、その悪名は彼の先祖の田沼意次(おきつぐ)にまさるとも劣らぬ悪名を残すことになりました。-
この田沼は、ホント許せない外道である。
・頼徳は、事態が全く変わっていることに気づき江戸にいったん帰って慶篤の指示を仰ごうとした。だがそれを知った田沼は、勝手に江戸に行かれては自分の面目が立たないと市川に命じて騙して連れ戻した。そして切腹させた。

余談だがこの頼徳の末裔に、平岡公威がいる。作家三島由紀夫である。三島もこの天狗党を題材に小説を書いているとのことだが今見つけられないでいる。
・斉昭は、水戸家を継ぐと攘夷を明確に唱えたこれに心酔したのが天狗党でありこれに反対する勢力が佐幕派の諸生派である。
・当時水戸人をとらえた攘夷という思想は、わずか数年後、狐憑きが落ちたのようにあっさり捨てられ開国政策にとって代わられた。
・当時アジアは、ヨーロッパ諸国に蹂躙され日本もロシアに千島、対馬を侵され、アメリカのペルリには「いうことを聞かないなら、白旗を渡しておくからよく考えろ」と恫喝された。日本人に攘夷反応が起こったのは、当然である。
・当時の過激派の者たちの中は田中愿像がいい例だが、攘夷を行うには倒幕しかないとの考えのものが多かった。しかし薩長の策士たちは攘夷は不可能だと気づいたが倒幕のためには攘夷を振りかざすしかないと考え、倒幕した後は、ケロリとして開国に踏み切った。
天狗党はその点、攘夷のみで後のことは全く考えていない単純集団、言い換えれば狂気集団であったともいえよう。
・伊東潤の「天狗党・・」にも出てきたが西上途中離脱した薄井(うすい)督太郎は、幕軍包囲網をきりぬけ維新後も生き抜き岩倉具視に見出され名を薄井龍之(たつゆき)と改め北海道開拓使の役人として活躍し札幌建設にもかかわった。そして一説には薄野(すすきの)は彼が自分の名をとってつけたともいわれている。
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